8.mermaid and cinderella

いよいよ、鐘の音が近づいてきていた。

旅路がもうすぐ終わってしまうのだろう。

そう思うと足取りが重い。

そんな僕の思いを知らないのか、絵里の足取りは早かった。

そんなに王子とやらに、会いたいのだろうか。

これだけ僕の心を弄んでおいて、ころっと鞍替えするんだとしたら、

大した魔性の女だな。

周りの風景が、ごく普通の住宅街になっていた。

ごく普通のというと語弊がある、家の規模からして、

高級住宅街と言った方が正しい。

防犯意識の高い外壁、こまめに手入れされているであろう、低木や中木の囲い。

庭の置物の一つをとっても、金がかかっていそうだ。

利便性よりは、外面の方が優先されている造り。

ここには、あの奇妙な生物たちもいなかった。

僕と、絵里以外には誰もいない。

動くものが僕たち以外、ない。ここは正しく時が止まっていた。

僕は……この風景を知っている。

「ちょっと見て来たいところがあるんだけど、いいかな」

僕は言う。

「構いませんけれど、何処へ?」

「大した用事じゃないよ。すぐ戻る」と言い、道を外れる。

背中に「はーい」と困惑気味な声がかかる。

記憶に刻まれた通りの道順で、目的の家を探す。

変わった意匠の鉄柵の家の手前で、右に曲がる、

そのまま真っすぐ進むと横断歩道がある。当然、車など一台も走っていない。

その横断歩道を渡り真っすぐ進み続ける。

緩やかな坂を上ると、そこが目的地だ。

一目見るだけでいい、彼女が作った箱庭を、また記憶に刻み直しておきたかった。

それは一瞬の感傷。一瞬浸れればいい。

むしろ浸りすぎると抜け出せなくなる罠だった。

未練。罪悪感。過去に置き去りにしたままの恋慕。

白い花を纏うアーチがある。

彼女が、手間を惜しんで手入れしていたイングリッシュガーデンは、

どの季節にも花が咲くように配置されていたので、いつ見ても綺麗だった。

花の種類を見る限り、春で時を止めていた。

愛らしい動物のオブジェがそこら中に配置されている。

動物の種類には拘りがないようで、猫、兎、ペンギン、象やリスまでいる。

カラフルな風見鶏が、風もないのにカラカラと回っていた。

「何も変わってないな」と独りごちる。

足元の花を見つめる。きっと……永遠に枯れることはないのだろう。

花は散るから美しいのだと、次の花を結ぶための実を残すから尊いのだと。

記憶の中の恋慕が囁く。

「もう、おいて行かないでくださいよ」

絵里が坂を上がってくる。

「ごめん、ごめん、待っていてくれてよかったのに」

「一緒に来ればいいじゃないですか。ただ待っているのも暇でつらいんですよ」

そうだ、別においてくる必要もなかったのだ。

待っていて欲しかったのは、きっとこの場所に、

言いづらい思い出を刻んでいるから。

無意識のうちに生まれていた後ろめたさ。それを悟られたくは、ないからだ。

「ここがどうかしたんですか」と、言いながら絵里が庭に入っていく。

「何もない。ただ、久しぶりに見たかっただけだよ。綺麗だろう」

「知っている場所ですか?とても綺麗です。花も計算して植えてありますね。冬以外は楽しめるようになっているんじゃないでしょうか。ここに住んでいた人はとても花が好きだったのですね」

絵里がどんどん奥に進んでいく、余すことなく観察しているようだ。

女性はやはり花が好きなのだろうか。

僕も、嫌いと言うわけではないが、

自宅を花で飾り付けてやろうという気は起きなかった。

奥の東屋までたどり着いた絵里が、振り向く。

……何故か泣いていた。

「ここの記憶の主は、誰だったんですか」

流れ出している涙を拭うこともせず聞く。

「何故、そんなに泣いているの、どうして気になるの」

慌てて聞き返した。ガーデンチェアに座らせる。

涙が止まらないのか、服の袖で拭っている。

「説明するのは……とても難しい……だって、だって……」

混乱している僕は、どうしていいかわからず絵里の背中をさする。

「ずっと疑問に感じたことの、答えが全てここにあるんです。

ここはショウさんか、若しくはショウさんを大事にしていた人の記憶ですね」

泣きじゃくりながら言った。

ここに何があるというのだろう。見当がつかなかった。

三十年以上未来にいるはずの絵里が、ここを知っているはずもない。

「ここは僕の記憶だよ。僕の記憶だけど、ここに何があるんだい」

生憎、ハンカチは現世に置いてきていた。ネクタイを差し出す。

「大丈夫です。ここはショウさんの家なんですか?」

「違うけど。絵里を泣かせる理由は、何なのかな、僕、本当にさっぱりでさ」

「……それでは、率直に聞きますね。この庭の手入れをしていたのは誰ですか」

言葉に詰まる。手入れしていた人物……、

僕と絵里の現状の関係性を考えると、言い出しにくい立ち位置にいる彼女。

言いたくはないけれど、絵里の得た答えがなんなのか、

そちらの方が気になっていた。

「答えてもいいけど、つまらない話になるよ。できれば僕は秘密にしておきたい話なんだけれど……でも察しがついているんだろう。君は頭がいいからね」

僕は、備え付けられていた、もう一つの椅子を絵里の横に置いて座る。

「お察しの通り、僕の……恋人が手入れしていた庭だよ。婚約者でもあった」

「そう、ですよね。お名前は何て言うんです」

涙で濡れてしまった前髪をかき分けている。

「桜井美結だよ。美しく結ぶ、で美結だ」

「春に似合う、素敵なお名前です」

感情の測れない口調で言う。

「良ければ美結さんについて話を聞かせてくれませんか。辛くなったら答えなくても構いませんから。私の予想が当たっているなら、美結さんはショウさんと時を同じくして……」言葉に詰まっていた。

……どうしてわかったんだろう。

僕が『美結と一緒に死んでしまった』事を。

「構わないよ。何が聞きたいのかな」

「美結さんはどんな人でしたか」と、聞く。

答えなきゃいけない範囲が広いな。

「筋金入りの箱入りのお嬢様だよ。彼女の両親がちょっと異常でさ、本当に箱の中で育てていたらしい。そんな両親が不慮の事故で死んだとかで、祖父にあたる、うちの大学の教授が引き取ったんだ。そしたら本当に、世の中の何も知らないから、教授が困りはてていてさ、僕に何とかしてくれって相談してきたんだ。実際、変わった子だったよ。無垢すぎるというか、人を信じて疑わない。そして五感も特殊でさ、空を見ただけで、香りもするし、味も感じるって言うんだ。僕は、正しく凡人だから、そこだけは最期まで理解できなかったよ」

そこまで話すと、一息ついた。

美結との思い出が、頭を巡っていた。

美結はすべての人が、善人だと思っていた。悪行を働くのも当人のせいではなく、

環境や外的要因がそうさせるのだと言っていた。

五感で感じるものが全て美しいと言い、目に映るもの全てを愛していた。

僕が、特に何も感じない絵を見て、涙を流していた。

何の変哲もない日常をうっとりと見つめ、歌を口ずさむ。

……きっと彼女の感受は高次に達していたのだ。神に選ばれた人。

両親もそれがわかっていたから、家の中に閉じ込めていたんじゃないだろうか。

美しく、無垢で、脆い。そんな彼女を守るために。

「美結は両親を亡くしたばかりだし、僕も、両親は幼いころに亡くしていたから、親近感が湧いたんだんだろうね。守ってあげなきゃって思ったんだ。付き合って一年ぐらいで婚約したよ。ちなみに財産目的じゃないからね。教授に引き取られるときに相続を放棄している。美結には姉妹がいたらしいから、放棄させられたのかもしれないね、無欲な子だから」

「そこは疑っていないですよ。ショウさんは優しいから」

絵里が、微笑んでくれている。

僕との関係性というよりは、本当に美結の事を知りたいようだ。

嫉妬ゆえ……と勝手に思っていた自分が少し恥ずかしい。

絵里の僕への感情が測れずにいた。はぐらかすのがとても上手い。

それに、行きつく先には正体不明の王子とやらがいるのだ。

一体この庭で、何を見つけたというのだろう。

凝ってはいるが、普通の庭だ。今一度見渡す。

感傷を呼び起こすが、僕にとってはそれだけの、庭。


「次は……とても……つらい質問になってしまうかもしれません、ショウさんがこちらに来ることになった原因を教えてくれませんか」

つまりは……死因と言うことだろうか、

何故、今更そんなことを聞きたがるのだろう。

話せば絵里の涙の理由が、わかるのだろうか。

「うん。……いいよ。構わないさ。あの日は雨が降っていたんだ。随分な長雨でね、僕は美結の家で本を読んでいたんだ。僕、本を読むのは苦手でさ、中身が入ってこないんだよね。教本とかは普通に読めるんだけど、哲学本とか啓蒙本とか、本当にダメなんだ。そんな僕を見かねたのか、美結がドライブに誘ってきたんだ。ちょっと珍しいと思ったな。彼女受け身だったからさ、自分からどこかに行こうって言ったことがないんだ。しかも雨が降っているんだよ?雨の日は、彼女、家にいたがったからさ。違和感を覚えたよ。行先も彼女が指定してきてさ、観光地でもない辺鄙な山の上に行こうって言うんだ」

「山の上ですか?」

「そうなんだ。雨の日に、なんで山の上に行きたいんだろうって思ったけど、まぁドライブだし、適当に、折り返し地点を指定してくれたのかなって。何を話すでもなく、美結はじっと空を見ていたんだ。雨が止むのを待っていたのかもしれない。辺鄙なとこだから、他に走っている車もいなくてさ。そろそろ帰らないか、と提案しようとしたその時に、轟音が聞こえた。前方に岩が降ってきているのが見えたよ。美結が咄嗟にハンドルを切ってくれたけど一瞬だったな。あっという間に真っ暗になっていたよ」

鮮明に記憶がリフレインしていた。何度も。何度も。

真っ暗だった……。どれほどの時間か、わからないが気を失っていた。

幸か不幸か……意識を取り戻した僕は、状況を把握したかったので、灯りを探した。

窓の外から鋭い赤い光が差し込む。

それは……何かの目だった。脈動し、ぬらっとしていた。

眼球にあたるものはないが、こちらを睨め付けているのはわかった。

驚いて、思わず体勢を崩した。

手をついて体を支えようとしたら、手が滑ってしまった。

ぬる……とした嫌な感触。人生でそうそう体験することが無い感覚。

両親を事故で亡くした時にも感じた、その生暖かな感触。

それがなんなのか、考えずともわかる。

赤い光に照らされて見えてしまった。

それは形容するなら液体……赤い……生命から流れ出た液体。

美結だったものが、流れ出てきているのが見えてしまった。

下に腕だけ転がっている。助手席は土砂で潰されていた。

その様子に一片の希望も抱けない程に、ぺしゃんこだった。

その時点で狂っていたのかもしれない。慟哭した。

ひとしきり叫ぶと、血圧が急激に下がっていくのを感じた。

どこかに傷を負っているのかもしれない。まともに思考できなかったせいで、

きっとどこかに怪我を負っているだろうに、何も感じることができなかった。

意識が飛びそうになりながら、窓から覗く瞳を見た。

黒い獣が、薄目で笑っていた。

あれは事故なんかじゃない。あの獣に殺されたんだ……。

痛みも何もわからない、ただ、じっと黒い獣を見つめたまま、

体が熱を失っていくのを感じていた。獣が咆哮した気がした。

反芻した記憶のせいで頭が痛い、涙が出そうだった。

僕は、項垂れる。

「ごめんなさい、つら過ぎますよね」と、絵里が言いながら、

僕を慰める方法を探しているのかおろおろしていた。

「大丈夫。一気に思い出したから、少し……疲れただけだよ。絵里が欲しい答えはあったのかな」

微笑んでみせた。

「そう……ですね」それだけ呟くと、絵里は言葉を詰まらせる。

じっと下を向いている、彼女を見つめていた。

もう割り切っていたことだ。出来る事ならその獣を殴ってやりたかったが、

見えないんじゃどうしようもない。きっと後ろにいる奴がそうなのだ。

絵里が次に紡ぐ言葉を、じっと待っていた。

その瞬間が永遠かと思えるぐらい、互いにじっと動かなかった。


「人魚姫のお話を知っていますか」

絵里がぽつりと呟いた。

何故、今、御伽噺の話をしようとしているのだろう。

彼女の思惑が溶かされた、僕を惑わす御伽噺。

「流石に有名だから知っているよ。わかりやすく悲劇な話だね」

「何故、人魚姫は王子様をナイフで刺さなかったのでしょう。勝手に命の恩人を勘違いして、あっさり鞍替えした王子様を。あまつさえ自分のことを好きなのなら、他の女と結ばれて幸せになる自分を祝福しろといった王子様を。美しい花嫁に夢中で見向きもしなくなった王子様を。ナイフで刺しさえすれば、家族の元に戻ることができたのに、人魚姫はそうしなかった。それどころか最後にはそんな二人を祝福するんです。花嫁の額にキスをしてあげるんです」

また涙を流している。人魚姫の話をした意図が、わからずにいた。

アニメーション化した人魚姫は、幸せな終わり方をしたはずだ。

僕の記憶は、そちらの方が色濃い。

「私は勘違いされた、花嫁の気分なんです。ショウさんの横に並ぶのは、私ではなく美結さんの方が相応しかったんです」

立ち上がり庭へと歩いていく。

テラスに腰かけて、白く可憐なクレマチスを、両手でそっと包み込んでいる。

やはり……美結の事を気にしていたのか。だから話したくなかった。

ふっ、と湧いた未練のせいでこうなってしまった。

……この世界で美結に会えるのでは、と思ったこともあった。

でも、でも、でも、どこにもいなかった。

美結は無垢で清かった。きっとここではない、もっと綺麗な世界に行ったのだ。

忘れてしまったと言えば嘘になるけれど、自分の中では整理をつけた話だ。

薄情だと後ろ指を指されても、振り返る気は、もうなかった。

「……美結はもういないんだ。絵里は一体何を気にしているんだい」

肩を震わせて泣く、絵里をそっと抱いた。

「そう、もういないんです。ショウさんとの未来を諦めて、泡になって消えてしまったんです。あなたに、未来を遺すために。美結さんは、あなたが幸せになってくれさえすれば、横に並ぶお姫様が誰でも良かったんですよ」

長いまつげが、涙で煌めいていた。瞬きと共に煌めいて零れる。

「どういう意味」

「終着点に着いた時に話します。今は……美結さんの元に、ショウさんの心が戻ってしまうのが怖い。今だけは、私の王子様でいてくれませんか」

泡になって消えてしまいそうに見えた。

透き通るような白い肌が一層そう思わせる。儚く、淡く。

消えないように強く抱きしめる。

「ずっと、いてあげるよ?」

「ショウさんは、優しすぎるんです。だから私は肝心なことが言えない」

「君に抱いている感情は、優しいとか、そんな汎用的な感情じゃないよ。例え、ここに美結がいたとしても、僕は君を選ぶよ。運命なんて、後から都合よく付けたせる言葉は使いたくないけれど、運命だと思っている。出来れば……本当に生きているうちに会いたかったよ。そうしたら、君と選べる選択肢がたくさんあったのに。君を見ていると、胸のあたりにある甘ったるい蜜が溢れていって、苦しくなるんだ」

絵里が、こちらを向く。

「なら……私と永遠に一緒にいてくれますか。この狂った世界にいてくれますか?この先に絶望しかないのだとしても、ショウさんはずっと、私の側にいてくれますか」と、耳に口を寄せ、囁くように言う。

どの道を選んだとしても、結局、この先は絶望じゃないか。

別離の瞬間は、きっとやってくる。

ならば、ここで、このまま絵里と溶けて消えて無くなるのだとしても、

構わなかった。

「一緒にいよう」

「私はショウさんに隠していることがある。とても、とても、重要なことをです。それでもですか」

今更な話だ。先ほどから、ずっと、君は僕の目を見ていない。

絵里が抱いているであろう、後ろめたい気持ちは感じていた。

もういいじゃないか。ここで歩みを止めてしまえば。そんなのもうどうでもいい。

終点にいるであろう、君の思い人の事も考えずに済む。

こっちを見て。僕だけを見て。

「いいよ、それでも」短く答える。

絵里の白い首筋を、そっと甘噛みする。ほのかに甘い。

愛しさと同時に嗜虐心が湧き上がってくる。

アンビバレンスな感情を持て余していた。

愛したいのに傷つけたい。整理ができない感情。

男がしばしば、捕食者に例えられる理由がわかった気がした。

身じろぐ絵里を押し倒す。やっと君が僕の目を見てくれる。

そのままずっと僕を見つめていて、一時も逸らすことなく。

しばらくそのまま、視線を交差させていた。探るように、測るように。

「いいよね」

絵里は、何も答えない。震える瞳でじっと見つめている。

漏れ出る吐息で酔いそうになる。伝わる鼓動で狂いそうになる。

視線を外し、その吐息を受け止めながら唇を落とす。

長く、弄るように。そのまま唇を下へ……下へ……。

「だめ……」と、呟き身じろぐ。

束縛を逃れようとしている。

「だめ?」と、絵里の目を見て、聞く。

顔を真っ赤にして、無言でコクコクと頷いている。

「ごめんなさい。……こんなの……やっぱりだめです……ハッピーエンドじゃない」

「ハッピーエンド?」

急に出てきた単語に、僕は面食らっていた。

耳元で「苦しいです。少し緩めて?」と囁くように言う。

気付く。思ったよりきつく抱きしめていたようだ。慌てて力を抜く。

僕の体をそっと押して、絵里が束縛を逃れる。

紅潮しきった顔を手で仰いでいる。ふーっと呼吸を整えていた。

「退廃的な、メリーバッドエンドも魅力的なのですけどね。当事者になるとやはり相手の事を考えてしまいます」

そう言った絵里が座り直して、僕の方を向く。

乱れてしまった髪を整えている。

「……メリーバッドエンドって何だろう」

行き場を失った感情を寝かしつけていた。

「当人たちは幸せそうだけれど、周りからみたら、それってハッピーエンドではないよね?っていうエンディングです。二人は結ばれるけど、世界は滅ぶ、とか。逆に世界は救われるけれど、救い主は死んでしまう、とか」

いつもの調子で冷静に答える。

「ふぅん」

「対比が美しくていいんです。感情がぐちゃぐちゃになりますけど」

「へー」

「ちょっと怒っていますか?」

「ちょっとだけね。ほんと、ちょっとだけ」

絵里が笑っていた。涙が引っ込んだようで何よりだ。

「流されてしまうところでした。あの感情は……その……危険ですね。途中まで本当にどうなってもいいやって、思ってしまっていました」

「流されてくれてもよかったのに」

つまんないな、という感情を隠さず言う。

「言い訳するつもりはないのですけれど、ポン助が気になっていたっていうのもあるんです」

また、僕は、謎の獣に邪魔をされたのか。

「視界から外そうと、頑張ったんですけどね?私に覆いかぶさるショウさんに、更に覆いかぶさるポン助、みたいな構図になっていたので、私から見ると軽く悪夢でしたよ」

絵里は、多少乱れた服を整えながらそう言った。

「まさにお邪魔虫ってわけだ」

見えない謎の獣に向けて、吐き捨てるように言う。

「おかげで冷静になれたのですけどね。どうも、人間の営みに興味があるみたいです。」

「営みに」

絵里は立ち上がって歩き出す。僕もそれに続いた。

先ほどの余韻を振り払おうとするが、どうにも心が敏感になってしまっている。

しなやかな腰つきも、艶めかしく動く指先も、甘く薫るふわりと跳ねる髪も、

柔らかい薄い桃色に染まる唇も、今の僕を惑わせる毒だ。

もうどうしようもないくらい、絵里から目が離せない。

別に過去を忘れることは罪じゃない。薄まった愛を上書きするだけだ。

割り切れない過去の愛の端数が、僕を苛んだとしても、時間が清算してくれる。

はず……。

そんな思いを知らないのか、やはり絵里の足取りは早い。

「やはりハッピーエンドを目指しましょう。ゴールはすぐそこですよ」

振り向いた絵里がそう言う。僕は首をかしげながら

「ハッピーエンドなんてないだろう。僕たちはいずれ、ここの神とやらの餌になる。食われると、生まれ変われでもするのかい」

「ハッピーエンドになるかどうかは、結局、王子様次第なんですよね」

また王子が出てきた。正体不明の王子。終着点にいる王子。

黒田が、そこにいるのは人を食う神だと言っていた。

「ここの神とやらが、王子なのかな」

絵里は足取りを止めて、こちらを向いた。

「神は、神ですよ。この世界に引き込んだ人の時間を喰う、悪趣味な神様です。死んだ人がここに来たわけではありません。殺した人の時間を、死んだ瞬間に留め置いて、この世界に引き込んでいるんです。ここは地獄なんかじゃありません。悪趣味な神が統べる、元いた世界とは別の『異界』です」淡々と言う。

……僕の知らない情報しかなかった。

「そもそも地獄だって、誰かの妄想の産物ですしね。特徴だけなら、地獄と呼んでも差し支えないかもです」

「何故、そんなことを知っているのさ」

「ポン助が……教えてくれたんです。話せない、と言ったことは本当ですよ。ポン助との対話では言葉を使わないんです。情報交換と言った方がいいですね」

急に、頭がくらくらする情報が出てきた。

言葉を用いずに、どうやって対話をするのだろう。

眉唾な超能力の話を思い出していた。テレパシーの能力でもあるのだろうか。

「情報交換?言葉を使わない?」

絵里は、髪を指に巻きつけながら「ポン助は……とても頭がいいんですよ。言葉なんてまだるっこしいものは使いません。直接情報を伝えてきます。そして私から情報を取り出していくんです」

ますます、よくわからない事言う。

言葉を使わずに情報を伝えるとはどういうことなのだろう。

「わかりやすく」催促する。

「うーん。そうですね。映像に、緻密な情報が詰め込まれたものをくれる感覚です。直接頭に」

直接頭に……。

「例えば、ポン助に向かって、このことを知りたいなぁって念じるんです。そうしたら答えを返してくれる。みたいな?」

みたいな?

「言葉も少しわかるみたいなんですけれど、ポン助からしたら、よくわからない事を吠えているようなものらしいです。私たちが、動物の鳴き声を理解できないのと同じですね」

……つまりは人間より高次な存在、ということだろうか。頭の痛くなる話が続く。

「……そして、ショウさんの後ろにポン助がいるということは、あなたを招いたのはポン助だということになります。つまり美結さんも……。ポン助を庇うつもりはないですけど、ポン助はシステムのようなものなんです。その行為に悪意も善意もなく、ただ神に命じられた通り人を殺し、引き込む」

絵里は、虚空を見ている。

……恨んでも詮無い事はわかっていた。

それでも「一発ぐらいは殴ってやりたいよ」と美結への未練を悟られないよう、感情をこめずに言う。

「ポン助は硬そうですから、殴ったショウさんのほうが、怪我をしてしまうかもしれませんね」

少し切なげに微笑む。

「一つ聞いていいかな」

「一つでも、二つでもどうぞ」

「少し話は戻るけど、時間を食べるってどういう意味?」

普通、時間には食べるなんて動詞は付かない。

いや……付くじゃないか、『時間を食う』と。時間を奪われる?

「正直、私にもよくわからないです。私なら、生きてきた二十五年分の時間が食べられちゃうんですかね。ポン助から受け取った情報を読み解く限り、『時間=記憶』でも良さそうです。ポン助がくれる情報は、情報量が多い割に、表現が抽象的なんですよ。詳細を尋ねると、頭がおかしくなるぐらいの情報量をくれることがあるので、慎重に尋ねないといけないんです」

「美味しいのかな」

要領を得なかった僕は、間の抜けたことを聞く。

何故、絵里はこんな非日常を、すんなり受け入れることができるんだろう。

適応力が尋常じゃなく高い。僕はそろそろお腹いっぱい……。

「食べるからには、美味しいんじゃないですかね」

ニコっと絵里は微笑む。

間抜けな僕に合わせてくれる、絵里は優しい。

「神にも好みがあるみたいです。ありとあらゆる時代から、好みの人間を取り寄せては、時間を食べているみたいです」

「つまり僕は、得体の知れない捕食者に、好みの『味』だから捕まったわけた」

「そうですね……、しかもとても、運悪くです。宝くじに当たるより、確率は低いかもしれません」

「一等だよね」

「一等です。高額当選ですよ」

手を小さくぱちぱちと叩いている。まったくめでたくはないが、絵里が調子を取り戻したようで安堵する。もうこのままでいいじゃない、このままでいようよ。

流石の僕でも気が付く、この先、何か嫌なことが待っているんだ。


「ゴールは目前なので、最後の童話のお話をしてもいいですか?」

微笑む絵里が、聞く。

『最後』のという言葉が僕の胸をざわつかせる。

やはりこの先に待っているのは『別離』ではないのか。

僕は不安を押し殺しながら「どうぞ」と答える。

「シンデレラのお話です。知っていますよね?世界中の女の子が、焦がれる夢物語です。継母と義理の姉妹に虐められているみすぼらしいシンデレラが、キラキラの王子様に見初められて、プリンセスになるまでのお話です」

手をポンっと合わせて僕の方を見る。

「流石に知っているよ、絵里も憧れているのかな」

「どうでしょうね?それはそうと、あのお話、どこか違和感を覚えません?私、子供のころから不思議だなぁと思っていたことがあるんです」と、絵里は言うが、御伽噺なんて不思議で、歪で、違和感のあるお話ばかりじゃないか。

何で、カボチャが馬車になるんだ。

でも……絵里が言いたいことは、きっとそういうことではないんだろう。

「どの件がだろう?」

「シンデレラを探すのに、何故、照合させるアイテムが『靴』なんでしょう?『顔』で良くないです?」

そういえばそうだ、でもまぁ……ガラスの靴でお姫様を見つけるほうが、

物語的に綺麗だ。

「魔法がかかっていたから、魔法が解けた状態だとわからなかった……とか」

「でも王子様は、シンデレラの美しさに見惚れたんですよ?判別がつかない程変わっていたとしたら、その時点で幻滅しませんか」

「仮面舞踏会だったとか」

「お城の舞踏会は、王子様のお妃候補を探すために催されたはずです。顔という重要なパーツを隠されたままお妃さまを選ぶのは、王子様からすると、難易度ベリーハードすぎませんか」

ベリーハード?とても硬い?順当に年を取って、絵里に出会っていたら、

おじいちゃんと孫みたいな会話になってしまいそうだ。

重要なのは、顔以外にもあるだろう。

しかし、素性の知らない相手をとりあえず選別しなければいけないとなると、

見た目以外の情報はないのか。

「絵里は、どう考えるんだい」

「そうですね、王子様が盲目、もしくは、とても目が悪いと仮定すると、このお話、すっと腑に落ちるんですよね」

「そんな状態なら、踊れないんじゃないの」

湧いた疑問を口にする。

「そうなんですよ、当然うまく踊れなかったと思うんです。そんな王子様を、シンデレラは不格好にならないように、リードしたんじゃないんでしょうか。でも踊りだけは練習していたのかもしれませんね。相手との間合いがわかれば、後は足運びを覚えて、周りが配慮してくれたら、なんとかなりそうです」

「絵里は、ダンスができるのかい」

「嗜みとして教育を受けていましたよ。ダンスだけではありませんね、音楽全般、教育されていました。幼い頃だけ、ですけどね」

「絵里って、もしかしなくても、お嬢様だったり?」

「どうでしょうね?」

「ふぅん」

「話を戻しましょうか。盲目だと考えると、王子様が惚れたシンデレラの美しさから「外見」が除外されます。そして、王子様がシンデレラを追いかけることができなかった理由もわかるんです。可笑しいじゃないですか?成人した男性が、ガラスの靴なんて走りにくそうなものを、履いている華奢な女の子に追いつけないなんて。シンデレラがアスリート並みの身体能力だったら可能かもしれませんが」

一瞬、様になるフォームで、全力疾走するシンデレラが頭に浮かんでしまった。

理詰めの愛の話が、本当に好きだな。

今までした話を纏めると。絵里が求めているのは、不純物を除外した『純愛』だ。

「目が見えない王子様からすると、落としていった靴が、唯一の手掛かりになってしまうんです。良かったですよね、シンデレラの足が、標準よりとても小さくて……。さて……こんなところですかね、ご清聴ありがとうございました」

恭しく頭を下げる。

「どういたしまして」と、突然、畏まる絵里に合わせてお辞儀をする。

口に当てて、ふふふふと上品に笑っている。

なんだろう、さっきから絵里の所作に違和感を覚える。

「今まで私がした童話の共通点、わかります?」

「王子が出てくる……?」

「すごいです。正解です」わざとらしく驚いている。

王子を探しながら、様々な王子の話をする絵里。

何らかの意図があるように感じるが、わからずにいた。


気が付くと、風景が変わっている。

辺りは夜のように暗い、分厚い雲が空を覆っているからだ。

遠くを見ると何筋かの光の柱がある。

「さて、この辺で一旦休憩しましょう。もうゴールが見渡せるところまで来ちゃいました」

絵里は、丘の上の小高い教会を指さす。

周りは、一面の花畑になっている。以前来た時に、こんな花は咲いていただろうか。

淡く発光しているかのような、色素の薄い花が咲き誇っている。花弁の形だけ見ると、アイビーの花のように見える。今までの目に痛い光景とは、

打って変わって幻想的で、美しい。

……美しいのだが、どうしようもないぐらい寂しく儚い。

その光景を背負う絵里が、今にも消えてしまいそうだ。

そんな僕の気持ちを知ってか、絵里が顔に力をこめず微笑む。

手を伸ばすと触れることができずはずなのに、手を伸ばすのが怖い。

そんな気持ちを悟られないように、

僕は明るく「さて、散々僕をやきもきさせた、王子とやらを探そうか」と言った。

「王子様は、ショウさんの嫉妬の対象にはなりえませんよ」

絵里が、目をじっと見つめて言う。僕は首をかしげる。

「王子様と言うからには、男じゃないのかい」

「男性ですよ。細部を確かめたことはないですけど、見た目はしっかり男性ですよ」

「いい男?」

「イケメンですね、女の子が好みそうな、薄い顔のすらっとした高身長な男性です」

「性格もいい?」

「私は良いと思いますよ。ちょっとふにゃふにゃしているところがありますが、とても優しい」

「なんでそんないいやつが、嫉妬の対象になり得ないんだい」

「わかりませんか?」

……わからない。僕を見つめる絵里の目が、妖しく光を帯びた気がした。

「まぁ……取りあえず探そうか?また僕には見えないなんて、言わないよね」

絵里が深いため息をついた。

「ショウさんは、ちょっと察しが悪いところがありますね。私のなぞなぞが謎すぎましたか?確かに、ショウさんから王子様の全体像は見えませんよ。それに、王子様は探す必要ないです」少し頬を膨らませて言う。

「『この物語』の最初から最後まで、ずっと王子様はいましたよ。

最後にぽっと出て、お姫様をかっさらっていく王子様よりは、優秀ですね」

絵里が、小首をかしげながら意味深な顔で見つめてくる。

「……は?」

間の抜けた声で聞き返す。

それってつまり……そういうこと?

確かに今、この時点では王子はゴール付近にいる。

絵里が指している王子が、『僕』の事を指しているのであればだけれど。

今までの旅路を振り返る。


『王子は迷子である』迷子と言えなくもない、行き場もわからないのだから。

『王子の国籍はわからない』

確かに、僕はクオーターなので、ぱっと見じゃわからないかも知れない。

いや、わかりやすい姿をしていたとしても、言い切れることではない。

『王子は絵里のことを探していないかもしれない』

それはそうだ、横にいるんだもの。

『王子は食われていない』そりゃそうだな。この通り。

『王子とキスはしている』そうだ、あの時点ではしている。

『王子に愛していると言われた』直前に言ったじゃないか。

『王子は嫉妬の対象にはなりえない』

自分に嫉妬するやつなんて、狂ったナルシスト以外にはいないだろう。

『王子様はキラキラしている』これは……よくわからない。

それ以外の質問も、芯を外して答えていた。

あの当てこすりのような物言いも、僕に向けられていた言葉だと考えると、

耳が熱い。

何という言葉遊び。

……しかし、ますますわからなくなる。『絵里は一体何がしたい』んだ。


「迷子の、迷子の、盲目の王子様。やっとここまで導くことができました。残念ながら、お城も舞踏会も用意できませんが、私めと最後まで、お付き合いいただけませんか」

スカートの端を持ち上げて恭しく、わざとらしく、お辞儀をした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る