3.生きるため


「……は?」


「俺が、殺したんだよ。食べるために」


「あ、その……つまり、ニワトリを絞める、ってやつ?」


「ああ。こいつだけは名前を付けてかわいがっていたんだが、戦後の食糧難で」


 服装は薄汚れているが、そこまで年を取っているようには見えない。第二次世界大戦が終わったのは、もう七十八年も前なのだ。当時、このじいさんがニワトリを絞めることができる年齢だったとは考えにくい。


「へぇ」


 話半分で聞くのがいいだろうと、俺は心の中でじいさんの言うことを眉唾認定することにした。年寄りの昔話なんて、大げさに装飾されているものだ。


「俺が十五歳の時だ。食べ盛りの子供が、俺を含めて三人いた。ルルを絞めると親に言われた時は、さすがに涙が出た。だが、従うしかなかった。家族で生きていくために」


「……そういう状況じゃ、な」


「雄鶏は卵を産まないからもっと早く食べてもよかったんだ、本当は。でも、玄関を出ると、こいつだけは俺に向かって走ってくるんだ。そりゃかわいがるだろう」


 じいさんの口調は淡々としていて、あまり抑揚がない。なのに、どうしてだか胸に響く。戦争の体験談をテレビで見たところで特に何とも思わない、俺の胸に。


「あいつら……、村の有力者一家が、配給品を隠していたんだ。ただでさえ配給が遅れたり届かなかったりということが続いていたのに。戦後の混乱期にはそんなことが日常茶飯事だった」


「そうか……」


「俺は、なたを両手で握った。よく覚えている。九月の高い青空が、眩しい太陽が、木の切り株の上に押さえつけられたルルをくっきりと照らしていた。ルルの真っ白な羽と真っ赤な鶏冠とさかが、俺の目を離さなかった。外を歩くと後を付いてくる白い羽が、誇らしげに揺れる赤い鶏冠が、今、俺によって命を断たれようとしている。覚えておきなさい、と親が言うんだ。おまえはこうして生かされるんだって」


「……つらかっただろう」


「つらくはなかった。諦めていた。ただ……、この手に持った鉈を思い切り振り下ろしてルルの首を切り落とした時の感覚は、忘れない。肉と骨を断ち切る、嫌な……、嫌な、手応えだ。飛び散って、流れ落ちる鮮血、ばさばさと羽ばたいて懸命に動こうとする首から下の胴体、かすかに鶏冠を震わせる頭、ぎろりと太陽を睨む金色の目……、それを嘲笑うかのように見下ろす一面の青空を、俺は決して忘れることはないだろう」


 ルルはやはりじいさんの足元でじっとしている。もうあのどろどろは出ていない。やはり歩いていない時は出ないようだ。


「悲しい、な。いくら謝っても謝りきれないだろう……」


「悲しみながら謝ったところで、ルルは浮かばれないと思った。だから俺は、感謝、したんだ」


 そう言うと、じいさんはルルの鶏冠をなでた。目が少しだけ閉じていることで、ルルが気持ちよさそうにしているのが見て取れる。


「俺と家族を生かしてくれてありがとう、と。何度も何度も、何度も言った。ルルの首を埋めた地面に向かって」


「……だが、その、ルルは……あの世で恨んだかもしれないじゃないか」


 なでられて気持ちよさそうにしているルルがじいさんを恨むことなどない。そんなの一目瞭然だ。だが俺は、そう口走ってしまった。ずいぶん嫌な思考回路が働いたものだと、内心で悪態をつく。


「俺の体は、ルルを喜んだ。美味かったんだ、ルルは。だが、もし美味いと感じていなかったら、ルルは俺を恨んだかもしれない」


「そうか……。それで、毎日ありがとうと?」


 眉唾ものとして聞くつもりだったじいさんの話に、俺はいつの間にか夢中になっていた。もっと先を、もっと話してくれ、と。


「そうだ。そうして俺は年を取った。この国は高度経済成長期を迎え、飽食の時代になった。すると、首だけのルルが現れるようになったんだ」


「それが、そいつか」


「最初はさすがに、復讐されるのを覚悟したよ。ルルを犠牲に食糧難を乗り越えたら、今度は食べ物を捨てる時代を生きるようになったんだからな。でも、ルルは優しかった。人間が好きで……鶏冠とさかから出る液体で気まぐれにあたりを掃除して、そのうち弱っている人間を連れてくるようになった」


「弱っている? 俺は弱ってなんてないぞ」


 俺とじいさんは線路の方を見ながら話していた。つまり、同じ方向を見ていて、顔を見合わせてはいなかった。だがここで、じいさんはギリッと睨むように俺の視線を捉えた。


「そう思っているのは自分だけだ。最近何か、気落ちしたことがあるんじゃないのか」


「あ、いや、まあ……生きていれば、それなりにはあるが……」


「線路に飛び込んで自殺する人は直前まで死のうなんて思っていないと言うしな」


「線路に……」


 風が強くなってきたのか、ザザーンという波音が大きく聞こえた。寒さを感じ、両手で自分を抱きしめる。


「どうせ線路をぼんやりと見てたんだろ。ルルが連れてくるのはそんなやつばかりなんだ。生きるために仕事をするのではなく、仕事をするために生きているような」


 確かに俺は電車に乗る前、線路をじっと見つめていたかもしれない。だがそれは残業で疲れていたからだ。明日のビジョンだってもう見えている。出勤して、挨拶をしたらまずは同僚に謝って――それから――


「生きるため……そうか……」


 ルルに向かって話しかけると、彼は表情のない目をこちらに向けた。


「大好きな飼い主に殺されて食べられても……」


「ルルが言いたいことは、わかったようだな」


「……そう……だな。……俺、は……きっと……か、ん……」


「眠れ。心配はいらない」


 急激に襲ってきた眠気に抗えず、俺はまた気絶するように眠りに落ちた。最後に見たのはルルの目、最後に聞こえたのはじいさんの声ではなく、姿の見えない波の音だった。



 ◇◇



 俺は会社の最寄り駅で最終電車を待つ間、明日出勤したら同僚や上司に何と言おうかと考えていた。もう謝罪の言葉は多すぎるくらい口にしたから、次は――


「あちらに出向いた時、課長がいてくださって心強かったです、ありがとうございました、でいいか。……ええと、あと同僚には……、おかげで終電に間に合ったよ、助かった、ありがとう、かな」


 プラットフォームに立つ俺の目に、線路の向こう側に立てられている眼科や学習塾などの看板が映る。独り言を漏らしたところで、周りに人はいない。「晩飯はコンビニだな」と明るく言い、俺はスマートフォンを取り出した。


「終着駅の手前って、何て駅名だったっけ」


 普段行きもしない場所なのに、何故か気になる。ネット検索で調べてみると、『海岸中央駅』という駅名だということがわかった。


「きっと海に近いんだろうな、たまには……明後日、土曜日にでも行ってみよう」


 スマートフォンをポケットに入れると同時に、最終電車が到着するというアナウンスが流れる。


「でも、『海岸中央駅』なんて名前だったかな……ひらがな四文字の名前だったような……」


 俺のつぶやきをパァンというクラクションで押しつぶしながら、最終電車はプラットフォームへと滑り込んだ。

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各駅停車が止まらない駅 祐里(猫部) @yukie_miumiu

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