2.『にろてらえき』


 首だけの奇妙なニワトリは、鶏冠とさか――大きくて立派だから雄鶏おんどりだろう――から、どろどろした液体を大量に垂れ流しながら車両内をこちらに向かって進んでいる。粘着性がありそうな、それでいて、天井の照明の光を浴びてつるりときらめく表面は触ろうとすると逃げていきそうな、まだらに黒い深緑色のどろどろが床にだらりだらりと垂れ散らかっている。


 他の乗客は、やはり全く反応しない。ニワトリの方を見もしないのだ。自分だけに見えているのかと思うと、怖いという感情がぶわっと膨れ上がり、俺は座席を立ってニワトリから逃げ始めた。電車はその間もずっと走り続けている。このおかしな電車は果たして終着駅に停車するのだろうか、そんな考えも、俺の頭の大部分を占める恐怖を助長させる。


 ニワトリの歩行――俺はニワトリの移動を便宜上『歩行』と認識することにした――は、それほど速くはない。人間と同じくらいの速度で、通路をするすると歩いている。怖がる足を何とか動かして走り、一番端の車両まで逃げた俺は、だんだん近付いてくるニワトリを凝視するのみだ。


 ニワトリが間断なく出し続けているどろどろは、何かに触れるとすぐに消えていく。しばらくじっと見つめているうちに、そのどろどろが消えると触れていた部分のちりなどがなくなり、クリーンになっていることに気付いた。どろどろが消えた部分だけ清潔なモップで拭かれたような床が現れる、という具合に。


 鉄道会社が取り入れた新手の清掃ロボットなのだろうかと一瞬考えたが、もしそうならもっとかわいらしい、もしくはシンプルな見た目にするはずだ。少なくとも、汚く見えるどろどろを鶏冠から流すニワトリの首だけを模したロボットを採用するとは思えない。


 恐怖はまだある。が、俺はニワトリを見ているうちに好奇心に勝てなくなってきた。興味を持ってしまったのだ。この電車がおかしな駅を通り過ぎてしまったことにも疑問を感じるが、それよりこのニワトリについて知りたいという気持ちが、俺の中の大半を占拠し始めた。


 あまり斬新なことを好まない保守的な性格の自分にしては珍しいことだと少し驚きながら、俺は近くの席に座り、前かがみの姿勢で近付いてくるニワトリを待ち受けることにした。


 ニワトリは、俺の目の前で歩みを止めた。感情の乗らない目でじっと見つめられると何だか落ち着かない気分になるが、彼――雄鶏おんどりだから『彼』でいいだろう――が前を通り過ぎることなく止まって自分を認識したことに、何となくうれしさを感じる。


 鶏冠とさかから流れていたどろどろも歩行と同時に止まったようだ。そんな挙動から、もしかして本当に清掃用ロボットなのだろうかと考えていると、電車がスピードを落とし始めた。


「……やっと終着駅か」


 俺の言葉は、寒々しく空気中に消えていった。ニワトリは相変わらず俺を見つめているだけだ。


 何が起こるのか、停車するのは本当に終着駅なのか、そんな恐怖とわずかな期待が入り混じった複雑な心境を持て余す俺などお構いなしに、電車はどんどんスピードを落としてプラットフォームの脇に停車した。


 ニワトリから視線を外して窓の外を見る。端の車両に移動してしまったせいで駅名の案内板が遠い。緑色の非常口を示す小さな誘導灯が俺の目視を助け、ぼんやりと浮かび上がるプラットフォームの四角い素っ気なさが、何故か安心感を与えてくれる。


「降り……、っと、開いた」


 アナウンスもなく唐突に電車のドアが開き、ニワトリはさも知っている場所かのように、器用に二本足でプラットフォームへと移動した。ところどころ黒い深緑色のどろどろを垂れ流しながら。


 他の乗客たちは、人間としての感情を失ったゾンビのようにゆっくりと階段へ向かって歩いている。ニワトリに先導されるように歩く俺を、やつはちらりと振り返った。まるで、付いてこいと言っているかのように。


「……かったよ、行くよ。おまえが見えるの俺だけらしいし」


 こうして俺は、各駅停車が止まらなかった『にろてらえき』へと連れていかれた。



 ◇◇



 夜の湿った空気の中、肌寒さを感じていたはずの俺の体は温まっている。きっと一駅分――ここを『駅』と見ていいのかは疑問だが――線路を歩いてきたからだろう。


 潮の匂いが、鼻をつく。静寂の中を、波の音が運ばれてくる。暗くてよく見えないが相当海が近いようだ。塩分を含んだ空気がしみてきそうな目をしばたたかせる。


「久し振りだな」


「えっ、初対面じゃ……? どこかで会ったことが?」


「こいつ、ルルが、人を連れてくるのが」


 『にろてらえき』のプラットフォームに据え付けられているベンチに並んで座り、俺たちはぽつりぽつりと話をしている。相手は、ニワトリがたどり着いた場所にいたじいさんだ。「ふぅん」と小さく返してみたが、じいさんは俺の返答などお構いなしにゆっくりと話す。


「きれいになっていただろう」


「きれいに……、そいつが歩いたところか。掃除したみたいになってたな」


 ルルと呼ばれたニワトリは、じいさんの足元で目を輝かせている。いや、どう見ても感情は入っていない目なのだが、そう見えてくるから不思議だ。


「驚かなかったか」


「驚いたに決まってる」


「……そうか」


 ふっと一瞬だけ笑みを作ったじいさんの口が、「俺が殺したんだ」と物騒なことを俺に告げた。

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