おためし2話

「私は…知らないわ」

彼の腕を振りほどく。

川に半分浸かった脚。動かすとローファーが脱げそうになる。

私の言葉が信じられなかったのか、目が点になっている彼。

「あなた、誰なの?」

弓を背にかけ、矢は腰に束ねている。…それはどう考えても日常道具じゃない。

さっきまでの行動からしてたぶん助けてもらったのは感じた。

だけど、事情も分からないまま感謝など述べられない。

私はさっきまで日常のひとかけらにいた。…状況変化が急すぎる。

「…アヲイは御前様のアヲイだ」

きょとんと首をかしげ、当然の前提を聞かれたかのように彼は言う。

アヲイ、とは彼の名前なのだろうが、それ以外の情報がない。

「だからそうじゃなくて…だいたいどうして私のことを…」

遠くから近寄るサイレンの音。

さすがに近所の人が通報したか。

この場所にいては、ろくに事情も聞けない。

しかもこの男の話を警察が聞けば、むしろ話がややこしくなりそう。

「とりあえず、ここから離れましょう。

…学校の部室が近いわね。そこに行くわよ」

私の手首を掴んだまま離さないので、仕方なくそのまま岸に上がる。

学校は橋から近かった。

授業には間に合わないが、逆に部室は無人だから都合がいい。

すっかり水浸しになったローファーを脱いで、靴下を絞る。

制服はびしょ濡れだが、今日は天気もいいし、ジャージなら部室にある。風邪はひかないだろう。

「御前様…それは命令?」

「は?」

「部室に行くっていうのは、アヲイへの命令なのか?」

なぜか期待しているような目で彼は笑った。

無邪気な、顔だ。見た目の年齢と言動に差があるから、違和感を感じる。

「んー…命令、に近い、かな」

提案とは違う。半強制さがある…しかし命令のつもりはない。

濁したように答えると、彼は満面の笑みで頷いた。

…嫌な予感。

「御意に!」

わし、と私の腕を再び掴み、片手で脚を掴む……いわゆる、お姫様だっこを一瞬でされる。

恥ずかしい、という思いと、恐怖で声も出ない。

縮こまっている私を抱えたまま、彼は軽々と走った。…学校まで。

「御前様、部室とやらはここにあるのか?」

走ったり木を登ったり鉄塔から落ちたりと、普通ではないルートで私の学校に到着。

幸い、授業中だったので校舎裏の通路は誰もおらず、お姫様だっこをされている私が見つかることはなかった。

「…ここよ。早くおろして!」

羞恥心とその怒りで顔が赤くなる。男は黙って私をおろした。

すぐに扉を開けて逃げ込むように中へ入る。

読み通り、誰もいなかった。

「……じゃ、本題に入るけど」

中には簡素な机二つにパイプ椅子三つ。隅のロッカーには私のパーカーとジャージがある。

私はパーカーを羽織り、彼にはジャージを手渡した。

「あなた、名前は?」

「アヲイだ」

アヲイと名乗りながら、肩にかけた矢筒を下ろし、シャツを脱ぎだす。

私は濡れたシャツの上から羽織る事を期待していたのだけれど、やはり直に着る気だ。

仕方ないと小さくため息。

「どうして私を知ってるの?」

「アヲイは御前様の物だから。

来るなと言われたけれど、追いかけてきた」

ジャージに手を通すが、ちょっと小さいのか、私と同じように腕を通さず羽織るようにしている。

あちらは素肌なんだけど…寒くないのだろうか。

「追いかけた…ってどこから?」

「分からない。

この時間に居ると記憶が薄れてくみたいで…忘れていないのに、思い出せない」

パイプ椅子に促し、私も椅子を手に取る。

彼は矢筒の紐を腰に結び直し、座る。

私も少し肌寒いので、日の当たる窓際で向かい合った。

「……じゃあ、あの黒い靄みたいなのは何?」

「あれは…たぶん御前様を探していた奴らだ。全部で十二いる」

アヲイの髪は日に透けて一層紅く見える。染めてる、のかな。

体格のいい身体に、髪から滴が落ちていた。

「私を…何故?」

「………分からない。

アヲイは御前様の元に返りたくて来た。あれらとは違う。

アヲイをまた傍に置いてほしい」

おそらく彼の言っていることは本当だろう。

知っているのに思い出せないのを悔しそうに歪めるその唇も、嘘だとは思えない。

…まぁ悪い人ではなさそうだし、私は頷いた。

「傍にいたいなら、そうすれば」

「ありがたき幸せ!」

満面の笑み。そう笑うと青年にしては幼く見えた。

「じゃあカジカに知らせないと」

「カジカって?」

「御前様を見つけたら知らせる約束だったんだ」

ふぅん?と首をかしげた。

育ててくれた…となるとカジカはアヲイの親という感触ではなさそう。実の親ではなく、援助してる親戚とかかな。

と、見ているとアヲイはジーパンから取り出したスマホで、誰かに連絡しているようだ。

……この人、スマホ使えるのか。

ほどなくするとすぐに電話がかかってくる。同時に一時間目の終わりを告げるチャイムがなった。

「カジカ…、うん、見つけた!

……御前様も覚えてなかったよ。

…本当か、ありがとう!

うん、それじゃ」

チャイムで相手の声はよく聞こえなかったが、報告は済んだようだ。

「カジカさん、なんだって?」

「部屋を用意してやるって!」

「は?」

「カジカの屋敷は大きいから、大丈夫だよ」

「いやそうじゃなくて…」

部室の外廊下に足音。

休み時間に入ったらしい。

いくらなんでも二時間目まで不登校でいる気はない。

話を切り上げなくては。

「よく分からないけれど…とにかく私は授業があるから。

話があるならその後にしてちょうだい」

まだ制服は濡れているけど、パーカーを着ていれば寒くはない。スカートも少し乾いてきた。

「御前様、何処行くんだ?」

がた、と椅子から腰を上げ、追いかける気満々でこちらを見ている。

「何処も行かないわよ。この校舎で授業を受けるの。また戻るわよ」

「なんだ、そうか。ずっとこの建物にいるんだな?

じゃあアヲイはここで待ってる」

少しほっとしたように息を吐いて、アヲイはまた椅子に座る。

ここで…って部室でか。

「アヲイって…大学とかバイトとかしてないの?」

誰も来ないと思うから問題はないけど、授業が終わるまで半日近くある。

「うん、アヲイは御前様の物だから」

腰に矢筒をかけた半裸の男を、私の物にした覚えは全く無いのだけれど、それ以上会話しても通じない気がした。

彼は記憶が充分ではなく、物事を説明する事も上手くない。

インプットは得意だが、アウトプットは苦手なタイプなんじゃないだろうか。

とりあえずここで待つと言うなら、別に構わない。部員以外誰も来ないし、ここの部員は私だけなのだから。

「それじゃ、行ってくるわね」

「行ってらっしゃいませ!」

満面の笑みで見送られる。…なんだか犬みたいに思えた。

外廊下を渡り、校舎に向かう。

次の授業科目は古文…講師はいつも遅れてくる橋本先生だから、間に合うだろう。

教室に顔を出すと、クラスメイトが一斉に私を見た。

「さ、笹塚さざづかが遅れてきた…」

「なんか濡れてない?」

ぼそぼそと呟くクラスメイト達。真面目に通っている私が遅れたのだから珍しいのか。

席に着くと、さっそく前の席の西藤さいとうくんが話かけてきた。

「笹塚、今日はどうしたんだ?

いなかったから英文のミキセンが慌ててたよ」

ミキセン…いつも訳を当ててくるあの女教師。

意外と陰険だから、明日の授業の予習をちゃんとしておこう。

席に着いてから、引き出しに入れてあった予備のあるルーズリーフとシャーペンを取り出す。

「…そう。悪い事したわね。

ねぇ河野こうのさん、良かったら古文の教科書見せてもらってもいいかしら?」

隣の席の河野さんに声をかける。急に話かけられてびっくりしたのか、一瞬固まっていた。

「いいけれど、さ…笹塚さん、教科書無いの?

も、もしかして、い、イジメ?!」

「違うわ。……忘れたの」

川の中に。

とは口が裂けても言えない、――今朝の事件と結び付いてしまうかもしれないし、仕方なく河野さんに教科書を見せてもらった。

明日なにかお礼しないと…。

授業は結局誰かしらに借りてなんとかなったけれど、昼休み。

「そういや財布もないのよね…」

空腹を我慢する事はできるが、理不尽だ。

カバンを忘れた原因のアヲイにお金を借りようと部室に向かう。

……と、部屋から話し声。

「あ、御前様! お帰りなさいませ!

授業は終わりましたか!」

私が扉を開けると同時に、気付いたのかアヲイが飛び出してきた。あの満面の笑み、半裸で私のジャージを肩にかけている。

「アヲイのせいで、川にカバンを忘れちゃったじゃないの。

見つからないから困る事ばかりよ、だから……」

「やあ、笹塚くん」

私に抱きついて幸せそうなアヲイの後ろから、声。

アヲイの頭を退かすと、見知った姿が立っていた。

すらりとした脚。

華奢な体格。

細い首すじ。

その整った顔立ちの唯一の傷…左目の下から耳まで伸びる傷。

その傷さえ彼の魅力を際立たせていた。

「カジカって…まさか…」

「さすが我が校きっての才女、笹塚くんだね。ご明察だよ」

梶川かじかわみどり…彼は理事長の息子。

生徒でありながら、この学校で最も権力が高い。

『部屋を用意する』という横柄で無茶な言葉も、彼の発言なら納得できる。

梶川家はこの校舎の裏にある、広大な敷地に広がっている。この学校は、屋敷のほんの一部だ。

「……梶川先輩、一体どういう事でしょう?

そんなに私の事が嫌いですか」

アヲイは私の肩を掴んだまま、やり取りを見守っている。

梶川先輩の調子は、私が敵意と警戒を込めても変わらない。

「やだな、父様の校舎に通う生徒を僕が嫌うわけないじゃん。……特に君はね。

ま、積もる話もあるからさ、放課後屋敷に来てくれよ」

「…分かりました」

チャイムが鳴る。予鈴だ。

梶川先輩とアヲイ…一体どう繋がるのか、私には全く分からずじまい。

仕方なく、放課後を待つしかない。教室までの廊下で一人呟く。

「………お腹空いた」

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