第4話 妖都へ
目覚めの朝はまだ薄暗かった。暁闇刻に静寂が鎮座し、与えられた居間が広く感じた。
眠れば瞬く間に今日が訪れ、朝鳥のさえずり前に支度を済ます。欠伸ついでに新鮮な空気を取り込んで持ち場に待機した。
朝昼夕餉、掃除、買い出し、これは全て鬼火丸さんと鬼火助くんの生業で、私の生業は傀儡という名の金魚の糞。吟が動けば後を追い、吟が汚せば私が整え、時に放たれる悪態や言動は付きもの。
これが私の修行? らしい。起きもしない暁闇に寝所の前にて指示を待つ。
鬼は毎夜、宴を開き上客を招く。その場の手伝いは鬼火丸さん鬼火助くんが執り行い、高貴な香を纏う酌婦がお供する。
私はその場の出入りは許されておらず、群る巣に入ることに吟は厳しく私を拒絶する。ついでに最大限の冷めが眼が物語るのは、酒の席が不味くなると言いたげなのだ。
その宴の影響か、吟は明け方に起床した試しがない。頬に朝日が差す頃合に起床する。それなのに私を早朝から待機させるのだ。まだ太陽が眠る間に待たせる指示は、吟のどの辺の気がすむのか訊いてみたい。
鬼屋敷に来て三日経つ私に、楽しみができた。
朝鳥が飛び始める時刻。早起きしたご褒美の如く雲海から覗かせる太陽は別格だった。
陽だまりに吸い込まれそうな暖かみに包まれた躰は一日の運気が漲るように力が湧いてくる。
始まりを眺めていると、障子の中から声が漏れてきた。
耳を澄ませれば「花純……」寝ぼけ眼の声は起床の合図。
「花純でございます。ここに控えております」
「許可する」
障子の前に跪座をし、一声掛けてから障子に手を掛けた。二度に別けて隙間を作り、最後は躰分を横に滑らす。
真っ先に闖入したのは朝日だ。褥で寝そべる吟を照らした。続いて丁寧な一礼を終わらせ跪座から正座を正し、躙るように拳で躰を支えながら寝間に入った。
白い褥に横たわる吟は相変わらず半顔半美を覗かせていた。
毎度ながら飽きもせず眼で辿ってしまう私は、女の私よりも手入れされてある吟の髪質に見惚れてしまう。
「白湯」
「お持ちしております」
「注ぎ立ての白湯が飲みたい」
「起きる具合を測れますので、これは注ぎたての熱々の白ゆげ立つ白湯でございます」
眉根を上に動かしながら手に取った茶碗は文句なく飲み干された。
さぞ熱かろうに。心中の小さな私が呟いた。
三日あれば容量よく動けるようになった。先読みの行動を心掛けている。これに吟は不服な顔をする。新しい命令を増やし、私の手間を増やそうとする。おかげで吟と会わない日はない。
「身なりだ」
「はい。姿見の前にお越し下さい」
愛想無く短文で進む会話も変わりない。着替えを手取り足取り手伝う日課にも手慣れつつある。
姿見前に立った吟の背後に回り、寝間着を脱がしてゆく。吟は私より背が高く、背伸びをして肩に掛かった着を滑り落とし受け取った。
引き締まった柔な肌は私の視点を狂わす。これにはまだ慣れないらしい。嫁入り前なのに生身を見てしまうとは、かか様が知れば失神してしまう。まあ嫁入りの予定は空想だけれど。
罪悪感を抱く私と正反対の吟は恥じらいの様子すらない。慣れている表情を張り付けている。
私も負けじと平然した顔を貼り付けてから薄緑の長着を後ろから羽織らせ吟の正面に移動し、胸元の半襟を整えてから腰の帯を軽く締めた。
「手慣れたものだな」
「練習しましたので」
さらに心を込めて腰の帯をきつく締めてやった。
「……っう……。これでは裸体を見慣れさせてしまうな」
呻き声が漏れていたが吟は乾いた笑いを吐露させた。
「嫁入り前ですが勝手に度胸が付きます」
私も笑い返した。
すると、吟の手が私の腕を掴み取っていた。素早い動きは掴まれた強さで気づいた。
「これからの生涯を心配するのか? 安心しろ、花純は嫁にゆくことはない。永遠にな」
私の眼光は吟の喉仏を見る。
「僭越ながら、かか様の元へ戻れば私は自由の身です。永遠に大旦那様のお世話にはなりません」
持たれた腕に力が加わり強く締め付けられた。鼻息から微かに荒れようとする吟の憤りを感じた。
「骸に対面しても今のように平然を張り付けておくのだな。真実を知れば……」
吟は言葉を詰まらせた。次第に持たれた腕の力も緩む。
「続きがあるようですが?」
初めて見る苦悶の表情に私は敢えて訊いた。
「いや、それより今日は町に出る。外出の支度を済ませておくように」
「それは私も同行でしょうか」
「当たり前だ」
とうとうこの日が来てしまった。下界に足が入ってしまう日。
吟の朝餉を待つ間、私は妖馬を玄関へ連れてゆく。
速度は妖都一の妖馬。毎日五食の世話とこっそりおやつをあげていたら、私に懐いてくれた。
眼は鋭く気性が激しく筋肉質の四本足と白髪の毛並みを颯爽と靡かせて走る姿は勇ましい。
「ゴン、今日も大旦那様をお願いね」
ゴンは顔を擦り付けてきた。「はい」の返事のようで可愛い。
「妖馬に名を与えてやったのか。よほど暇らしいな」
身なりが整った外ゆきの吟は家紋が入った深い緑の羽織に身を包み早々に嫌みを吐く。
「名無しでは何と呼べばいいのですか。可哀想です。それに呼び名は距離を近くしてくれます」
最近愛称という名の距離を縮める方法を知った。鐘がゴーンと鳴る度に鐘に負けじとゴンは嘶くのでゴンと名付けた。吟には教えてあげない。
「可哀想だと。似たもの同士は仲がよいの」
嫌味を連発しながら吟は騎乗した。どこが可哀想なのか分からないが、可哀想と思うのが吟のツボなのだろう。
「手に掴まれ」
騎乗した高い位置の吟は私に向かって手を差し伸ばしていた。
「仰られる意味が分かりません」
予想外の言葉に焦ってしまった。
「僕の手に掴まれ。さあ早くしろ。待つのは性にあわん」
掴まってしまえば私もゴンの上に乗る羽目になるのでは?
それは……無理よ。
「私は下女。何歩も下がって歩く身でございます」
冷や汗を背に感じながらも無表情を張り付けて言った。
「そんなに嫌か。僕の側は」
か細い声に顔を上げると悄然とした眼があった。その表情に私の過ちに気づかされてしまった。
「いえ、嫌ではありません」
吟を傷つけたいわけではない。私は発言を慎むべきだった。気をつけなければ言葉で誰かを傷つけてしまう恐れがる。
「ならば、なぜ拒否をする」
「背中に汗があります。その、大旦那様のお召し物を汚してしまいます」
「ふん、そんなことか」
一変した笑みを覗かせた吟は首をくいっと動かすと、門番が背後から私を持ち上げた。
「うわあ! 何を致すのですか」
と騒いでる間に私はひょいっと騎乗した。
「相変わらず口数が多い傀儡だ。支えておるから僕に寄りかかれ」
寄りかかれって、素直に応じられるわけないでしょ! 汗はどうするの? 顔は近く、背後には吟がいて、私だけが恥じらうなんて耐えられないよ。
いやいや待ってよ。吟を意識する方が間違っているのでは? 吟に対して恥じらいはおかしなこと。しっかりせねば、花純。
「このままでは落馬か、あるいはゴンに蹴られて皮膚が剥がれるか骨折か。身を僕に預ける方が安全を保障してやるが」
仕方がない。景色にでも見惚れていよう。
誰にも聞こえない深呼吸をし、吟に寄りかかった。
「そう、そう、初めからそれでよい」
ここは身の安全を考えての行動よ。自らを仕切り直し内心忸怩たるものを秘めておけば私の心は揺さぶられないわ。手綱を両手で持つ吟の真ん中に私はすっぽり嵌まった。
吟の鼓動が嫌でも背に感じてしまい景色どころではなくなった。それでも遠眼から見える町並みに集中させる。
このような日が訪れるとは浮世絵でしか触れられなかった。
寂寥感を宥める風景は私が生まれ育った町。賑やかな音に耳が疼く。懐かしい音は繁華の活気。
「おおい落ちるぞ。じっとできないのか」
「つい躰が勝手に」
「落ち着け」
「今聞こえる音が眼前にあるのですよ。いつも私間から聞こえていました。この音は夕暮れ前まで鳴り響くのです」
「たかが買い物客が騒いでいおる声だ」
「見えるのと見えないとでは全く別の世なのです。これが買い物の賑わい。夕餉の準備でしょうか? それとも明日の支度でしょうか?」
「しらん」
風向きが変わると次は胡麻の香ばしい風が鼻腔を突き抜けた。
「おい」
鼻が前に行き過ぎた。吟は私のお腹を腕で巻き取っていた。
「落馬したいのか」
「つい」
粗相は気恥ずかしいが気持ちが前面に出てしまった。
「ついが多いな。あれか、好きなのか?」
「好きですか?」
命令以外の問いに少し戸惑ってしまった。
「花純は繁華街で育ったのだ。好みの店屋物ぐらいあるだろ」
やはり私の長屋は繁華街にあるんだね。
「もちろんありますよ。おやきです。ほら昔私と一緒に……」
あっ、しまった。よりによって八刻に分け合った昔話を滑らした。吟が覚えているわけないし、身分を弁えろと叱咤される。
「えーっと、昔から変わらない素朴な味が有名な牛美屋のおやきが好きです。いつもかか様が買って来て下さって」
誤魔化した早口に恥ずかしくなるが吟は問い詰めてこなかった。
「牛美屋か」
「久々に食べてみたいものですね。と言ってみましたが冗談ですので」
八刻は甘味物、あんこたっぷりの大判焼き豪語していた吟。私は甘じょっぱい派のおやきだった。
「大旦那様は甘い大判焼きがお好きでした?」
「しらん」
吟は甘党好きよ。知っているのだから。
「かか様は甘党でしたよ。桃前屋の餡子は甘口でもすっきりとした後味は三つ食べられてしまいます」
「それは食いすぎだ。何事も腹八分目が美味になる」
町入り口にある厩舎にゴンを預けて、私は吟から大股五歩を下がり商店街へと入った。
賑わう大通りに私は躰を細めて手は裳裾に隠した。混雑具合に変な力が肩に入る。
「畏れるな。まだ皆は花純の面をしらん」
「そうですが……こんなに沢山のあやかしに囲まれるのも眼にするのも初めてです。なんだか浮世絵の中に入った気分ですね」
おずおず歩く中、吟の存在は眼に付くようで女妖ばかりが振り向き、口が開けばそわそわと耳打ちする。皆、吟に引き込まれている。
「大旦那様は人気なのですね。手をふる女妖もいらっしゃいますよ。それともう一つ」
「気にするな」
「皆様の視線が私に刺さる気がするのですが」
吟を見た後、必ずと言っていいほど私は睨まれる。敵視されている気が否めない。
「当たり前だ。下女を従えておるというのに声を張らせておるからだ。僕から離れなければ手出しはされん。もっと近こう寄れ。店に入るぞ」
暖簾を潜ったその店は、薬師と看板が掲げられていた。
此処はお香の材料がある店なのでは?
入店と同時に吟は選べと竹籠を渡してきた。
やはりお香の材料、沈水香木が揃う店だった。
「私は一銭も持っておりません」
動じない背中に申し訳なく訊く。
「出世払いでよい。長くは待たんがな」
「ですが私は如何していお香を売れば宜しいのでしょうか?」
鼻で笑われた。そそくさと先を進む吟。そう甘くはないようだ。
「品の眼星はついておるのか?」
「はい、いつも必要な材料はかか様が揃えて下さっていたので覚えていますが……こっ……これまでに高額とは知りませんでした」
一つ一つの値段が高い。沈水香木は外島から仕入れる品もあるとかか様から聞いたが、値段は知らなかった。
腕組みのまま待機する吟に欲しい材料を伝えると、懐から大量の金子を出してきた。
「さすが鬼の大将、眼の付け所が違いますな。値札を見ずに支払うとは」
店主はにやけて言った。
白檀、桂皮、安息香、乳香、竜脳、山奈、貝香、大茴香、藿香、甘松、炭粉、はちみつ。基本の材料は高価な品ばかりに店主は眼を輝かせている。
必要な品だけを詰めてもらったが金子の音の重なりが身を重くさせられた。
「紫月には薫衣草が必要ですが、季節外れの植物なのでこれ以上に高価かと」
銀装飾に精緻な彫刻が施された棚にお目当ての品がある。桁の違いに恐る恐る指した。
「それを百束もらおう。店主、見繕っておくれ。品は鬼屋敷へ」
「へっい」
息継ぎを誤ったのか咽せる店主は眼を丸めながらも口元に揺るみが出ていた。
「ひゃっ、百束って。大旦那様それは多すぎではありませんか」
「主役の品は多い方がよい」
「まだ売り手も見つかっておりません。利益が見込めません」
「安い買い物だ。客寄せは僕に任せろ。ありったけの客が来る日々になるだろうな。この後寄りたい店があるんだ。ついて来い」
勝手にお客様が来るの? 宣伝は鬼頭の権力だとしら、脅しの来店だったりして。
気弱な声で吟の背に返事をした。
我が道をゆく背を小走りで追うが突然止まり、顔面をぶつけてしまった。
「申し訳ございません」
返答はない。吟が見定める視線の先に眼をやると懐かしい香りが鼻腔を突き抜けた。
「もしや此処は」
「牛美屋だ」
香りに刺激されて他にも脳を過った。
昔、吟に尋ねたことがある。おやき店の場所を。
確か牛美屋は裏長屋。私の家は表長屋にあって同じ通りの龍の方角だった。このまま直進すれば表に出られるはずなのだ。後は店の看板を探せば家に辿り着く。
ひしひしと高ぶる鼓動が脚を疼かせる。好奇心? それとも逃げたい思わくがあるから?
いいえ! どれも違う。確かめたいだけ。かか様の狐火の元に行きたいだけよね。
「欲しいのか?」
「えっ?」
「おやきだ。食うのか食わないかだ」
「要りません!」
強く返してしまった。言動を諫めたばかりなのに私は繰り返してしまった。吟は気にする様子もなく小上がりに腰を掛けて空いた横を叩いた。
「店主、一つ買う」
てっきり座れの合図かと思ってしまった。店主を呼ぶ合図だったようだ。一歩出た足を戻して外に眼をやった。
「珍しいお客さんだ。鬼頭ではありませんか。あいよ、お一つ」
私は暖簾を壁にして表通りの賑やかな声に耳を澄ませた。
瞼を閉じた。土を踏む草履の足音、金子が散らばる音、赤子の泣き声が聞こえ、ぶつかり謝る声。
足りない。
あと一歩の音が欲しい。
表通りならばもっと賑わうばす。老若男女の井戸端会議や戯れる声、客寄せの声がある。それから……
「ほらよ、かすみ!」
突き抜ける声に顔を上げた。眼前には鼻腔を擽る湯気が待っていた。
「おやきではありませんか?」
「食べろ」
「私にですか? お断りしましたが」
「なら顔に書いてある食べたいを消すことだな」
「いつ誰がいたずらを?」
「つべこべ並べるなら食べるな」
「食べます! いただきます!」
半分に割られたおやきに齧りつく。
「おいひぃ、おいしいです」
これ、この味。薄い皮に閉じ込められた胡麻とにんにくが効いた餡は葉野菜の旨味みと肉汁が絡み合った絶品。
「泣いておるのか?」
「っえ? 私が泣く?」
吟に問わられるまで気づかなかった。頬に水滴が付いていた。泣くというよりか汗と同じ、無自覚に出てしまった。これが涙なら私は初めて涙に触れたことになる。
「涙は悲しみだけと思っていましたが、嬉しい時も出てしまうものなのですね」
「涙の種類? とてつもなく面倒な説明をさせる気のようだ」
「書物にはありませんでしたから。感情事は」
「あたりまえだ。感情は躰の原理だ。気を揺さぶられることによって無自覚に出てしまうものなんだ。格子の中では無理があるようだな。もしも一から十までの書物が存在するならば、花純が書いたのだろう」
作家になれと推薦して下さっているのだろうか? それも悪くないけれど。
吟はもう半分を私に手渡して、先に行ってしまう。
「これは大旦那様の半分ですよ」
「食べろ」
「いけません。今半分を頂きました」
鋭い横眼が飛んできた。
「では遠慮なく」
大口でかぶりつく。
「食べたな。僕の半分を食べたな。しかと受け止めたぞ」
吟は歩みを止めた。企みを含んだ口角を斜めに上げて振り返った。
私は満々とはめられた気がする。
「恐れ入りますが……食べてしまいました」
「今、花純は何を考えていた。丁度、支払いしておる時だ」
「いいえ、なにも」
心当たりと具を飲み込むと、文字に残せるほどゴクリと音が鳴ってしまった。
「ほおう、眼を閉ざし耳を澄ませた格好だったがな。よからぬことを企んでおるな。食べたからには吐いてもらうぞ」
睨まれる眼に下手な嘘は見抜かれる。名答でなければこの場を切り抜けない。
「まさか逃げようなどと」
地鳴りのような低い声が私の嘘を塞き止めるようだった。
「正直に申し上げますと家に向かって走るつもりでした」
「僕から逃げられるとでも? 浅はかすぎるぞ」
「逃げるなんて滅相もありません。かか様に会いたいだけです。風に乗って伝わるこの狐火を確認したいのです」
「そこまで豪語するならば現実を見せてやる。だが腹をくくり覚悟することだな」
私は身を正して頷いた。
表通りの長屋は裏通りと異なりあやかしが増した。露店も豊富な分、出入りが多く賑やかな場所に変わった。
近づいている。狐火の感じ方が変わった。弱から強へ、まるでかか様が私の帰りを待つように迎えられる笑みが浮かんでくる。歩く足を小走りに変えた。
「花純、何処へゆく。実家を通り過ぎておるぞ」
「私の家?」
吟の指す場所は空き地。黒い土があるだけの場所。
「煤の地面に手を当ててみろ。花純が感じる狐火は、この燃えかすではないか」
言われるがまま地面に手をついた。
「そんなはずはありません。私は確かにかか様を感じております」
手袋を脱いで素手を土に置く。
かか様? 狐火を感じる。
黒いだけの地面に生温いかか様がいた。
「花純が感じた狐火は事実、母親のものだろ。ゆえにこの煤は」
「まって、まって、それ以上言わないで下さい。なにも」
嘘よ違う。私はかか様を間違うはずがない。
「此処が家なのは確かなのですか?」
「これが誠だ。この煤は母親の骸だろう。亡骸の燃えかすだからな」
吟の声に膝が崩れた。明確にしてほしくなかった。
「し……」
死。焦げた地面を叩いた。
握った拳はあっけなく小さい。それなのに鈍い音を地面に鳴らし私が生き残った音が此処にある。
「己を傷つけるな。いつかは真実を知らなければならなかった。それが早まっただけだ」
「なぜです。私は、私だけが生きているのですか……どうして、私だけを助けたのですか」
私の声が、あやかしを呼んでしまった。賑わいが集まって来た。
「そろそろ帰ろうか、花純」
項垂れる私の腕を吟は掴んで言った。
「鬼頭、もしやそれは呪いの子じゃないか」
「そうだ、狐の小判の大将と女将が死んだのは知っている。生き残ったあの子は鬼頭が預かっているとも知っておるぞ」
「きっとあれが呪いの子」
「見て、妖魔の化身よ」
「見た目はあやかしとそっくりでないか」
「あの子が妖魔を生み出したのよ」
「ようやく姿を現しよって」
「おお恐ろしや。まだ日が上だというのに、やはり不死身じゃ」
「祟りぞ、皆の衆。近づくべからず」
野次が飛ぶ。石が飛ぶ。先が尖っていたのだろうか着衣が敗れた。おまけに額に傷ができてしまったのか血が流れてきた。けれど何もかも無痛。私が下界に出ればこの惨状を想定できていた。だからこそ、私にとって普通の出来事として処理しなければならない。心配かけないように吟に説明しなければ。私は平気だと。
一呼吸吐いてから吟に視線を返した。
「私から離れて下さい。大旦那様の面目が穢れてしまいます。また私のせいで傷をつけたくありませんし、何より私は大丈夫ですから」
屈んだ吟は私の額を指でなぞった。その指の腹を見ると血が付いていた。私の血だ。
「大げさな血ですね。痛みはありませんのでおかまいなく」
「今宵の僕は花純の盾を担うために存在すると思え」
「わたしの、盾」
吟は背を向けて立ち上がった。
「許さん。愚民ども……」
吟が叫んだ瞬間、稲光が空を明るくした。私の周りを火玉が囲んだ。
「鬼火丸、鬼火助、駄弁を始末しろ。覇者の怒りとやらを知らせるがよい」
「御意」
「あいさ。鬼の怒りが落ちただす」
小鬼達だ。吟の声で再び鬼火に戻り野次馬の群生をまき散らしている。他にも小さく割れた無数の鬼火が私の周りを守るように円を描くと石を弾き出した。
「おかえり花ちゃん」
足早に駆け寄る白梅ちゃんは私の周りを二週した。
「やはり妖都は怖い場所でした」
結果は散々だった。下界は畏れ多き場所と教わった。
吟が私を帰さなかったのは惨状を予知していたからだ。それを私の我儘が招いてしまった。
「はい、これ」
貝殻を首飾りにした装飾品が白梅ちゃんの手に乗っていた。
「香炉はそのままで。麻呂が付けるぞえ」
両手が塞がっていた私に白梅ちゃんの手が首に触れた。巻かれた貝殻は丁度、胸の真ん中に落ち着く。
「鬼頭から頼まれたぞえ。花ちゃんに似合うように拵えてくれと。この中には、花ちゃんのご家族が入っておるぞ」
貝を開けられると、黒い砂が入ってあった。
「これはかか様ですか?」
「ねえ、抱擁してもよいか?」
視界が零れてきた。髪が頬に張り付いてしまう。みっともないぐらい顔がぐちゃぐちゃになっていた。
「辛かろうに。よく持ち堪え辛抱した」
白梅ちゃんの腕の中が暖かい。顔を埋めた。
「頑張ったのでしょうか。また私のせいで大旦那様に迷惑を掛けてしまった」
「他は関係ない。今は悲しみに泣きなさい。麻呂が受け止めるぞえ」
白梅ちゃんの衣が濡れてゆく、これも私のせいで。
「涙の種類は分かりませんが豪雨の止め方が分かりません」
声が漏れる涙は赤子のようだった。自制が効かない。それでも白梅ちゃんはぎゅっと抱き締めてくれる。
「口にしてみよ。麻呂が雨傘になってしんぜよ」
かか様の死を宥めるような力加減は胸を熱くさせた。
「かか様は会えない異界に逝ってしまわれた。私だけが生き残ってしまったのです」
「誠の事ほど見難くなるがこの世。死も同じ。亡者の名を発すれば花ちゃんの此処に帰って来る。見えなくとも側で見守っておるぞよ」
白梅ちゃんの指は私の胸の貝殻を指していた。
「私はかか様を失った世で本当に独りになりました。帰る場所もない。私は誰を待てばいいのでしょうか。誰が私を待っているのでしょうか」
もう格子はない。行く先も分からない。自由とはこんなにも孤独だなんて知らなかった。
「先に、おかえりと麻呂は言った。おかえりの意味を知っておるぞえ?」
私は首を振った。
「行ってきます。おかえり。ただいまは循環を表しておる。実はこの言葉は呪文であり祝詞でな、行ってきますは、必ず帰ってくるという約束となり、ただいまは、外で拾った穢れが落とす。おかえりは、待つ者に安堵を与える力があるぞえ。帰る家があるゆえ待つ者がおるゆえの言の葉ぞよ。即ち、花ちゃんの帰って来る場所は、既にあるではないか。口にしてみよ」
格子の中では使わない言葉。初めて口にするかもしれない。
「ただいま」
なんだか気恥ずかしい。
「はい、おかえり」
涙がすっと消えた。
「生きる者は眼に見えぬ縁で繋がっておる。途切れぬ糸で結ばれておる以上、決して独りにはなれまい」
「私も誰かと繋がっているのでしょうか?」
「こうして麻呂と出会ったのも縁の糸。いつ何時も縁は手繰り寄せられておる。だからの、己を強く持って生きてほしい。善悪の縁の糸があるように見極める眼を養えるぞえ」
涙の跡を拭こうと腕を持っていくと白梅ちゃんに止められた。
「涙は睫を伸ばす栄養薬ぞえ」
「ですが治癒の書物には」
「記しておらん。書物以上にこの世は摩訶不思議ばかりぞ。ふふ」
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