第3話 声を交わして

 鬼の屋敷は妖都を見下ろす鬼門の高台にある。夕闇に包まれた下界は紫月が駆け巡り、余韻を残すように芳醇な香りを漂わせていた。

 これが紫月。私が作った香だ。

「お月様が昇れば紫月の香煙は月光に導かれる。世は天上界の神々が穢れを取り払うと崇められておるが、麻呂はそう思えんぞよ。香煙は目印のようなもので誰かの帰りを待っておる気がする。とま、妄言ぞえ。ようやく表に出て参ったか。麻呂は待ちくたびれたぞえ」

「私達が上神様を話題に致すのはご法度でございます。誰かに訊かれれば牢獄送りだと読みました」

 私の問いに、ふふと肩を揺らした眼前の女性が振り返った途端、鳥肌が立った。

 聞き覚えがある新鮮な声と、鬼屋敷であっても二方の四神様がいらっしゃる現実が、脳裏を横切ったのだ。

 頭を低くした。私は重大な過ちに気づいてしまった。

「四神様がお待ちとは知らず、重ね重ねの無礼をお許しください」

「ふふ、麻呂は逢魔時に備えて香を焚いておっての、香りに連られ来ると、鬼頭がの。して試してみたところ、誠に其方が現れたぞえ。さあ顔を拝ませて」

 今朝、紹介されたきり会えずじまいの四神様の独り、朱雀様だ。恐る恐る頭を上げた。

 桔梗色の髪を二つに縛る毛先には、雪玉がぶら下がり肌は闇夜に明かりを灯すような美白が神々しく、真珠を埋め込んだ瞳は黒点が無くどこを向かれているのか察しがつかない。

 初めて目の当たりにする姿に私の眼球はあたふたした。

 朱雀様はこちらに迫ってきた。躊躇なく香煙を捻じらせて。

「麻呂は穢れなんぞに畏怖せんぞえ。我々は同士。気兼ねなく共にありたい」

「私のようなあやかし以下の分際で四神様のお側に近寄るなど、かか様が知ったら腰を抜かしてしまいます」

「何事も始まりが肝心。一つ提案がある。麻呂を愛称で呼ぶがよい。あやかしに名があるように麻呂も名が欲しくてな。例えば町娘のように可愛らしくちゃん付けで呼んでおくれ。呼び名は麻呂の憧憬ぞえ。の、よき案ぞ?」

 想像では四神様は厳格で笑みなど以てのほかだった。しかし香煙を扇子で扇ぎながら無邪気な笑みを返されれば、私の頬が熱く反応した。

「愛称とは、とても恐れ多きこと。僭越ながら私はこのような経験がありません」

 書物育ちはお役に立てるどころか古臭い。ほてる頬を肩に埋めた。

「其方の事情は鬼頭から聞いた。格子育ちのゆえ、あやかしでさえ接しておらぬと。ならば麻呂が其方に存分に接すると決めたばかりぞ。花ちゃん」

「花ちゃん!」

 なんたる響き。私の名を知って下さっていた。

 一歩下がったと同時に朱雀様の美しい顔が迫ってきた。

「気に入ったぞえ? これは花純の愛称ぞ。麻呂のお手製。ほれ次は花ちゃんの番」

 愛称付けの指南書を読んでおくべきだった。 初めてばかりに包まれて、私は今どのような顔をしているのだろうか写し鏡で確認したくなる。

 懇願の眼差しの朱雀様は上体を前のめりにして真珠を潤ませている。

 早く答えなければならない。私尽くしで破顔を隠すだけで精一杯なのに跳ね上がる鼓動に呼吸が追いつかない。喜々と緊張が同時にぶつかり合っている。おかげで頭が真っ白だ。

「ほれ、遠慮なんぞするではない」

「それでは、花繋がりで白梅はいかがですか? もっ、もちろん、ちゃんも付けて。白梅ちゃん!」

 朱雀様は動かなくなった。瞬きもない。あまりにも良識がなくご立腹されてしまったのでは?

「誠に申し訳ございません。不慣れなもので気の利いた愛称が思いつかず」

「その心は?」

 扇子を閉じて首を一回転すると、朱雀様の艶やかな瞳が見開いた。

 冷た汗を背に感じた。

「かか様以外のお方と長くお喋りするのも初の私に問うて下さいましても、もはや鼓動が皮膚を突き破りそうなのです」

 胸の衣を鷲掴む。

「四神と思うから畏まるのであろう。花ちゃんが選ぶ言の葉であれば麻呂は全てを受け入れる器を持っておる。感じたそのままを口に、言霊に託せばよい」

 私が甘えてしまってもいいのだろうか。せっかくの機会、私の言葉を聞いてもらいたいのは本音でもある。

 乾いた唇を一度しまい込んでから、一音づつ声に託した。

「今朝に感じました朱雀様は、白梅と重なりました。寒い如月にも負けず花を咲かせる白梅の花は心さみしい冬を和ませてくれます。こうして私の心に花が咲きました。それから、私の好きな花なのです」

 朱雀様が私のような者に声を掛けてくれた。呪いの子と口もせず一歩も遠ざからなかった。

「ふふ、思い出深そうな花ぞえ?」

「はい、恥ずかしながら。もう一つ、白梅の力強く凜とした姿は私にとって憧憬です」

 吟と出会った日。吟の手には季節外れの梅枝が握られていた。

「白梅、よき名ぞえ。麻呂に相応しいの。花ちゃんの憧憬に麻呂がいなっておるところがまた良き塩梅。麻呂は歩くお手本とな」

 渦を巻く紫月が半分になった頃、私と白梅ちゃんの距離は横並びに座って妖都を眺めるまでになった。

「鬼頭とは幼馴染みと知る。久しくの再会は感動ぞ?」

 盛大に首を横に振った。

「私が知る幼馴染は消えてしまい真新しい大旦那様と出会い直し。おかげで気持ちを改め、今では敬うあやかしになりました」

「されど鬼頭は花ちゃんを熟知しておったぞえ。過保護というか、思考が麻呂の幼馴染み、白虎に似ておった」

 私を話題にし、また笑っていたに違いない。

「白虎様は今朝に出会った四神様ですね。正式な挨拶ができませんでした」

「勢いがあったからの、麻呂も口を挟む間合いに迷ったぞえ。ぶっきらぼうだが、ああ見えて情に厚く寛大な男ぞ」

「寛大ですか?」

 溜息交じりに返してしまった。今朝の言動からは気が強そうなお方に思えた。

 白梅ちゃんはお腹を抱えて笑った。

「白虎は不器用での、誠を口にはせん。されど行動は口以上に思いやりがある。麻呂のためにお家を追い出される羽目になった過去もあるぐらいぞえ」

「過去とは鬼屋敷に住まう理由ですか?」

 躊躇なく疑問が口に出てしまうが白梅ちゃんは表情を変えず答えてくれた。

「麻呂は朱雀神にあるべき羽を持たず産まれたなりぞこない。されど白虎はなりぞこないではない。此処におるべきではない四神なんぞ。麻呂の失態を庇った過去もある。真実を宮中に知られれば麻呂は終わるかもしれんの」

「終わるとは」

 すっと温度が低くなるのが分かった。それなのに白梅ちゃんは肩を揺らして、くくっと笑っている。

「冗談。ぞっとするぞえ?」

「想像を絶する世になるのではと考えてしまいました」

「ふふ、初心よの。反応がよいから花ちゃんを驚かせたくなるぞえ。きっと鬼頭も花ちゃんの反応を可愛く思うておるのだろう」

「大旦那様は私で遊ばれているのです」

「心配せずとも麻呂は簡単に終わらぬ。せっかくの機会ぞえ、桃乃月様に会いたい。謳歌せねばの。これぞ羽目を外す」

 羽が無い背を私に向けてにんまりと笑みを返されるが私の表情は硬い。白梅ちゃんは愉快なお方だ。四神様なのに様を付ける存在もいるようで、下界を畏れる場ではないのかもしれない。

「桃乃月様とは親しき仲なのですか?」

 白梅ちゃんの瞳は一瞬で輝いた。

「麻呂の憧憬ぞ。手の届かぬお方ぞえ。そうじゃ、花ちゃんは桃乃月様に昨夜会っておるぞ」

 昨夜なら吟の隣にいた猫又のことだろうか。

「大旦那様は酌婦と答えておられましたが、もしやあの方が桃乃月様」

「酌婦だなんて滅相もない。桃乃月様は妖都一の芸者ぞよ」

 昨夜は畏怖された声ばかりで、私も眼線を床に落としていた。

「あの方が芸者。一度はこの眼に入れたいと願っていたお方の近くに私はいたのですね」

「芸者の演舞には妖力や神通力を高める術が備わっておるゆえ、高貴な者しか眼にすることはできぬ。昨夜会えたとは良き縁だったぞえ。花ちゃんは芸者をなぜ知っておる?」

「浮世絵で知りました。いつも眺めておりました。花筵を眼に入れたく、いつしか私の憧憬になっておりました。四神様も足を運ばれていたのですね」

「麻呂が参ると、この美貌ゆえ芸者が嫉妬する」

 記述通りだ。一見さんお断りの女妖禁制。

 芸者は浮世絵の常連だった。色鮮やかに描かれた芸者の奉書紙を土壁に貼っておくと部屋が明るくなったものだ。

 穴が空くほど眺めた芸者の浮世絵には桜や桃の花が定番で背景に描かれる。花下で妖艶に舞う絵に私は見惚れた。

 きっと花門を潜れない女性は私のように芸者を浮世絵で愉しんでいるのだろう。

「ぜひ本物を見てほしいの。桃乃月様の芸は賜物ぞえ」

「下界……ですか」

「んん?」

 不安が過った。近々、私は下界に出なければならない。

「ならば、よいものを授けてあげる。聞こえ召せ 千代に八千代と 我が身を御護り給え」

 奏でるように声にした。

「それは?」

「力が欲しい時のおまじないぞ。天上界に伝わる言の葉ぞえ。麻呂が花ちゃんに授けてあげる」

 白梅ちゃんは私の手を取った。

「てっ……うわああ、手を……」

「この手は花ちゃんの一部。この手なしでは麻呂と会えずじまいだった。そう思わぬか」

 白手袋を潤沢な白地肌で包んでくれる。地肌に触れなくても包まれた感覚が伝わってくる。とても温かくて心地よくて、ただただ、気持ちいい。

「先ほどから初めて尽くしで躰が保ちません」

 側に近づくのもかか様。お喋りもかか様。私の初めてはかか様が側にいた。しかし今は全が新境地。望まなくても吟の言葉どおりに進んでいる。私はこの先、吟が敷く道を前進するのだろうか。心が独りで立ってられない。

「悲しそうな顔ぞ。家に帰りたいのか。花ちゃんの願いが叶うのなら麻呂の願いも叶うと同じ、共に乗り越えるぞよ」

「いいえ、そうではなくてですね」

 悶絶しそうなのは白梅ちゃんから与えられる陽だまりの優しき熱。新しい言葉が放たれる度、蒔きをくべるように胸の中心からぐわんと火が灯る。火が爆ぜるようについ身勝手な感情が飛び出てしまいそうで火加減の調節が難しい。

 白梅ちゃんを失う怖さが過ってしまうのだ。

 吟のように突然失ってしまったら鎮火してしまう。もう、嫌。あのような日々を味わいたくない。誰も待ちわびたくない。

「花ちゃん? いかがした?」

「大丈夫です」

 私の声が震えていた。それが耳に入って涙腺が緩みそうになる。

「大丈夫は大丈夫でない時にも口にする。鬼頭のような鬼でさえもの」

 白梅ちゃんは私の手を握った。

「この世は弱者で作られておる。初めから強者はおらん。花ちゃんが今抱える不安は未熟ゆえであると知ってほしい。強くなればよい。それには修行ぞ」

「修行を致せば私は変われますか?」

「明日を迎えれば分かるぞえ」

「明日?」

 白梅ちゃんは満面な笑みを私に覚えさせた。

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