第2話 まどろみの中で
場違いなほど欣然に微笑むかか様の周りには赤い蛍が爆ぜた。
「先に逃げなさい」
「私だけ先になんて、かか様を置いてゆくことはできません」
「無駄死にしてはならない。これはかかの天罰なのです。必ず花純の時代が来ます」
項垂れたとと様を両手いっぱいに抱えてかか様が叫んだ。
「天罰?」
私の指先が二方から遠ざかる。手を伸ばしても小さくなってゆく。誰かが私に触れている。
「花純、花純、吟君を助けてあげて」
朝水を溜めた手桶に私の顔が落ちている。それもひどい顔。
「吟を助けるって、なんなの」
「起きたようだな。さっそくだが、これに着替えろ。我らが離れたら取りに来い」
「裸だす」
「そこまで砕いて説明てやるな。卑猥に聞こえるだろ」
「すっすまね、兄じゃ。着方を知らずと思っただす。間抜けには分かりやすく教えてやるのが我らの仕事だす」
掛け合いの声に振り返れば、何十歩も離れた場所に昨夜の小鬼と、初めて見る小鬼が立っていた。
昨夜の小鬼は角二つに私の腰ぐらいの背丈で、初見の小鬼は角が三つに躰は私の膝下と同じ長さ。小さくて可愛いらしい。
「間抜け? 光を眺めるのは慣れていますが、浴びるのは初めてなので桶を拝借しました。これが間抜けでしたか」
被った手桶を落とさないように頭を下げた。
地面に置かれた小花が散りばめられた白菫色の衣。
「下は袴のようで動き易そう」
掲げて見せた。
「作務衣だ。ここに住まう者の格好だ」
「下着の上に作務衣だす」
ししし下着……
「おい、語弊があるぞ。恥じらいを覚えろ」
「すっまねえ兄じゃ。おいらはまだまだ修行が足りねえだす」
「修行とかの問題じゃねぇーよ」
「そうだすか?」
「鬼頭に指導を問われるだろ。もっと本を読め」
「あいあいさ!」
小鬼のため息に苦笑いをしてしまった。育てるって大変そう。
作務衣の傍らに白手袋もあった。全ての着替えを済ませた私を上下見回す小鬼達に会釈した。
「手袋を嵌めたのか?」
「はい、手袋は必ず付けています。素手で過ごしたのは昨夜が初めてで、もしかしてこの手袋は、あの鬼様のご用意ですか?」
「無駄口を叩くなと仰せつかっておる。それから訂正しろ、鬼ではなく大旦那様だ」
「偉大な鬼頭だす。あ、偉大と言っても背丈はこれぐらいだからな」
小さな躰以上に腕を高く上げて背丈を表してくれた。小鬼君の発言に口元が綻んでしまう。
昨夜の小鬼は出会った頃の吟にそっくりで、とくに強めの口調が似ている。
手袋の存在までも知っているのならば、大旦那様は吟に間違いないのだけれど、複雑ね。会えない内に内面が、ああも捻くれるとは下界の影響によるものだろうか。
身に着ける手袋は鬼の髪が縫い込まれた特殊な作り。鬼が持つ結界の力を手袋に編み込んである。私の穢れを封じ込められると、優しかった頃の吟が教えてくれた。
「生業の前に同類を紹介する」
「よっし、小太鼓を持ってきやるだす」
「違うだろ」
「しかし兄じゃは自己紹介と」
「盛大な紹介は我ら同胞だけ。考えたら分るだろ。この状況を読め」
「そうであっただすか。てっきり他者も恒例かと」
鬼は意外と愉快なのだろうか。だから宴好きなのかしら。書物には愉快の愉の字も記載されていなかったから私の中で更新しておこう。
咳払いを合図に小鬼は松林に向かって手招きをする。誰かが出てきた。
「この者、四神は我ら鬼頭が拾ってやった半端者。右から白虎、続いて朱雀だ。我らの紹介もまだであったな。俺は鬼頭の眷属、鬼火丸。小さいのは鬼火助」
頷けなかった。できるなら首を横に降りたい。
かか様は妖都の風情やしきたりを薫陶下さった。その中でも広大な妖都の東西南北に重鎮する四神様の歴史は古くより伝わる神如く。
「花純が安心して眠れるのは東に青龍様、西に玄武様、南に朱雀様、西に白虎様と、この四神様が守護下さっておられるからなの。それから、あやかしを統括する鬼門の鬼が妖都を治めてくれておるからいつだって私達あやかしに静謐をもたらして下さる」
かか様は四神様や鬼を丁寧に語った。
なのに!
この眷属は神の子孫を名指しとはなんとも無礼ではないか。四神様のご子息には最大敬意を払わなければならない。同類同士と溌剌は撤回すべき。
全くもって同類ではありません。と、堂々と正したいけれど、どうも口が固まってしまった。
「さあ、口の締まりがないこの新参者は狐一族。名は玉藻前。呪いの子といえば皆も察しがつくな。この者も鬼頭が拾った。玉藻前曰く素手で触れない限り無害。まあ自己責任だ。おい、いつまで突っ立ておる。挨拶しろ」
厳しい視線が飛んできた。
「あっはい! 玉藻前と申します。手袋があれば私が触れた物であっても穢れは残りません。どうかご安心下さい」
あやかしが滅多に遭遇しない四神様、下げた頭が上がらないまま伝えた。
「やっとおなごが参りましたが……手桶はそのように使用する物だったぞえ? それから麻呂に敬意は要らぬぞよ。鬼火丸の紹介どおり神であっても半端物ぞ。四神の子息とて捨てられ、運良く鬼頭に拾ってもらった麻呂ぞえ。ふふ」
四神様のお声は女性だった。柔らかい声が印象的で癒される。
「おい、こいつの子守りを神に押し付ける気か、鬼火丸」
女性の声以外に拒絶するような男性の声が続いた。
「おいはこっちの台詞だ。おい白虎、鬼火丸様と呼べと何度説明したら分かる。身分を弁えろ」
「おらも賢いだす。漢字も読めるだす。いろはにほへとも操れるだす。兄じゃに逆らうな。褌一枚にしてやるだすよ」
「呼ばずとも鬼火丸と鬼火助は鬼頭の鬼火で作られた眷属。四神に敵うとでも? 稚拙な眷属が神を超える事態は罰当たりだな」
はい、そのとおりです。四神様に抗う者が間違っているのです。
「相変わらず白虎は口が悪い。口が腐っておるのか」
「兄じゃに謝れ! もしや口にかびが生えておるだすな。次に侮辱すれば白虎は全裸だすよ」
かかっかび、真っ先に謝って!
「腐る? 笑わせるな。我らが息を吹けば、元は鬼火のお前達、一吹きで消えるではないか。四神の神通力は健在だ」
「ははは、万能な神妖刀があれば四神だろうが跪くのであろう? 白虎、天上界の神はその神妖刀を失くしたらしいではないか。あやかしが手に取ればいかなることか」
「神妖刀の件はだな……」
濁した声に私の耳は機敏に反応した。
神妖刀は万物を切ってしまう刀だと読んだ。その刀は下界には存在せず天上界へ登ったと記してあったが、天上界の神々が紛失したように聞こえる。
「おらも知っておる。神の失態を食い止めておるのは鬼頭のおかげだす」
しかしこれ以上は聞いていられない。無礼ばかりが飛び交っている事実を私が止めなければ。
「おおおそれながら、有意義な朝ですね」
仲裁に入るどころか未だ顔を上げられなかった。それどころか舌打ちを落とされてしまった。
「続けざまに物申すが、鬼は天下を取った。鬼頭の異能を軽んじるな」
「そうだそうだ、むかしむかし吟様が若の時代、粉骨砕身で妖都を奪還しただす。歴史を知らぬとは大恥だすな」
私は無視された気が? ますます顔を上げられない。それより奪還とは? 異能とは? 初耳ばかり。
「そろそろ終わりましょ。女子も顔を上げるぞえ。頭に血が上るではないか?」
この体制に限界が忍び寄っていた私に天の声が舞い降りたのかと思った。
「私のような者が頭を高くしてはいけませんので。かか様に知られたらお叱りを受けてしまいます」
無作法は時として首が飛ぶそうだ。私の首はまだ繋がっていなければならない。
「されど両親は身罷られたと聞いたぞえ」
「朱雀やめろ。朝から辛気くさくなる」
「又しても兄じゃに逆らう気か。口かび二番手」
しまった。せっかく話題が逸れたと安堵したところなのに今度は私が原因で怒号が飛び交ってしまう。口角を上げて恐る恐る頭を上げた。
「かか様は生きております。狐火の碧い炎を外壁から感じました。然もなければかか様の狐火が独りでに灯るはすがありません」
吟は気づかないのも当然。かか様の息吹を感じられたのは親子の特権だもの。
「えええい、紹介は終わりだ、ややこしい。各自持ち場に戻れ。玉藻前はさっそく鬼頭がお呼びだ」
「仕方ねえな、おらの背中を披露だす」
「はい」
きっと後ろをついて来いと言っているよね?
長い回廊が続くと景色が変わった。鬱蒼と育つ柊が這う壁をの間を越え、石橋を渡りきると静寂が際立つ間合いに変貌した。
小鬼達は足を止めた。外に視線を向けると飛び込んできたのは南天の庭。小粒の赤い実が上下に揺れ、その動きが手招きのように見えてくる。
「此処は鬼頭の寝所。普段は誰も通さずの神聖なる間だ」
「兄じゃ、いけねえ。鬼頭は神と付く文言を禁じておるだす。訂正せねば、どこに耳があるか分からぬ」
「そっ、そうだ。神の類は禁句用語だ」
鬼火丸さんは辺りを見回し、身だしなみを整えてから寝所の障子を開けると、垂れた御簾があった。
御簾の隙間から漏れる細長い白煙と、咽せる匂いは煙管? とと様と同じ香りがする。
「昨夜は眠れたか?」
向こう側の声は私宛名と察し小鬼と同じく正座をして、手桶を真横に置いてから額を藺草に付けた。
「はい」
「まずは主に挨拶だ。僕を雑に扱われては格が腐るのだがな」
煙管の粉を叩き落とす音と共に小鬼のどちらかの足音が畳を擦らせた。まるで私への忠告のような動作に感じる。
「おはようございます、大旦那様」
「僕の呼び名をしかと受け止めておるな。面をあげろ」
畳に重ねた手が膝に戻れば自ずと顔は上がった。しかし瞼を開かせるのは容易ではない。
「かすみ、花純、花純」
私の行動を咎める声は撞木のように連呼する。認めたくなくても、私の名を呼ぶ声は名残る吟の声。
――コリ……
気不味い空気を壊すような砕ける音が響いた。
それは何度も。
暗闇では想像つかない。御簾、褥、畳、茶器、入室した際の視界には、砕ける音が出る品は無かったはず。瞼を少しずつ開けた。
「あっ」
御簾が上がった眼前には脇息に重心を委ねた冷淡な眼の鬼が鎮座していた。
切れ長の細い眼に整う鼻梁。それから半顔を隠した前髪は、片方の顔だけを露わにさせていた。風変りな髪形だった。
昨日よりもはっきりとらえられるその横顔は、天下の町役者、女形を醸し出している。
顔を半分だけ隠している風貌はいかがなものかと思うけれど、世の視線を釘付けにするお顔立ちがあるのは事実。
間もなくして音の謎が解けた。
「日差しに照らされるのは何年降りだ? さては初めての試みか」
この問いは嫌味が入っている。吟ならば私が下界へ出たことがないのは知っている。あえて返答しなかった。
朝日が漏れ落ちた外廊下を眺める吟は朱色の器に指を伸ばした。初めて眼にした透明で歪な形は光に照らされると断面が光った。指に纏わりつく雫を眼で追う。
――コリ……
「その石は食べ物ですか?」
「石だとしたらさぞ滑稽だろ」
呆気ない問いは笑われてしまう。
「格子育ちの花純にはさぞ珍妙か。これは氷だ。鬼は躰の中で鬼火を飼っておるゆえ年中灼熱でな、冷える氷を好む」
雪女の妖力は雪を自在に操る。怒り狂うと天候を極寒にするあやかしだと書物にあったが、鬼が贔屓とまでは記していなかった。
「妖力を食べられるとは初耳でした」
満喫を含んだ笑みを張り付けた吟は私を無能な傀儡としか見えずのようだけれど、浮世絵や書物は私にとって教本だった。だてに浅薄ではない自信はあった。
なのに見事に壊されてしまう現実は氷の砕け音と同じ、此処に居る限り私の主張は噛み砕かれる。
「極上の氷は雪女からの献上品だ。真夏は氷屋に出回っておる。花純も食ってみるか? 狐も狐火で熱かろう」
「いええ、私は」
「そうだったな、花純は妖力を持たずのあやかし。冷えるも何も不必要であったな。ゆえにこうして僕が拾ってやったのだ」
力が入りそうな眉間をぐっと食いしばった。
「いつまで鬼屋敷に囚われるのですか? 一体私は何を犯したのでしょうか」
「愚問ばかりでこの場を終わらす気か。今日から鬼屋敷が花純の家になる」
昨夜から変わらず私を帰さない気ね。豪華な祓殿は見せかけで本当は牢屋送りなんだ。日の当たらない地下に軟禁するのよ。
「私は格子に入るのですね」
「いや、それでは僕は損をする。働かざる者食うべからずと言ってな、皆に生業を与えておる。ここに住まう以上、掟に従ってもらう」
「私に金子を稼ぐ力はありません。外に出ては危険視される私に金子なんて無理です。鬼屋敷に置かれてもお荷物になるだけです」
私は役に立たない。正体不明の私が下界をうろつくだけで避けられるのに呪いの子に生業なんて夢のまた夢。いええ、覗いてはいけない夢。
「あるではないか」
吟の定められた視線に検討もつかない。
「掟に従い成果を出せば褒美として、お前が豪語するあるまじき家とやらに連れて行ってやろう。ただし背けば無効だ。今後も花純を離す気はない。どうだ、生業を受け取るか否かは花純が決めろ」
吟に従えば帰られる。でも簡単に信じていいの? 吟は私を試そうとしているかもしれないのに。
「私を苦しめるのが本筋でしょうか? 一生出禁に値する生業を与えるのですか? 始めから苦痛を与えるために。私が憎いのであればそう仰って下さい」
昔に恨まれるような記憶はない。発端は吟が、自ら去った。悲しかった。虚しかった。
だから、きっと、その所為で吟との記憶が欠け始めた。
――コリ
「ふん、どうやら僕は嫌われておるようだ。呪いの子として分相応の生業だったのだがな。花純にしか片付けられん生業だ。隠遁生活脱却できるぞ」
筆を置いた吟は和紙を掲げた。
「魔除けの霊力があるとい云われる栴檀。栴檀は双葉より芳し。幼子から並外れて優れたところがある例えでも使う。よって僕が命名してやったぞ。穢れ払いの栴檀師。まさにお香屋の娘、花純に相応しい」
「穢れは、お遊びの道具ではありません」
「失敬な。揶揄を起こす趣味はない。いずれこの世にて重鎮になるだろう。花純は以前から栴檀師をやっておったのだ。夜ごとな。心当たりはないか?」
夜ごと。
私の日課は朝から晩まで書物や浮世絵に更け、かか様のご指導があったぐらいで。
あるとしたならば
「お香?」
夜ごとならば私はお香を練っていた。お香時計を側で焚きながら煙が消えるまでの特別な作業。
「さよう。花純の家は商家。狐のお香は老舗、狐の小判。知らぬとは宝の持ち腐れだな。ひっきりなしに売れ、贔屓がこぞって買いあさる品を知らんか? 品名は紫月」
開いた口を閉ざして頷いた。
「店の事情は存じません。とと様が禁じておられたので」
とと様と私の間には深い溝があった。私から口出すのは愚か、眼も合わせてくれなかった。
「それを口封じと解くものだ。上手く利用されたな。人気の品は穢れ払いの香、紫月だ。世間は周知しておらんが、花純が練る香は不思議と妖魔を寄せつけずでな、逢魔時に出没する妖魔に、行燈を灯すように皆こぞって邪気払いの香を焚く。その範囲は結界と化し守られ、逢魔時は妖都のお色直しと言ったところか空気が変わる」
吟は笑うが私は笑えなかった。
私が香を練ると、とと様に認められたようで舞い上がっていたが勘違いをしていた。
――いっそ使い物にならなかったらよかったな。
とと様の言葉を今に理解した。どんなに尽くしてもとと様は私の処分を念頭に置かれていましたか。なぜ私はとと様に愛されなかったの。
かか様は暖かった。
「私を利用するのですか。とと様のように」
興醒めてしまう気弱な声が出てしまった。
「下界に出た以上、花純は栴檀師として世の役に立たなければならない。その中で自身を助けてやれる術を見つけられるだろう」
吟の声が淀みなく耳に入った。
私を助けると言った過去の吟がまだ此処にいるなんてね。
「今もまだ、私は助けられる存在ですか? 呪いの子を助けるあやかしはどこにも存在しないのは損をするからです。私は隠されて生きてきました。去る者は追えず、私の間には格子が留まる日々。それでも苦とは思わなかった。今さら新境地は求めてはいません。元の生活に戻れば私は大人しく隠れていられます」
私は変われないから欲を持ってはいけないのだ。
耳を塞ぎたい。この場から出たい。誰でもいいから私を連れ出して?
「未知の世に怯えておるのだな。下界の地を踏みしめたいと願っておったが、あれは嘘だったのか?」
「大旦那様が昔を忘れてしまわれたように、私の想いも消え去るものなのです」
「消え去るか。されど存在した跡まで消すことはできまい。よい提案がある。僕が連れて行ってやろう。平坦な道よりも茨の道ほど生き心地が手に入れるものだ。外に出してやろう」
吟の肩が小刻みに揺れている。にたつく笑みに虫唾が走った。
私を世間の眼に晒す気だ。それで金子を稼いで……なんて卑怯なの。ここまで変わってしまうなんて。
「私を見せ小屋のように晒すならば井戸に沈められる方が幸せです」
「僕にお前の始末を託しておるのか? なんとも命知らずだ。鬼に死を託すあやかしは花純ぐらいだ。僕は嫉妬深い鬼だ。花純を閉じ込めておきたいのは山々だが、鬼の物になった以上、硝子細工に入れ、外を歩く趣味はない。まずはその虫けらな思考を潰すのが先のようだな」
氷が畳に落ちた。鬼火助くんが拾いに走ると吟の指が素早く鳴った。あっという間に鬼火に変えられてしまった。
「脅しですか? 私も消すという意味でしょうか」
「お前とて命は尽きる。鬼火のように何度も生産されないだろ。呪いに甘えるな。不死身だと思うな。今を全力で生きるには、五臓六腑は新鮮でなければならい。腐るなよ」
「まるで私を食べられるようですね」
吟の瞳は力強く、私を離さなかった。
「もしも花純が死を選ぶ時が来たならば僕がその命を頂くまで。それまで今世を謳歌してみろ。案ずるな、僕が手を下すまでは花純を全力で守ってやる」
私を守る役目。言霊のように何度も音が重なった。
「愚かな者が私に近づかないためには、守りではなく封印が私には分相応です」
一旦静まりかえった座敷に、縁側の風が吟と私の間を通り抜けた。互いに揺れる髪は表情を露わにさせる。吟の表情は怒りを含んでいた。私の固い口角は一生上がりそうにない。
吟の一歩は早く気がつけば私の髪に触れていた。一掬いした髪束を吟は鼻に持ってゆく。
「一つ教えてやろう。愚か者が花純に近づく前に花純に触れられるのは僕だけだ」
「ででは……大旦那様は愚か者です」
吟の瞳に戸惑う私が映った。こんなに近いと視点が彷徨ってしまう。
「ふん、愚か者はどちらか今に証明されるだろうな。ああそうだ、昔のように僕の香を練ってくれないか? 金木犀の香が不足しておる。十年と保ったが、そろそろ切れる具合でな」
「捨てなかったのですね。十年を境に、ぎん……いいえ、大旦那様はいらしてくれなかった」
私を嫌いになられましたか。本当はそう伝えてみたかった。去った訳も訊いてみたい。会えなかった頃のことや、山ほど知りたいことがある。
「愚問。花純に飽きたからだ。それだけのこと勘違いをするな」
訊くまでもなかった。
「そう、でしたか」
髪の束が落とされて視界暗くなった。
「決行日は後日知らせる。それから昨夜に一つ伝え忘れておったが、僕に好意を抱くなよ」
「好意なんて、ありません」
「そうか、それは安堵した」
昔と同じように呼びとめる間も与えずに吟は去る。香りだけを残して。
金木犀は吟の提案で私が制作したお香だった。
両手一杯に材料を抱えた吟は、僕専用のお香が欲しいと言った。
注文は十年分。その十年分を三日で作れてしまった。別れが待つと知らずに。
あの日、時間をかけていればもう少し長く過ごせたのかな……
うんん、きっと私は初めから捨て駒だった。要らなくなったから吟は去った。それだけのことだったのだ。
金木犀のお香を嫌いになったはずなのにまだ好いてしまう。呪いを盾にして生きてきた甘えだろうか。現実を拒絶していたのは私の方だ。
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