余命1000年の恋慕

夏十秋

第1話 捕らわれし毒

 私が愛したのは不器用な鬼でした。


 鐘が鳴る夜四つ。痺れる足を崩した具合に知らせた。

「呆れちまったねぇ。酒呑様は放っておけない殿方ですこと。あれを招き入れるなんて変妖。掃き溜めにでも捨ててしまえばいいものを」

 障子から漏れる艶ある声色に、あれ、と呼ばれる心当たりがある。

 この世で独り、私のことだ。

「鬼頭を変妖扱いか。桃乃月の口は誠に愉快だ」

「ちっともふざけておりません。妖都を治める鬼頭の酒呑様が、穢れた、然も呪う子を屋敷に置くなんて命がいくつあっても足りないねぇ。真面目な警告です。皆が噂しておりますえ」

「鬼が己の命を保身するとでも? とうとう世の眼は朽ちてしもうたか」

「そうだわ、岡っ引きに頼んでおきましょうか。あれを捨てる手配をねぇ。酒呑様だってすこぶる拾いたくなかったはずでしょ。世間の眼が助長したに違いありませんからねぇ」

 外冷えした廊下につま先を重ねる私の眼前には篝火の揺らぎが頬に暖を与えてくる。風向きが熱くて堪らなかった。

 見上げた夜空には格子は無く……っと、あたりまえか。浮遊する格子なんて存在すれば奇怪。この私が下界に出てしまっている事態が奇怪に相応しい。


 色鮮やかに散りばめられた星々の下にて、酒を酌み交わす陽気なあやかしの浮世絵を眺めて育った私は格子の内側で生きてきた。妖都の内情には無知に等しく、実際、この現状に立たされた今、私の手は小刻みに震えている。


 可憐とは程遠いこの景色。浮世絵のように色鮮やかではないのね。


 篝火は波濤のように攻撃的で、満月を飲み込む漆黒の空はまるで井戸の底。下界は想像以上に恐ろしい処やもしれない。

 眼を瞑った。真新しい外気を無理やり鼻腔に詰めて呼吸を確保していると、これまた真新しい音色が耳に闖入した。

 風が砂を撫でる音、葉と葉が擦れる音、誰かの気配が唄のように奏でられ、風音が恐怖を仰いだ。格子が無いだけで耐えがたい不安に押し潰されそうになる。


 風よ、この現実を吹き消してはくれない?


 気まぐれの突風に期待したが眼前の篝火は妖術を施してある。此処は鬼屋敷、悠然と灯された篝火は鬼火の妖術で仕掛けてある。

 かか様から教わった。種族には護身術があると。

 鬼は鬼火を操り、天狗は天風を味方につけ千里眼を持ち、猫又は化ける。種族が異なるほど妖術は多彩に溢れる。

 しかし妖術には不便もある。厄介事は妖術を発動させた持ち主か或いは神通力を持つ四神しか、その作用を操れない。従って妖術を発動させた鬼を探さない限り私の頬は鬼火で燻され続けるのだ。

 腕を抓った。地味に痛い。跡も残っている。信じたくないけれどやはりこれは現実。夢ではない。先の小鬼の言葉も真実なのだろう。

「世間様が承知の通り、あれを下界に出してはいけませんねぇ。前代未聞、不吉を呼びます。それにあれが伝染する。万が一、あやかしが穢れれてしまったら……」


 ――生き地獄。


 あやかしの畏れは、我が身を穢すこと。

 結末に死がある疫病とは異なり穢れは不死身と化す。

 それはとても酷な生き様で、数本の骨が溶けた皮膚は爛れ腐敗が進み、蟲が食い荒らした脳は役に立たず、いつしか我を失う。死とは無縁のままに今世を生き続けなければならない。

 変わり果てた外見から皆こう呼ぶ。


 ――妖魔。


「妖都に蔓延る妖魔は鬼勢が退治しておるではないか。そもそも触れられなければ穢れん。そう杞憂してやるな」

「全く畏れを分かっておりませんねぇ。鬼様とて呪いの子を近くに置くのは、生き地獄の運命ではありませんか? あの子は妖魔の化身ですよ」

 女性のいうとおり私の悪運は呪いを持って産まれた日から始まった。

 妖魔に触れられずとも私自身が妖魔として生きてしまえる呪いだった。

「あの子は妖魔でない。あやかしだ」

 あや、かし。

 その発言に息が止まりそうになった。こんな私を庇ったのだ。

 ほんの僅かだけ、私は世間の妖魔と異なるところがある。

 潤いに満ちた膚や頑丈な骨、光沢育む髪、健康的な桃色の爪を持つ五体満足はあやかしと変わらない。

「嘘よ、だってあの子の手は」

 ただ、私の両手は妖魔と同じだった。しなやかな皮膚に覆われた両手であっても、触れた者を穢してしまう。一生を呪えてしまう異形は妖魔その者だった。

 とと様が私を軟禁したのも同胞の恥と罵るのも無理はない。

「いっそ妖魔と同じ外見で産まれれば狐一族も地に堕ちなかったでしょうか? 狐のような美貌は認めますが、玉藻前の名を穢したと同様、あの子の一生は哀れや」

「ほおう、捨てろと吐くものの憐憫を掛けてやるのか。あの子にも名ぐらいあるのだぞ」

「へええ、狐の腹から出てきた狐の赤子。あたし達と同様に育ったのでしょうからねぇ、名ぐらいあるでしょ。ただ呼ぶまでもない。あの子はあやかしではなく、呪いの子、妖魔の化身です。骸でさえ太鼓の皮にもなりませんねぇ。はは」

 乾いた笑いに力は入っていなかった。

 そろそろ私を話題にするのは酌に合わないのだ。とと様と同じ笑い方だもの。


 ――べべん


 古い空気を切り替える手拍子は三味線に箔を付けさせていた。

「さあ酒呑様、今宵如何なさいましょうねぇ?」

 跳ねた声色の問いに男は私の名を発さない。

 かか様が名付けて下さった私の名は特別な贈り物。誰にも知られないように隠し続けている。


 ただ……独りだけ。

 

 私の名を知るあやかしがいる。もう、口にするほどの間柄ではないけれど。


 ぼろぼろになった着物の穴を数えた。過去を思い出さないために。

 おかしい……

 異変に気づいた。今日の召物の衣には穴なんて無かった。そういえば此処に出向いた理由を知らない。光景や音すら思い出せない。まるで熟睡した私を連れ出したかのように世が止まっている。

 眼が覚めたのは先刻。

「今日から貴方は鬼頭の下女だ」と十歩離れた小鬼の記憶が新しい。

 それとも、とと様の願いが叶ったの? 私の命を憎んでおられたから私を鬼に売って金子を受け取って……


「捨てられた?」

 ああっ。

 

 咄嗟に口を手で塞いだ。息を細めて背筋は三味線の糸のようにぴんと伸ばした。

 気づかれたかもしれない。弦の音が止んだのだ。

 畳を擦る音が近づいてくる。

 ぱちぱち爆ぜる鬼火が操られるかのように夜空に登ると背後の雑音が増した。

 扉を擦る音を鮮明に捉えると冷気が鼻腔を擽った。


 この香りを知っている。


 甘く豊潤の香りは金木犀。どうしてこの香りが此処にあるの?

 忘れもしない香り。恋蛍と名付けたお香は私の調合で作った誰にも真似できない練香。あれから何年も作っていない。 

 突き出した鼻を床に落とした。素肌を晒した両手を膝元でしっかり握る。

 斜め下を覗けば奥に女性の姿、手前には男の素足があった。

「ちょいと酒呑様やめておくれ、おふざけがすぎますねぇ。呪いの子から離れて下さいまし」

 枝分かれした血管が浮く素足が私の傍らに立っている。女性の声に従えばこの屋敷の主、鬼頭で間違いない。

 握った拳を眼に移す。

 手を護身用に使えば鬼の一生を穢してしまえるが、あやかしを呪うのはご法度。少し手を伸ばし、うめき声を上げて、さらに四つん這いで蛇行すれば畏れなら与えられるかもしれない。


 ――駄目。


 重要な事実を忘れるところだった。私の脚はのろま。悲鳴の間だけでは逃げ切れない。

 私案を練っている内に一歩また二歩と歩み寄る素足は呪いを畏れた動きではなかった。それどころか鬼はすんなり腰を降ろした。視界を鮮明にさせるために瞬ぎを繰り返えした。

 見間違いではない。私に接近している。

「僕の生業にちと刻を要してな、主としての挨拶が遅れてしまった」

 男は低い声の持ち主だった。懐かしみを覚えるのは気のせいだろうか。とても心地よくなる私がいる。

「そう怖がるな。明日からはお前を拾った恩を返してもらう。同じ屋根の下でな。早々に石になられては困るぞ」

 低い声はよく響いた。後方の女性は「恐ろしや」と甲高い声を震わせているが、この鬼は未だ距離を取ろうとしない。

 だったら。私が声を出せば鬼も腰を抜かすのでは? 試しに。

「うわあああ」

 声を床に投げた。

 空砲のような返事が落とされた。

「安易に近づけば貴方様が穢れます」

「ならば問う。それはお前の武器か」

「武器ではなく害をもたらすのです」

 貶した鼻笑いを浴びた。

「一連を覚えておるか?」

 一問一答は私を酷く敏感にさせた。

「僕を畏れておるようだ。無理もない。世間の承知どおり冷酷無残な鬼だからの。しかし口を閉ざしたままではお前が抱く疑問は解決せんぞ」

 分かっている。進行しないことは。手先の冷えが声帯に信号を出すかのように吐く息までも震えさせるせいで声が出ない。

 とりあえず溜まった茶碗半分の唾を飲み込んだ。

「下界に眼が眩み……」

「もっと声を張れ」

「下界に眼が眩みその場で気を失ったがために、こうしてお世話になりました。この度は助けて下さりありがとうございました」

 長屋から出た記憶は全く無いけれど、あらゆる可能性を工面してみた。

 しかし鬼の耳は拒絶した。笑い出したのだ。

「おいおい口を開けば勝手な妄言か。お前は僕の傀儡に変貌した。操り傀儡らしく口を失ったのも同然の格下だ。声は与えてやるが無駄口は慎むのだな。さあ本題だ。先の経緯の記憶が無くとも理ぐらい分かるだろ?」


 私が傀儡……

 

 嫌な音を耳に入れたくなくて全力で首を横に振った。

「ほう、なら分かりやすく伝授してやろう。お前は家を失った。お前が気絶している間に一晩で灰と塵になり、よってお前は捨てられた。だが、その夜に優しい鬼様がお前を助けてやったのさ。ほら、ごらんよ」

 鬼の手が眼に翳される。

「何をされるのですか?」

「しっ、眼前に集中しろ」

 瞼の裏側が絵に変わると、暗闇に浮かび上がる赤い蛍が星屑のように地上に散らばり、流れ星のように地下に堕ちた。

「この絵は?」

 鬼に投げかけたが、よく見ろと返ってくる。より眼を凝らした。

 朧気の輪郭から鮮明な線が浮き始めると豆粒が描かれた。再び眼を凝らした時だ、地面に堕ちる蛍の羽が燃えていた。

「これは僕が見た光景だ。断じて模造ではない」

「蛍が焦げています」

「ほおう。火事を知らぬ者の見解は面白い。そうだ蛍は火の粉だ」

 私は顔を少し上げた。髪の切れ目から覗けた鬼の口元は、笑みを堪えるように横に吊り上がっていた。

「私に幻覚を見せたのですね。そもそも鬼が絵を映し出す妖術はありません。それに妖術は護身用だと、かか様が……」

 また鬼は高笑う。

「書物育ちの頭は石のようだな。古臭い網羅に囚われた結果が化石に化けたか」

 力んだ汗は木製の廊下に吸い取られた。とても息苦しい。言い返したくても言葉が出てこない。ありったけの語句を眼にしてきたのに声が飲まれてしまう。

「お前だけが助かった。他は皆、死んだ」

 鬼の発した語句は鈍器で殴られる衝撃だった。

「貴方様の声は聴きたくありません」

 拳を握りしめた。強く、さらに強く。

「ほう、黙れと。この僕に指図するとな」

 これは悪夢。抓った痛みも嘘、篝火の熱さも全部化けた幻。夢にしなければ。これは夢、早く眼を覚まして。

そうでなければ、かか様は……

 私はかか様を見捨て逃げたことになる。

 握りっぱなしの拳を広げた。皮肉にも爪の先が皮膚にのめり込み、これは現実だと知らせてくる。

「家に帰ります。今すぐ」

 重い衝撃が掛かったと同時に叫び声が轟く。

「お手が……酒呑様の手が」

 確認せずとも奇声で察知した。私の肩に鬼の手が乗っている。呪いの子に触れている。やはりこの鬼、全く穢れの畏れをなしていない。

「まだ震えておるな。面をあげろ、僕をその眼で覗けばよい」

 誘導された視界に見開いた。錯覚が起きたのだろうか眼を擦ってみる。

「ぎ、ん? あなたは、吟」

 はっきりと名を呼んだ。同じ色の眼をしている。赤く縁取った中に碧い満月を閉じ込めた眼球は吟の瞳と同じ。

「よく拝んでごらん。そうだよ、僕は吟さ」

 にやりと吊り上げた薄い唇の男が私に向かって手を伸ばして言った。

 違う。この吟は偽物よ。私に触れられない理由を知っていた。呪いに触れるのと同じ、本物の吟ならば愚かな真似はしない。

「吟なんかじゃ……」

 頬に指を感じた。一段と悲鳴が騒いだ。その指先は頬に沿って滑り、そして顎で停止。顔を天に上げられた。

「やっと、僕の側にお前を置いてやれる」

 囁かれた小声。怖くなって手を跳ねのけた。

「はぁぁぁ」

 初めて、あやかしの温度を地肌に感じてしまった。かか様でさえ触れなかった。

「知ったか? 生身を。初心よの。遊びごたえある」

「生身の手で私に触るなんて、からかうのがお好きなようですね。余生を無駄にします。鬼でも」

「僕の名は酒吞 吟。お前の幼馴染だろ? お前の唯一の友だ。顔も声までも忘れたのかい。触れたのは確かめるためだ。傀儡にも体温があるのかとな」

「あれま、傀儡だって? 酒吞様は傀儡として側に置くのですねぇ。悪い意味ですか、それは」

「よい意味だ。これからは僕の私物という意味だ。ゆえに誰とて触れさせやしないさ」

 偽物の笑い声は割れてはいけない心を粉砕する威力があった。

「吟の振りはやめて下さい。吟はこんなに冷たい鬼ではない。貴方様と一緒にしないで」

 これだけは豪語できる。私が知る吟は眼前の卑劣な鬼と違う。吟はぶっきらぼうだったけれど私を包んでくれた眼元は柔らかくて、瞼を閉じていても伝わる暖かみがあった。今は突き刺さる刃のような声が私を攻撃してくる。この鬼こそが体温を持たない傀儡よ。

「同じ鬼の貴方様なら知るはずです。行方を知りたいのです。私が知る鬼の吟に」

 会いたい。きっと吟なら助けてくれる。疎遠になり長い月日が流れたけれど、私の掛け替えない知音だった。会えるものならもう一度私の名を呼んでほしい。


 吟との初対面を私は宝物のように鍵をかけて心に閉まってある。

 毎度の噺は鮮魚のように新鮮で下界の香りまでを連想させてくれた。その他にも季節の生菓子土産や中でも野菜が詰まったほくほくのお焼きは格別だった。代わりに吟に似合う金木犀の香を練りあげ完成させたのが恋蛍。渡した日、吟の喜々する姿は今でも心に刻印されてある。


「僕を忘れたのかい? 花純」

 

 今……

 私の名を呼んだ?


 私の名を知るのは、かか様と吟だけ。それなのに眼前の鬼は軽々と口にした。

「花純よ、今宵からお前は僕の物。幼馴染みだろうが僕の顔に泥を塗ってくれるな。そうだな、大旦那様と呼ぶがよい。されど昔の僕を探るようなその眼は禁じる。昔の僕と今の僕は別格と思う方が無難だ」

「私の名を……本当に私が知る吟なのですか」

 ひっくと声帯が引っ込む。眼の周りに力が入り痙攣のような振動がこめかみで停止した。

 真実だとしたら嫌で堪らない。これが吟だなんて信じたくない。

 耳がちぎれるほど首を振ったが、声が纏わりついて耳から離れてくれない。

「何度だって呼んでやる。名が無ければお前は何者だ」

 私は玉藻前 花純。

 けれど何者か分からない。種族を問われれば

……妖魔。

「私に妖術をかけておられるのですか? 先ほどからまがい物のような一変ばかりですもの。このふざけてる間にも、かか様は私を探しています。格子の中に籠もらなければ、呪いの子は下界に出てはならないのです」

 鬼の手が乱暴に離れて私の躰が障子を貫いた。

「また金魚玉のような檻に帰りたいのか! まるで見世物小屋ではないか! 死んだ、お前の毒親は死んだのだ! だがお前に庇護しようとも慰撫する気もない。さっさと事態を飲み込め」

 怒濤と共に吐き捨てられた声は全身の力を崩壊させるものだった。

「やはり吟なんかじゃない。別格の鬼よ。私の親を毒親と吟は呼ばない」

「手を清めなければ。箱屋さん、お塩をお持ちになって。祈祷しを誰か呼んでちょうだいな」

 腫れ物に触れたような奇声は多勢を呼んだ。私はその振動に膝を抱えた。底なしの井戸に落ちるような無限の闇に包まれるが、怒りの影響か畏怖しなかった。さらに廊下の振動が鼓動を整えるようで呼吸を安定させる。


 今、繭籠もりすれば逃げ道を見つけられない。必ずかか様は生きていると思うならば、とと様の怒りがかか様に向かない間に帰りたい。 動くの、私。

 去る鬼の後ろ姿に唾を一献飲み込んでから喉を揺さぶった。

「待って。証明して下さいませんか。燃えたという私の家を」

 瞼に力を込めて鬼の背を眼に入れる。

「二度も口を開かせるのか。傀儡師の指示が無ければ傀儡は黙座が似合いだ」

「呪いの子が容易く発言してよいお方ではありませんねぇ。お黙り」

 拳に力を入れ替えた。

「私の眼で確かめるまで信じません。かか様は生きております。それから檻ではありません。あの格子は私を守る物でした」

 鬼の足が止まった。私はそれを凝らした。

「ならばまた檻に戻しやろうか」

「帰れるなら戻ってもかまわない」

「花純の口癖だったな。強くありたいのは母親を守るためだと。だが矛盾しておる。強くなりたけりゃ檻から出ろ」

「まっ、待って!」

 喉を潰した声でさえびくともしない鬼の背中。

 長着を打掛のように羽織り帯を軽く締めるだけの緩い身なりは、不気味な笑声を施して遠ざかってゆく。

 裾を刈り上げた髪は細い首を露わにさせ、耳を擦らせる毛先の白銀色が夜風に靡くと、脳天の三日月二本の角が月明かりに照らされていた。それを冷や板で這いつくばって凝視る私は思う。

 歩く後ろ姿は立派な鬼頭。頭をどれほど揺さぶっても吟の面影が残っている。

 本当に吟だとしても鬼の心中には昔の私は消えている。想い出さえ葬ると同じ、私達の友情は灰化が妥当で、殺気を感じてしまうのは、酒呑童子の子孫として血を引き継いだ証し。時代と共に私を傀儡と呼べる無慈悲の暴君になり代わった。


「今しがた呪いの子に触れてしまわれた。鬼頭はこのまま穢れてしまうのか!」

 騒ぎが去り小鬼が再び距離を保ち視界に入ってきた。小鬼は私を畏れているのか声が震えている。

「私が素手で触れない限り穢れは貰いません」

 私を信じてくれるの? 呪いの子の言葉をかか様以外、誰が受け止めてくれるのか。

「それは誠か?」

「世に伝わる噂はまやかしが殆ど。私の躰に触れただけでは穢れません。それより私はいつ帰られるのですか? かか様の安否をご存知なのでしょ? 教えて下さい」

「庭先にある離れに祓殿がある。そこが玉藻前の寝床だ。母親を知りたければ今宵は休め。と鬼頭のお言葉だ。行け」

 抵抗する体力は残っていなかった。寝床と聞いただけで、そこで休みたいと思えてしまった。これが格子育ちのあるべき姿なのならまだまだ私は軟弱。

 地面の小石を眺めながら下界を歩く私は私なのかと疑い深く自問自答した。

 草履を履いて踏む日が来るとは河清に俟つにも拘わらず、ぷつぷつと小石を潰す音に胸が高鳴る。

 辿り着いた祓殿は松林に覆われた障子張りの小屋。静かに木扉を引いた。

 とと様が設えたような格子が用意されているのかと想像したのに、格子も無ければ何重の施錠も見当たらず、代わりにまばゆい設えが視界を埋め尽くした。

 もしも吐いた息に不純物が混ざっていたらと、怖くなって口元を両手で覆った。

 桜柄の障子に囲まれ室内には文机に硯が置かれ、鏡台には櫛と油があった。枕屏風を置かれた一段上には綿がはちきれそうな褥もある。豪奢の実物に私の首は傾いた。

 鬼がいう傀儡。小鬼がいう下女。奉仕をする身分には勿体ない寝床なのでは?

 布団には寝られず畳に身を丸めたのは丑三つ刻の鐘が鳴ってからだった。

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