第4話

 頬についた、赤黒くて、生臭い泥。


 洗い落とそうと洗面台の蛇口を捻るも、水滴すら出てこない。

 捻っても捻っても、何も出てこない。

 限界まで捻って、壊れるまで捻って、壊れても捻って、それでも、水は流れない。これは水に流せない。


 わかっていた。

 わかっていながら、そうしたのだ。

 決断したのは私。


 したことは、無かったことにはならない。

 自分の体に染みついて、一生洗い流せない刺青となる。


 それはきっと、善行も悪行も一緒だ。

 だからこそ、私は人を助けなければならない。

 人を助けて助けて助けて、悪行ばかりが刻まれた私に、同じくらいの善行を刻まなければならない。

 そうしなければ、私はただの悪人だ。




「お」




 声が聞こえた。

 足音も聞こえた。

 肉の焦げた匂いが、すえた匂いが、近寄ってくる。


 鏡には、私だけ。


「お、は」


 この家には私だけ。

 そのはずなのに。


「お、は、よ、う」


 死人は生き返らない。誰にも覆せない、絶対の理。

 お父さんも、お母さんも、弟も、決して生き返らない。

 なのに、どうして…


 筋違いな怒りが溢れる。

 脳の真ん中に、冷え切った鉄の棒を入れられたかのような感覚。

 心臓がけたたましく動いているのに、呼吸ができない。

 他人に向けるべき感情ではない。

 家族が死んだのは自分の責任であり、この女が悪いわけではない。


 頭ではわかっていても、抑えきれず、しかし、私は妙に冷静に、ゆっくりと振り返った。


「おはよ、う」


 先ほどと寸分違わぬ姿の女。

 首から垂れていたはずの赤も消え、私の頬に付いていたものも、なかったことになっている。


「は、はは」


 なぜか笑ってしまう。


「お、は、よう」


 その口からは、一切変わらないフレーズが流れ続ける。


「ふふ、ははは」


 殺した人間が生きている。

 死んだ人間が生き返っている。

 それはおかしい。


「はは、ふふ、はははは」


 おかしい。おかしい。ああ、可笑しい。


「おはよう、おはよう」


 ああ、なんで…


「なんで…お前だけ…!!!」


 人の理性とは、かくも容易く敗れるものかと、私は初めて理解した。


「おは、」


 女の口から言葉は出なかった。

 代わりに、女の喉を突き破って、刃が出てきた。


 ナイフだ。真っ赤に染まったナイフ。


 首に空いた穴と口からヒュー、ヒュー、と息を漏らし、その刃を掴もうと足掻く女。

 だがその甲斐もなく、チェーンソーで伐採される樹木の如く、肉と皮が薙ぎ払われる。


 私ではない。

 私はやっていない。


 そう、つまり、私がやっていないということは、私以外の誰かがやったというわけで、それは、だから、誰かがここにいるということを意味する。


 こんがらがった脳みそで簡単な答えは出せたものの、それ以上のことは何もできず、ただ茫然と立ち尽くす。


 数秒の後、目の前の女は完全に意識を失い、灰になって消えた。


「なんなの、いったい…」


 女は焼失し、消失した。灰すら残さず消え去った。

 ただそこには、宙に浮かぶ鋭利な刃物のみ。


「悪いが説明は後だ。確認することがある」

「な、ナイフが喋った!?」

「バカ言うな」


 男の声。そして、ナイフのグリップに手が現れ、続いて腕、胴体、頭と足が出現した。

 ガタイのいい若い男だ。日本人か、韓国人か、支那人か。

 昼間に見た連中とはまた違った服装だが、方向性は似ている気がする。

「なんなの、本当に…」


 混乱する私を気遣う素振りも見せず、男は一方的に話を進める。


「確認だ。お前はリーゼロッテ・マーナガルムだな?」

 男はナイフの付着物を拭き取りながら訊いた。手は確実に得物を拭きあげているのに、目はこちらに向けられたまま。けれど、そこに込められたのは害意ではない。

 単なる確認作業。点検作業のような、淡白さ。雇われの身であることがすぐわかる、私への無関心。


 なぜ、この男には呪いが発動していないのか。


「は、はい…」

「そうか。じゃあ行くぞ」

「じゃあって…っていうか、呪い、呪いが、」

「俺には効かん。行くぞ」

「効かない──?」


 言葉の意味はわかるのに飲み込めず、一瞬フリーズすると、その瞬間に男は懐から謎のスイッチを取り出して、躊躇いなく押した。


 爆発音と地響きが遠くから届き、止まった思考を再始動させる。


「な、な、何今の! 何したんですか!」

「下級の吸血鬼は知能がなくて、馬鹿正直に音や光に寄っていく。だから人のいない所に爆弾を置いてきた」

「吸血鬼?」

「説明は後。さっさと行くぞ」

 言って、男はスタスタと歩いていく。まだまだ混乱しっぱなしの私も、仕方なく、その背を追うため歩き出す。


「身体強化はできるか? 魔術のレベルはどの程度だ?」

 私の部屋に着くと、急にそんな質問が飛んできた。

「え? えーと、身体強化は、でき、ます…魔術は、一応、軍用レベルまで…」

「よし。いいか、ここからは物音を立てるなよ」

「あ、はい」

 何の問答だと首を傾げていると、男はやっと、ほんの少しだけ説明してくれた。


「今、この町には…ゾンビみたいなもんがうろついてる。だから市民を避難させる。そのために、今からお前を外に連れ出す。わかったか?」


「…は?」


 ゾンビ?

 さっきも吸血鬼がどうとか言っていたが、一体全体どういうことだろうか。


 いやそれよりも、私を外に連れ出すと言ったのか、この男は。


「いや…でも…」


 だけども、それはできない。

 この家から、この檻から出ることなど、ありえない。許されない。


 私は生物兵器だ。人の世を滅ぼす威力を持っている。

 そんなものがおいそれと外に出るなんて、そんな…できるわけがない。


「ダメ。そんなのダメ、絶対」

「なんでだよ?」

「だって、私は、存在するだけで人を不幸に…」

「だったら今死ぬか?」

 男は言うが早いか、私の眉間に銃口を突き付ける。


「…」

「別に俺はそれでも構わない。数ある任務の内の一つが失敗しても、別の任務を遂行すればいい」


 いつ抜いたのかもわからない拳銃。

 引き金に置かれた人差し指。

 セーフティは外れてる。


 いつでも、彼はこの頭を撃ち抜ける。


 そんな緊迫した状況で、話は続く。


「…」

「普通に考えりゃあよぉ、そんなに自分が危険だとわかってんなら、死ぬだろ、自分で」

「っっ!」


「でも、お前は死んでない。名門マーナガルムの一族狂乱殺し合い事件から、18年も生き続けてる」

「だって…生きなきゃ、私は、せめて私だけは…」


「こんな田舎のすみっこで、毎日毎日同じことの繰り返し。この18年間何してた? 起きて食って本読んで? 映画見てトレーニングして風呂入って寝るってか? そんなつまんねぇ一生を終えたって、あの世の家族に胸張れんのかよ」


「…それは、生活の内容は、関係ない…」


 生きる。

 私はみんなの代わりに今を生きてる。

 そして、私は生かされている。

 唯一残った親族の叔父に、残った一族の財産で、生かされている。


「私は…生きて、それで…」


 罪を帳消しにできるほどの善行を積むのだ。

 大切な家族を死に追いやった業で心を燃やし、人を助けないと。


 なのに、なぜ私はここにいる?


 私は18年、ここで何をしていた?


「ぁ…はっ、はっ、ぁぁあ、うぁあ」


 呼吸が、早くなったり遅くなったりして、目の奥がチカチカする。

 脳みそが洗濯機に入れられたみたいに、意識が回転する。

 胃袋から何か上ってくる感じ。


 あ、やばい。


「う、おえぇぇ」


 床にへたり込んだのに、床の温度が伝わってこない。手足が痺れて、感覚が鈍い。




 私は生きなければならない。

 私は生きていてはならない。

 私は人を救わなければならない。

 私は人に関わってはならない。

 私は家族の分も生きなければならない。

 私のせいで家族は死んだのに。

 私は罪滅ぼしのため、人を助ける。

 罪は消えないのに。




 思考が堂々巡り。無限迷宮の奥の奥、そのまた奥で迷宮を見つけた気分。

 私はテセウスではない。アリアドネもいない。

 どうすればいいのか、私にはとんとわからない。




「…どうすれば」

「あ?」

「わたし、どうすればいいのかしら」

「さあな、それに答えることはできねえ。こちとら、まだ18年も生きてねぇし」

「…」

「でもまぁ、答えが自分の中になくても、外になら、あるんじゃね?」

「外に…」


 一筋の糸を見つけた気がした。


 見上げれば、少年はすでに銃をしまっている。


「ほら、立てよ」


 差し伸べてくれた手を取り、立ち上がる。


 懐かしい、人の温もり。


 それまで感じていた絶望は鳴りを潜めて、ほんの少しの希望が、元気な産声を上げている。


「それで? 行くのか、行かないのか、どっちだ?」

 腰に手を当て、少年はわざとらしく質問する。


「…行く。行ってみる」

「ようし、じゃあここからはお喋りなしだぜ」

 言って、少年は軽快に窓から飛び出した。

 夏の夜空から降る月光が、私の行き先を照らしている。

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