第3話

 昨日の残り物を適当な調味料で合わせて、適当にバターを塗ったパンで挟む。

 そんな適当サンドイッチを咀嚼しつつ、時刻を確認する。


 もう12時30分だというのに、結局誰も来なかった。


 遅刻にしては度が過ぎるし、やはり事故にでもあったのか。

 まさか本当に戦争が始まったとかは…ないか。

 昨日も一昨日も不穏なニュースはなかったもの。


 念の為、今日のトレーニングはやめておこう。午後には人が来るかもしれないし。




 朝と同じ静寂の食事を終わらせ、皿を洗おうと蛇口をひねる。


 ………


 しかし、ひねってもひねっても、水が出ない。


 嫌な予感がしてすぐに、照明も消えてしまった。

 慌ててスイッチを確かめるも、何度押しても光は戻らない。


 水道が止まるのは、冬場ならたまにある。

 だが電気が止まるのは初めてだ。

 どうやら本格的にまずいことになってきたらしい。


 電気が使えないとなると、明かりは太陽になんとかしてもらうしかないが、この家の窓はたった一つだけ。寝室に一枚。


 いや、そういえば、地下のトレーニングルームは、ソーラーパネルだかなんだかで独立したバッテリーを使ってるらしいから、明かりはつくはずだ。




 寝室と地下室、どちらにいるべきか考えていると、遠くから低いエンジン音が聞こえてきた。


 何だやっぱり遅刻かと、玄関の前に立ってみる。




 けれど、5分経っても10分経っても、一向に足音は聞こえない。

 それどころか、エンジン音はここを通り過ぎていったようにも聞こえる。




 痺れを切らして寝室の窓から外を覗いてみると、だいたい数百メートル先の道中で、軍事用トラックが走っている。


 軍がこんな田舎に来るなんて、一大事に違いない。

 と、脳内で呟きながらトラックを観察してみるが、そこで妙な点に気がついた。


 軍にしては人数が少ない。

 10人程度は運べそうな巨軀に、乗っているのは4、5人程度。

 装備も、軍人らしくない箇所がちらほらと。なんだか、魔術師と軍人を混ぜ合わせたような装いだ。


 万が一電気が復旧しなければ、彼らに事情を尋ねてみるか。


「…」





 いや、それは最悪手だ。

 そんなことをしてしまえば、彼らはたちまち呪いに苛まれ、殺し合いを始めるだろう。


──寵愛の呪い。

 人の庇護欲と独占欲を駆り立てる、一種の催眠術。

 私を認識した人間は、途端に私を独り占めしたくなる。

 だから、近くにいる人間を殺す。

 男も女も、老人も子供も、他人だろうが、家族だろうが──


 だから、私は人に認識されてはならない。本来なら、いくら見つからないようにしているとはいえ、窓から人を覗き見るなどあってはならない。

 私は不和のりんごなのだ。







 あの男たちに見つからないよう、地下室に引きこもる。

 引きこもった家の中でさらに引きこもるとは。

 私もなかなか器用になったものだが、体内時間を正常なまま保つには、まだまだ修行が足りないか。


 どうせ今日は誰も来ないだろうとは思ったが、シャワーが浴びられないのでトレーニングはやめておいた。


 午後はひたすら本を読み続けているが、気づけばもう8時。太陽すらもう眠っている時間帯だ。私も太陽を見習って、ベッドに入るとしよう。


 本を手に持ち、立ち上がる。

 出入り口の扉を開けて、階段を上る。


 明かりのない家は、どれだけ見知った風景でも怖い。


 階段を一段一段上る。

 普段は気にならない木材のきしむ音でも、今はやたらと耳に残る。


 寝室の窓から吹き込む生暖かい風が、全身を撫でていく。


 心臓がどくどく脈打っている。




 虫が、鳴いている。




 根拠もない。理屈もない。そして多分、何もいない。

 それなのに、本能が何かを告げている。


 あと一段。

 あと一段上れば、廊下が見える。


 きっとそこには何もいないし、何もない。

 頭ではそうわかっているのに、荒唐無稽な恐怖心が動きを鈍らせる。


 ああ、窓閉めとけばよかった。

 本能とは程遠いところで、そう呟いた。














 想定通り、何もいない廊下が見えた。

 ほっと一息ついて、階段を上りきる。


 何というか、バカバカしい。

 根源的恐怖というやつだ。動物としての本能が、暗闇を怖がるのである。


 寝室から漏れる月光に安堵し、少々頭が回るようになったので理屈をこねてみる。

 そんな気休めというか自己暗示というかをしつつ、廊下を進む。


 それほど長くない廊下だ。5秒か6秒か歩いて、廊下の突き当たりに辿り着く。


 私は右を向いて、結局ここにも何もいなかった、そう結論づけようとしたのに。


 何かがいた。


 人であるかといえば、人型ではある。

 五体は揃っているし、目も鼻も耳も口もある。

 服だって着ている。靴だって履いている。


 でも、その顔には理性がない。


 何より、彼女はどこから侵入したのか。

 玄関に人が入った形跡はなかった。

 そもそも簡単に入れる場所でもない。

 この窓も、地上からおよそ8メートルの位置にある。


「…」


「…」


 焦点の合わない目。

 腐臭を漂わせる体。


 怖い。


 先ほどまでの恐怖とはまた違う恐怖。

 言うなれば、さっきまでのは自分の中から生まれた恐怖。

 今抱いてるこれは、得体の知れない相手に対する恐怖。


 でも、私に恐怖する権利なんてあるのか?

 そんな感情を抱くなんて、許されるのか?


 ………


 こんな時、どうすればいいのだろう。

 電話がないから通報はできない。

 一番近くの民家でも2キロ先。


 玄関の扉は内側からは開かないので、必然的に出口は窓のみ。

 だが、その窓は相手の背後にある。




 まずは対話をしてみよう。

 震える体を抑えて、なんとか声を捻り出す。

「あ、あの」

「…」


 相手は硬直したまま。まさか死体ではあるまいな。


「ど、どぅ、どちら様ですか…」

 尋ねてみると、急に首をぐるんと回して、口を開けたり閉じたりし始める。

 そして、掠れた声を出した。

「…お、は、よ、う」

「え…あ、おはよう、ございます」


「おは、よう」

「はい、おはようございます?」

「おはよ、う」

「は、はい」

「お、はよう」

「…」

「おはよう」

「…」

「おはよう、おはよう、おはよう」


 おはようと連呼する、狂人。

 平和的に、という冷静さを恐怖がかき消していく。


「おはよう、おはよう」


 どうすればいい?

 人は呼べない。そもそも近くに人はいないし、呼んだところで私の呪いにかかってしまう。


「おはよう、おはよう、おはよう、おはよう」


 この状況で私にできることを、一つだけ思いついた。


「おはよう、おはよう、おは、」

「で、出ていってください!」


 震える喉のせいで声が裏返る。それでもはっきりと言い切った。

 すると、目の前の女はまた首を回転させ、ゆっくりと近づいてきた。


「っっ!!」

 後ずさろうとしたのに、足がすくんでバランスを崩した。

 久方ぶりに尻餅をついて、でもそんな痛みなんてどうでもいいほどの恐怖が、心と体を駆け巡る。

「こ、来ないで! あっち行って!」


 手に持った本を投げつけようとした瞬間、女が覆い被さってきた。


「! やだ! やめて!」


 己より一回りも二回りも大きな狂人に手足を固定される。


 私の右腕に彼女の左腕を、私の左腕に彼女の右腕を乗せられる。足も同様にして、逃げるどころか、抵抗すら不可能にされる。


 痛い。血流が止まる。


 許されない。


 怖い。心臓が跳ね上がる。


 そんな権利はない。


「お、はよう」


 口の中が見える。喉の奥まで見える。

 まるで吸血鬼のように鋭い牙。

 ゾンビのように腐った皮膚。





 もしかして、殺されるのだろうか。

 ゾンビ映画みたく、食い殺されるのだろうか。

 そうなれば、私もゾンビの仲間入りをして、人を殺すのだろうか。


 それはダメだ。絶対に、断固として、それはダメだ。


 だけれども、どうすればいい?

 私は何をすればいい?


 殺されるのを回避するには…


 相手を殺す?

 相手を殺せば、殺されない?


 人を殺すのはダメだ。

 でも、殺されるのも、ダメだ。


 私は生かされているのだから、生きなければならない。

 殺されるのはダメだ。


 ではどうするというのか。


 相手は殺す気でいるというのに、殺すのも殺されるのもダメ。

 魔術で相手を無力化しようにも、魔力の調節なんてしていたら、その隙に殺される。


 殺すか、殺されるかなのに、そのどちらもダメなのか。


「おはよう、おはよう、おはよう」

 首筋に女の息が当たる。このままでは殺されてしまう。

 決断しなければ。決断を。決断を。

 殺すか、殺されるか。

 覚悟を。


「ぐ……ァァァア!!!」

 魔力を手のひらに集め、ただ、放った。


 虫の声は、もう聞こえない。

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