キミともう一度
#zen
見知らぬカフェ
「何度言えば君はわかるんだ?」
「申し訳ありませんでした!」
これで何度目の謝罪だろう。
営業でもないのに頭を下げるのは、今週に入って三度目だ。
ベテランの部類に入る私——木村由美は、仕事の失敗続きで気が滅入りそうだった。
「どうしたの? 由美……らしくないわね」
給湯室でコーヒーを啜っていたら、ひと回り違う山田先輩が声をかけてくれた。
この厳しい縦社会の会社でも、なんとか頑張ろうと思えるのは、この先輩のおかげだ。
逆に言えば、先輩がいなければとっくに辞めていたかもしれない。
「うん……最近、あまりよく眠れなくて」
「そっか……彼氏と別れたんだっけ?」
「ううん。別れてないよ。でもそのうち言われそうな気がする」
「どうして?」
「私ずっと仕事ばかりで、あの人を構ってあげることもできないから」
「すれ違いってあるわよね。私も過去にそれでダメになったわ」
「先輩も?」
「そうよ。もうダメだとわかっていても、ずるずると一緒にいたから……時間を無駄にした気分よ」
「無駄だなんて」
彼氏とは結婚も視野に入れて付き合っていたわけだけど、先輩の言葉を聞くと不安になってしまった。
なので、自宅のワンルームマンションに帰るなり、久しぶりに電話を入れたら、とうとう彼氏から別れを切り出された。
「……終わる時ってあっさりしたものよね」
ダメージが全くないといえば嘘になるけれど、もう気を遣わなくて良いと思うと、ほっとした自分もいた。
やっぱり無理は良くないんだね。
「涙も出ないなんて」
五年も付き合ったのに、他人事のようだった。
そうか。ダメになったんじゃない。私がダメなやつだったんだ。
空っぽの冷蔵庫を見ながら自己嫌悪に陥る私。
思わずふらふらと外に出た私は、コンビニを目指して歩いた。
食欲がないので食べなくても良い気がしたけど、それでも明日も仕事があると思うと、食べないわけにもいかず。
ベッドタウンを歩いていたら、ふいに誰かにぶつかった。
「あ、すみません」
「いえ、こちらこそ失礼しました」
どこかのお店の店員さんだろうか。
パリッとしたシャツを着た男の人に、私は慌てて頭を下げた。
「本当にごめんなさい。ちょっとよそ見してて……」
「大丈夫です。それであの——」
「はい?」
「最近オープンしたお店があるので、よければ来てください。このチラシに割引クーポンもついてます」
「へぇ……」
いつもなら一目散に去る私だけど、今日は珍しく客引きのお兄さんの話を聞いていた。
でも、この住宅街のどこにお店なんてあるのだろう。
しかもこんな深夜に営業しているなんて、二十四時間営業のファミレスでもできたのだろうか。
などと思っていた私だけど、ふと視線を遠くにやると、住宅地の間に小洒落たカフェのような店を発見した。
「お店って、あそこですか?」
客引きのお兄さんに訊ねると、彼はとびっきりの笑顔で頷いた。
「え? あ、はい。そこです」
新しいカフェに興味を持った私は、お兄さんにエスコートされながらお店のドアをくぐった。
するとなぜか、ドアをくぐった瞬間、背筋がぞわっとした感じがして——ちょっと不思議な気分で店内に入ると、そこは別世界のようだった。
ワインレッドとホワイトで彩られた店内は、華やかだけど決して下品ではない色使いで、異国のような雰囲気を醸していた。
「すごい、外観よりも広いお店」
なにより店の広さに驚いていると、お兄さんと同じカフェシャツを着た店員さんが現れる。
客引きのお兄さんよりも少し年上に見えるその店員さんの胸には、店長と書かれたバッヂがついていた。
そして店長が現れるなり、客引きのお兄さんは声を弾ませて告げる。
「お客様を連れてきました!」
その報告に、店長も嬉しそうな顔をしていた。
「おお、よくやったな、ナガ」
「へへ……僕だってやるときはやるんです」
そんな風にやりとりするお兄さんと店長を、微笑ましげに見守っていた私だけど、ふいに店長さんがこちらに視線を移動させた。
「お一人様ですか?」
「え? あ、はい……」
「ではこちらへ」
案内されたのは四人掛けのテーブルだった。
こんな時間だし、お客さんもいないので、広い席に案内してくれたのだろう。
そのささやかな心遣いに喜んでいると、店長さんはにっこり笑って告げる。
「オーダーがお決まりになりましたら、お呼びください」
「は、はい。……それであの」
「はい?」
「おすすめを教えていただきたいんですが」
「今日のおすすめは、『見えない幸福』です」
「それはなんですか?」
「鮭とほうれん草のクリームパスタです」
「じゃあ、それください」
「かしこまりました」
ズボラでメニューすら見ない私に、呆れただろうか。
店長さんは軽く微笑んで厨房に向かった。
「おまたせしました」
「え? もうできたの?」
ものの数分で運ばれてきたパスタを見て、私は瞠目する。
作り置きなのだろうか。ちょっと心配になったけれど、とろりとしたクリームパスタからは熱々の湯気が立ち昇っていた。
「ええ。あなたにはじゅうぶんな時間ですから」
「どういうことですか?」
「食べてみればわかります」
店長のよくわからない説明のあと、私はおそるおそるパスタを口に入れた。
「すごく美味しい!」
あまりの美味しさに大きく見開く私。
クリームと言ってもくどくない味わいに、私は一口でとりこになったのだった。
「そういえば、彼氏とも何年パスタを食べてないだろう」
昔はあんなに色んな店に足を運んだのに。
そんなことを思い出すと、ふいに涙がひとつ
「やだ、なんでこんな……」
もしかしたら、仕事に没頭するうちに心を殺してしまったのかもしれない。
胸の奥にしまってあった大事な何かが蘇った気がした。
スキー旅行で、遭難しかけたあなた。
ゲームセンターで私を喜ばせようと必死だったあなた。
私が読んでいるからと、同じ本を読むようになったあなた。
思い返せば、あなたはいつも私に合わせてばかりだった。
私はあなたに甘えすぎたのかもしれない。
笑顔しか見せないあなたは、今どんな顔をしているだろう。
ふと、脳裏にあなたの泣き顔が浮かんで、私はたまらずスマホを手にとる。
まだパスタを食べ終わってもいないのに、むしょうに声が聞きたくなって——私は通話ボタンを押した。
「……もしもし」
私が震えた声でスマホに向かって喋りかけると、彼はいつもの穏やかな声を返してくれた。
『どうしたの?』
「ごめんなさい。私……いつもわがままばかりで」
『うん』
「あなたの気持ちをちっとも考えてなかった」
『そうだね』
「だから、あの……別れたくないって言ったら、怒るわよね?」
『……今どこにいるの?』
「カフェだよ」
『すぐに行くから待ってて』
そう言って、電話を切ったあなたは、十分ほどでカフェにやってきた。
「由美」
「……えっと」
呼んだのは私だけど、いざ彼を前にすると、私は動揺してしまう。
いつから会っていなかっただろう。久しぶりに会った彼は、雰囲気が変わっていて、まるで知らない人みたいだった。
思わず私は、引き攣った笑みで告げる。
「素敵な髪型だね」
「うん。由美好みの髪型じゃなくてごめんね」
「え? 私好み?」
「だって君は、長めの髪の方が好きだろう?」
「そんなことないよ。私は今の髪型も好きだよ」
「そ、そうなの?」
「それより……さっきの話だけど。私——やっぱりあなたと一緒にいたい」
「本当に?」
「うん」
「僕のことなんて、もう忘れてしまったかと思ったよ」
「それは……」
仕事のことばかりで、彼のことを忘れてたのは確かだ。だけどそうとは言えなくて、俯いてしまう。
「てっきり、好きな人でもできたのかと思った」
「それはないよ」
「だって、一週間も声すら聞いてなかったんだよ?」
「ごめんなさい。最近仕事の失敗続きで、余裕がなかったんだ」
「由美が頑張ってるのは知ってる」
「……」
「由美はギリギリまで無理して、体壊すまで仕事やめないでしょ?」
「そんなことないよ」
「でも、わかるんだ」
「私なんて、いつまで経っても仕事できないから」
「そう思わされているんだよ。ブラック企業の闇だよね」
「あなたは私の仕事を見てないから」
「そんなことないよ。僕の友達が由美の会社に勤めてるけど、由美の仕事ぶりに感心してたよ」
「うそ、そんな人いたの?」
「うん。ごめん、言わずにいて」
「それは別に構わないけど……」
「無理して僕のこと忘れるくらいなら、そんな会社やめなよ」
「なにそれ……別れるって言ったのはあなたなのに」
「そう言えば、君が目を覚ましてくれると思ったんだよ。なのに、君はあっさり返事するし、まさか本当に捨てられるとは思わなかった」
「捨てるなんてそんな……私が捨てられたと思ったのに」
「捨てられたら、諦めるしかないのに……諦められないし……そうしたら、君から電話かかってくるし、もう何がなんだかわからないよ」
「ごめんなさい。さっきの言葉を撤回してほしい」
「だったら、会社を辞めてほしい」
「え?」
「今の会社を辞めてくれるなら、僕は別れない」
「そんなこと言われても……私、自信がないし」
「大丈夫、僕がずっと支えるから」
「……じゃあ、頑張る」
「そうこないと」
それから私たちは手を繋いで外に出たのだった。
***
「先日はありがとうございました」
先日、由美に呼び出されたカフェに再び訪れた彼は、カフェの店長に向かって深くお辞儀をする。
すると店長は心配そうに訊ねる。
「その後、いかがでしたか?」
「由美と別れずにすみました」
「それは良かったです」
「では、残りの金額も振り込みますね」
彼は笑顔でそう言うと、店長に背中を向けた。
「ありがとうございます。またのご利用お待ちしております」
客が帰るのを見届けたあと、店員の青年が思わず破顔する。
「今回も大成功だったね」
「当たり前だ。私のパスタには力が宿っているからな」
店長が誇らしげに言うと、青年はメモ帳を胸ポケットから取り出した。
「じゃあ、次のお客様だけど——」
ここは縁結びの神様のカフェ。
寂れた神社をカフェ風に改造した神様とその使いが、恋を彩る料理を提供する、予約限定の店だった。
キミともう一度 #zen @zendesuyo
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