第2話 薄暮
たおやかに揺れるカーテンは天女の羽衣のような神聖さを湛えていた。俺を導くような、迎えるような、ゆたかな諸手を錯覚した。
心が急く。抜け殻の足を一生懸命、右、左と進める。奈々子、奈々子、奈々子。
ベッドに横たわる妻を認める。力なく敷布団に倒れ込み、沈み込む君の名前を呼ぶ。
瞼が震えた。ああ、起きたんだなと立ち上がると、うっすら開いた目蓋を閉じられてしまった。
信頼、親愛をもって繋がりあった俺たちの間に、川が流れた。それが三途の川になって終わなかったのが救いだけれど、辛くないわけはなかった。
桃子を失って、奈々子は自分の命を手にかけようとした。幸い一命は取り留めたけれど、奈々子は心を壊してしまった。たった一人の、腹を痛めて産み、育ててきた愛しい子供。赤ちゃんができにくい体ながら、なんとか育んだ命。
桃子は、ゲームを作りたいと言っていた。何かにつけて、自分の夢だ、目標だ、と。お風呂に入るのを嫌がったときは、「お風呂にちゃんと入れる大人は、良いゲームを作るんだろなあ」なんて奈々子が嘯くと、一目散に入ったと。
そんな健気な命が、いとも簡単に、はらりと俺たちの手からこぼれ落ちた。
轢いたのは八十歳のお爺さんだったという。
命に価値はある、と思った。
少なくとも、死ぬべきはお爺さんの方だろうと思った。
俺の心にもヒビが入った。朝顔の蔓がその隙間を縫った。
奈々子の心に触れることを躊躇うようになって、俺は、その日あった幸せを滔々と話すようになった。世界に溢れる光に、少しでも目を向けて欲しかった。
だけどあるとき、奈々子の方から口を開いた、そのとき、あなたの幸せが羨ましくて、憎くて、辛い、と言われて、俺は心が折れた。
もう、できることはないんだと。奈々子の後ろから悪魔のしたり顔が覗いていた。
何を言うともない。俺はここへくる。名前を呼んで、当たり障りない話をして帰る。
まるで、地縛霊じゃないか。
クロノスタシス・ランデブー @shimotuki_1407
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