20XX/06/26

▶20XX/06/26

 雨上がりの空に天使の梯子がかかり、煙った街の一部が明るく照らされていた。学校をさまよう幽霊エチカが消えたのは、そんな梅雨の日。涙の最終回だったけれど、ラストはユウタが予想したような展開ではなかった。


「ねえ、ユウタが好きなのって、もしかしてモエ?」


 ユウタは屋上に寝転がり、スマホでドラマの最終回を観ていた。画面から顔を上げると、トウカの髪が陽光で飴色に透けている。


「そうだって言ったら?」


「たしかに身分違いの恋ね。絶望的」


 トウカは笑いながらユウタの隣に腰を下ろした。


「ねえ、ユウタ。いつも屋上でお昼食べながら、例の女の子……モエのこと待ってるの?」


「そうかもね」


「彼女がまた学校に忍び込んでくるのを?」


「うん」


「会いに行けばいいのに」


 会いに行けるのなら行きたかった。けれど、ユウタにできることはもう何もなく途方に暮れるばかりだ。モエへの気持ちは恋だと思っていたのに、最近ではそれもよくわからなくなっている。


 出会いは映画撮影の日。二度目に会ったとき秘密を打ち明けられて〝なんちゃってキス〟をした。モエはこの屋上でログアウトして、それ以来姿を見せない。それでもモエの出演するドラマは続き、昨日が最終回だった。


 エチカの台詞をモエからのメッセージだと思い込んで部室裏に行ったこともあった。彼女は部室裏に来なかったのに、時おりユウタの頭の中に妄想とも現実ともつかない映像が流れていく。その妄想ではモエはユウタの隣にいて、一緒に部室裏から街を眺めていた。


 ユウタはエチカがドラマで口にした場所を手あたり次第訪れた。図書館に理科室に体育倉庫。時間があれば屋上に行ったし、第一資料室や部室裏は数えられないほどのぞいた。けれど、どこにもモエはいなかった。彼女に何かあったのかもしれないと頭を掠めるたび、必死にそれを打ち消している。でも、そろそろ終わりにしたかった。


「もう、彼女には会えないかもしれない」


 ポツリとつぶやくとその言葉が急に現実味を帯びていく。


「ユウタ、どうしたの?」


 トウカの指が頬に触れ、ユウタは自分が涙を流していることに気づいた。


「あたしのせいじゃないよね?」


「なんでもない。あくびしたら涙出ただけ」


「ほんとに?」


 ユウタの髪をクシャクシャとなで、トウカは「戻ろっか」と腰を上げる。


「今日も帰りよろしくね」


「俺は無料タクシーではありません」


「無料自転車だっけ?」


 トウカは軽い足どりで非常階段へ向かい、ユウタはその後を追って彼女の手を掴んだ。そこには確かなぬくもりがある。


「トウカ」


「何?」


「サンキュ」


「何が?」


「トウカが海で言っただろ。言いたいことは直接母親に言えって。週末、あの人と会うことになった」


「お母さん? 電話したんだ。良かったね」


「良かったのかわからないけど、ちょっと気持ちが軽くなった」


「泣いてたくせに」


 淡い紅色をしたトウカの唇が笑みをつくり、ユウタは掴んだ手に力を込める。


「つきあおっか、トウカ」


「本気?」


「半分くらい本気」


 アハハ、とトウカの笑い声が弾けた。


「授業始まっちゃうよ。行こう」


「遅れてもいいよ。トウカは高波に未練がある?」


「呼び捨てはダメだよ。高波センセイ、でしょ?」


 ユウタの頭の中でトウカとモエが重なる。けれど、それは一瞬だった。


「はぐらかすなよ」


 ユウタが真面目な顔でトウカを見つめ返したとき、予鈴が鳴りはじめた。その音が終わるのを待ってトウカが口を開く。


「いいよ。今からユウタはあたしの彼氏」


 ユウタの胸に表現し難い感情が溢れ、衝動のままに彼女の手を引いてフェンス際まで駆けた。そして、叫んだ。言葉にもならない、ただの叫び。トウカは隣で腹を抱えて笑っている。


「ねえ、ユウタ。サボってどっか行こうか」


「どっかって?」


「海?」


「この前、行っただろ」


「じゃあ、カメレオンベーカリー。アンパン、ユウタのおごりで」


 ユウタ、と高波の声が聞こえた。


 非常階段のところに彼が立っていて、水色のシャツが背景の空に溶けてしまいそうだった。顔も声も高波なのに、どこか違う人のように見える。が、目の前まで来ると違和感は消えた。


「あのね、センセ。あたしたちつきあうことになりましたっ」


 はしゃいだ声で報告するトウカに、「そうなんだ」と高波は穏やかに微笑む。そしてふと真顔に戻ってユウタを見る。


「ユウタ、もう待たなくてもいいよ」


「あれ? センセ、もしかしてユウタがここで待ってる人のこと知ってるの?」


 高波は笑みを浮かべるばかりでトウカの質問には答えなかった。ユウタも何と説明していいかわからない。


「ごめん、トウカ。ちょっとだけ先生と二人きりで話させてくんない? 先に戻ってて。遅刻しちゃうし」


「ユウタも遅刻しちゃうよ」


「俺はいい。担任に呼び出されたって言って。ね、高波センセ」


 高波は苦笑しつつうなずいている。トウカは不満げな顔をしたけれど、すぐに諦めて一人で非常階段を降りていった。彼女の姿が見えなくなると、高波は空を仰いで深呼吸する。


「久しぶりって気がする。ユウタ、僕の言ってる意味わかるかな?」


「ログインするのが、ってこと?」


「まあ、正解。正規のログインはずいぶん久しぶりなんだ。何度も何度も時間を戻してリプレイしてた。だから、別のユウタには毎日会ってた。何人ものユウタにね」


 モエが話していたパラレルワールドのことを思い出した。高波がリプレイしたと言っているのだから、きっと上手くいったのだろう。


「モエもリプレイしてるの? ここじゃない、どこか分岐した先の別の世界線で、彼女は俺に会ってるの?」


「いや、モエはもうプレイしてない」


「でも、彼女はドラマに出てるし、画面の中で動いてる」


「僕だってこの世界線にはずっとログインしなかった。でも、毎日教室に来てただろ? 蓄積データからオートモードにすることは可能なんだ」


「じゃあ……」


 モエは? と聞こうとしたけれど、その答えを知りたくなくて口をつぐんだ。それなのに、高波は容赦なく答えを口にする。


「モエはこの世界では生きてる。でも、モエとしてプレイしてた彼女は死んだよ」


 ユウタは歯を食いしばり、涙がこぼれないよう堪えた。


「ユウタにとっては一か月だけど、僕の時間はあれからずいぶん経ったんだ。皺も一本くらい増えたかもしれない」


 高波は少し冗談めかして言った。こうして穏やかな態度で恋人の死を語れるということは、想像してるよりもっと年月が経っているのかもしれないとユウタは思う。


「ユウタに伝えておきたいことがあってここに来たんだ」


「先生の恋人が死んだってことじゃなくて?」


「それもあるけど、知っておいてほしいのは、ユウタは本当はモエに三回会ってるってこと」


「え?」


「ドラマを観て部室裏に行ったことがあっただろ? あのときモエと君はそこで会っているし、モエはちゃんとアンパンを食べた。でも、うっかり出ちゃいけないエリアに触れて、君のデータがセーブされないまま記憶が飛んでしまったんだ。ちゃんとしたやり方でモエがログインしてたらきっとそんなことにはならなかったんだけど、モエが君に会うにはまともなやり方じゃ無理だったしね」


「じゃあ、あの食べかけのアンパンは」


「モエの食べかけ。半分しか食べれなかったって悔しがってた。あの直後に彼女が体調を崩して、ここには来られなくなった。あの後に彼女がログインしたのは一度だけ。死ぬ間際に」


「俺は会ってない」


「部室裏からリプレイしたんだ。だから、彼女が最後に会ったのは別のユウタ。こことは別の世界の」


「どうして、俺じゃなかったんだろう」


「設定したのは僕だよ。ユウタにあの時の記憶が残ってないってことは把握してたから、強制終了になったのを彼女はずいぶん悔やんでたんだ。それに、あの頃は意識が戻ることがほとんどなかったから、行ったことのない時間や場所でプレイするより負担が少ないと思った」


 ユウタの頭に、昨日見たばかりのドラマの最終回が蘇った。


 病室で何本ものコードに繋がれたエチカは、ある梅雨の日に目覚めた。ベッドの傍らにはトモヤがいて、窓の外には虹がかかっていた。エチカは死んだ人間の幽霊ではなく、昏睡状態にある彼女の生霊だった。


 体を得たエチカとトモヤのその後がドラマで描かれることはない。二人の関係はユウタとモエとは正反対で、重ならない二つの世界を強引に一つにしてしまう、ご都合主義の結末にしか思えなかった。


 ユウタの現実は、ドラマみたいに思い通りにはならない。 


「モエは、どうなるんですか?」


「退会手続きは済んでるから、ゲームの中だけのキャラクターとして生きて、いつか死ぬ。それが一年後なのか、十年後なのか、おばあちゃんになってからなのかは分からない」


「それはモエなの? 俺の知ってるモエ?」


「少なくとも僕にとってはモエだけど、僕の恋人ではない。彼女はもう死んでしまったから」 


 高波はフェンス際に立って金網を握りしめた。遠くに小さな海が見える。


「僕はずっとユウタに嫉妬してたんだ。何度もリプレイして、モエがユウタよりも僕を選んでくれる世界を探した。僕の行動や言葉で世界は枝分かれして、その先に訪れる世界も変わるはず。そう思ってたけど」


「違ったんですか?」


「いくつものパラレルワールドでユウタと関わって、気づいたことがあるんだ。ひとつは、それぞれのパラレルワールドがほんのわずかだけれど干渉し合っているってこと。モエとは一度も会っていないはずのユウタが、ドラマの台詞だけを頼りに彼女のことを探してた。君が部室裏に行ったみたいにね。そんなの普通では考えられないだろう? あとは、トウカのこと」


「トウカ?」


「もうひとつの発見があったのは、トウカのおかげなんだ。さっき二人はつきあうことになったって言ったよね」


「はい」


「いつもそうなんだ。どこかのタイミングでユウタとトウカはつきあうことになる。それについて運命とかそんなドラマチックなことを感じたわけじゃない。僕が考えたのは、プレイヤーは所詮この世界ではゲストでしかないんだってこと。トウカが僕に好意を持ってくれてたのは知ってるけど、僕らがどうにかなることはないんだ。それは多分ユウタとモエも同じだったんじゃないかな。酷いことを言うようだけど」


 ユウタはモエに触れたいと願ったけれど、モエとの関係に自分が何を期待していたのかよくわからなかった。彼女との思い出には必ず喪失の予感がまとわりついて、消えることのない不安で余計に彼女を求めたのかもしれない。


「モエが言ってた。自分は世界のニキビみたいなもので、いつの間にか消えてしまうって」


 ユウタの言葉に、高波は悲しげに眉を寄せた。


「俺は先生たちの現実に行くことはできないし、この世界が架空のものだって言われても実感が湧かない。でも、モエに対する気持ちは俺の現実なんだ。生きてる世界が違っても彼女と繋がれた。触れることはできなかったし、すべてが思い通りになるわけじゃないけど、たぶん、運が良かったらこうやって繋がれるんだ。モエにもう会えないのは悲しいけど、俺はわずかな時間でもモエと関われて良かった」


 高波は目を見開き、そしてフッと笑みを浮かべた。


「僕も、わずかな時間だけどユウタと関われて良かった」


「先生、もしかしてもう来ないつもりですか?」


 ユウタが問うと、高波はスッキリした顔でうなずく。


「ログアウトしたら退会手続きするつもりなんだ。僕にも現実の生活があるし、心配してくれる友人もいるからね。それと、この学校にはいない方がいいと思ったから辞職願も出してある。ユウタには感謝してもしきれないよ。色々振り回してしまったかもしれないけど、君の幸せを願ってる。僕もユウタを見習って先に進まないとね」


「先生がいなくなると、トウカが悲しむよ」


 ユウタはそう言ったけど、喪失を引きずるのはユウタ自身だと思った。


「トウカにはユウタがいるだろ? それに、前期が終わるまでは僕もいるよ。いると言っても僕ではないし、数学教師の高波透がユウタと同じこの世界の住人になるってことだ。僕らの現実に関する情報はデータから削除されるから、そうった話をすることはなくなるけどね」


「先生。例えば、先生の現実も誰かが作ったゲームかもしれないって考えたことはない?」


 あるよ、と高波は好奇心に満ちた笑みを浮かべた。


「長い話になりそうだから、それはまた高波先生に話してみてよ。僕が何て答えるのか、僕もちょっと興味がある。そのやりとりが見られないのは残念だな。さあ、そろそろ現実に戻らないと」


 高波の目には確かな決意があり、本当に彼はもうこの世界に来ないのだとユウタにはわかった。


「ログアウトするなら俺はいないほうがいい?」


「ああ」


「モエは、そこで寝転がって目を閉じた」


「知ってる。じゃあ、もう会えないけど、ユウタのことは忘れないよ。バイバイ」


「俺も。先生のこと忘れないと思う」


 高波はヒラヒラと手を振り、その場にゴロンと寝転がった。風でダークブラウンの髪が揺れ、柑橘の香りが鼻をかすめる。名残惜しんでいるのか、高波はじっと空を見上げていた。ユウタはその視線を追って空を仰ぎ、そのまま振り返らず非常階段へ向かった。足元には太陽が短い影をつくって、それを踏みながら階段を下りる。


「遅い」


 階段の一番下に座っていたトウカが振り返って言った。彼女の膝の上では黒猫が気持ち良さそうに喉を潤す鳴らしている。


「センセは?」


「サボりだって」


「サボり?」


 アハハ、とトウカが笑う。ユウタが手を差し出すと彼女はその手を握り返し、猫は「ニャア」と鳴いて草むらへと消えていった。


■end■


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Moe――報われない僕らの恋の記録 31040 @hakusekirei89

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