▶REPLAY_n'/20XX/06/05(2)
数学の授業が終わると、ユウタは「ちょっと職員室で話そうか」と高波に連れられて教室を出た。
廊下を前後に並んで歩きながら、担任を見上げる顎の角度が上向きなのが悔しい。薄い水色のストライプのシャツから微かに柑橘の匂いがする。
職員室に入ると高波は自分の席に座り、指でコツコツと机を叩くと、「何かあった?」とユウタの顔をのぞき込んだ。
「朝のホームルームと一限の授業、どこ行ってたんだ? 学校には来てたんだろう?」
「家のことでちょっと」
モエがいる気がして屋上に行った、と正直に答えられるはずがなかった。誰もいない屋上でユウタは一人フェンスにもたれて座り、グラウンドを走るトウカの姿を目で追った。世界のすべてがちっぽけに思え、寝転がって目を閉じるとモエが隣にいるような気がした。
妄想と現実の区別もつかないほど一人のタレントに心奪われている自分が滑稽だった。トウカにはモエのファンだとは絶対に明かさないと心に決めて、ユウタは屋上を後にしたのだ。
高波は鼻でため息をつき、背もたれに体を預ける。
「ユウタ、パラレルワールドって聞いたことあるよな?」
「え?」
あまりに唐突で声が裏返りそうになった。
「パラレルワールドって、この世界とは別に同じような世界が存在してるっていう、あれ?」
「うん。ユウタはパラレルワールドが存在すると思う?」
「いや、それはSFとか、漫画やゲームの話でしょ」
そうか、と漏らした高波の笑みはどこか寂しそうだ。
「ユウタが頭の中で考えた、もしかしたらっていう世界がどこかに存在するとしたら?」
ユウタはただ黙って首をひねる。
「なんとなく知ってる気がするとか、勘違いとか、思い込みとか。そういうのが、この世界と平行して存在する別の世界、パラレルワールドの影響だとしたら?」
「先生、何言ってるの?」
ユウタが困惑気味に尋ねると、高波は今度は愉快そうに笑った。
「もし自分の願望が現実となっているパラレルワールドがあるとしたら悔しくないか? どうせなら自分がこの世界で願いや夢を叶えたり、伝えたいことを伝えようと思わない?」
ようやく合点がいき、ずいぶん遠回しな説得だとユウタは内心苦笑する。
「俺は思ったようにしてます。だから一限に出なかったんです」
「じゃあ、それと同じだ」
「何がですか?」
「お母さんにも言いたいこと言ったらいいんじゃないかな? 連絡はできるんだろ」
ユウタは少し驚いていた。生徒の話は聞くけれど家庭のことには首を突っ込まない、高波はそういうタイプだと思っていた。
「もしかしてトウカが何か言いましたか?」
「少しね。サボった生徒のフォローを僕に耳打ちしただけ」
予鈴が鳴り、高波の手が親しげにユウタの腕を掴んだ。
「僕も力になりたいけど、結局はユウタ次第だ。パラレルワールドは絶対に存在してる。どこかで、ユウタが望むものを手にしている別のユウタがいるかもしれない。その逆もある。僕たちは日々、毎秒毎秒、選択の繰り返しだ。どの選択をしても変わらない未来がある。それは死ぬということ。ユウタもちゃんと考えろ。僕はそろそろ先に進むことにする。次の授業は世界史だっけ。遅れるなよ、ユウタ」
高波は一息に言って、まっすぐユウタと目を合わせた。通りかかった隣のクラスの担任が珍しいものでも見るように口を半開きにする。
「先生、歴史を勉強する意味って何ですか?」
ユウタは自分でもなぜそんな質問をしたのかわからなかった。高波は少し考え、「過ちを繰り返さないように」と答える。
「現実はゲームと違ってやり直しはできないからね」
「過ちって何?」
高波は不意を突かれた様子で、ユウタの口からは堰を切ったように言葉が溢れ出す。
「俺の母親がどんなふうに噂されてるかは知ってる。みんな、あの人のしたことは過ちだって言うんだ。母は勝手に家を出ていった。さっき先生が言ったみたいに、望むものを手に入れるために出て行ったんです。もしかしたら、先生の言うパラレルワールドで俺とあの人は一緒に暮らしてるのかもしれない。でも、この世界でのあの人の幸せは俺といることじゃない。俺の母は、過ちを犯して幸せを手に入れたんですか?」
高波から返ってきたのは問いだった。
「ユウタにとっての幸せって何?」
ユウタは言葉に詰まり、シャツの裾を握りしめる。
「ユウタも、お母さんのように望んでもいいんじゃないかな。全てが望み通りになるわけじゃないけど、可能性を信じて、踏み出して、ダメだったらその時に考えたらいい。きっと人はそうやって繋がっていくし、こうして僕たちも繋がれた。わずかな時間だけど、僕はユウタと関われて良かったと思ってるよ」
終わりみたいな高波の言い方がユウタは気になった。
「先生、もしかして学校辞めるんですか?」
「すぐにじゃないけどね。違う世界で先へ進むことにしたんだ。過去に囚われていたら彼女が悲しむから」
「彼女って、先生の婚約者?」
「うん。死んでしまったけど、彼女が残してくれた世界で救われた。そこには君がいた。だから、感謝してる。ありがとう、ユウタ」
感謝される覚えはない、とユウタが言おうとしたとき、遮るように本鈴が鳴り始める。
「ほら、急がないと。一限サボったうえにまた遅刻じゃマズイだろ」
高波はユウタの背を押して職員室を出ると、「廊下は走らずに急げ」と言い残して第一資料室に入っていった。廊下に一人残されたユウタは高波がいなくなることに思いのほか落胆し、その寂しさを紛らわせるため遠回りして教室に向かった。
「遅刻!」
鋭い声を飛ばしてきたのは胡麻塩頭の中年教師。
「すいません。担任に呼び出されてました」
「仕方ないな。早く席につけ」
「はい」
トウカが「おかえり」と言い、ユウタは「ただいま」と小声で返す。教科書を開いたあと、ユウタは机の陰でドラマを再生した。トモヤがエチカに手を伸ばし、その手はエチカの体をすり抜け、彼はじっと自分の手を見つめる。
『なにがちがうんだろう。ぼくとエチカは』
『からだがあるか、ないか。かな?』
音声がなくてもユウタは台詞を覚えている。エチカには体がなく、トモヤは彼女に触れられない。それでも二人は惹かれあい、こうして繋がっている。
「……ウタ、ユウタ」
トウカの声で顔を上げると、いつの間にか授業は終わっていた。教師の姿はすでになく、トウカが怪訝そうに首をかしげている。
「ユウタ、どうしたの?」
トウカの指が頬に触れ、ユウタは自分が涙を流していることに気づいた。思わず口ごもると、傍にいたクラスメイトが好奇心むき出しで反応する。
「トウカ、彼氏泣かせたの?」
「あたしじゃないよ」
「泣いてない。あくびしたら涙出ただけ」
「ほんとに?」
ひとしきり盛り上がった友人たちは「また明日」と帰っていき、女子二人が「センセのとこ行ってみよ」とトウカに声をかける。
「ごめん。あたしユウタと帰るから」
トウカはヒラヒラと手を振り、彼女たちが姿を消すと「帰ろっか」と腰を浮かせた。
「ユウタ、今日もよろしく」
「俺は無料タクシーではありません」
「とか言いながら送ってくれるくせに」
ユウタの返事も待たず、トウカは軽い足どりで教室を出て行く。その後を追い、ユウタは彼女の腕を掴んだ。
「トウカ」
「何?」
「俺、電話してみることにする。母親に」
トウカはホッとした表情で「そっか」とつぶやき、跳ねるような足どりでユウタの手を引いた。
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