誇りと意志


「……」




 はっとすれば、アストラは既に家の目の前まで道を歩んでいた。


 人間の帰巣本能に驚きと思いを馳せながら、アストラは鍵もかけていない無用心な木製の扉に手を掛ける。建て付けの悪くなったそれを無理にこじ開けると、そこがアストラの住処である。




 部屋の中は良く言えば物に溢れていて視覚的に飽きない。しかし悪く言えば、片付けはまるでできていない。


 アストラは元より、かなりの多趣味である。野を駆け回るのだって趣味といえば趣味であり、書物を読むことも勿論それに該当するであろう。活動的であり積極性に溢れた人柄であるアストラは、とにかく興味さえあればどんなことにでもとりあえず手を出してみる性分である。


 部屋の傍には山積みにされた古い書物が今にも雪崩を起こしそうにぐらつき、それが山々のように幾つも寄せられている。これはアストラがこの家の裏に存在する物置の古小屋から持ってきたものであり、一度に大量に持ってきたものを全て読み終わったらまた物置小屋に運び、そしてまた大量に新たな書物を持ってくる、という非効率極まれりな体制を取られている。




 そしてそんな危険地帯の逆方向には、古びて灰に塗れた暖炉と、その近くにはこれもまた古びたロッキングチェアがある。このロッキングチェアもまたアストラが物心ついた時には既に家にあったものであり、かなりの年代を感じられる様子であるが、アストラはまるで気にしていない。かび臭いそれにも余裕で腰をかけ、その辺りに放られた毛糸で編み物をしたり、書物を読んだりしている。時にはここで暖炉の火に当てられて睡魔に襲われ、眠りこけてしまうことだってあるくらいだ。




 そもそもこの家自体がかなりのボロ屋である。隅の柱は腐りかけているし、はたきで叩けば塵が雪の如く積もるだろうし、砂壁は材質が落ちてボロボロと粉のようになってしまっている。しかしアストラはこのことを全く気にしていないどころか気づいてすらいないのだ。


 雨や雹が降って藁屋根が崩れたりなどすれば、親切な村人から藁をもらってきて修繕をする。地震が起きたりなどして地面が抜ければ、山に生えた木の一本を斧で切り倒し、それを一枚板の形にして釘で打ち付ける。そんな具合でボロが出れば最大限の修繕はするが、そもそも家自体がボロ屋であれば、そんなものはその場凌ぎにしかならないのだ。




 アストラは帰宅してすぐ、家中の窓を開け放つ。経年劣化して歪んだそれを扉と同じようにこじ開け、寄りかかるように腕を組めば、春の夜のまだ冷たい空気がアストラの頬を撫でる。心地よいはずの風にアストラは溜息を吐いた。




 ダンがああしてアストラの父──テラの話をすることは、稀という程でもないが、あまりないことだった。本来亡き父の生前の話を聞くのは、感情に浸ったりすることはあれど、気分を害されることはない。実際にアストラも興味がない訳ではなく、ダンがテラの話をしたところで機嫌を損ねることもない。




 しかし、ダンの話の中でのテラはいつだって典型的な頑固者で思想家のように聞こえて仕方がない。


 それは至って常人の感性を持ち合わせているダンがそう語るからなのか…とにかく、アストラだってこの村では変わり者扱いをされることには慣れているはずなのに、話の中の父はそれ以上なように思える。


 テラは昔、今のアストラのように変わり者扱いをされていたのだろう。


 ダン以外の村人の口から語られる父を聞いた時、アストラはそう思った。しかしアストラとテラの違いは、村人と打ち解けることができていたかにある。




 これはダンの話によってアストラが知ったことだが、テラが変わり者扱いを受けていた生前、テラは自分を遠巻きにして陰口を叩く連中を気にする素振りも見せなかった。人を嫌い、人の手伝いなどせず、勿論一緒に遊んだりすることもない。ただ、時折村に降りてきてふらふらと辺りを散歩するだけで、その他の時間を何に使っていたのかも分からない。そんな具合で村人からのテラの評判は良くなかった訳だが、ダンだけはテラを否定するようなことを言わず、ただ純粋に彼に興味を抱いていたことから、テラの親友へとなり得た訳だ。


 気難しく、頑固で、意地っ張りで、素直ではない。アストラの思い描く父の像はそういった具合だ。父の姿を思い出す時、アストラは決まって父の穏やかな笑みを脳裏に描いていたが、実際はそんな穏やかな人ではなく、苛烈で非情な人嫌いだったのだ。




 アストラは父を知る度に、瞼の裏に焼き付いたような父の笑顔が否定されていくような気分になった。


 アストラは自身の右の手のひらを見た。くっきりと浮かぶ手相の中心に、墨で塗ったような濃く目立つ紋様がある。太陽のように丸く、その円の中心に一本だけ長い縦線が引かれたものだ。


 明確な意志を持って描かれた線のそれは、生まれつきではないのは確かだ。ただ、こんな刺青を入れた記憶はないので、恐らく物心がつく前に父が入れたのだろう。




 アストラが唯一明確に記憶している父の肉声がある。低く、まるで真綿を敷き詰めた揺籠で揺られているような、それでいて猛烈に言い聞かせるような、祈るような縋るような、そんな声だ。




『この刺青は我らがノックスの誇りだ。忘れてくれるな、アストラ。この刺青に刻まれた意志を、忘れてくれるなよ』




 そう言って、父は壊れものに触れるようにアストラの手の中の刺青を撫でたのだ。




 ノックスの誇り。意志。そんなものが何なのかなんて、アストラには分かりやしない。その言葉を頼りに書物を読み漁ったこともあるが、家にある書物は古い歴史書ばかりで参考にもならない。数年前までは、「ノックス家に大々伝わる宝の地図なんかが見つかるかもしれない」と山に探検に出かけたり、物置に意味ありげに詰まれた古い木箱を開けてみたりもしたが、結局宝など見つからなかったし、木箱の中身はおかしな木彫り人形や靴なんかが入っているのみだった。




 出した結論は「ただのどこにでもある家紋」。ベックリン村のような田舎には珍しいが、王壁街で暮らす村人が帰省してきた時に聞けば、今時家紋のある家系は王壁街では珍しくもないらしい。その大抵が由緒正しい家系の者だったり、地球が一度滅びかけた際に地球を再興する計画に携わった偉人の直系の子孫だったりするらしい。と言っても、二千年前の偉人の子孫だなんて、本当に血がつながっているのかも怪しいが。




 アストラは手のひらを眺めて、溜息を吐いた。

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フィニス・テールの餞に 都築綴 @kr0sk0

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