厄災の花

 

 二千年前。ある日、目が眩むほどの星屑のヴェールが地球を覆うように出現した。瞬間、人々はその美しさに見惚れ、誰もがほうっと溜息を吐いてしまうほどの景色だったと語られている。その数刻後に世界中に雨の如く降り注いだ隕石が全ての波乱の幕開けを告げる存在であるなど、人間は知る由もない。

 宝石の輝きを閉じ込めたような砂つぶが光る白い石は岩石のように固く、手のひらほどのサイズ感だという。地球全体に宝石の雨が降るなんて御伽話のような出来事が起こったことに、世界中の人が歓喜の声を上げて隕石を拾い集めた。ある者は「神が我々に授けたパワーストーンだ」と天に祈りを捧げ、そしてまたある者は「科学的に証明できる範疇の出来事だ」と冷めた物言いをした。世界的に石の調査が進められ、それが月の石であると判明し、大々的にニュースとして取り上げられるのは遅くなかった。


 突如世界中に降り注ぐ月の石。そんなスピリチュアルでロマンチックな出来事を、人間は放っておかなかった。放っておいたとしても、それが手に負えない厄災の卵であることを知らなかったのだ。

 月の石が降り注いだ夜から数ヶ月が経ったある日。気候や季節を問わず、文字通り世界中に紫色の鈴蘭のような形をした花が突如咲き狂い、瞬く間にそれは世界中を埋め尽くすように蔓延した。そしてその日から数日後。地球は目も当てられないような惨劇を繰り広げていたのだ。


 世界総人口の七割は謎の毒に侵されて体中を覆う紫色の痣に飲み込まれるように死に行き、あらゆる建物が死体安置所へと名を変えた。外は建物から放り出された物が散乱する荒廃した世界、建物の中は見るも悍ましいほどに紫に腫れ上がった死体の山。残された人類はガスマスクをせずには息もできない世界に放り出され、路頭に迷った子供のように絶望を曝していた。


 紫に輝き、小さな花の粒が枝分かれした茎の先に付いた花。素手で触れればそれだけで爛れたように皮膚が溶け、その花が絶え間なく発する毒を吸い込めば、ものの数時間であの世行きの烙印を押される。運良く生き延びる者もいたが、醜い痣だらけの体は見る者も目を反らさずにはいられないほど見苦しく、五感を失ったり四肢を切断したり、あるいは寝たきりで人生を終えたり、無惨な日々を送らなければいけない事に変わりはなかった。その後『ポイゾネア』と名の付けられた紫の花を、植物学者はあらゆる手段を使って調べ上げ研究し、克服しようとしたが、それは結果的に叶うこともなく、人々は花の脅威に怯えるばかりであった。






「ここに書いてあることは、全部本当にあったことなの?」


「ああ、そうだ。このポイゾネアのせいで、俺たちは未だにこれがなきゃあ生きることもできない」


 そう言ってアストラは自身の口元を覆うマスクを指差した。

 生まれてから直ぐに取り付けられた特別なそれは、毎年各地で配布されては取り替える特別なマスクである。研究者によれば、ポイゾネアの毒ガスを取り除くことに特化した素材のみを使用しているらしいが、細かなことは公表されていない。

 使用期限の一年を守らなければ即死であるが、このマスクを使わなければ今も蔓延し続けるポイゾネアの毒ガスを吸い込んで即死、後ろに付いたベルトが緩んでマスクが外れても毒ガスを吸い込んで即死である。人を死に至らしめる毒ガスのリスクは至るところにあった。


 アストラやリアンが生まれる数千年前からずっと地球を蝕む謎の花は咲き続け、空気を汚染し続けている。ポイゾネアが生まれた所以に関して調べが付くほど、地球を捨てた過去の人々が持ち去った文明は取り戻せていない。

 ポイゾネアを誤って吸い込んで亡くなる人は、昔に比べたらかなり少なくなったものだが、全くいない訳ではない。

 数年前。ベックリン村でも、頑固で有名だった老人が、マスクの使用期限を守らず、全身を毒に侵食されて口から泡を吹いて亡くなった事件があった。


「じゃあ、ポイゾネアが咲く前の地球で暮らしていた人たちは、マスクをしなくても生きていけたのかな?」


「多分な。お前はその方がいいと思う?」


「どうかな…想像できない」


 マスクは衣服と同じようなもので、リアンは全裸で村を歩く自分を想像して何だか恥ずかしくなった。とても想像できないし、それが当たり前の世界で生きていける自信もない。歯が人よりも歪んでいたり、笑顔が下手だったりしたら、更に虐められることになるだろう────そう考えてリアンは首を横に振った。


「アストラは?もしマスクをしなくても良くなったら、外す?」


「俺は外すね。風呂上がりの解放感と同じようなものだろ?それがずっと続くなんて最高じゃないか」


「ええ、僕は恥ずかしいよ。もしそうなったとしても、僕は着け続けるんだろうなあ」


「恥ずかしいのなんて最初だけだって」


 しばらく古書を捲りながらそんな談笑を続けていると、西の方の空が茜色に染まり始めた。鴉の群れが山の方から翼を擦れ合わせて飛び立つ音が聞こえる。楓の葉と同じ色になった空を見て、アストラは農家のジャンの畑作業を手伝うと言ったのだったと思い出した。

 リアンが家に帰った後に村の傍にある川沿いの畑に向かうと、ジャンは水を汲んでいたようで、バケツを畑の傍に運んではタオルで顔の汗を拭っていた。


「ダンおじさん!手伝いに来たよ!」


 声を上げれば、穏やかな笑顔がアストラを捉えた。


「おお、アストラ。ちょうど今水を持ってきたんだ」


 ダンは村で妻のアンナと娘のルシアと暮らしている農家で、アストラの亡くなった父とは古い付き合いだったらしい。アストラの父は十年前に亡くなっているため、アストラの知っている父の姿はほとんどがダンから聞いた人間像である。

 アストラ自体に破片のように断片的に思い出せる記憶はあるが、そのどれもが酷く拙いものだった。父の笑む口元や低い声のみが、思い出というよりも感覚として何処かに刷り込まれているような感覚だ。

 アストラはバケツを畑に運び、盛り上がった土の上から覗く葉に向けて、柄杓で掬った水を投げつけるように撒く。今育てているのは大根らしく、大きくて長い葉が立派に生えてきていた。


「立派だろう」


 ダンは腰を軽く叩いて誇らしげにそう言う。アストラは頷いた。

 ダンから貰う野菜のどれもが収穫したての新鮮な物で、その味は非常に美味な事を、村の誰もが知っている。家庭に男児の生まれなかったダンは、親友の子であるアストラには取り分け優しく、態度も甘い。夏には瓜や茄子を、冬には蕪や蓮根を毎年どっさりとアストラに分け、時にはアストラが一人では寂しいだろう、と気遣い、自身の家で食卓を囲むように言うこともある。


「次の季節にはトマトを育ててよ。それでスープを作るから」


「ああ、それは名案だ。瓜も育ててスープに入れよう」


 ダンは楽しげに、妻と娘の作る夏野菜をどっさり入れたスープの美味しさについて語り出した。

 ダンの娘のルシアはアストラの四つから五つほど年上で、料理上手で気さくな村の人気者だ。母のアンナと共に牛舎の牛の世話をしたり、ミルクを配り歩いたりしている。

 確か村で染め物職人の見習いをしているテリーと、最近婚約したはずだ。村きっての人気者のルシアと温厚な好青年であるテリーの噂は、村から少し離れたところに暮らしているアストラにも伝わってきた。この調子では二人とも、成人の儀を終えてもこの村に留まり続けそうな様子である。

 アストラは大根の葉に散らばる露に反射する光に映る自分を眺めた。マスクで覆われた下顔面は歪んで反射している。


「ねえ、ダンおじさん」


「なんだい、アストラ」


 ダンはバケツに残った少量の水をバケツから直で撒き散らしていた。アストラは視線をダンにやる。革マスクで覆われた鼻先から口元は見慣れたものだ。


「ダンおじさんはさ。もしポイゾネアが世界から消えて、マスクなんてしなくても生きていけるようになったら、マスクを外す?」


 ダンは目を見張った。マスクをしていても表情ががらりと変わったのが分かる。アストラはしばらく返事を待ったが、ダンは驚いたように固まっていた。


「ダンおじさん?」


「ああ、ああ。そうだね、ハハ……」


 ダンはそう間を誤魔化すように笑って、遠くを見るような瞳で空を見つめた。空は今や燃え盛る炎のように赤くなっている。


「昔ね、全く同じことをよく君のお父さん──テラが言っていたんだよ」


 アストラの傍に置いたバケツの中で水が音を立てた。

 燃え盛る空を背景に、ダンは昔を懐かしむように瞳を細め、どこだか分からないところを眺めている。確かに存在した過去なのか、アストラの父の姿なのか、それはアストラには分かり得なかった。


「テラがそう言い出す度に議論になったよ。私の答えは毎回一緒で、絶対に外さないと言った。もう体の一部のようなものに思えたからね。でも、テラは毎回私と真逆のことを語った」


 ダンは一人で思い出したことを繋げるように話し続ける。アストラはじっと耳を傾けていた。


「『こんな異物をずっと着けていたいなんて、君はこの退廃した世界を迎合する思考放棄者と同じだ』と、テラはそう言ったんだ」


 アストラは強く柄杓の柄を握り締める。


「この世界に何をもたらした訳でもないけど、彼だけは、この世界を受け入れることをしなかった。それが正しいのかは分からないけれどね。世界はずっと昔からなるべくしてこうなってしまったから、それを受け入れるのは確かに彼の言った通り、思考放棄なだけなのかもしれない。けれど、私の答えは今も変わらないよ」


 ダンはそう話し終えると、止めていた手を動かし出した。大根の葉は次々に濡れていく。土の色は濃さを増し、雨の日のような強い土埃の匂いが鼻を突く。


「アストラ。お前はどう思う?」


「俺は…」


 アストラは何となくその続きを答えることができなかった。つい先程、リアンと散々語ったことと同じことを答えれば良いだけだ。

 それなのに、慈しむような優しいダンの瞳とその横顔を燃やす真っ赤な夕日が酷く恐ろしいものに見えて、声帯までもが焼かれてしまったかのように言葉が出なかった。その内、自分が何を言おうとしていたのかすらも、アストラの中で思考の輪郭が薄まっていく。


 一体自分はどんな答えを待っていたのだろう。この目の前のただの村人に、どんなに素晴らしく仙人的な思考が植わっていることを期待したのだろう。父親──テラが毒された世界を受け入れずに死んだと知って、どんな気持ちでこの地に足を着けて立っていれば良いのだろう────。


 気がつけば、空を分断するように二色化した茜と漆黒が頭上を覆っていた。日が西の方へ消えていき、空では茜がぐんぐんその領域を侵食されていくのがありありと分かる。急激に下がった温度にアストラが身震いしたのを見ると、ダンは仄かに笑った。


「水やり、ありがとう。今日はもう帰りなさい。これから寒くなる。風邪を引かないようにね」


「……」


 アストラは黙っていた。

 いつの間にか傍に置いていたバケツは空になっていて、柄杓の中に残った微量の水を辺りに適当に撒き、空のバケツにそれを突っ込む。のこのこと覚束ない足取りで畑を出て、ダンの牛車にそれを乗せる。

 村へ戻るダンに手を振り、自分は背を向けて、更に山の方へと登る道をただ歩む。眼下には鈍間にふらつかせながら前へと踏み出す自身の足が二本見えた。

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