アストラ・ノックス

 

ベックリン村で米農家の家業を営むサムウェルの家は三兄弟である。


 一番上の兄はとっくの昔に成人の儀を終えた大人である。

 この村での成人は十八とされ、十八になる年の者はその年の初めに村の中心に集められ、纏めて成人の儀礼を行うのだ。毎年行われるそれでは村長の長い長い祝辞を聞き届け、成人の儀礼でのみ村中で振る舞われる希少な地酒を盃一杯だけ口にし、参加希望者を集って行われる御前試合に一盛り上がりする。

 サムウェルの三兄弟の長男は腕っ節と野心が強く、彼が成人する年の御前試合では彼が圧倒的な優勝を収めた。その後に村を発ち、今では王壁街沿いの栄えた村にて鍛冶職人として働いているという。


 二番目の兄もこれまた成人した大人であるが、彼は上の兄に比べても目に見えて穏やかな性格である。上の兄は鍛え上げた筋肉を自慢に思っていたが、こちらの兄はふくよかな体型をしており、成人の儀を終えても村に留まって稲の世話をしている。


 そして、そんな年の離れた二人の兄に甘やかされて育った村の悪餓鬼であるニコラス・サムウェルは、それはもう乱暴で生意気な性格に育ったものだ。毎日のように行き過ぎた悪戯を仕掛けては威張り散らし、がに股歩きで村の道を我が道と言わんばかりに歩んでいる。それ故に村の子供達には恐れられたり嫌われたりしていたが、家族内で”ニック坊や”と呼ばれ溺愛されているが為に、己に向けられる負の感情には全く気がついていない。

 ニコラスは今日も、村一番の弱虫であるリアンの持っていた古書を取り上げて遊んでいた。


「ニック!その本を返してくれよ。それはアストラから借りた物なんだ!」


 リアンは本を読むのが好きな大人しい子供で、同い年の村の子供の中でも最も体格の良いニコラスよりもかなり細く背が小さい。ひょろひょろとしたもやしのように痩せている腕を伸ばし、ニコラスが持ち上げている古い本を取り返そうと踵を高くしている。

 ニコラスはそんな情けなく眉を下げるリアンを見て、下品に鼻を鳴らして笑った。


「ヘヘッ、返して欲しいなら取り返してみろ!ほら、ほら!」


 そう言ってひらひらと本を空中で揺らしてみる。

 リアンは必死に飛び跳ねたりしてそれを取り返そうと躍起になっていたが、リアンとニコラスは村で一番背の低い十四歳と一番背の高い十四歳である。二十センチ近く離れた身長差では幾らリアンが手を伸ばそうとも届きやしない。

 ふとリアンがニコラスの手の中にある古書を見ると、古びてセピアに染められたページの端が、ニコラスに雑に扱われたことによって、ぐしゃりと歪んでいた。

 それを見たリアンの瞳に涙が浮かびそうになったその時、後方から「おい、ニック!」と大声が飛んでくる。

 ニックは声の方を見て、「うげ」と眉を顰めた。同じ方を振り向いたリアンは瞳を輝かせる。


「アストラ!」


 自由奔放に飛び跳ねた赤毛に、服はぼろぼろになった大きいサイズの麻布の服を腕まくりしている。凛とした眉は彼の勝ち気な性格を物語るようだった。


「ニック。それは俺がリアンに貸した古い歴史書だ。春本だと思って取り上げたんだろうが残念だったな。そんなに興味があるなら、砂糖よりもお前に甘いお前の婆ちゃんに街で買ってくれるよう頼んだらどうだ?」


 アストラは腕を組んで、ニックを煽るように嘲笑を滲ませてそう言う。

 ニコラスは顔を麻布の染料で染めたように真っ赤にして、古書を握った手をわなわなと震わせた。


「何の用だ、アストラ!」


 恨みの込められたどすの効いたその声に、アストラは更ににんまりと笑みを深めた。両手を腰にやり、ニコラスの母がニコラスを叱る時と同じポーズをしてみせる。


「勘違いしてるお前に、ご親切に教えてやりにきたんだよ。それはお前が最近気になって仕方がない春本なんかじゃなく、読んでも何の役にも立ちゃあしないただの歴史書だってね」


「アストラ!!」


 ニコラスはとうとう震えた握り拳を古書ごと振り上げる。アストラに真っ直ぐに振り下ろされる拳に、思わずリアンは目を強く瞑った。

 しかし、リアンが次に恐る恐る目を開けた時には、ニコラスは地面に蹲って下腹部を押さえるように悶えており、その手にあったはずの古書は既にアストラの手の中だった。

 アストラは古書とニコラスを順に見て、にっこりと笑う。


「分かったなら、この本は返してもらう。行くぞ、リアン!」


 急に駆け出したアストラの背を呆然と眺めて、リアンはその背中を追うように駆け出した。


「覚えてろよ!」


 苦し紛れにニコラスがそう叫ぶのが聞こえて、リアンの前を走っているアストラの明朗な笑い声が村中に響く。それと同時に、村中の家の扉が次々と開け放たれ、中から”やれやれ”といった表情の村人たちは姿を見せる。


「おや、アストラが来ているのかい?」


「またアストラがリアンを巻き込んで、何かやっているようだねえ」


 アストラの笑い声を聞いた村の老若男女が家から出てきては、走り去るアストラとリアンの背中を見て笑っている。


「アストラ!暇なら後で畑の水やりを手伝ってくれ!」


「ダンおじさん、おはよう!後で行くよ!」


 牛舎の傍で休んでいる農家に手を振ってそう返し、アストラは古書を掲げて村の外れまで駆け抜ける。体力のないリアンがようやく彼に追いついた頃には、アストラはとうに息を整えた後だった。


「早いよ、アストラ」


「リアンが遅いんだ。お前はもっと体力をつけなきゃ。いつまでもそんなひ弱だと、余計ニックに狙われるそ」


 アストラは古書でリアンの細い体躯を差す。その古書の端が折れているのを思い出して、リアンは慌てて頭を下げた。


「ごめん!アストラ。君から借りたその古書、奪われた時に折れちゃったんだ。本当にごめん」


「ん?ああ、これか」


 アストラは何でもないように古書をぱらぱらと捲り、折れてしまった部分を雑に手で撫で付ける。折線は残ってしまったが、アストラは笑いかけた。


「いいよ。気にしてない。そもそもニックの奴が奪い取ったのが悪いんだ。お前が謝る必要なんてあるか?」


「あるよ!僕が借りてたんだから、僕が綺麗な状態で返すべきだろう」


 そう真面目に言い放つリアンは本当に反省しているようで、アストラがいくら気にしていないと言おうと、肩を落としたままだった。アストラはやれやれと肩を竦める。


「元々綺麗でも何でもないだろ、こんな古い本なんだから。それより、これ、面白かったか?」


「ああ、それがまだ途中までしか読めてないんだ。えっと…隕石のところ、あそこだよ」


「そこからがこの本の面白いところなんだよ!今ここで読もうぜ」


 アストラは前のめりになって本を開いた。

 この古書はアストラの家にアストラが生まれる前からある古い歴史書だ。と言っても、表紙に題名らしきものは書いておらず、中を読むまで歴史書であることはアストラにも分からなかった。中は地球の始まりから人類の進化、そして今に至るまでが述べられた、どこにでもあるような古い歴史書である。

 アストラの家にはこれと似た古い本が山のように存在し、村屈指の本好きであるリアンは度々こうしてアストラから本を借りる。アストラの家に積まれた本は本当に様々なものがあり、リアンには難し過ぎるような経済学なんかの本から、幼児が楽しめそうな絵本のようなものまで、色々なものがあった。


「ここだ、ここから始まるんだよ」


 目的のページを見つけたのか、アストラはリアンにページを見るよう顎をしゃくって促す。リアンは開かれたページに綴られた活字をじっと目で追った。

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