『佐砂井の郷』の感想

佐砂井の郷

作者 佐藤宇佳子

https://kakuyomu.jp/works/16818093074845633845


 シノブは死んだカオルとの再会を求め、二度と会えない人にもう一度会えるという佐砂井の郷を訪れ再会して亡者となり、生者となったカオルは恋人の待つ町へ行く話。


 一人称や三人称で書かれる作品が多い中、二人称で書かれており、挑戦的で意欲がある。主人公はあなたと表記されているので、一人称とはちがった形で読者を作品世界へと誘う書き方が素晴らしい。読者を楽しませようとする意図が感じられる。

 新たな始まりと再生を象徴する春をテーマに、愛していた亡き人へ会うべく、自身の過去へ向かって旅する物語からは、希望と懐かしさが描かれている。失われた佐砂井の郷を舞台に過去と現在、生と死が交錯する様子からは、神秘的な雰囲気が漂い、愛する人との再会を求める情熱からも、春の力強さを感じる。


 主人公は認可外保育園の保育士をしているシノブ。二人称、あなたで書かれており、主人公の行動が実況中継されていく。視点があなたなので、読者を物語世界へ誘い、追体験させていく書き方をしている。ラストの主人公はカオル、一人称の私。自分語りの実況中継で綴られている。

 恋愛ものの構造で書かれているので、出会い→深め合い→不安→トラブル→ライバル→別れ→結末の流れに準じている。

 ホラーは怖いミステリーであり、ラストで主人公が生きるか死ぬかでわかれる。本作は後者である。

 また、ホラーには怪獣映画の構造要素もあるので、予言と不信→登場と混乱→防衛と絶望→反撃→後味の悪い終わりに準じた感じもある。


 女性神話の中心軌道に沿って書かれている。

 シノブには愛しくてたまらない人、カオルがいた。ある日、カオルはいなくなった。

 かつてカオルから寝物語に聞いた、立夏のひとつ前の十六夜の夜(二〇二四年なら四月二十五日)、五十年以上前に廃村となった翡翠川上流にある佐砂井の郷にいけば、二度と会えない人にもう一度会えるという話を覚えていた。

 認可外保育園の保育士をしているシノブは、四月の十六夜と翌日の二日間、休暇申請をし、了承される。

 標高八百メートルほどの不如帰山に源を発する清流、翡翠川。

 不如帰山は、古くは峰入りが盛んな修験の山だったが、今では慣習も廃れ、山中に点在する寺も無人となって久しい。不如帰山を擁するK市の郷土史によれば、佐砂井の郷は、標高六百メートルあたりにある、開基九百年の歴史を持つと伝えられる雁金寺跡のほど近くにあったという。

 キャンプ支度を整え、出かける朝は、煙るような雨が降っていた。ザックをかつぎ、バスを乗り継ぎ、最後に乗り換えたコミュニティーバスで二人連れのハイカーと三人連れの登山客と一緒になる。

 登山客とハイカーの後ろについて、不如帰山の登山口へと真っすぐに伸びる草原の道を歩いていく。登山口に入るも、道らしい道は見えず、十五分ほど歩くと道が二手に分かれていた。真新しい木の標識には右が登山道、左は翡翠川とある。先を行くハイカーと登山客は右を、シノブはためらうことなく左の細い獣道に入る。

 二十分ほど進むと、水の流れる音が聞こえ、沢が見える。翡翠川は幅二メートルほどの渓流となり、軽やかな音を立てて山から流れ出していた。

 午後三時。河を左手に山を登る。午後四時を過ぎると暗くなり、明かりをつけ、薄暗くなった山中を進む。

 翡翠川が大きく右に曲がる。突然、山が開け、清流のカーブに囲まれた台地が現れた。台地の上に木造の廃屋らしき影がのぞく。家々を結ぶ未舗装路にたどり着き、佐砂井に着いたと草むらと道を隔てるように置かれた石に腰を下ろす。

 廃屋がぼんやりと淡い光を放ちはじめる。十三軒あるのを確かめる。時刻は六時半。月の出まで二時間ある。光る道を進んでいくと、透き通ったセーラー服を着た小柄な少女たち。背中に光の尾を引きながら、通り過ぎていく。その後ろからは、ブカブカの学生服を来た男子。三輪車に乗った幼子。みんな、ほほえみながらしずかに行き交っていく。

 右手の少し傾いだ二階建ての家から、四十がらみの男女と二十前後の若い男女が出てきた。若い女はしっかりと赤ちゃんを抱いている。白いおくるみに包まれて眠る赤ちゃんは、家族の誰よりも白く鮮やかな光を放っている。若夫婦は幾度も振り返っては手を振りつつ、道の奥へと消えていった。

 郷の端までいくと、道が左右に分かれ、左手の闇からは翡翠川のせせらぎの音。右手には、ほの白い道が真っすぐ続き、百メートルほど先の闇の中に家屋よりも大きな建物が沈んでいる。

 辿り着き、雁金寺だと思う。境内にはぼんやりと数名の男女の姿。おかっぱ頭の透き通る幼児が不思議そうに見てくる。頭を撫でようとすると、背後から「触れてはだめ。彼らは別世界の存在なんだから」と注意される。

 振り返るとカオルがいた。シノブはカオルにすがり、何度も口づけするも、鼓動を感じるのは自分だけと気づいて、離れる。だが、カオルはモヤもまとっていないし透き通ってもいない。それでも、体はくらやみの中でほのかに青白くかがやいている。

「お堂に行こう。十六夜の月が出て、郷人たちは家に帰っていったから」

 カオルに誘われてお堂に入り、持ちれながら転がり込み、カオルが口づけしてくる。

「大丈夫。ここは恋人たちの逢瀬の場だから」

 隣に横たわるカオルの頬をなで、カオルの手に自分の手を重ねる。暖かく、自分の手は冷たい。カオルがいなくなったあの日から、シノブの体が温もりを発することはなくなった。

「ごめん、ごめんね」何度も繰り返すカオルに、あなたの目から涙が流れ落ちる。幾度体を重ねたのか。月は西の空に傾きかけていた。青ざめた顔のカオルが苦し気に言う。

「もう、時間だね。さあ、日が昇る前に、この滅んだ世界から出ていかなきゃ」

 カオルの暗い表情は変わらず、シノブはうつむいて服を着る。最後にもう一度抱擁し、長い口づけをかわすと、振り返らずに翡翠川へと向かい、三叉路の手前で透き通り、風に揺らぐかげろうのように消えていった。

 カオルは服を着て、許してとくり返しながら涙を流す。しらんだ空の下、消えた佐砂井の郷を埋め尽くす空木の林から白い花びらが舞い落ちる中、翡翠川を背にする林道をたどり、カオルは重い足取りで恋人の待つ町へと戻っていった。


 三幕八場の構成で書かれている。

 一幕一場の状況の説明、はじまりでは、主人公が佐砂井の郷へ向かう準備をしている様子が描かれている。「翡翠川上流の佐砂井の郷で、二度と会えない人にもう一度会える」とかつて愛するカオルから寝物語に聞いた伝承を頼りに調べ、五十年以上も前に廃村となった廃村となった山あいの集落であると突き止める。

 立夏前の十六夜の夜に会うため、認可外保育園の保育士をしている主人公は、二日間の休暇を申請し、渋々ながら受理される。

 二場の主人公の目的では、翡翠川は不如帰山に源を発する清流であり、佐砂井の郷は雁金寺跡のほど近い場所にあったことがわかる。登山経験はないが、ザックに必要なものを詰め込んでいく。

 二幕三場の最初の課題では、煙るような雨が降る十六夜の朝、不如帰山の登山口へ向かい、獣道へ入っていく。午後四時を過ぎると、辺りは暗くなり、ヘッドライトを頼りに進んでいく。

 四場の重い課題では、突然山が開け、清流のカーブに囲まれた台地が現れる。台地の上に木造の廃屋らしき影がのぞく。佐砂井に着いたのかと、石に腰を下ろし、しばらく座っていた。

 五場の状況の再整備、転換点では、月の出まで二時間ある午後六時半、廃屋がぼんやりと淡い光を放ちはじめる。痛む腰をかばいながら歩こうとすると、光の塊の中を、セーラー服を着た少女、学生服を来た男子、三輪車に乗った幼子とすれちがう。みな、微笑んでいた。傾いだ二階建ての家からは、四十がらみの男女と二十前後の若い男女が出てきた。若い女はしっかりと赤ちゃんを抱いている。若夫婦は振り返っては手を振り、道の奥へと消えていった。

 翡翠川のせせらぎの音に目を凝らすと、ほの白い道が真っすぐに続き、百メートルほど先の闇の中に、家屋よりも大きな建物、雁金寺が青白く光っている。境内には光る数名の男女の姿があり、おかっぱ頭の透き通った幼児を前に、頭を撫でようとすると、別の世界の存在だからと止められる。それは、愛しくてたまないカオルだった。

 六場の最大の課題では、カオルにすがりついては抱きしめ、口づえする。冷え切った自分よりも温かい。が、鼓動が一つだけと気づき、弾かれたように身を離す。カオルは母屋をまとっていないし透き通っていない。それでも青白く光り輝いている。十六夜の月が上がったところだった。カオルに誘われてお堂へ上がり、カオルが口づけてくる。

 三幕七場のどんでん返し、最後の課題では、恋人たちの逢瀬の場だからと、月明かりをまとうカオルに撫でられて衣服を脱がされ、肌を重ね合う。シノブもカオルの頬を撫で、手を重ねる。カオルは暖かかった。何度もごめんを繰り返すカオルに、シノブは涙がこぼれる。互いに何度も体を重ね、やがて月が西に傾いてくる。彼我の折る前に滅んだ世界から出ていかなければと青ざめた顔で告げるカオル。シノブは着替えて抱擁し、長い口吻の後、翡翠河へと向かう。

 八場のエピローグでは、去っていくシノブを追いかけたい気持ちを抑えながら、カオルはシノブが三叉路の手前で透き通って消えるのを見送る。許してとくり返し涙するカオルは服を着て、翡翠川を背にして林道をたどり、恋人が待つ町へと戻っていくのだった。


 佐砂井の郷の謎と、主人公に起こる様々な出来事が、どのように関わり合いながらもどんな結末を迎えるのかに、興味が注がれる。


 比較的難しい手法でありながら、二人称で書かれていることで、読者が物語に入り込みやすくなっているところが良かった。

 主人公になったような感覚や目線で、臨場感を持って生々しい物語を追体験でき、より強い共感を持って読み進められる。

 他にも、読者に直接語りかける口調になるため、物語に引き込みやすく、能動的な読書体験を促せる。しかも、主人公の性格や心情をより鮮明に描けるので、人物像をより立体的に捉えられるようになる利点がある。

 

 冒頭の導入部分は、客観的な状況の説明からはじまり、本編では主人公の意見や考えなどが主観で密に描かれ、終わりはまた客観的な視点で粗く書かれている。

 佐砂井の郷の状況説明が語られながら、「二度と会えない人にもう一度会える」「あのひとから寝物語に聞いたその伝承をあなたは決して忘れなかった」といった、怪しげで不可思議な雰囲気を漂わせる書き方をして、読者を物語へと誘っていく所が良い。 

 主人公に共感できるよう、キャラクター付けがされている。

 愛する人であるカオルを亡くしていること。独身であること。認可外保育園の保育士をしていて、頼りにされていること。子供が好き、または子どもに好かれる仕事をしていること。おかっぱの幼児を可愛がろうと頭を撫でようとしたことなど、人間味があることも伺わせている。


 二人称であるため、主人公の行動や動作を表現して書かれているおかげで、共感しやすい。

「ぷん、と水のかおりもする」「あなたのぜいぜいと喘ぐ音が川の音に絡みあう」「どこからか、ひい、ひい、ひい、と細い笛の音が聞こえた」「板葺きの屋根が、ルミノールのように青白く光っている」「ふくらはぎが鋭く痛み、顔をしかめる。腰も背中も痛い」「抱きしめた体も、頬も、唇も、冷え切ったあなたの体よりも温かい」

 とくに、五感を用いた表現がされているおかげで、主人公の体験を感じやすい。

 

 二人称によって主人公の行動や動作や思考などが描かれているおかげでよく伝わるけれども、物語の大半を描いているシノブのセリフがない。

 理由としては、主人公はあなたであり読者になるので、読者が感じて思うことがセリフとなるため、本文に書かれていると邪魔になってしまうからだと感じたので、この書き方でいいと考える。かわりに、カオルの台詞があり、必要最低限の自然な会話となっている。


 一文が短く、読みやすいのがいい。文章の塊が、長くてもだいたい五行ぐらいにまとめてある。それ以上を越えると読みづらくなる。読みづらいと、読者は途中で嫌になり、共感できなくなるばかりか、読むのをやめてしまうかもしれない。

 本作品は、読みやすく書かれている。読者を意識してのことだろう。


 十六夜とは、「ためらう」「進めない」という意味の「猶予う」が名詞化したもの。躊躇するという意味の古語で、満月の十五夜の日より、五十分遅くれで現れる。躊躇しながら出てきていると擬人化して、十六夜の月と呼んだ。

 人生に行き詰まり進めず、生き死にためらいを覚えている状態を表しているのかもしれない。そういった心境だからこそ、死者と再会できたのだ。


 境内で、おかっぱ頭の幼子の頭を撫でようとしたとき、別の世界の人間だからさわるなとカオルから止められる場面がある。

 カオルも同じ死人である。

 にも関わらず、シノブに抱きしめられ、口づけし、体を重ねることを許している。

 生前、シノブに寝物語として語って聞かせていたのは、利用して生き返ろうとしていたのかもしれない。

 なぜならばカオルは「ごめん」「許して」と、謝罪の言葉をくり返している。相手はもちろんシノブに、である。

 

 シノブは好きなカオルがいない世界を生きていたくないと思っていたのかもしれない。生きるならば、自分ではなくカオルだと願っていたから、郷にまで足を運び、自らカオルに触れたのではないか。

 ひょっとしたら、カオルは生前、重い病にかかっていて生きたいと口にしていたのでは、と想像する。

 認可外保育園の保育士は、認可保育園と比べると給料は低い傾向にあり、パートの場合だと、扶養内で月八万円程度の収入となることもある。また、残業や休日出勤が多く、有休が取れず、子どもとじっくり向き合える時間が少ないという問題や、無資格の保育補助の場合は、肉体的に大変な面が多く、楽な仕事ではない。

 ひょっとするとシノブは、愛しているカオルとの再会を求めながらも生きることに疲れ、絶望していたとも考えられる。

 そう考えると、自分の生をカオルに渡すために、郷に足を運んできたとも考えられる。


 わざわざ、服を着たことが書かれている。

 お伽噺などでは、他人の夢を買うとき、相手の衣服を得る話がある。

 シノブは、カオルの服を、あえて選んで着たと邪推したい。

 そうすることで、カオルの死を奪い、カオルはシノブの服を着て生を得たと読み取ることができる。


 三ツ辻の選択では、昔から右は生者、左は死の道となっている。

 シノブは右に曲がって寺に向かい、カオルと再会した。

 逢瀬を重ねた後、夜が開けるころには、翡翠川へと向かう三叉路の手前で透き通り、風に揺らぐかげろうのように消えていったとある。おそらく左に曲がったのだろう。

 この辺りは、意味が通るように描かれていると考える。


 生き返ってからカオルは、好きな人のいる町へ向かっていく。

 つまり、シノブと好きあっている関係でいた生前から、別な人が好きだった。二股をしていたのだ。もしくは本命がいたか、思い人だったやもしれない。

 はたして、カオルは好きな人と再会し、思いを遂げることはできたのだろうか。

 相手には相手の人生があり、死んだカオルと別れてからは別の人と楽しく過ごしている気がするのだけれども。どんな再会を迎えたのだろう。

 そこは、読み手の想像に委ねられているに違いない。

 テーマの春を考慮に入れるなら、シノブの分も幸せになってほしいものである。


 

 


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