第9話

 彼女の表情を見て、私はやっと理解した。


「まさか……あなたはまだ勇者のことを愛していたの」


 彼女の発した「彼を救って」の彼とはマティアスのことではなかった。


 予想はしていたが、まさか殺されてまでまだ愛しているなんて思わなかった。聖女の愛した人が勇者になるのならば、彼女が殺された後も建国の勇者がその能力を保持し続けたのはおかしいと考えるべきだった。


 勇者が初代国王になってからも武勇伝はたくさんあるのだ。クマを一人で倒した、隣国との小競り合いを少人数で退けたなど、勇者と呼ばれるにふさわしい話だった。その代わり、二代目の国王つまり彼の息子は際立った能力はなく父と比較され続けて暴君となった。


「刺されて殺されたのに、ずっと愛していたの?」


 私の言葉には明らかに呆れが滲んでしまっている。建国の聖女はそんな私に笑みを深くした。


「感情は難しいわ。だから後任で最後の聖女にあなた、シェリル・バーンズを選んだ。あなたは愚かな私と違って既に傷ついていたし、誰も愛さないと思ったから」


 地面と空気が軽く揺れる。

 マティアスに殺されそうになっている邪竜が最後の力で暴れているようだ。でも、封印の鎖のおかげでそこまで大きな揺れになってはいない。


「たとえ愛しても、不確かな感情であなたは振り回されないと思った。結局あなたは愛して勇者が再び生まれた。でも、運命は変わったわ」


 ここで聖女と勇者で運命を書き換えることが、建国の聖女の目的だったわけね。


「訳も分からず聖女にさせられて大変だったわ。私を生まれ変わらせる前に話してくれれば良かったのに」

「力を使って生まれ変わりを助けることはできても、運命を捻じ曲げる直接の行為をしてはいけないからあなたが一旦死なないと話はできなかったの。私だって建国の聖女になりたくなどなかった。彼と一緒に大人になって結婚して死ぬんだと思っていた。私が欲しかったのは彼との穏やかな生活、それだけ。小さな家で、二人で平和に暮らせるだけで良かったのに。聖女にならなければ、彼を愛さなければこんなことにはならなかったのに」


 邪竜による揺れとくぐもった鼻息が小さくなっていくのを耳にしながら、私は建国の聖女を初めて身近に感じた。

 特別でも何でもない、ただの一人の女性がそこにいた。彼女は聖女になってしまったからこそ、小さい家で平和に過ごせるのが良かったと言うのだろう。私だってそうだ、小さい家には同意できないが。


 私も聖女になんてなりたくなかったとグチグチずっと言っていたけれど、彼女もだったのだ。私の嘘偽りない気持ちだと思いたいが、私の中には建国の聖女の魂も一部入っている。ここまで聖女であることを嫌だと考えていたのは、彼女の影響もあるかもしれない。初めて自分の中に建国の聖女の存在を感じた。


「私も彼にキスすれば違っていたのかもね」


 建国の聖女の体は徐々に透明に近くなってきている。邪竜の命が消える時に一緒に消えてしまうのだろう、と予想できるくらいに。


「こんな状況でキスをしてた私への嫌味?」

「いいえ、邪竜なのだから存在するだけで邪悪なの。近付けば近付くほど影響を受けて、欲望が暴かれて危ない。でも、聖女の力は邪悪なものとは反対に位置するもの。だから、あなたがキスしたことでマティアスの中から邪竜や勇者の影響は消えたはずよ。建国の勇者は最後の最後で邪竜の影響でやられてしまったけれど」

「そう……」


 揺れがとうとうしなくなった。マティアスが邪竜の背中に剣を刺したまま、背から下りて注意深く邪竜を観察している。


「これで全部終わりよね? 生き返ったりしない?」

「終わりよ。とても長かった」


 建国の聖女は自分の手を見ていた。彼女の手はもう向こう側が見えるほど薄くなっている。


「ありがとう、シェリル・バーンズ。私はやっとここから解放される。今だから分かる、ずっと私はここであなたを待っていた」


 彼女もシェリルという名前だから、私をわざわざフルネームで呼ぶのだろう。


「聖女になってロクなことがなかったけど、お金持ちの王女様に生まれ変わらせてくれたことは感謝してる。これから私は贅沢して怠惰に生きていいってことでしょ、聖女だった功績を振りかざして。人生のボーナスステージよね」

「あなたのそういう図太いところを私も見習えば良かった」


 建国の聖女は消えそうな手を私に伸ばしてくる。私もまるで握手をするように、その手に自分の手を重ねた。触れられはしないが、お互い笑っていた。


「聖女が愛した人が勇者って嘘なんでしょう?」

「事実よ。神が聖女を守るためにそうしたの。私の場合は裏目に出たけれど、あなただって本当は分かっているでしょう? マティアスはあなたが勇者にした」



 はっと気づくと、マティアスに抱えられて長い長い階段を上っているところだった。意識を失って夢でも見ていたかのようだ。最後に目にした建国の聖女は綺麗に笑っていた。


「ここって」

「地上への階段を見つけました。幅が狭いので暴れないでください」

「邪竜は?」

「殺しましたよ。まだ誰も来ないので、ひとまず地下から脱出しようと」


 体を安定させるために、マティアスの首の後ろにぎゅっと手を回す。


「王弟が王位を狙っていたのは分かるんだけど、宰相は何がしたかったのかしら」

「父はおそらく邪竜を使って戦争がしたかったのですよ。邪竜の存在を知る前にも提案して国王に反対されたと聞いています」


 カツンカツンと階段を上がるマティアスの足音が響く。そういえば、邪竜の前でそんなことを叫んでいたなと思い出す。


「ねぇ、マティアスは良かったの? 勇者の力を失ったみたいだけど」

「せっかく聞こえなくなった頭の中の声みたいなことを言わないでください。殿下こそ良かったのですか」

「私は散々聖女になりたくなかったと言っていたでしょう」

「そうですが、一瞬でも考えませんでしたか? この能力があれば周囲に認められると」


 勇者はそう考えたから力を手放せなかったのか。幼馴染の聖女を殺してまでその力が欲しかったわけだ。あんなに彼女から愛されていたのに。


「マティアスは邪竜を殺したんだから、力がなくなっても勇者でしょ。邪竜の亡骸を見たら皆そう言うわよ」


 マティアスは階段を上がり続けながら無言になった。やがて足取りが重くなって、彼は立ち止まる。


「重かったら私を置いて行って。あなただって疲れてるでしょ。私はまだ動けそうにないから、悪いけど助けを呼んで」


 マティアスは抱き上げていた私を階段に丁重に下ろす。そのまま上がっていくのかと思ったら彼も座り込んだ。相当疲れているのだろう。


「殿下にとって、私は勇者ですか」

「何言ってるの。疲れすぎて頭おかしくなったの?」

「教えてください。私にとっては大切なことです」


 グリーンの目に促される。マティアスの顔を正面から見ると、キスしたことを思い出して恥ずかしくて目を逸らした。


「私のことばかりあなたは助けるんだから、勇者でしょ」

「なら、良かったです」


 目を逸らしているのに、マティアスは相変わらず私を見つめてくる。頬に視線を感じる。


「殿下を刺した後も、頭の中の声に惑わされていた時も。きちんと考えたら、私は殿下の勇者になりたかったんです。周囲の人間に認められるなんて本当はどうでも良かった。殿下だけの勇者であれば良かったんです」


 建国の聖女が最後まで変なことを言うから、マティアスまで変なことを言い始めた。二人きりの時に思わせぶりにそんなことを言われたら、こっちまで変な気分になるじゃない。

 でも、私はアデルじゃない。アデルの体に入ったシェリル・バーンズ。魂は混ざっているかもしれないけれど。


「あなたって、私のこと好きなの?」

「好きですよ」

「愛してるわけ? 私がアデルじゃなくても?」

「何をおっしゃっているのか、よく分からないのですが」

「私にとっては大切なことよ」


 マティアスは軽く首を傾げた。ここで一方通行なら、私はどんなに生まれ変わってもやり直しても誰の特別にもなれないのだろう。


 愛されていると勘違いしていた母にあっさり金で売られた時のように、私は絶望しないために愛を拒絶してきたはずだ。それなのに、この私がマティアスを愛しただなんて。どうして建国の伝説でそんなことを証明されないといけないの。


「愛が関係ありますか」

「あるわよ」

「愛かどうかは分かりませんが……殿下が私の存在をその目に入れて、私の名前を呼んで下さると嬉しいです。殿下が傷ついたり、泣いたりすると守らなくてはいけないと思います。これを愛と呼ぶのなら、かなり前から殿下のことは愛していることになります」


 私はまた絶句する羽目になった。

 なんなの、マティアスって。とんでもないことを言っているのに、恥ずかしがるくらいしないの?


 思わず、マティアスから距離を取ろうとして後ろに倒れかける。

 マティアスの腕が腰に回ってすぐに引き寄せられた。また頬に手が添えられる。


「ここは、あなたにとってしかるべき場所じゃないでしょ」

「そもそも殿下が始めたことではないですか。愛しているかと聞いたのは殿下です」


 相変わらず、そばにある彼のグリーンの目は腹が立つほど理知的だ。毎回毎回頼んでもいないのにバカみたいに危険を冒して私を助ける癖に、とても理知的。とっくに分かっている、彼がシェリルの母と違うことくらい。でも、怖かったのだ。誰の特別でもなかったから、毒殺されてアデルになってもここまで平気で贅沢を享受できた。


 誰かの特別になるのは憧れだったが、同時に恐ろしい。でも、マティアスなら信じられるかもしれない。


「私、嫌なのよ」

「先ほどの返事が気に食わなかったのですか」

「好きでもない人にキスするのは嫌なの。だから聖女の力がなくなって安心してる」


 マティアスから返事はなかった。しばらく沈黙が続く。私は疲れとその沈黙でイライラし始めた。


「ねぇ、マティ……」


 名前を呼ぼうとしたら、マティアスの顔がすぐそばにあった。シェリルだった時は雰囲気にのまれずに一度もしなかったのに、生まれ変わってからしかもこの一日で何回キスするのか。


 マティアスは唇を離すと、額をくっつけて息を吐く。


「殿下がご無事で本当に良かったです」


 彼の言葉で、私も思わず詰めていた息を吐いた。

 やっぱり彼といると、自分は聖女じゃなくても特別で、生きていていいと思える。私は震える腕をマティアスの首の後ろに回して抱きしめた。

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ぼやきの聖女と建国の邪竜 頼爾 @Raiji

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