第8話
私はまだ起き上がれないので、首だけその方向に巡らせる。死んだと思っていた宰相が半身を邪竜に食われていた。
嘘でしょ? 口にも封印を施したはずなのに! 甘かったの?
「何?」
宰相のいた場所にはいくつも瓶が割れている。まさか、あれに癒しの水を入れて持っていたのか。それがちょうど割れて癒されたというのだろうか。
「父は隷属の腕輪を持っていたくらいですから、他にも何か持っていたかもしれません。あるいは命が途絶える前に癒しの水でもかかったのか」
マティアスは服を握っている私の手をどけながら、また頭痛を耐えるように顔をしかめている。
「どうやら、父は封印の鎖をこっそり切っていたようですね。確認した時は脈拍がなかったはずなのですが、微弱すぎて分からなかったのかもしれません。あの瓶の本数ですから癒しの水を一体どれだけ持っていたのか」
邪竜がか細くまた炎を吹いた。私たちがいるのとはややズレた方向だったが、熱と焦げた匂いを感じる。何年も封印されていた癖に元気に動き回るものだと思っていたが、むしろ全力で炎を吐かれたら危ないところだった。
そもそも、私たちは封印したといっても邪竜の側で何をしていたのか。
刺される前までうるさく話しかけていた建国の聖女はもう見えない。マティアスは私を岩陰に抱えて移動させる。
また炎を吹かれて丸焦げになるのは避けたい。建国の聖女に言われたように意識を集中させると、また淡い光を放つ鎖が現れて唸る邪竜の口を覆った。
私は血が足りないのと疲れとで、岩に体を預ける。もう一歩も歩けそうにない。ぐったりする私の前にマティアスが立っている。
「邪竜を殺したら、聖女の力も勇者の力も失われるみたいよ。あとはマティアスの好きにしたら?」
疲れたのと力を使ってくらくらするのとで目を閉じる。本当に疲れた。このまま眠ってしまいたい。マティアスには刺されるし、建国の聖女に生まれ変わりの経緯について話をされたし。聖女にされてからもロクなことがない。あんなことを今更説明されてどうしろというのか。
頬に感触があって目を開ける。マティアスはまた私の前に跪いて頬に手を添えていた。
「何? 殺すなら早くしてほしいんだけど。痛くしないでね」
「さっきは邪魔が入ったので」
何の話よ。まさか、さっきの触れるだけのキスの話?
「あなた、嫌がってたじゃない」
「殿下を殺しそうになるからです。頭の中でずっと声が響いていました。聖女を殺せば、ずっと勇者の力を持っていられると。父の息子でなくても評価されると」
「それってあなたのコンプレックス?」
意外だ、マティアスは彼自身の行いで十分評価されていると思っていたのに。彼はそれに満足していないようだ。
「殿下とキスをしてから頭の中の声が弱弱しくなりました。強制力も弱まっているようです」
「だったらどうしたのよ」
「もう一回すれば完全に消えるかと。それかもう少し抗えそうです」
私はさすがに絶句する。マティアスと私は婚約者だが、こんな関係ではなかったはずだ。これは邪竜の影響なのか。それとも、自分を癒せと言われているのか。
「減るものではないとおっしゃったのは殿下です」
「言ったけど……」
マティアスの指が私の唇を撫でた。恥ずかしくて視線を逸らす。さっきは死んでもいいと本気で思っていたから、恥も何も感じずに「キスして」なんて言ったけど、これじゃあ私がアバズレみたいじゃないの。
「キスできるなら、体も動くんだし邪竜も殺せるでしょ」
「そうしたいのは山々ですが、剣を手に取るとまた声に引きずられて殿下を刺しそうです」
「どっちか早くしてよ」
「キスは嫌ではなかったんですか?」
それ、今聞かなくていいでしょ。そう言いたかったが、マティアスの私の頬に添えていない方の手は震えている。この状況で彼は嘘を言っていないようだ。本当にマティアスは建国の勇者の声に抗っている。
「いくら人生が終わりそうだからって、どうでもいい男と思い出作りなんかでキスしないわよ。あなたは嫌だったんでしょうけど」
顔を背けようとするが、マティアスの指が顎にかかって阻止された。また唇をゆっくりなぞられる。
嫌いだ、こんな空気。自分が一瞬でも誰かの特別のように感じてしまったら、そうでなかった時にどうすればいいのだろう。シェリル・バーンズは母にお金で売られた時、呆然として我に返って馬車の中から母の背中に手を伸ばすことしかできなかった。さっさと金を抱えて家の中に引っ込んだ薄情な母に向かって。
バカみたいじゃない。誰かに愛されているなんて思うなんて。マティアスにまでそうされたら、私はどうすればいいんだろう。
「こんな薄暗い地下で、ましてや邪竜のいるところで殿下にキスをするのはふさわしくないと思っただけです。こういうことは、しかるべき場所で想いを語り合ってからするものだと」
「母親の育てた方が良かったのか、あなたってロマンチックよね。好きでもない女に、頭の中の声に抗うためにキスしなくったっていいのに」
「好きですよ、殿下のことは」
一瞬、自分の都合の良いように聞き間違えたのかと思った。とうとう幻聴でも聞こえたのだろうか。
「私が、聖女だからでしょ」
「殿下が聖女ではない方が、私はいいんですが」
「どうしてよ、普通逆でしょ」
「緊急事態に他の男にキスするじゃないですか」
「そんなことしてないわよ、失礼ね。そもそも、あなたが私の力の発動条件を口付けだと察したからこんなことになったんでしょ」
「そうですね。あの時、言わなければ良かったと思っています」
マティアスの指に力が加わって上を向かされる。さっきは触れるだけのキスだったのに、今度は食べるか噛むのではないかというくらい荒々しい。この人、私をやっぱり殺す気なんじゃないかしら。
「毛を逆立てたネコみたいに言い返してくる殿下のことは好きですよ」
「……頭が、おかしいんじゃないの」
私は息を乱しているのに、マティアスは息一つ乱すことなく私の額に自分の額をくっつけながら唇をペロリと舐めた。あまりに近い距離にグリーンの目がある。
私がアデルではないことを彼に言おうか。グリーンの目を見て一瞬迷った。
マティアスはそんな私を置いて立ち上がって、剣を再び手に取る。体が強張ったが、私の方に剣を向けることなくマティアスは邪竜の背に飛び乗った。
邪竜に向かっていく足取りにも迷いはなかったが、背に飛び乗ってからも迷いなく、首の真ん中あたりに剣を突き立てようとしている。
これが建国の聖女が望んでいた光景なのだろう。
そう感じた時に、視界にピンクの髪がなびいた。消えたと思った建国の聖女が近くで悲しそうに笑っていた。
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