第7話

 背中に硬い地面の感触がある。

 うっすら目を開けると、こちらを覗き込むマティアスが見えた。

 せっかくなら、マティアスが私から離れてから生き返らせてくれたらいいのに。このままだとすぐ殺されるんじゃないかしら。


 マティアスはぼんやりと焦点が定まらない様子で、私の髪をいじっていた。時折顔をしかめてうるさそうに頭に手を当てる。


 記憶に引きずられるというのはこういうことだろうか。建国の聖女は私から見えていたから何とか耐えられたが、頭の中で声だけずっと聞こえるなら絶対にイヤだろう。

 私が目を開いたことに気付いて、彼は驚きすぐに手近に置いていた剣に手を伸ばす。


「マティアス」


 命乞いでもなんでもなく掠れた声で呼びかけると、マティアスは大きく体を震わせた。こちらを向いた彼の目には涙の膜が張っている。


 魔物や邪竜を前にしても冷静だったのに、こんな彼でも泣きそうになることがあるのね。さっき王女兼聖女を刺したんだから当然か。王族の殺害はバレたら極刑だけど、カルヴァンのせいにしちゃえば大丈夫じゃないかしら。どこからどう見ても私の腹の傷は刺し傷だ。邪竜のせいにするには無理がある。爪で刺されたっていうのはいけるのかしら。


 建国の聖女のおかげなのか、腹部の痛みはもうない。ただ、血がべっとりついていて不快だ。


「マティアス」


 血をたくさん流した後だからうまく動けず、起き上がれない。マティアスに手をゆっくり伸ばすと、彼は散々迷った末に私の手を軽く握った。


「殿下」


 彼なりに記憶に引きずられることに抗っているらしい。苦し気な表情と声で私のことを呼んだ。私の手にはうまく力が入らないから、この手の震えはマティアスのものだ。


「癒しの力……ですか? 私はさっき殿下を……」

「まぁね」


 説明するのが面倒だ。建国の聖女云々の話をする体力がない。血が足りないとこんな感じになるのね。


 マティアスの左手から見覚えのあるイヤリングが落ちた。彼の母親を癒すために、と一組のイヤリングを渡したうちの片方だ。ずっとあのイヤリングを握りこんでいたようでマティアスの手のひらには跡がついている。おそらく、あのイヤリングには癒しの力が残っているのだろう、感覚で分かる。マティアスは私にあれを当てようとはしてくれていたらしい。


「さっきから体が、意思に反してうまく動きません」


 私は黙ってマティアスを見た。毎回毎回頼んでもいないのに、彼は私を助けてくれた。先ほどの行動だけは違ったけれど。あれは力を返したくない勇者に引きずられた故の所業だ。


 マティアスのグリーンの目から涙がつうっと落ちる。


「また、殿下を殺しそうになります。殿下、どうか……這ってでもお逃げください」


 きっと彼の頭の中では勇者の記憶が本当にうるさいのだろう。涙を流しながら難しい顔をしている。思わず、私はふっと笑った。


「見てくれだけの王女なんて早く殺せばいいのに。あなた、バカは嫌いでしょ。私、死体でも綺麗だと思うけど」


 マティアスがこれほど理性的な人間でなければ、私をすぐ殺していただろうに。シェリルの人生もアデルの人生も大変だった。でも、マティアスだって大変だ。


 母親を盾にされて宰相にこき使われて。母親に愛されているのは羨ましいけど。でも、アデルだって両親と兄からちゃんと愛されていた。私はその愛を受け取れずに拒絶していたけれど。

 だって、愛したらどうなるのよ。建国の聖女みたいに使い捨てにされたら嫌じゃない。それなら愛さないで利用した方がいい。お金をたくさん持っている、あるいは持って来る人だと思っていた方が楽だ。お金は愛と違って目に見えるから。


「私を殺しても、その勇者の力はあなたのものよ。邪竜の存在をどう隠すかが問題だけど」

「そんなことを、言わないでください」

「せめて、最期は痛くしないでね」


 また死んだらどうなるのかしら。

 建国の聖女に「彼を救って」と言われたけれど、正直勇者も世界平和もどうでもいい。こんな私に何かが救えるわけがない。私に意思の確認をしなかったことが建国の聖女の間違いだ。生まれ変わらせる前に聞いてくれても良かったのに。そしたら「嫌です」って答えたわよ。


 聖女になって「聖女様のおかげです」とか「あなたのおかげで救われました」と言われることが増えたけど、そんなわけがない。私は誰も救ってなどいない。救ったのは建国の聖女の魂の一部に宿った力のおかげであって、私なわけじゃない。


 酷いわよね、聖女にならなかったら私は自分でこんなに自分が嫌いだなんて知らなくて済んだのに。

 お金を持ったら、こんな自分を愛せると思ってた。特別になれて、お金をこれだけ持てるほどの価値があるんだって思えるかと思ってたの。そうしたら、母親に捨てられたシェリルでも素敵な人間になったって胸を張れると、そう思っていたの。


 今回、私は愛を拒絶した。だから誰の特別にもなれなかったのかもしれない。聖女になって、生きているだけで偉くて特別だって言いながら私はそうじゃなかった。でも、マティアスは違う。マティアスは特別な人だ。賢くて、努力できて、こんな私のことを助けてくれる理性的な人。母親にだって愛されているし。彼なら別に勇者の力くらい持っていていいんじゃないか。


「ねぇ、マティアス」

「何ですか」


 マティアスは左目を手で覆って鬱陶しそうな顔をしている。


「最後にキスしてよ」

「は?」


 勇者の声がうるさいはずだが、マティアスは驚き呆けた顔に変わった。


「別に殺すんだからいいでしょ、最期くらい。減るものじゃないんだし」

「それは普通、男のセリフです」

「シャンデリアが落ちた後だって私にキスしたそうにしていたんだから、今できるでしょ」


 マティアスは顔を盛大にそらした。


「殿下は、とにかく逃げてください。またさっきみたいに刺すかもしれません。ずっと、聖女を殺せと言われているんです」

「血をたくさん流したから動けないわよ」


 シェリルだった頃も誰ともキスしなかった。王太子だったレグルスとさえ、である。今回もどうせ死ぬならいいでしょ、このくらい。癒すために水やらお札やらにキスを落とすばかりだったんだから。火傷した使用人の手にだってキスしたのよ。


「嫌だったら途中で言うから」

「殿下……あなたという人は最悪ですね」

「私を背後から刺した人に言われたくないわ」


 マティアスはしばらく軽く唸っていた。私は疲れているのであお向けに寝たまま、黙っていた。やがてマティアスが私に覆いかぶさってくる。


「今からでも遅くないので逃げてください」

「私、聖女でいたいわけじゃないもの。聖女の私でも私は自分のことが嫌いなの。あなたにならまた殺されてもいいわ」


 マティアスは逃げてくださいなんて言いながら、顔を近付けてくる。時折顔をしかめながら。


 マティアスの服を引っ掴んで引き寄せる。

 彼を愛しているかどうかは分からなかった。でも、私は誰かの特別になれるのだとしたら彼が良かった。彼が私をまた刺したなら、彼はきっと悔いるだろう。そうしたら、少しはマティアスの特別になれるだろうか。


 唇がゆっくり触れる。

 その瞬間、どこからかつんざくような悲鳴が上がった。

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