第6話

 誰かの胸に抱かれている。

 目に入るのは見覚えのある臙脂のジャケットだ。パラパラと破片が落ち、安否確認をする声がだんだんと耳に入ってくる。


 私はそれらをすべて無視して、彼の鼓動の音を聞いていた。それほどに近い距離だった。


「殿下、生きておられますか」

「生きてるわよ」


 彼が体を離したので、鼓動の音が遠のく。彼は私を抱え上げていたが、地面に下ろしたようだ。


「なぜ逃げなかったんですか」

「あなたってすぐにお小言を言うのね」

「殿下がシャンデリアの下で立ち尽くすからです」

「仕方がないじゃない。動けなかったんだから」


 マティアスの肩越しには、騎士たちが参加者を誘導して退出させているのが見える。


「みんな無事?」


 マティアスは大きく息を吐くと、後ろを振り返った。


「両陛下も王太子殿下も無事です。王妃殿下は近くにいらっしゃいませんでしたし、国王陛下と王太子殿下はあなたが突き飛ばしましたから」

「そう」


 私の側にしゃがみこんでいるマティアスは、走って私を助けたせいか息を少し切らしていた。彼の額が切れていることに気付く。


「あなたの怪我は?」

「ありません」

「額が切れてるけど」

「あぁ、破片で切れたのでしょうね。大したことはありません」

「聖女様」


 上から声が降ってきた。

 神殿騎士のカルヴァンが申し訳なさそうに水差しを手に立っている。


「聖女様。この状況で大変申し訳ございませんが、この水に癒しの力を与えていただけますか」

「そんなに怪我人がいた?」

「逃げようとしてパニックになって転んだ、足を捻った、破片で切った、くらいですね。重傷者はいないようです」

「分かったわ」


 私が水差しの水に口をつけていると、カルヴァンはマティアスに話しかける。


「マティアス様、よくご無事で。あの距離をどうやって聖女様のところまで移動されたのですか」

「……それほど離れていなかったが」

「いいえ、マティアス様の位置は私よりも聖女様に遠かったのです。私でさえ王太子殿下のところにまでしか間に合わなかったのに」

「……そんなことよりも、シャンデリアが落ちたことの調査を。殿下にお怪我はないようだが、パーティー前に点検しているのにあの地震で落下するのはおかしい」

「えぇ、歌劇場の件があるのにシャンデリアの点検で手を抜いたということもないでしょうから。これは調べがいがあります」

「殿下を部屋までお送りするが、もうここはいいだろうか」

「はい。調査は協力してしっかりしますので」


 カルヴァンは水差しを手にすると、迫力のある笑みを浮かべて怪我人のところに向かって行った。そしてバシャバシャ怪我人に水をかけている。その手つきにあまり気遣いは感じられない。


「殿下、戻りましょう。立てますか」

「無理よ」

「分かりました」


 マティアスは軽々と私を抱き上げて、会場を突っ切っていく。私は寒くて仕方がなかった。さっきまで震えなどこなかったのに、今更震えがやってくる。魔物に追われた後のように寒くて、マティアスの首に自然と手を回した。マティアスは何も言わなかった。


「姫様!」


 知らせがいっていたらしい。部屋までマティアスに運んでもらうと、マーサが泣きそうになりながら待っていた。


「震えていらっしゃるから温かいものを」

「はい!」

「殿下、食事を召し上がっていませんでしたが何か必要ですか」


 マティアスの問いに頷くと、マーサはパタパタと出て行った。

 ソファに座らされてもまだ私は震えが止まらなかった。マティアスはあちこち見回してどこに何があるか分からなかったらしい。自分のジャケットを脱いでかけてくれた。


「ありがと。あなたの怪我も癒さないと」

「あぁ、このくらいは平気です」

「手貸して」

「大丈夫ですよ。たったこれだけのかすり傷で殿下を煩わせるわけには」

「いいから。手貸して」


 震えながら催促するように左手を出すと、マティアスからもらったブレスレットが自分の左手首で揺れた。


「シャンデリアが落ちたのは事故ではないと思います。故意に部品が緩めてあったのでしょう」

「宰相?」

「いえ、父はあんな風にいつ落ちるのか分からないような手は使いません」

「じゃあ王弟?」

「その可能性が高いかと」

「ねぇ」

「はい」

「なんで私ばっかりこんな目に遭うの」


 マティアスは私の手を握りながら、一瞬言葉に詰まった。


「殿下が王族であり、そして聖女だからです。一部にとってそれは脅威でしょう。貴族令嬢だったら王族の婚約者にして終わりでしたから。ですが、殿下には王位継承権が」

「なんで毎回あなたは私を助けるのよ」


 そんなことは説明されなくても分かっている。私が女王になったら困るってことでしょ。そんなつもりはないわよ。


「助けない方がよろしかったのですか?」

「そうじゃないわよ」


 相変わらず、マティアスは女心というものを全く分かっていない。


「大体、あの神殿騎士も言ってたけど。どこから走ってきたの。危ないでしょ」

「一番危なかった殿下に言われたくはありませんし、たまたま間に合っただけです。運が良かったのです」


 マティアスと喋っていると無性にイライラするのはなぜだろうか。

 レグルスと過ごしてこんなにイライラしたことはない。


 私がマティアスを邪険に扱っても、彼が私を毎回助けるからだろうか。歌劇場の時からそうだった。マティアスは私を蔑んでいたのに平気で助けた。

 その後はシェリル毒殺のことを聞いてしまって、マティアスを無視していたのに魔物を倒して部屋まで運んでもらった。そして今回だ。今回も私はダンスの後でマティアスの手を振りほどいて放置した。それなのに、これだ。


「私、あなたに優しくした覚えも助けてもらえるような信頼関係も築いてないんだけど」

「一応、婚約者ですから」

「あなた、頭おかしいんじゃないの。婚約者だからって命懸けないでよ」


 相変わらず私の手は震え続けている。


「まだ寒いですか?」

「寒いし、怖い」


 怖い、また死ぬのが。あの冷たい感覚が這い上がって来るのが。


「そろそろ食事が来ると思いますから」

「婚約者なら私のことをもっと心配しなさい」

「……明日の城下での祭りには行きますか?」

「何で今そんな話になるの。どうせ公務で行くことになっているじゃない」

「公務が終わった後で屋台を見て回るのも面白いかと思ったのですが。変装すれば歩きやすいですし。それか今日の事件があったので、ワガママを言ってサボってもいいと思いますよ。気が紛れませんでしたか」

「紛れないわよ」

「では、どうすれば殿下のこの震えは止まりますか」


 私は無言で片手を伸ばした。もう片手はマティアスに握られているが、強引にマティアスに抱き着いて肩口に顔を埋める。


「汗臭いかもしれませんよ」

「臭かったら言うわよ。うるさいわね」


 マティアスもおずおずと私の背中に手を回した。

 マーサが戻って来て、食事を並べても私はマティアスに縋りついていた。マーサは気を利かせて出て行ったらしい。


「聖女やめたい」

「やめられるものなんですかね」

「そこは嘘でも、やめられますよとか、調べましょうかって言いなさい」

「嘘を言うのは性に合わないので」

「あなたってモテないでしょ」

「モテる必要性がありませんでした」

「あぁ、そう」


 マティアスの温かさを奪って、ようやく震えが落ち着いてきた。


「私は、今の殿下の方が好きですよ」

「それは私が聖女だからでしょ」

「いえ、以前よりも会話ができるので」

「バカにしてるの? 私は会話くらいできるわよ」

「以前は反応も頂けなかったので……水面をずっと押しているようでした。以前の殿下はすべて諦めていて魂でも抜けているのかと思ったくらいです。でも、今の殿下は平気でいろんなことを仰るので、今の殿下の方がいいです」


 魂が抜けていた、ね。まさか、私が覚醒していなかったからアデルは死んだように生きていたのかしら。もう訳が分からない。


「食事が冷めますよ」

「うるさいわね。ちょっと黙ってよ」


 震えがかなり小さくなった私は大きく息を吐いてからマティアスを見上げた。こちらに向けられたグリーンの目はいつ見てもムカつくほどに綺麗だ。視線を上げれば額の傷も見えた。


 マティアスの額の傷にそっと触れると、彼は目を伏せて少し体を震わせた。傷口から出る血はとっくに止まって固まっている。


「痛いの?」

「痛くはありません。気付かなかったくらいですから」

「そう」


 マティアスの背中から首に手を移動させて、ぐっと引き寄せた。マティアスは油断していたのか体が簡単に傾く。私の唇が彼の額に触れて、淡い光が見えた。


「ありがとうございます」

「……助けてもらったのに他に怪我があったら大変だもの」


 沈黙が落ちる。私はマティアスの首に手を回したままであったし、マティアスはバランスを取るために私の体の両側に手をついていた。近い、ダンスの時よりもずっと距離が近い。でも、お互いなぜか視線を絡めたまま距離を取らないでいた。


 まるで恋人のような距離に私は気まずくなってそっと視線を外す。いや待って、私は癒しの力を使っただけよ、そうよ。私が気まずくなる必要なんてない。そもそも、カルヴァンとかいう神殿騎士がマティアスにあの癒しの水をかけていかなかったのが悪いのよ。


 咳払いをしてマティアスの首から手を外す。引っ込める途中で私の左手をマティアスがそっと取った。どうかしたのかと眺めていると、マティアスはそのまま私の指先に口付ける。


「あ……」


 驚いて声が漏れる。シェリルだった頃もこんなことは経験がない。そもそもキスだってしたことないのに。歌劇場のあれはノーカウントよ。あれは事故ね。使用人の火傷を癒したのもノーカウントで、兄は家族だからノーカウント。


 そんなことを考えていると、マティアスは続けて私の手の甲やブレスレットにもキスを落とした。思わず体が跳ねる。


 マティアスは微かに口角を上げて笑うと、私の頬から顎に指を滑らせた。あまりの近さに、私はどこを見ていいのか分からずに盛大に視線を泳がせる。でも、マティアスの視線が私を捉えているのはしっかり感じた。


 これってキスする雰囲気じゃない? いや、待って。今まで私たちキスする雰囲気だった? そんな関係じゃなくない? うるさいとか黙ってとしか私言ってないのに? 事務的な雰囲気でもないけど、情熱的な雰囲気でもないのに?


 マーサのノックがなかったら、多分キスしていた。その位危なかった。

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