第4話

 マティアスは二人分のトレイを持って部屋から出た。

 トレイの上の突っ返されたオレンジの存在を思い出し、後で母にこっそり渡すためにポケットに入れる。


「おぅ、マティアス。大丈夫だったのか? 怪我はないのか」


 さっき魔物と戦った騎士が声をかけてきた。アデルがつっかかったうちの一人だ。


 アデルの尻拭いをするのはこれまでもマティアスの役割だった。誰にでもできる公務の報告書でも、使用人へのフォローでも。今日でいえば、この騎士たちへのフォローだ。彼らはアデルの言葉を嫌味とはとっていなかったので助かった。


「大丈夫だった」


 騎士は魔物に立ち向かった連帯感からか、親し気にマティアスの肩に手を回す。


「しかし、すごいな。俺達みたいに魔物に慣れてる奴でも最初っから魔物と一対一で無傷なんてありえない」

「運が良かったんだ」

「あんなにデカい魔物で運が良かった? さっきの小型の奴を仕留めた動きもすごかったな。本当にマティアスは騎士じゃないのか?」

「騎士団で稽古はつけてもらったが、それだけだ。とても本物の騎士には及ばない」


 母と引き離されて父に引き取られてから、マティアスが死んでも構わないというくらいに勉強と剣術は仕込まれた。それで今日は生き延びたと思うと吐き気がする。

 自分と母を道具としか思っていない父。父と呼ぶのもおぞましい存在。


「そんなもんかぁ、いや王族の護衛を務めているくらいだから凄いんだな。そういや、聖女様は大丈夫か? 怖かっただろうに」

「魔物は王都に出ないからショックを受けておいでだ」

「だよな。さっきちょっと聞いたんだが、どうやら魔物除けの香が魔物をおびき寄せる香にすり替わってたらしい」

「は? そんなことが? 間違えたのか?」

「いいや、ここは負傷者メインなんだ。魔物除けの香しか置いてねぇはずだ」


 作為的に魔物がおびき寄せられたようで、二人して沈黙する。魔物除けの香は魔物の嫌がる香りを放って魔物を近寄らないようにするものだ。おびき寄せる香はその逆。


「いや、間違えて魔物除けの香だと思って逆の物資がこっちに来たのかもしれない」

「そうだな……その可能性もあるよな……」


 迂闊なことは言えず、マティアスがそう言うと騎士も重い口振りだが同意する。アデルを害するためにあの王弟はそこまでするだろうか。あるいは、父か他の貴族が絡んでいるのか。

 彼は重い話題を振り切るように話を変えた。


「聖女様って今日初めて近くで見たけど、超美人だな」

「そうか?」

「マティアスは毎日見てるかもしれないが、相当な美人だ。口が開くかと思うほどびっくりした。もう本当に聖女様だ。あんな美人の側にいられるなんて羨ましい」


 その後、少し会話をしてその騎士とは別れた。


 見てくれだけの王女と言われるだけあってアデルはとても美しい。着飾っていなくても、腰を抜かしていてもなんなら酷い言葉を放っていても。

 マティアスはもう慣れているが、父のごり押しと策略で婚約者候補にされて顔合わせをした時はうっかり見惚れた。絵画から抜け出してきたような王女だと思った。


 しかし、彼女は周囲から期待されたほど頭が良くなかった。その上、妙に冷めていて諦めている雰囲気があった。

 おそらく、父や王弟のせいで家族が揃うことが難しかったからだろう。

 王妃の体調が悪くなってからチャンスとばかりに派閥争いが激化していたのだ。両親や兄といった身近な人間から構われなかった王女は、いつ会っても年齢に似合わずどこか達観した様子だった。


 マティアスは父の策略でアデルの婚約者になったが、彼女のことは不憫だった。父の被害者のようなものだから。


 彼女が哀れで、それでいろいろ口を出し過ぎてしまったのだろう。王女はだんだんマティアスを避けるようになった。マティアスも良かれと思って口を出していたが、現状から抜け出すために何の努力もしない王女に嫌気がさしてしまった。マティアスだって母のことがあって、普通の令息よりは手いっぱいだったのだ。

 あの父は母が病気になった途端にマティアスを引き取りに現れた。病気の母を盾にされて、ずっと父の思い通りになる人形として生きてきた。



 今のアデルはどうだろう。

 記憶喪失になって歌劇場で聖女の力が判明して。いや、聖女になったのはそれほど重要ではない。本人は嫌がっているし。


 あれから、彼女はマティアスに言い返すようになった。諦めて沈黙して避けるのではなく。カリスト領に向かうまでは少し避けられていたものの、今日だって普通に喋っている。マティアスと対等になって、さらに上に行って踏みつけようとでもしているように。そのくせ、一切信頼はしようとしない。


 マティアスが彼女を蔑んでいたことにしっかり気付かれていた。そして、彼女はそれを怒っている。

 頭が悪いはずの彼女の言葉は、無視できるはずなのに時折妙に心に刺さる。あんな馬鹿な女なんて嫌いなはずなのに。


 彼女を守るのは父の言いつけだ。父は聖女の婚約者の座を絶対に他に明け渡したくないらしい。子供が産まれたら権力を握ろうとでも思っているのだろう。あと一年で彼女は結婚できる年齢になるから。

 でも、マティアスはどうにかして父を失脚させたかった。母を守る必要がなくなった今、理論上は可能だ。


 少しばかりアデルにイライラしながら、マティアスはシスターたちがいるだろう場所へ向かった。「聖女様が皆でどうぞと言っていた」とでも伝えれば、皆で分け合って食べるだろう。


 柄にもなくオレンジを賭けたじゃんけんに参加した自分を誤魔化すように、マティアスはポケットのオレンジの重みを無視した。

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