第8話
カリスト領までの旅はそこそこ快適だった。
少しばかり魔物が出ただけで、後は何もない。マティアスの母親だけ馬車に乗せておくのは今後軋轢を生むかもしれないと、他のシスターも乗せて私の話し相手をさせたので意外と退屈しなかった。
マティアスの母親はマッサージをしたり、飲み物を出してくれたりとかなり世話を焼いてくれる。
私だってなにも寝てばかりいたわけではない。
癒しの水だのなんだのが足りていないと報告が入ったので、馬車の中でせっせとお札を作った。水は馬車の中ではこぼすから全部紙だ。お札なんて言っているけれど、全部ペラペラの紙よ。紙に口付けする必要があるので、唇が完全にガサガサに荒れた。
マティアスの母親はそんな私の唇にクリームを塗ってくれる。母親って普通はこんな感じなのかしらね。子供一人産んだようには見えない彼女を見ながらそんなことを考えてしまった。
マティアス? マティアスとは大して会話をしてないわよ。護衛騎士は時間で交代するから彼だけが馬車に乗っているわけでもない。
カリスト領まで到着すると、それまでの和やかな雰囲気は一変した。
私が案内された建物には、いたるところに負傷者が集められていた。早速神官やシスターたちが持って来た癒しの水やお札を配り始めている。
「こんなに、酷いの?」
「昨日まで魔物が大量に発生したようで被害が大きいそうです」
一番近くに寝かされている男性の巻いた包帯には血がかなり滲んでいた。
その赤を見て、思わず私は大きく顔をそむけてしまう。シェリルだった自分が死んだ時を連想させる色だから。そして血の匂いもどうしても気になってしまった。
とりあえず持って来た分で足りるようなので、私は食糧庫の近くでまた癒しの水作りに取り掛かる。樽の中の水をどんどん変えて、ハッとした。
私、なんでこんな真面目に働いてるのかしら。怖いわ。これが状況の力ってやつ? あんなにいっぱい怪我人がいて、皆青い顔で走り回っていたら私まで真面目に働いちゃったわよ。イザベラにはしっかりやってきなさいなんて言われたけど、私大して働く気なかったのにどうしちゃったのかしら。
私が樽の前でぼうっとしていると、マティアスではない護衛騎士が「大丈夫ですか?」と私をイスに座らせた。
さすがに私でもこんなところでドレスやワンピースなんて着ていない。汚すのも嫌だし。ズボンとシャツで長い髪は頭の上で一つに束ねてある。
目の前の水に自分の顔が映っている。私の望む贅沢で怠惰な生活からはほど遠い姿だ。
「ねぇ」
「どうされました、殿下」
「ここで魔物を食い止めてるの? ここまでとは全然様子が違うわ」
「はい、ここでランバード伯爵と騎士たちが魔物を食い止めているからこそ被害はまだ拡大しておりません」
「そうなのね」
シェリルだった頃、毒殺されただけで痛くて怖くて。あんな惨めな思いは二度としたくないと思った。でも、ここの人達は腕を切られても背中を切られても頑張っているのよね。
しかも癒しで回復したらまた戦線に出て行くわけでしょ? そんなの私なら絶対に嫌よ。でも被害が拡大したら困るし、何なら私が帰って贅沢するはずの王都にも魔物の被害があったら困るし。
私は黙って立ち上がると、試しに樽の中に手を突っ込んだ。何も起こらない。
「ダメか」
口付けよりも効率的にいきたいのだが、ダメらしい。
本当に厄介な特別な力だ。仕方なくまた水面に口をつける。
これって皆、私の口が一度ついた水をかけられたり、飲まされたりするの嫌なんじゃない? 傷口にかけているみたいだけど。
そんなおかしなことを考えながら、夜まで作業をした。これでかなり癒しの水には余裕ができたのではないだろうか。
私には専用の部屋を用意されているようで、案内してもらう。
その道中、ある負傷者の前で神官とシスターが困っていた。
嫌な予感がしながらもそこを通り過ぎるしかない。
「聖女様!」
神官が縋るように声をかけてきた。
なんだか面倒なことになりそうな気配がする。
「この方が癒しの水をかけられるのは嫌だと」
「無理やりやればいいんじゃない?」
「いえ……暴れるので聖女様が作ってくださった水が無駄になっておりまして……」
「札を当てたら?」
「札はもう全部使ってしまいました」
私が自分の服をあちこち探しているので察したらしく、シスターがさっと自分の服の袖を裂いてくれる。マティアスの母親ではないが、馬車に乗せたシスターの一人だった。
「ありがと」
「うっうっ……もう死なせてくれ……」
裂いた布に口付けを落とすと、足元の負傷者からそんな声が聞こえた。
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