第5話
天井の一部が剥がれ落ちていた。ギリギリ被害を免れたのであろう子供が泣きべそをかいている。
そして足が天井の下敷きになっているのはさっきまで一緒にいたマティアスだった。
すぐに騎士たちや若者たちが動いてマティアスは助け出されたが、足を切ったらしくかなり出血している。べそをかく子供に抱き着かれながら、マティアスが応急処置されるのをぼんやり見つめることしかできない。
あれって大丈夫なの? 助かるの?
シェリルだった自分が血を吐いて死んだ時とは違う感覚が足から這い上がって来る。
「王女殿下。ここは危ないのでどうかご移動を」
騎士が私のドレスに鼻水をつけた子供を他に引き渡し、現場から離そうとする。応急処置を受けるマティアスの顔がこちらを向いていた。真っ青ながらも何か私に訴えようとしている。
横たわる彼に近付いたが、口が微かに動くだけで何を言っているのか分からない。
「母を……助けてくれ」
どういうこと? 実の母親? それともフリント伯爵夫人?
「神殿の近くに、住んでいる……定期的に薬を持って行かないと」
マティアスの声がますます弱弱しくなるので、さらに顔を近付けた。私の髪がマティアスの顔にかかる。
王族を殺そうとしている宰相の息子だ。正直、話なんて聞かなくってもいい。私だけ安全なところにさっさと移動しても良かった。でも彼は悲壮な表情で、この歌劇場での彼の行動を見ていたら聞いておいた方がいい気がした。
「母は……父に殺されてしまう……」
会った時は蔑んだ目で見てきたのに、彼は私に震えながら手を伸ばしてきた。
母親について語る時は蔑みなど微塵もない、綺麗なグリーンの目。
羨ましい。彼はシェリルと同じ庶子でも、母親に売られたわけではないようだ。
大怪我をしている時に嘘をつく必要もない。宰相はきっと彼の母親を人質にでもして彼を無理矢理引き取ったのだろう。同じ庶子でもシェリルとは全然違う。目の前の男は、母親にだけはきちんと愛されていた。それだけでシェリルよりずっと価値があった。
「頼む……母を。名前は……ノイシャで……」
マティアスの手の力が抜けていく。
え、死ぬの? 死なないわよね?
綺麗なグリーンの目がだんだん閉じていく。
え、嘘でしょ?
マティアスの足に巻かれた応急処置の包帯は真っ赤だ。これ、ちゃんと止血されてんの?
「ちょっと! 起きなさいよ」
マティアスの頬を叩くが今にも目が閉じそうだ。
先ほども感じたあの嫌な冷たさが足から這い上がって来る。そして、また赤。私が唯一知っている死の色。
「母を……」
うわ言のように母、母と呟くマティアスに吐き気がした。
私はせっかくまた美人に生まれ変わったみたいなのに! 王女なら男に媚売って頑張らなくても贅沢ができると思った! シェリルだった時よりもずっと。そもそも王女って存在自体に価値があるじゃない。その辺の馬鹿な親に売られるピンクブロンドの男爵令嬢と違って。
それなのに宰相と王弟には命を狙われているようだし、なんなら今日認識したばかりの婚約者は目の前で死にかけている。
尊い身分になったのに、私の命は確実に男爵令嬢だった頃より軽くなった。おかしい! こんなのっておかしい!
「いい加減にして!」
シェリルだった頃、毒殺されたのは訳が分かる。
だって、私を追い落としたい奴らはたくさんいた。でも、私はそんな流れに逆らって自分の価値を高めたかった。贅沢がしたかった。
でも、今はアデル王女になってそんなことしてない。不相応な夢なんて見てない。
それなのに何で? 何でこんな目に遭うの? 私は何もしてない。見てくれだけの馬鹿な王女なんでしょ? 平和に暮らさせてよ、いい加減。美味しいもの食べて、綺麗なドレス着て笑うのさえ私には許されないわけ?
腹が立ってマティアスの頬をまた叩くがもう反応がない。彼の胸に縋りついて心臓の音を聞いた。まだ緩やかに鼓動していた。
「私はあんたの母親救う義理なんてないんだから」
この理不尽な生まれ変わりだか憑依だかに初めて涙が滲んだ。
その時だった。なぜか目の前がとんでもなく眩しくなった。
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