3月10日 来たのは誰だ

 昨夜22:30にグレンウッドを出たバスは、朝7時にユタ州ソルトレイクシティに着きました。

 ここでアメリパスの最後のページにロサンゼルスまでのスタンプを押してもらい、午後の便に乗ることにしました。

 途中ラスベガスで数時間下車し、一本後のバスで明日午前中にロサンゼルスへ帰り着く計画。パスについていたページを総て使い切り、表紙しか残りません。

 特に後半は強行日程続きで、これだけこのパスをフル活用し倒した旅行者もなかなか他にいないんじゃないかと、変な満足感もありましたが、正直ベッドが恋しくなっていたのが本音です。

 今日を乗り切れば、明日の夜にはベッドに身体を横たえて眠れます。

 

 あー、身体を伸ばして寝たいっ


 ナガノはラスベガスに直行したいとのことで、今夜の乗車予定をすり合わせここで一旦別れました。


「ラスベガス出るバスは一緒のやつ乗るから」


 うん、また行方不明ならんといてや

 今度ばかりはパスの期限あるから、遅れても先行くで

 頼むで



 ソルトレイクシティは北緯40度とこの旅の最北ポイント。青森県弘前市と同じぐらいの位置。

 市中に積雪はありませんが、深々と雪を被ったロッキー山系のワサッチ山脈の峰々がそびえ立っています。

 この地はモルモン教徒が拓いた街で、ゴールドラッシュの交通の要処として発展したようです。

 豊かな自然に囲まれた高地の街で、2002年の冬季オリンピックが開催された場所でもあります。


 僕とニシカワは午後のバスに乗るまで散策をしに、乾いた寒気に包まれた街へと歩き出しました。

 街はゴミひとつ落ちていないクリーンな印象だったのと、安全そうでどこかのんびりとした空気を感じさせる街並みでした。

 鉄道好きのニシカワの希望で、大陸横断列車のリオグランデ駅と貨物線のユニオンパシフィック駅を見に行ってから、街一番の観光ポイントであるテンプルスクエアへ。

 そこはネオゴシック様式と言われる堂々たる建物でモルモン教の総本山。

 モルモン教という名前は聞いたことがありますが、キリスト教のいろんな宗派の違いなど馴染みが薄くてさっぱりわかりません。

 さっきバスから降りた時、二人組の宣教師?がさっそくパンフレットを手渡しに来たのが、この街の特徴を表していました。


「モルモン教って酒もタバコも禁止なんやろ」

「らしいね」

「俺には無理」

「俺も無理やな」

「真面目に生きてはんねん」

「真面目になあ」

「よその国にライター売りに行ったりせえへん」

「え、誰のこと?」


「馬場が確かモルモン教徒やで」

「ババ?」

「ジャイアント馬場」

「あ、ほんま?」

「週プロ情報によると」

「馬場さん葉巻吸うてたで」

「そやな」

「葉巻はええんか?」

「さあ、知らんけど」


 テンプルスクエアには40か国の言語のガイドが待ち構えており、僕たちはカワカミさんという日本人ガイドに案内され、施設内を見学しました。

 ちなみにユタ州は太平洋戦争時代、日系アメリカ人の強制収容所が多くあった場所で、この人がそうした家系の方だったかどうかはわかりません。

 カワカミさんにモルモン教の歴史と他宗派との違いを丁寧に説明され、「幸福を探しもとめて」というビデオまで見せられましたが、信仰心など持たない不敬な僕たちの心には何も響きませんでしたが、最後に案内された音楽ホールは記憶に残っています。

 パイプの数が世界一だというパイプオルガンの演奏は見事で、大きなホール中に重厚で荘厳な音色を響かせました。


 車中で食べようとドーナツを買い込み、14:45発のバスに乗り込みました。

 長かったバスの旅もいよいよラストを迎えようとしています。

 この数時間後、まさかニシカワがあんなことになろうとは思ってもいません。

 バスのシートに身を預けて、二人ドーナツをパクつきました。




 この日のソルトレイクシティ探訪は後日談というか、想像していなかった話二つにつながります。



 僕は専門学校を1年で辞めてしまい、親に対して気まずかったのと、アルバイト専念で経済的自立のメドが立ったので、20歳の時に実家を出てアパート暮らしを始めました。

 6畳一間、風呂なしトイレ共同のボロアパートでしたが、僕にとっては夢の城。

 一人暮らしは高校ぐらいから描き始めていた夢の実現です。勝手気ままで自由な毎日を謳歌し、里心など全く起こっていませんでした。

 この旅の頃、実家にはもう2年ぐらい帰っていません。


 旅の途中から日本に帰ったら、久しぶりに実家へ帰ろうと考えていました。

 父と母に旅の写真を見せてやろうと考えたのです。

 戦前生まれの僕たちの親世代は、外国なんて遠い存在ですし、自分が外国を旅行するなんて想像すらしなかったと思います。


 帰国して落ち着いた頃、実家に顔を出しました。

 アメリカ行きは出発前に話して行ったし、向こうから絵葉書を1枚出したりもしていました。

 父と母は興味深そうに、そして嬉しそうに、持って行った写真を一枚一枚手に取り、僕の旅の土産話を聞いていました。


 その時です。

 玄関のチャイムが鳴り、母が「はい、はい」と出て行きましたが、すぐに慌てた様子で戻って来ました。

「◯◯(僕の名前)、あ、あんた何したん?あ、あ、あんたの名前言うてはるで」

 えらく慌てて、玄関を指さします。

 え?誰?誰が来たんだろうと行ってみると、玄関先に外国人が二人立っていました。

 きちんとした身なりの二人とも若い白人。自転車に乗ってきたようです。ちゃんとネクタイを締めていたように思います。

 実家はJR線路脇の路地裏の文化住宅と呼ばれた集合長屋。

 どう見てもその場所に不釣り合いな二人が立っていました。


「◯◯サンデスネ?」


 流暢とは言えないたどたどしい日本語ですが、笑顔で尋ねてきました。

「あ、はい」

 僕は何が起こっているか理解できず、二人の説明を聞いてやっと合点がいきました。


 あのソルトレイクシティのテンプルスクエアを訪れた際、訪問者として記帳してくださいとカワカミさんに促され、僕は正直にも本名と実家の住所を書いたのです。

 二人がここを訪れたのは、彼らの宗教への勧誘活動でした。

 記帳したことなど忘れていたので驚きましたが、地球の裏側まで情報が伝わり、あの時走り書いた住所を頼りに、実際に足を運んで来たということに心底感心しました。

 そして僕が実家に帰る日時を事前に知っていて、そこをピンポイントで狙ったかのように訪ねて来たことが実に不思議で、ちょっぴり怖さを感じました。


「申し訳ないですけど興味ないです」


 僕のつれない返答に、二人はイヤな顔ひとつ見せず、ズルズルと話を引き伸ばすこともなく、小さなパンフレットだけを置いて笑顔で帰っていきました。


 母からすると突然の外国人の訪問に、さぞや驚いたことでしょう。外国人に話しかけられたことなど、それが人生初めてだったかもしれません。

 あの時の母の慌てた様子を思い出します。


 もうひとつの話の続きがあります。

 あの日母が「これちょうだい」と言ったので、何枚かの写真をあげました。

 確か、サンアントニオの朝焼けの写真とワイキキビーチでビキニガールと撮った写真。他にも数枚。

 すっかり忘れていましたが、それから何十年も経って、そのことを思い出しました。

 母はこの後早くして亡くなったのですが、生前にその写真を見せながら、僕がアメリカへ行ってきたことを親戚の人たちに話していたらしいのです。

 親戚の法事で久しぶりに会った叔母が、「とっても嬉しそうに見せてたのよ」と話してくれました。



 丁度この原稿を書いているのが、その母の亡くなった月で、3月“10日”の原稿ですが10日が命日。


 嬉しそうに話してたって、自慢したかったのかな。

 そんな母がちょっとかわいい気もする。


 そうやったん?

 お母ちゃん。

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