3月9日 ハービバノンノン
「温泉行こうや」
チーズバーガーをほお張りながら、ニシカワが突然言った。
「はあ?温泉?」
頭の中になかった言葉に僕は即座に聞き返す。
「うん、温泉」
ニシカワがニヤリと笑った。
バスの中で目を覚まして驚きました。
粉雪が舞っていたセントルイスどころではなかった。
夜明けと共に見えてきたデンバー近郊は、辺り一面銀世界。見渡す限り真っ白の雪原が、朝日を浴びてキラキラと輝いています。
06:20に到着したコロラド州デンバーは恐ろしく寒い真冬の様相を見せていました。
セントルイスから西へ1350km。緯度的には少し北に上がって秋田市や盛岡市と同じぐらいです。
バスから降りた途端、身震いして肩をすぼめました。
それでも心は躍っていました。
僕たちには光り輝く希望があったからです。
昨日食事を我慢して、デンバーを目指したのには明確な理由がありました。
牛丼が食いたいっ!
『歩き方』のデンバーの「おすすめレストラン」の欄に、「吉野家がある」と載っていたのです。それも読者投稿が3件も。
牛丼はビーフボウルという。飲み物はコーヒー、紅茶、コーラ、ジュース、グリーンティーからチョイスする。牛丼と飲み物で1.5ドルほど。味もなかなか。チキンとポークの照り焼きもあるよ!
全部、吉野“屋”と誤植されてたのはご愛嬌ですが、よだれが出るような文章が踊っていました。
ギュウドン。
なんて刺激的な言葉なんでしょう。
この異国の地で、更には懐具合を心配しながらの食生活を送っていた僕たちにとって、それはダイレクトに脳に突き刺さり、おとなしくさせていた食欲を一気に呼び覚ます圧倒的破壊力を持った言葉の響きでした。
牛丼!
食いたい!
牛丼が食いたいっ!
その情報を知ってから頭の中は牛丼だけでした。牛丼があったからこそ、昨日もポテトチップ1袋で我慢できました。
牛丼が食いたいっ!
その時の僕たちにとって、牛丼は他のどんな食べ物よりも口にしたい、世界最高のご馳走に思えました。
さー、食うぞ!
僕たちは喜び勇んで街へと繰り出しました。
牛丼が食いたいっ!
歩き始めたデンバーの市中は、歩道脇に雪が積み上げられ、吐く息が真っ白。おそらく気温は0℃近かったのではないでしょうか。
ところが、ふとナガノの足元を見てびっくり。
なんと、素足にビーチサンダルです。
「なんやそれ」
「え?あー、まあ、へへ」
「靴は?」
靴はロッカーに預けたバッグの中だと言うのです。
「大丈夫、大丈夫」
本人、強がっているのか至って平気そう。
確かにこの前まで暑かったけどもやな、また履き替えたらええやん。見てるこっちが寒くなってくるわ。
この男の行動、本当に読めません。
そんなことはどうでもいい。
牛丼を食うぞっ!
吉野家に向かう足取りは軽い。
頭の中は、牛丼と味噌汁。
やっぱりここは大盛やな
(この時代、特盛はまだない)
大盛はなんて言うんかな
並はレギュラーと書いてたけどな
ビッグか、ちゃうなラージか
味噌汁あんのかな
なかったらスープでもええわ
あったかい汁物も飲みたい
牛丼!牛丼!
『歩き方』に載っていた地図と住所を頼りに、現場に到着。
さあ、牛丼を食うぞっ!
さあ
ええっ!?
ええーっ!!??
自分の目を疑いました。
なんてことでしょう。
吉野家がありません。
目の前のレストランの建物には「Tokyo Bowl」という看板が。
うそやん!
吉野家がわけのわからない日本食レストランに代わっていました。
おまけにオープン時間が11時だと。
中を覗き込んでも、灯りの消えた店内には誰もいません。
うそやん!
俺の牛丼は?
牛丼、食いてーっ!
お腹がグーっと鳴りました。
うそやん……
3人は仕方なく来た道をトボトボと戻り、またまたマクドナルドに入りました。というより、そこしか営業している店がありません。
当時の『歩き方』の記事情報には結構なタイムラグがありました。読者情報が少ない上に、アップデートされていない古い情報が、古いまま掲載されているものも少なくありませんでした。
まあ情報伝達のスピードそのものが、現代とは大きく異なっていましたから。
あー、食いたかったな……
牛丼!
牛丼ーっ!
夢にまで見た牛丼を泣く泣く諦め、チーズバーガーを頬張っていた時に、ニシカワが言ったのです。
「温泉行こうや」
ここデンバーから少し先に温泉があると『歩き方』に載ってると言うのです。
グレンウッド・スプリングス。
デンバーのページをめくると、近郊情報として、スキー場を併設した温水プールの記載が確かにありました。
Hot Springsとは温泉のこと、と書いてある。
半ページほどの記事だったので僕は見逃していました。ニシカワのやつ、よう見つけたな。
アメリカで温泉か
温泉入りたいっ!
うん、入りたいっ!
頭の中が牛丼から温泉に切り替わりました。
温泉行こ!
温泉!
10:30発の支線バスに5時間ほど揺られ、グレンウッド・スプリングスに到着。
入場料3.75ドルを払い、レンタルのスイミングパンツに履き替えてまずはシャワールームに直行。
頭を洗うのはニューオリンズ以来。体を洗うのはツーソン以来。
アメリカになかったもので困ったのは、銭湯、風呂屋だと書きました。
とにかく全身が洗えて、めちゃくちゃ気持ち良かったです。
3人キャッキャ言いながら泡にまみれ、風呂の有り難さを実感しました。
周りから見たら、ちょっとひくぐらいの喜びようだったと思います。
子供のようにはしゃぐ泡まみれの3人のジャパニーズ。
全身を洗い終わってさっぱりして、さあ次はいよいよ温泉につかるぞ。
外に出るとお湯を湛えた何面ものプールが、白い湯気をもうもうと上げていました。
ザブザブと海パン姿で入ります。腰ぐらいの深さです。
気持ちええ〜
ややぬるめでしたが、温かいお湯に全身を包まれ、その気持ち良かったこと。
極楽、極楽。
夜行バス生活でも睡眠はちゃんと取れていましたが、もう長い間体を真っ直ぐ伸ばして寝ていません。
プールの縁に頭を乗せ、全身をプカプカと横たえました。
お湯が体の隅々に染み入ってくるかのよう。
立ちのぼる湯けむり越しに、雪を深々と被った4000メートル級のロッキー山脈の山並みが見えます。
なんと雄大で贅沢な景色……
女性の読者の方、読んでいらっしゃったらすいません。
ブランドンホテルにはバスタブはありましたが、とても浅いもので、お湯を張っても全身が浸かれません。
無理やり肩まで沈めようとすると、えーと、そのナニが、えと、その、僕のそれがコンニチワと水面から顔を出し、居心地悪そうに僕に何かを訴えてきます。落ち着いて浸かってられません。
なので、いつもシャワーだけで済ませていました。
こちらに来て何もかもが、見るもの体験するもの総てが素晴らしく映っていました。
アメリカってスゴイなーっと思っていました。
しかし風呂だけは、風呂だけは日本の方が絶対いいよなあと、この時湯けむり越しのロッキーの山々を眺めながら、しみじみと思ったのです。
普段当たり前だと思って見過ごしているような価値や有り難さも、外を知ることで初めて認識することがありますね。
やっぱりお湯に浸からんとなあ
シャワーだけじゃなあ
風呂に関しては絶対日本の方が勝ち
100対0
余裕の圧勝
極楽、極楽
幸せじゃあ
いい湯だナ ハハハン
自然と鼻歌が漏れます。
ハービバビバ
はー、気持ちええー……
ハービバノンノン
白い湯気がデカい空に立ち昇っていきました。
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