3月8日 ベリーハングリー
いやー、びっくりした。
バスの中で目を覚ますと、セントルイスの街には粉雪が舞っていた。バスで一晩動いただけやのに、昨日までの暖かさがウソのよう。
AM10:30着。13:00発のバスでデンバーに向かう。デンバーまで飯抜き。今、コーラ1本飲んだだけ。
17:30カンサスシティで休憩。空腹に耐えかね、ポテトチップ(35セント)を買う。
これがこの日の日記。原文ママ。
はっきり言ってこの日も記憶があまりありません。文面から判断して、昨日寝過ごしで遠回りしてしまった為、全くの移動日に変更し、先を急ごうとしたのだと思います。
しかし、コーラ1本にポテトチップ1袋だけとは。ちなみに買ったポテトチップは自販機サイズの小袋のもの。
日記の最後にはデカい字で、「VERY HUNGRY」と走り書きが。
アルファベットが小刻みに震えています。
何もしないのだからと、食事制限したのが容易に想像できます。
バス移動中の胃袋は、この前後数日が一番きつかったです。
一昨日いたニューオリンズから、ここセントルイスまでは北へ約1,080km。
日本の緯度的には屋久島から新潟ぐらいまで移動したことになります。
ニューオリンズで乗った遊覧船での写真はTシャツ姿でしたから、一気に冬に逆戻りです。
先を急いだのはこの寒さのせいもあったように思います。
バス移動を開始してこの日が6日目。
乗車時はよほど混み合っていない限り、3人バラバラで座りました。
座席はフリーでしたが、前方がお年寄りや家族連れ、後方が若者や男性になんとなく分かれていました。僕は前後に関係なく、なるべく窓側の席に座り、車窓から景色を眺めるのが好きでした。
長距離バスにはいろんな人が乗ってきたし、時には隣り合わせた人と片言で会話したり。
長い移動時間も退屈することがなかったように思います。
また一人でそうして窓にもたれている時間は、自分と向き合う時間でもありました。
車窓を流れる景色を眺めていると、頭の中にいろんなことが浮かんできて、あれこれと思いを巡らせていました。
まずは当時好きだったガールフレンドのこと。
僕の想いが届かず、この人とはつき合うまでには至りませんでしたが、話や趣味が合うというか、映画やライブに行ったり、ちょくちょく飲みにも行きました。
何かの本で「旅は残してきた人に思いを馳せる時間」という言葉に出会いましたが、全くその通りだと思います。その時の心の中にいる人のことを、自然と考えるのだと思います。
次が自分について。
普段だとなかなかそうした時間は作れないように思いますが、旅の間は時間だけはたっぷりあります。
また様々な「不」に出会うことで、自分の身の丈を思い知らされます。背伸びしても通じない環境では、嫌でも等身大の自分を自覚させられます。
しかしそうやって自分を正しく知ることが大切であって、前に進んで行く為の第一歩なのだと思います。
今の自分のこと
将来のこと
人生について
その時抱えていた悩み事もあったでしょうが、一番頭の中でグルグルしていたのは「俺ってこの先どうなっていくんだろう」という漠然とした不安だったように思います。
すぐには答えを出せないけども、自分にとって一番大切なこと。ちゃんと自分で考えないといけないこと。
そんなことを考える時間が延々とありました。
そんなことをツラツラ考えながらも、車窓の外には景色が流れ、バスの中では小さな出来事が起こります。
取るに足らないような、今となってはそれが一体いつどこのことかがわからない、記憶の断片が幾つかあります。
断片①
夜遅くに出発したバスが街から郊外へと出ていく。
街中を抜けるにつれて、ビルや住居の明かりがポツポツと少なくなっていく。
後ろへ後ろへと流れていく小さな明かり。
やがて街灯もない荒野に差し掛かってくると、明かりはバスのヘッドライトしかない。
もう随分長い時間、すれ違う車もない。
真っ黒の空間にヘッドライトが照らす範囲だけが浮かび上がる。
空を見上げると、頭上には満天の星。
夜の海を銀河バスが走っていく。
断片②
混み合っていたダウンタウンを抜けると、車内は人がまばらになった。
ドライバーのオヤジは見計らっていたかのようにバスを路肩に停車させると、何も言わずに降りていった。
うん?何?
待つこと数分。
オヤジはストローを差したドリンクカップを片手に戻ってきた。
黙ってバスを発車させる。
前の方にいた乗客が何やら声を掛けた。
オヤジは振り向き、カップを見せて照れたように笑った。
バスが走り出す。
喉が渇いていたらしい。
誰も文句なんて言わない。
断片③
真ん中の通路を挟んで並んで座っていた白人の老婦人と黒人中年女性。
原因はわからないが突然口論が始まった。
お互い相手に何やら言葉をぶつけ、顔は明後日の方を見ている。目を合わせようとはしない。
終わらない。
言葉のラリーが続く。
聞き取れないので何を言ってるかはわからない。
老婦人は結構カリカリ気味。
中年女性は受けて立つという感じ。
まだ終わらない。
周りの乗客は諌めるでもなく、どちらかに加勢するでもなく、皆黙り込んでいる。
目が合った隣のおっさん。
うんざりとでも言いたげに僕を見て頷き、大げさに口元を歪めた。
断片④
深夜ぐっすり眠っていたが、人の声で目が覚めた。
バスは停車していて窓から外を見ると、ドライバーが懐中電灯を手に車体の前や後ろを行ったり来たりしている。
やがて乗り込んできたドライバーは、客席通路の床をひっぺがし、頭を突っ込んで何やら始めた。
故障か。
手伝う乗客も出てきて、「これか」「いやこっちか」とやっている。
しかし一向にバスは動かないようで、ドライバーが無線でどこかに連絡をした。
替えのバスが届けられて僕たちはそちらに乗り換え、1時間半ほど遅れてバスが発車した。
明日の予定にしわ寄せがくるなあ。仕方ない。
やれやれ、また眠りに落ちた。
ところが目を覚ますと、ほぼ予定時刻に目的の街に到着したではないか。
マジックを見せられたかのよう。
あの遅れをどうやって取り戻したのか。
時差とかそういうことじゃない。1時間半途中で停まっていたのに、本当に定刻にバスは着いた。
そう言えばえらく飛ばしてたなあ。
恐るべし、グレイハウンドバス。
断片⑤
うん?
クンクン
朝方、においで目が覚めた。
うん?
クンクンクン
何だ、このにおい?
いや、クッセー、くさい、めっちゃくさい。
何このにおい?
嗅いだことがないような悪臭が漂ってる。
僕は鼻を押さえて、においの元を探そうと周りを見渡した。
あれだ
見つけた
通路を挟んだ斜め前のおっさん。
靴下を脱いで足をボリボリ掻いている。
僕はすぐに後方の空いている席に避難した。
人間の体から発したものとは思えない。
アメリカは足のにおいまでウルトラ級。
断片⑥
白み始めた東の空。
ピンクの朝もやの中、バスは次の街へと入っていった。
眠りについていた街も、こんなに早い時間からまた起き出そうとしている。
忙しそうに、そして手際良く、働く人の姿がチラホラ見える。
駅売りの新聞を届けている人。
重そうな荷物を運んでる人。
開店準備のコーヒーショップ。
道路工事を終えた作業員。
ゴミ収集の清掃車。
夜勤明けのポリスマン。
「おはよう」
「元気か」
「今日も精が出るな」
そんな言葉を交わしているのか、顔見知り同士が声を掛け合っている。
今日もまた一日。
そんな人たちが街を動かし始めている。
バスの旅では様々な日常が、手の届く距離で目の前に展開される。
整理のつかないそうした断片の数々も、今となっては大切な旅の記憶です。
あーしかし、腹へった。
でもこの日、ポテトチップ1袋で我慢できたのには、明確なモチベーションがありました。
さあ、明日明日。
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