3月4日 国境の街

「ペニー!」

「ペニー!」


 差し出される無数の細い手。

 その表情はどれも屈託のない笑顔で、どの瞳も驚くほどきれいに澄んでいた。




 ツーソンを00:25に出たバスは、7時過ぎにエルパソに到着。アリゾナからニューメキシコ州を一気に通過し、テキサス州に入りました。

 テキサスはアラスカ州に次ぐ面積の広さで、エルパソはその最西端に位置します。

 リオグランデ川がメキシコとの国境になっており、対岸がシウダー・ファレスというこの日の目的の町です。

 「歩いて国境を渡れる」と『歩き方』にあったので、是非とも行ってみようと考えたのです。


 リオグランデ川はニューメキシコに北接するコロラド州を源流とし、このエルパソから下流がメキシコとの国境として遠くメキシコ湾まで流れています。

 ちなみにトランプ政権時代に話題となった国境の壁建設の場所は、このリオグランデ川沿いで、その名(大きな川という意味)が示す通りこの川は距離が長いのですが、水量はさほど多くなく、場所によっては泳いで渡れる場所が何箇所もあるようです。

 その為、古くから密輸や密入国が横行してきたという実態があり、持てる国と持たざる国が隣接している以上、避けては通れない解決の難しい問題なのだと思います。


 メキシコは「物価が安い」との情報に、早速空かせたお腹を抱えてバスディーポを後にしました。

 老舗ブーツメーカーのトニーラマはここエルパソが開業の地です。

 歩き始めたビル街は、ウエスタンブーツなどの革製品の店が軒を並べていましたが、早朝の為どこも営業しておらず、人の姿はまばらでした。

 シャッターの隙間からショーウィンドウに並ぶブーツやベルトを覗き込みながら、15分ほど歩くと川にかかる橋が見えてきました。


 橋は真中の車道を挟み、メキシコに向かって右側がアメリカからメキシコへの歩道。反対側がアメリカ入国用歩道に分けられています。

 人がすれ違うのがやっとの狭い歩道には、僕たち以外にもチラホラと旅行者らしき姿がありました。

 逆方向のアメリカに向かう車道が混み始めていましたが、その理由は帰りの時に知ることになりました。


 島国育ちの身にとって実感が湧かない国境という存在。歩いて国境を越えるという初めての経験に心惹かれ、3人の足も軽やかです。

 橋の手前の国境事務所らしき小さな建物を通過する際、通行税?として5セント硬貨をボックスに投入しました。

 国境警備員?らしき人が何人かいたように思いますが、はっきりと覚えていません。何も言われずチェックもされませんでした。物々しい体制でなかったのは確かです。

 それに5セントって何?たった5セントって。

 頭の中に?を浮かべながら橋を進むと、下を流れるリオグランデ川が見えてきました。


 ちっちゃ

 細っそ


 川幅も狭く水の流れは緩やかで、確かにこれなら歩いて渡れそう。

 「国境の川」という言葉に、勝手に大河をイメージしていたので、あ然とするほど水量の少ない川でした。


「これが国境?」

「いま俺ら国境越えてんの?」

「ほんまに?」


 全然実感がありません。

 川を渡りきった所にまた小さな建物がありました。メキシコ側施設でしょうか。

 バッグからパスポートを取り出します。アメリカ入国の時の緊張を思い出し、少し身構えました。

 ところが、ここも係官らしき人はいたように記憶しますが、パスポートチェックなど何もしていません。ただそこにいるだけ。

 前を歩く人も散歩でもするかのように、そのまま素通りしていきます。


「え?」

「え?」


 ニシカワと顔を見合わせ、戸惑いながら僕たちも建物から外に出ました。


「なんもないの?」

「入国したん?」

「みたいやな」


 期待していた国境越え体験。

 なんとも拍子抜けしました。

 5セント払っただけでフリーパス。

 ほんまかいな。


 しかし橋を渡り切った途端、一変した目の前の街並みに、確かに違う国に入ったという実感がすぐに湧きました。これまで見てきたアメリカの街並みとは明らかに違っていたのです。

 大通りを挟んで並ぶ建物は総てが平屋かせいぜい二階建て。土産物屋や食堂などが並んでいますが、どれも古そうな建物ばかりで、壁のペンキが剥げていたり、看板の文字がかすれていたり。道も急に舗装状態が悪くなりデコボコで、あちらこちらの水たまりにゴミが浮かんでます。

 人の姿が急に増えました。店頭や歩道で話し込んでたり、忙しそうに開店準備をしていたり。路上に野菜などを並べた露天商が並び、荷車を引くロバの姿もありました。

 異国から異国へ。たった橋一本渡っただけでのこの激変ぶりに、“国”とは何か?という疑問と、やっぱり外国に来ているんだという実感が更に湧きました。


 この当時、ここシウダー・ファレスの町は長閑な田舎町といった風情で、その物価の安さ目当てに多くのアメリカ人も買物や食事にやって来ていました。

 今でも昼間は従来通り人の往来があるようですが、現在は夜間になると街の様子が一変するようです。

 長年に亘る麻薬組織同士の抗争が続き、戦争地帯を除く場所としては、世界で二番目に殺人による死者数が多い超危険な街になってしまったようです。


 お腹を空かせた僕たちは、一軒の食堂に入り朝食を摂りました。チリビーンズにタコスにオレンジジュース。

 ジュースは100%搾りたてで美味しかったのと、注文を取りにきた赤いホットパンツの女の子が、めちゃくちゃエキゾチックな顔立ちで可愛かったと日記には書いてある。何となくその笑顔を覚えてるような気がします。


 食べ終えて表に出ると、土産物屋などが店を開き、町が活気づいていました。


 通りを歩くと、

「アミーゴ アミーゴ」

 との呼び込みが。

 僕たちが日本人だとわかると、

「アミーゴ トモダチ トモダチ」

「トモダチプライス ミルダケOK」

 と怪しい日本語が飛び交います。


 アメリカドルが通用し、確かに物価は安い。お昼はステーキにビールも飲んで、2ドルでお釣りがきた。屋台でタバコ1カートンが、アメリカの半額ほどで買えました。


 怪しい呼び込みに誘われ、冷やかし半分で土産物屋をハシゴしましたが、ここでは定価というものがないようです。値切って買うのが当たり前のようなので、最初の言い値は相当吹っ掛けてきているのでしょう。

 こっちも浪速の血が流れている?ので、値切り交渉で簡単には折れません。

 しかし敵もさる者、百戦錬磨。どこのオヤジも笑わせたり泣きついたりで、簡単には獲物を逃しません。


 最後の店では気に入ったデザインの指輪があったので値段を聞くと「50ドル」だと。

 嘘つけそんなするかよ。

 オヤジは「シルバー シルバー」と言い張りましたが、どう見ても銀メッキです。


「トモダチプライス」

「ノータカイ ノータカイ」


 日本語と英語のチャンポン攻撃。

 店から出て行こうとすると「チョトマテ チョトマテ」と引き留め工作。

 いくらなら買う?、これでどう?それは厳しい、そんならこれで、いやあそれなら買わん、ほなこれでどうや、とラリー交渉。

 結局最終的には12ドルまで下げさせ、しつこいオヤジに遂に根負けしました。

 まあ散々楽しめたからいいかとそれで手を打つと、最後に指輪を渡す際に「今夜のテキーラのためにもう1ドルくれ」と手を合わせて懇願するので、1ドルくれてやりました。

 いやはや旅行者相手のメキシコ商人。手練手管のオヤジの方が一枚も二枚も上でした。


 そんなこんなで夕方近くまでファレスの町を散策し、エルパソ側へ戻ろうとリオグランデを再び渡ったところで、アメリカとメキシコの違いを認識させられました。

 メキシコ入国は肩透かしのようなフリーパスでしたが、アメリカへの再入国の際にはパスポートとビザの有無を厳重に調べられました。

 パスポート確認が終わるとバッグの中身も前部チェック。ナガノは袋買いした残り物のドーナツまでチェックされて、目をパチクリさせています。

 車利用者は当然一旦停車させられ、ボンネットの中まで調べられていました。なるほど今朝アメリカに向けた車道が渋滞していたのはこういう理由だったのか。


 行きはよいよい、帰りはこわい。

 総ては麻薬などの密輸や資格を持たない密入国防止の為。

 911以降、様々な面でテロ対策が強化された現在なら、もっと厳重な体制になっているかもしれませんね。



 しかしメキシコに半日入国してみて、一番記憶に残ったのは多くの子供たちの表情です。


 旅行者など外国人の姿を見つけると、「ペニー」「ペニー」と手を伸ばしてきます。

 ペニーとは1セント硬貨の別称。「1セントちょうだい」と言ってるのです。物乞いしてるのです。

 しかしその表情は悪びれるでもなく、媚びるでもなく、まるでゲームを競い合うかのように、屈託のない笑顔が溢れています。

 物乞いを受けるという初めての経験に戸惑いましたが、その笑顔の中の黒い瞳が、どれも汚れのない輝きに満ちていたのが、せめてもの救いのように感じました。




 1セントをせしめた誰かがそれを見せびらかすように走り出す。

 周りの子たちがワーッと歓声を上げ、それを追いかけていく。

 幾つもの小さな影法師がじゃれ合いながら、デコボコ道を遠ざかっていきました。



 富める国と貧しき国。

 資本主義社会の現実の一端が、確かにそこにありました。

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