2月28日 コーヒープリーズ

 脳裏に蘇ったんですよ。


 暖かな日差しの教室。

 春風に揺らぐカーテン。

 真新しい教科書のにおい……



 この日はロサンゼルス市内の観光にあてました。車でハンコックパーク、ビバリーヒルズ、ロデオドライブ、ウエストウッドへ。

 『ホテル・カリフォルニア』のアルバムジャケットになったビバリーヒルズ・ホテルも見に行きました。高いパームツリーが立ち並ぶピンクの外観がジャケット通りで、「うぉ〜っ本物や」と声を漏らしました。

 適度にお登りさんにもなりつつ、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)キャンパス内の学食へ食事しに寄りました。

 ニシカワが半年前に短期留学で来てたので、格安で食事できることを知っていたのです。外部の人間も利用OKです。ミートパスタをいただきました。


 ここまで食事の話はほとんど書いてきませんでしたが、書くほどもないというか、ほとんどがハンバーガーやホットドッグで済ませていました。

 大抵はマクドナルドかバーガーキングの。

 安価であるということが第一の理由ですが、まだこの年頃では食に関する意識も興味も薄かったのでしょう。

 バランスなんて考えてもなかったですし、安くてお腹がいっぱいになることが何より第一でしたから。

 バーガーキングのワッパーが安くて大きかったので、一番よく食べてました。値段的には飲み物込みでも3ドルほどだったと思います。


 しかしこの時代のアメリカのファストフード店の接客はひどいもんでした。


「注文は?」

「何すんの?」

「はあ?」

「おい、次」


 そんな感じ。雑でぞんざいで意識の低い店員がいっぱいいました。

 こちらの言葉がちゃんと伝わったかどうかがわからないまま、それでも大概は注文した商品が出てきました。ハンバーガーもコーラやオレンジジュースも。

 しかし、僕の英語力ではなかなか買えなかったものが、ひとつあったんです。

 コーヒーです。


 2月のロサンゼルスの気温は、昼間太陽が顔を出すと20℃を超え、汗ばむような暑さになりました。それでも朝夕はそれなりに気温は下がります。

 朝はやっぱりあったかいコーヒーが飲みたいじゃないですか。

 しかし「コーヒー、プリーズ」のたった一言がなぜか全然通じません。


 注文カウンターで、

「コーヒー、プリーズ」

 すると店員が、

「○▼☆♯◆」

 じっと僕を見てます。


 なになに?コーヒーやんか。

「コーヒー、プリーズ」

 店員はまたまた、

「○▼☆♯◆?」

 なんか言ってるけどわかりません。


 え、何言うてんの?

 コーヒーが飲みたいだけなんやけど……

「コ、コーヒー、プリーズ」

「❋❋🔱🔱💢💢!」

 露骨にイラつき始めました。

 お前何言うてんねん、て顔してます。

 あ、舌打ちしやがった。


 コーヒーを出してください。ボクはコーヒーが飲みたいのです。

「コーヒー……プリーズ」

 返事しません。

 別の店員に何か言いました。「代わってくれ」とか「ダメだ、こいつ」とか言ってます。多分。


 なんでなんで、なんでコーヒーがわからへんの?コーヒーやって、コーヒー。

「コ、コ  ー ヒ  ー、プ、リー ズ」

 ゆっくり言ってみました。

「❋❋❋🔱🔱🔱💢💢💢!!」

 あかん。ついにキレた。


 下がって行った店員がカウンターの上に、ドンと叩きつけるように置きました。

 氷の入ったよーく冷えたコーラを。

 ほら、これやろ。お前が欲しいのはこれや。さっさと会計するぞってメンチ切ってます。


 なんでなん。なんでコーヒーがコーラになんの?

 粘りたかったけど、後ろのお客さんもイラつき始めてます。

 渋々お金を払い、出された冷たいコーラを持ってスゴスゴと引き下がりました。


 ……情けなっ


 この攻防が3回か4回続きました。

 毎回違う店員ですが、再現ビデオを観るように見事に同じ展開です。


 コーヒー プリーズ

 ↓

 通じない

 ↓

 何度かやり取り

 ↓

 コーラがドン


 毎回なぜかコーラなんです。他のものを出されたことはありません。

 どう聞いたらコーヒーがコーラに聞こえんねん。お前らの耳どないなっとんねん。

 アメリカではコーラのことをコーヒーというんかいと真剣に考え始めたぐらい。

 色々と工夫はしてみたんですよ。

「コウヒー」「クォーヒイ」「コッヒ〜」

 毎回撃沈。コーラドン。


 レジ近くの席で飲みたくもない冷たいコーラをちびりちびりストローで舐めながら、他のお客さんのやり取りに耳を傾けました。


 それがこの日の朝、今日も出されたコーラを片手に客席から観察していた時、稲妻が走り抜けるように、ある光景が突然フラッシュバックしたんです。


 中学一年、初めての英語の授業。

 柔らかい日差しが教室に射し込み、春風にふわりと揺れる窓際のカーテン。

 まだ折り目の付いていない教科書と真新しいノート。

 前の席には気になりだしていた女の子。

 そして、アルファベットの発音練習。


 教壇の英語の先生。名前は忘れた。

「Fは軽く下唇を噛んで、フッ、フッ」


 それそれ!それや!それ!


 coffee、シーオーエフエフイーイー。

 Fだからヒーじゃないんや、フィや。軽く下唇噛んで。

 フィ、フィ。


 更に他のお客さん観察で発見。

 coffeeの一音目はコじゃない。どっちかって言うと、カって言うてる。


 わかった!


 注文してみた。下唇を意識して。


「カフィ、プリーズ」


 湯気の立つあったかいコーヒーがすっと目の前に出てきました。

 感動の瞬間。

 今でもそのシーンを覚えています。


 コーラ注文の場合、彼らはコカ・コーラなら「コーク」、ペプシ・コーラなら「ペプシ」と言うんです。銘柄を言えと。「コーラ」では通じなかったように思います。

 ですから僕が日本語発音で言った「コーヒー」は、彼らの英語耳では一番近い「コーク」に結びつけるしかなかったんだと思うんです。

 おい、「ヒー」はどこ行ってん!とつっこみたいですけどね。


 あとヒアリングは“慣れ”でした。初日のイミグレーションがそうだったように、外国人と向き合うというだけで緊張してしまうと、何ひとつ聴き取れません。神経が別のところにいってしまうのかな。

 相手の発した言葉を耳がキャッチしないというか、耳の横を通り抜けていってしまう感じ。

 それが必要に迫られてではあるけども、外国人と相対する回数を重ねていくうちに、段々と耳がキャッチできるようになっていきました。

 総てはわからないし、知らない単語やスラングは多いし、文法なんて無茶苦茶。それに加えてアメリカ人は総じて早口です。

 それでもキャッチできる単語がひとつふたつと増え、部分的にでもやり取りできるようになっていきます。

 こっちに来てわかったことのひとつが、英語が話せないアメリカ人なんかいっぱいいるっていうこと。だから彼らもそんなコミュニケーションに慣れているから、とにかく何かを話そうとすれば意味を理解しようとしてくれる。

 そう、出川イングリッシュで正解なのだ。


 英語が話せなくても、緊張しない、物怖じしない。それができればなんとかなる。

 何度かの旅でそう思えるようになりました。


 僕のコーヒー体験。

 今ならスマホの翻訳機能を使えば、あんな不便や苦労をする必要はありませんね。

 全くもって時間のムダ。

 はい、確かにそうですね。その通りです。

 でもね、「不」に抗うことで得た感動は一生忘れないし、そうやって“実感の持てる自信”が育まれていくんだと思うんです。


 さあ明日からまた見知らぬ街への移動開始です。

 行く先々には更にいっぱいの「不」が待ち構えていました。

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