油断
水鳴諒
油断
――それは殿の命令だった。
ある大名に仕える忍び、
「して、積み荷は?」
「蔵にいつも通り」
借りる蔵ではなく自前の蔵があるこの問屋の江戸の店で、榎地が聞いているとも知らず、番頭達がぺらぺらと悪事について語り合っている。
――あとは、証拠さえあれば。
榎地はひっそりと屋根裏を後にし、蔵へと向かう。そして鍵穴へと、忍びの道具を差し込めば、あっさりと錠は開いた。中に人の気配は無いが、息を押し殺して入る。それから奥に積まれていた長持の蓋を取ってみると、なるほど中には、廻船問屋が失ったと嘯いていた砂糖がたっぷり入っていた。横には、違法な行為を証明するような帳簿まである。榎地はその帳簿を懐にしまい、袋を取り出して砂糖を入れた。
あとは帰還するだけだ。
そう考えて振り返る。蔵の戸口からは、月明かりが注いでくる。素早く外へと躍り出て、榎地は錠前を閉めた。
「どうという事もない仕事だったな」
敷地を出てから、町人風の服へと着替え、木戸へと向かって歩く。
時刻は丑三つ時であるから、まだ木戸が開くまでには時間がある。
そう考えながら、少しだけ気を抜いていた。
ゆらり、と。
不意に正面に影が見えた。油断していたため、その浪人風の男が刀を抜くまで、榎地は事態に気づかなかった。唖然として後ろに飛び退こうとした時には、右肩から腹部にかけて、斜めに斬られていた。これは稽古をして身につけた部類の太刀ではない。我流の無茶苦茶な軌道だった。それが幸いしたのと、間一髪仰け反った事で、傷はそう深くは無かったが、浅いとは決して言えない。着替えたばかりの着物が裂け、じわりじわりと血で布地が重くなっていく。
「っく」
「帳簿を置いていけ。砂糖はくれてやる」
「な……」
「盗んできたのだろう? 蔵にいるのを見かけて、あそこからならこちらの木戸を目指すだろうと思って先回りしていたのだ」
相手はどうやら、廻船問屋の用心棒らしい。榎地は己が迂闊だったことに唇を噛む。
腹部に左手を当てると、どろどろと血が掌を濡らし、指の合間からどろりとした血とさらさらとした鮮血の両方が溢れた。
それでも右手では、取り出したクナイを構える。
「お断りだ」
「では死ね」
男が刀を構える。だがその瞬間には、榎地は男の頸動脈を掻ききっていた。
――腹部に布をきつく巻き、木戸脇の気を伝って木戸番に気づかれぬようそこを出て、雇い主の江戸屋敷まで急ぐ。
そして待っていた忍び仲間に、帳簿と砂糖の入った袋を渡した榎地は、その場に崩れ落ちた。
次に目を覚ましたのは、激痛が走った時だ。
「ダメだ、動いちゃ。今、縫ってるんだよ」
響いてきた声に、上半身を起こそうとした榎地は、寝直した。声で、誰がそこにいるのかすぐに悟った。視線だけを向ければ、そこには藩医である総髪の青年、
痛みに顔を歪めながら、榎地は耐える。
久良の姿を見て、全身から力が抜けそうになっていたが、痛みがそれを許さない。
「よし、終わった。ただ少し寝ていた方がいい。痛み止めを今煎じるから、飲むといいよ」
「ありがとう、先生」
榎地はそう告げると、ゆっくりと上半身を起こす。寝ていろとは言われたが、まだ気分が昂ぶっているせいで、そうしていられる気分ではなかった。
横で既にすり鉢で粉にしていた様子の痛み止めを、久良がお茶に入れて、湯飲みを榎地へと差し出した。受け取り、榎地はそれを飲み込む。
「不味いな」
「だろうね」
「口直しがしたい」
榎地はそう告げ湯飲みを置くと、ぐいと久良に詰め寄り、その胸元の服を引く。
そして掠め取るように唇を奪った。久良は咎めるように、片目だけ半眼にして左右非対称の顔をすると、顎に手を添える。
「暫くはお預けだよ」
「どうして?」
「私を心配させた罰だ。凄腕の君が、血塗れで帰ったと聞いて、肝が冷えたよ。私だって自分の念弟が死ぬかも知れないと聞いたら、心配もするさ」
久良と榎地は、念者と念弟の仲だ。最初に契ったのは、榎地がまだ年若い頃で、本来であればその関係は途切れるのが自然だが、久良は特に結婚をしないし、忍びの榎地も妻を持つような話が出た事はなく、二人は今も体を重ねる関係だ。
「先生は、どんな病気や怪我も治すんだから、これくらいどうって事はないだろ」
「あのね。治せないものの方が、勿論多いんだ。分かるよね?」
そう言ってから、久良は今度は、自分から唇を、榎地の唇へと押しつける。そうして啄むように口づけをしたので、榎地は目を閉じた。次第にその口づけは深くなる。
口づけが終わると、久良が榎地の瞳を見た。榎地の瞳は、生理的な涙と艶で濡れている。
「本当に、心配したんだよ」
「……俺は、死なない」
「約束してくれるのかな?」
「ああ、勿論だ。死んだら先生に会えなくなっちまうからな」
榎地はそう言って、久良の首に腕を回し、額を榎地へと押しつけた。
その背に久良が、大きな掌で触れる。そしてポンポンと叩いた。
「さて、そろそろ寝るように」
「そばにいてくれるか?」
「うん、いいよ。次に君が起きた時、一番に目に入るように。私はここに座っていよう」
久良が微笑しながら言ったので、信じることにし、榎地は大人しく横になる。
榎地に布団を掛けた久良は、優しい目をして、榎地の頭を撫でた。
すぐに榎地の意識が睡魔に呑まれる。
次に榎地が瞼の向こうに日の白い光を感じたのは、朝の事だった。榎地は知っている、目を開けたらそこに久良の顔があることを。それを幸せに感じながら瞼を開ければ、やはり想像通り、約束通り、そこには笑顔の愛しい相手の顔があったのだった。
―― 終 ――
油断 水鳴諒 @mizunariryou
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