ようやく訪れた夜

 木製の引き戸は簡単に開き、鍵らしきものは外側にも内側にも見当たらなかった。随分と不用心な宿だ。それとも風景に違わず時代が古いのか。

 扉の内側は広めの上がり口があって、壁際には下駄箱も備えられている。此処まで履いてきたスリッパを脱いで上がると、内と上がり口を遮る障子戸を開いた。

 中は広々とした和室で、手前に座卓と座椅子、奥には広縁、左手側に襖があって、その開きっぱなしの襖の先が寝床らしく、枕元に小さな行灯と文庫本がある。

 黄昏色の空を提灯のように橙に光る金魚がゆったり泳いでいて、時折何処かの窓に吊り下げられた風鈴がやわらかな金属音を奏でている。

 そして宗介は、広縁に置かれた椅子に腰掛けて窓の外を眺めていた。この宿の浴衣だろうか。流水紋が描かれた白い浴衣に、枯草色の羽織を合わせている。


「久しぶり……だよね?」


 妙な言い方をする宗介に呆れながら、正面の椅子に腰を下ろす。

 宗介は失踪した当時からなにも変わっていない。俺だけが七年分年を取っている。


「七年ぶりだ」

「そんなに?」


 驚き目を瞠る宗介。まじまじと人の顔を見て、やっと納得したのか、深く長い息を吐いた。


「そうか。あれから七年も経ったんだ。じゃあ……」


 其処で言葉を句切ると、少し迷ってから、寂しそうに笑って。


「もう、新作を待っている人はいないだろうね」


 諦めたように言った。

 その顔は、いつぞやの公募に落ちたときと同じだった。本気で狙っていた文学賞が選外で終わった、あのときの。

 あのとき俺はなんて言ったんだろうか。俺自身は全く文学少年でも何でもなくて、小説なんて学校の授業で読まされるものだという認識でしかなくて、それでも宗介の書くものだけはいつだって楽しみだった。


「此処にいる」


 気付けば俺は、そう口にしていた。


「ずっと待ってる。待ってたんだ。最終話が読めるのを、ずっと。お前、最後に何て言ったか覚えてるか? あの言葉を信じて、七年だぞ。お前にとってはたいしたことない時間かも知れないけど、俺には長かった。俺は本気で待ってたんだ」


 嘘でもたくさんのファンが待っているだとか、もっと気の利いたことを言えたらと言ってから後悔したが、もう遅い。一度溢れた言葉は止める術を忘れたかのように、あとからあとから零れて止まない。

 掘り当てられた温泉というのはこんな気持ちなんだろうか。自分の意志では勢いを止めることが出来ない。この熱が、傍にいるものを傷つけるかも知れなくても。胸の奥に押し留めていたものが噴き上がって、宗介を巻き込んで降り注ぐ。


「急にお前の物語へのはしごが外されたときの、俺の気持ちがわかるか?」


 ふと我に返ったとき、宗介は俺を真っ直ぐ見つめたまま、呆けたような表情で涙を流していた。泣いているというより、ただ涙が目から溢れているといった顔だ。


「……宗介?」


 目の前で手をひらひら振ると、宗介はハッとなって手の甲で目元を擦った。其処で初めて自分が泣いていることに気付いたらしく「あれ」とか「ごめん、なんで」とか要領を得ない単語をばらまいている。


「悪い、言いすぎた。お前の事情も聞かないで……」


 なにか理由があって書けなくなったとか、そういう事情があったかも知れないのを失念していたことに気付いて謝ると、宗介はふるふると首を振った。


「ううん、うれしいんだ。もう皆、僕の作品なんか忘れただろうと思ってたから……君が来るまで、向こうでは七年経ってたなんて知らなかったんだけどね」

「浦島太郎じゃないか」

「ふふ。本当にね」


 宗介の体感では精々半年くらいで、それでももう誰も待っていないだろうと思っていたらしい。流行に乗っかる形で連載をもぎ取った異世界ファンタジーだから、その波を降りたら次はないと誰よりも宗介自身が理解していた。

 七年は長い。戻ったところで、受け入れてくれる出版社があるとも思えない。紙の高騰。次々現れる若い才能。目まぐるしく移り変わる流行。世の中の全てが、宗介の世界を押し流してしまうとしても。それでも。


「でも俺は、やっぱりお前の書く話が読みたい」


 なにがあってこの夢みたいな世界に来たのか、俺は知らない。聞いてない。だから俺は、俺の事情を話すことしか出来ない。

 一方的で乱暴な俺の言葉を受け止めると、宗介は椅子の傍に置いていたトランクを開き、中から原稿用紙の束を取り出して俺に差し出した。まるで作家が編集担当者に完成原稿を提出するかのような仕草で。


「実は、出来てるんだ。校正はしてないから、誤字とかひどいと思うけど」


 照れくさそうに笑いながら言う宗介の顔と、テーブルの上の原稿を見比べる。

 間違いなくそれは宗介の字で、一枚目に書かれているタイトルは何度も読んだあの異世界ファンタジーのものだ。そしてその横に書き添えられているサブタイトルは、最終話に相応しい壮大な言葉が並んでいる。

 ああ、漸く彼らの冒険が終わるのだと、否応なく予感させられる詩のような言葉。


「仮に後世の吟遊詩人が主人公の冒険譚にタイトルをつけるとしたら、こんな感じになるんだろうなぁ」


 感慨深く、泣きそうになるのを誤魔化して俺がそう言うと、正面で息を飲む気配がして顔を上げた。見ればまた宗介が泣いていて、俺は今度こそ慌てて手を伸ばした。


「おま、お前、なに泣いて……」

「だって……っ」


 泣きじゃくりながらも原稿を指差す宗介。読めと言っているのかと判断した俺は、宗介を気にしつつ原稿用紙を捲った。

 冒頭一文、たったそれだけを目にした瞬間、俺の意識は懐かしい異世界に飛んだ。何処までも広がる空。爽やかな草原。荒れ狂う海。険しい山稜。鬱蒼とした森。深く果てのない洞窟。嘗て冒険してきた風景が、一気にフラッシュバックした。

 やがて主人公は、苦難を共にしてきた仲間たちと最後の戦いに挑む。次々に倒れる仲間たち。託されたものの重さを背負いながらも、必死に立ち続ける姿。

 息をするのも忘れそうなほど緊迫したシーンが続いて、続いて、そうして最後は、ボロボロになりながらも主人公の勝利で終わる。

 物語の最後は、主人公の仲間の一人、エルフの魔術師が吟遊詩人に職を変え、街の片隅で旅の様子を歌うシーンで締められていた。詩の題は、物語のサブタイトルだ。

 最後の最後でタイトルを回収するやり方は、宗介の作品では初めてのことだった。


「……やっぱ、すげーな。お前の話」


 原稿用紙の束を閉じて息を吐き、静かに呟く。言いたいことはいくらでもあるが、上手く言葉に出来る気がしない。

 宗介が物語を完成させる度に繰り返してきた、ありきたりな言葉しか出なかった。


「まさに、君が言った通りのイメージでタイトルをつけたんだ」


 さすがにいい加減泣き止んでいた宗介が、頬に涙の痕を残した顔で笑った。


「待ってたって言葉を疑っていたわけじゃないけど、でも、君がああ言ってくれて、誰よりも僕の作品を求めてくれた人が誰だったか、はっきり思い出したんだ」


 宗介は眉を下げて困ったように微笑いながら、ぽつぽつと話し始めた。

 此処へ来る前のこと。此処へ来るきっかけとなった出来事を。

 商業デビューしてから処女作が十万部売れて、続編も出て、俺の目には順風満帆に見えていたのに。宗介に限った話ではないのかも知れないが、作家って人種は繊細なヤツが多くて。百の応援があっても一の中傷に落ち込んだりするものらしく。宗介も例に漏れず、一の心ない声にずっと悩まされていた。

 表ではファンのようなことを言っておきながら、裏で酷評を超える中傷をしている人がいたのだ。


「……誰も、本気で僕の作品が好きなわけじゃないって思ってしまった。応援の声も確かにあったのに、全部嘘に見えてしまって、怖くて……気付いたら、此処に」


 この世界は優しくて穏やかで、誰も宗介を傷つけない。代わりに誰も宗介を心から切望することもない。何処までも平坦で静かな世界だ。


「なにもかも嫌になったはずなのに、どうしてかこの話だけは諦められなくてね……もしかしたら、君に読ませるためだったのかも。だってもう、君以外に僕を覚えてる人なんて……」


 自嘲の笑みを浮かべる宗介が痛々しくて、俺はデコピンをした。


「いたっ」

「ばーか」


 悪戯が成功した顔で言うと、宗介は目を瞬かせてから、へにゃりと笑った。

 その顔が一瞬ブレて、ノイズが走ったように見え、俺は目を軽く擦った。


「……ああ、そろそろ時間かな。長居させてごめん。その原稿は君にあげるよ」

「えっ、なんだよ、急に」


 ノイズが濃くなる。

 宗介は目の前にいるのに、まるで画面越しに見ているかのように景色が歪む。


「好きにしていいよ。君だけのものにしても、何処かに持ち込んでも、自由に」

「何の話……ていうか、お前も一緒に戻るんだろ!?」


 宗介は目を閉じて静かに首を振った。

 椅子ごと後ろに引っ張られるような感覚がして、思わず手を伸ばす。宗介は、俺の手を一度だけ握って、すぐに離した。急に胸を寂寥が満たす。あんなに懐かしかった時間が、遠くなっていく。


「ありがとう。さよなら、青葉」


 最後に見た宗介の顔は、泣いているのに笑っていた。



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