黄昏の温泉郷
宵宮祀花
異世界への扉
あの日から繰り返し見る夢がある。
朱い欄干。朱色から紫色へと滲む空。橙色の灯りで道を照らす提灯。俺はいつも、橋の手前で足を止める。まるで一度も土足で踏まれたことがないかのような、土汚れ一つない綺麗な板張りの橋は、足を踏み出すことを躊躇わせて。
結局一歩が踏み出せないまま、目が覚める。
「…………また、あの夢」
幻想的だが何処か恐ろしさも感じる、薄暗い景色の夢。
渡った途端に橋が消えるのではないかとか、幻想的な景色がもっと恐ろしいものに変わるのではないかとか、或いは、あれが三途の川に渡された橋ではないか……と、目覚めた直後は嫌な想像ばかりが過ぎるのだが、それも落ち着くと今度は強い後悔が押し寄せてくるのだ。
また渡れなかった。今度こそと思っていたのに。そんな、後悔が。
「七年目、か……」
もそもそと起き出して、体は勝手に身支度を調え始める。
七年で染みついた社会人としての習慣は、俺の後悔などお構いなしに意識を日常へ帰そうとしてくる。朝食もそこそこに家を出て、すし詰めの電車で出社して、仕事をこなして帰路につく。
子供時代を殆ど一緒に過ごした幼馴染がいなくなっても、俺の世界は回り続ける。
フィクションのように、仕事もなにもかもを放り出してアイツを必死に探すなんてことはなく。ただ、たまに思い出しては沈鬱な気持ちになるだけだった。
七年は長い。失踪当初は騒いでいたマスコミも、ネットのファンを名乗る人々も、七年過ぎればアイツの名前も出さなくなる。きっと記憶からも消えているのだろう。
アイツの作品が一番好きだと言っていた女性は、いまはアイドルの追っかけをしている。若い才能が失われたと惜しんでいた大物小説家は、別の若手を推している。
世間とはそんなもので、俺もそんな世間の一部なのだ。
初めて見たときからずっと、アイツの物語が好きだった。
主人公の目を通して異世界を見ているようで。一緒になってヒロインに恋をしたり強大な敵に戦いたり、仲間との絆に胸を打たれたり。そうして広大な舞台を冒険していたのに、七年前のあの日……突然、異世界への扉が閉じた。
前触れなど何一つなかった。と、思う。なにか悩んでいる素振りもなければ、いま連載している最終話を執筆中だとも言っていた。
アイツは……宗介は、俺以上にアイツ自身の物語を大切にしていた。なのに。
「……考えても仕方ないだろ……」
あれから七年目、七回目の夢を見たからだろうか。今日はやけに頭の中がアイツのことでいっぱいになっている気がする。
確かなことはアイツがいなくなって、異世界への扉は閉ざされたままということ。冒険譚の最終話。物語の結末だけがわからないまま、俺は随分とオトナになった。
味気ない食事を済ませて寝支度を終え、また布団へ潜り込む。
きっと明日から、また変わらない日常へ戻っていくのだろう。そう、諦めにも似た思いを抱いて。
「――――は、っ……?」
一瞬のことだった。
目を閉じて、開けた。
ただそれだけのあいだに、俺はいつの間にか、『あの橋』の前にいた。
朱色の欄干。橙に滲む空と、提灯。影で出来たような木々と、古めかしい日本風の家屋。足元から橋が延びていて、白い板張りの路面には、相変わらず足跡一つない。
夢と違うのは、提灯を手にした和装の人影がまばらながらも見られること。
夢と同じなのは、相変わらず橋のほうへ一歩を踏み出す気になれないこと。
「此処は……? これは、夢……だよな……?」
問うたところで答えがあるわけでもなく、虚しく声が黄昏の闇に消えた。
いつもの夢なら暫くぼんやりしていれば勝手に目覚めるのだが、今回は何だか妙に空気がリアルで、いつまで経っても覚める気配がない。
「渡らないのですか?」
「ッ!?」
突然背後から声がして、俺は驚かされた猫のように飛び上がった。怖々振り向くと其処には、浴衣を着て二足歩行をしている犬がいた。
自分の目が信じられず、声の主をまじまじと見る。首の付け根も肉球のある手も、どう見ても作り物には見えない。やはりこれは夢なのだろうか。
「どうかされましたか?」
「あ……いや……」
あまりにも普通に話しかけてくるものだから、いちいち躊躇している自分のほうがおかしいような気がしてきてしまい、俺は逡巡しつつも口を開いた。
「こんな綺麗な橋、土足で渡ったら汚しそうで……」
我ながらなにを言っているんだろうと思う。
外にある橋なんか、土足以外で渡りようがないのに。
「土足、ですか?」
不思議そうに首を傾げられ、足元を見る。
其処で俺は、自分の履き物が室内履き用のスリッパであることに気付いた。しかも服装は寝たときに着たパジャマだ。これはこれで恥ずかしい。
「ああ、いや……なんで俺、こんな格好……」
「初めていらっしゃる方は皆さんだいたいそうですよ」
今更になって恥ずかしがる俺を、犬の人はのほほんと宥めた。そして、
「ああでも、東雲先生は和服でいらっしゃいましたねえ」
とんでもないことを、のんびりとした口調で付け足した。
「東雲……?」
それは宗介の苗字だ。アイツは本名がペンネームみたいだし、東雲先生って響きが何だか格好いいからと言う理由でペンネームをつけずに活動していた。
それがどうして、こんな夢の世界の犬が知っているのか。それとも、俺の夢だから俺が知っていることを知っている……?
「アイツは、いま何処にいるんですか?」
「おや、先生のお知り合いですか?」
頷く俺に、犬の人は遠くを提灯で差した。
「あそこに見えるお宿の、一等見晴らしのいいお部屋にいらっしゃいますよ。何でも景色がいいと執筆が捗るのだとか」
「執筆、まだしてるんですね……」
「ええ。見せる相手もいないのにと寂しそうにしておられました」
「っ……」
こんなところに引きこもって、見せる相手がいないだなんて。
俯いた俺の視界に、犬の人の黒い瞳が飛び込んで来た。ゴムのような質感の濡れた鼻が、改めて彼の頭部が作り物のかぶり物でないと突きつけてくる。
「会いに行かれますか? ご案内しますよ」
「……会いに、行けるんですか」
「ええ。どなたでも、この街は歓迎しております」
どうぞ、と犬の人は一歩前に出た。其処は橋の上だ。
「提灯がないと迷いますから、ついてきてください」
歩き出した彼のあとに続き、俺も一歩前に出る。
ぺたりと間抜けな音がして、心配していた土汚れはつかず、あれほど忌避感が胸を占めていたのが嘘のように足が進んで行く。
橋を渡ると、温泉街の土産物屋が並ぶ通りに出た。店員も客も皆浴衣姿で、中には枯葉色の羽織を纏っている人もいて。足元は下駄や草履で、誰もが提灯を手に提げている。
そしてなにより、道行く人は誰もが俺の前を行く犬の人同様に、二足歩行の動物の姿をしていた。
「此処は、どういうところなんですか……?」
「温泉街ですよ。湯河原という地名を聞いたことは?」
「湯河原? そりゃ、ありますけど」
自分の知る湯河原温泉はこんな黄昏色の異世界ではなかったはずだ。それとも暫く来ないうちに大胆なマイナーチェンジをしたとでも言うのか。
「まあ、まずはご案内しましょう」
結局此処が何処なのかは謎のまま。ともかくはぐれないようについていき、立派な宿の正面入口をくぐった。
宿の外観は日本風の大屋敷といった風情で、黄昏色の照明が景色に馴染んでいる。立派な日本庭園や秋に紅葉する種類の庭木、桜や梅の木、他にも色々。いつに来ても四季を存分に楽しめそうな風景が広がっている。
入口周辺だけでもこれほど立派なのだ、一等見晴らしがいい部屋からの景色なんてどれほどのものだろうか、想像もつかない。
「ご機嫌よう。ご亭主、東雲先生にお客様ですよ」
「おやまあ。外からのお客様は久しぶりですねえ。どうぞ、お部屋にご連絡は入れておきますからね」
犬の人は提灯を畳むと、俺に目配せをしてから歩き出した。俺は亭主らしき綺麗な毛並みをした三毛猫の人に頭を下げつつ、あとについていった。
館内も立派で、俺がもっと語彙のある人間だったらきっと何処がどう素晴らしいか一晩では語り尽くせなかっただろうが、残念ながら人並み以下の語彙なもので、最早とにかく凄いとしか言い様がない。
階段をいくつか登り、四階の奥へ向かう。その道中にも二足歩行の動物らしき人とすれ違い、会釈をしたり「ごゆっくり」と言ってもらったりした。
「此処ですよ。さあ、あとはお二人でどうぞ」
「此処が……あの、案内、ありがとうございました」
いいえ、と言って犬の人は来た道を戻っていった。
そう言えば結局、お互い名乗らず終わってしまった。声には出さなかったものの、犬の人だなんて失礼な呼び方のままなのは良くなかったかも知れないと今更思う。
次会ったら聞いてみようかと思いながら、目の前の扉を叩く。
「どうぞ。あいてるよ」
部屋の奥のほうから声がして、俺は一つ深呼吸してから扉を開けた。
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