最終章:前世からの招待状


二〇八八年七月十二日。

中野杏奈(なかのあんな)は急いでいた。今日中に課題を終わらせないと。

――ちゃんとやる、ちゃんとやる。ちゃんとやればちゃんとなる――

なにそれ、誰のことば?  母親に聞かれたことがある。子供のころからの口癖だ。山梨で育ち、地元の大学を出て、東京の調理師学校に通っている。今日で二十三歳。今年は早めの夏休みを取って、北海道への一人旅を計画していた。明け方四時半、七月末期限の提出課題を早めに仕上げ、ホッと一息ついた。これから羽田に行って朝一番で函館に向かう。

今年どうしても行きたい。いや、行かねばならない場所がある。杏奈は机の引き出しからしわくちゃの写真を取り出した。彼女が生まれたとき、手の中で握りしめていたものだ。赤ん坊は生まれてくるとき、両手をげんこつのように固く握り締めて生まれてくると言う。それは、母親のおなかの中で貯えた、これからはじまる人生の夢や希望が逃げていかないようにしっかり握り締めているのだと、誰かに聞いたことがある。

その写真は彼女の両親もまったく見覚えのないもので、病院でも調べてもらったが、誰も心当たりのないものだった。それでも、彼女があまりにもしっかり握り締めて離さないものだから、むやみに捨てるわけにもいかずしまっていたらしい。杏奈が東京でひとり暮らしをはじめるとき、「私が持っていてもしょうがないわ」と母から渡された。裏面には「2088年7月12日、なべつる岩にあつまること。こなかったら、はりせんぼんのーます たなかなみこ」その下に「一九八八年七月十二日、剛志一歳の誕生日、田中屋前で」消えかかった文字で書かれてある。

なべつる岩ってどこにあるのだろう。調べてみると北海道の奥尻島にある鍋の取っ手のような形をした岩だった。地図で見ると意外にも大きな島で、さらに調べていくと、一九九三年七月十二日に大地震が発生し、ひと晩で二百人が亡くなったと書いてある。するとこの写真は、震災の五年前に撮られたものだ。

震災は大丈夫だったのかしら。建物の前で割烹着の女性が子供を抱いている。写真は真ん中から切り取られた右半分で、左側に誰かがいるようだ。海岸線に近い山の中腹から海に向かって撮った写真には、後ろに穴のあいた岩が半分写っている。

写真に写っている女性は誰だろう? 切り取られたもう片方には何が写っているのだろう? 私はなぜこの写真を握りしめていたのだろう? 裏のメッセージは何を意味するのだろう? 次から次へと疑問が浮かび上がってくる。中でも一番の疑問は、裏一杯に書かれたメッセージだ。「2088年7月12日、なべつる岩にあつまること。こなかったら、はりせんぼんのーます」子供の話し言葉のようだが筆跡は大人のものだ。言葉通りに解釈すると、二〇八八年の七月十二日に、たなかなみこがなべつる岩で誰かと会おうと約束したものだ。彼女は誰に会おうとしたのだろう? 

今日が二〇八八年の七月十二日。なべつる岩に行ったら、彼女が約束した誰かが来るのでは。でも、これが本当に一九八八年に撮った写真なら、おそらくこの世にはいないだろう。


杏奈は朝一番の飛行機で函館に飛んだ。函館に行くのは初めてだ。北海道第三の都市といわれる函館空港に降り立つも人の少なさに驚いた。少子化と人と文化の東京への一極集中で過疎化が進んでいた。

空港からバスに乗り市内を抜けると、むかし話の絵本でみたような景色が広がった。のどかな山間を二時間ほど走ると江差港(えさしこう)に着いた。ここから奥尻島へは一日二便のフェリーで向かう。フェリーはいまでは珍しいディーゼルエンジンで、ガソリンで動いている。地球温暖化が危惧されて、ガソリンで動く乗物など目にしなくなっていたが、乗降客の減少で航路の廃止が何度も取り沙汰されるなか、修理しながら未だ現役で走り続けているらしい。

独特のエンジン音が波音と混じり合い、黒煙と油の匂いが鼻につく。北国の湿気の少ない風を浴び、杏奈はデッキで日本海の白波を眺めていた。冷たそうな海面をイルカの群れがジャンプしながらフェリーを追ってくる。野生のイルカなんて初めて見た。太古のどこかにいるようだ。イルカが見えなくなると薄っすらと島影が見えてきた。

港のターミナルに降りるとなべつる岩までは歩いて二十分程度ということだ。一刻も早くなべつる岩を見たくて、スーツケースを転がしながら歩いて向かう。十分も歩くとなべつる岩が見えてきた。写真ではドーナツの右半分だった岩が、完全な形で目の前に立っている。近くで見ると想像よりも大きくごつごつした灰色の岩肌だ。向かいの展望台に駆け上がりボロボロの写真と見比べた。

田中屋はどのあたりだろう?

写真のアングルを頼りに、海岸線の幹線道路を少しもどり、山側に向かう細い道に入ると駐車場のような空き地がある。

誰かいる! さっきのフェリーで見かけた若い男だ。ちょっとかっこいいから覚えている。

「こんにちは」後ろから声を掛けると驚いたように振り返る。車が止めてあるからレンタカーで来たようだ。でもどうしてここに来たのだろう。そう思って男の右手を見た瞬間、雷に打たれたような衝撃が走る。

「その写真!」杏奈も自分の写真を取り出した。それぞれの写真を手元で合わせると、半分だったなべつる岩がドーナツ形になった。互いの驚きで手元の写真がガタガタ揺れている。

「どうして君が持ってるの?」男の写真には、鉢巻き姿の男が写っている。

「あなたこそ」

「おふくろが言うには、生まれたときから握りしめていたって」

「あたしもよ……。ねえ、あなたの誕生日は?」

「七月十二日」

「何年の?」

「二〇六五年。今日で二十三歳になる」

「やっぱり。あたしも二〇六五年七月十二日。あたしたち同じ日に生まれたのよ」永年の謎が解けたかのように、二人は安堵の表情を浮かべていた。

「そうか、それでか。この写真、同じ病院で混入したんだな。きっと看護婦のいたずらだよ」

「そうね、やっとすっきりしたわ。甲府の市民病院でしょ」

「甲府? いや、千葉だよ。千葉の柏」

「ウソ、甲府よ……」

解決しかけた謎が振り出しにもどる。と言うよりますます深まった。どうして同じ日に、別の場所で生まれた赤ちゃんが、半分に切った写真をそれぞれ握っていたのだろう。まるで推理小説だ。頭がこんがらがってくじけそうになる。でも、今日はこの謎を解くためにわざわざ奥尻まで来たんだ。

――ちゃんとやる。ちゃんとやる。ちゃんとやれば、ちゃんとなる――

杏奈はいつもの口癖を心の中で繰り返す。

「あたし、この写真の人が誰なのか。それと、田中屋がどこにあったのか確かめたいの。一緒に役場に行って確認しませんか?」

「うん。おれもそうしようと思ってたから」二人は車で役場に向かった。


彼の名前は町田(まちだ)遼(りょう)。実家は千葉県の柏市で、小さな中華料理店をやっていると車の中で聞いた。役場はなべつる岩からすぐのところにあった。受付で事情を話すと、白のワイシャツに蝶ネクタイをつけた、七十過ぎの小柄で品の良い老人が対応してくれた。胸のイルカのワッペンに「奥尻町コンシェルジュ 奥田(おくだ)道夫(みちお)」と書いてある。

写真を見せると地下の書庫から埃まみれになった昔の住宅地図を抱えてきた。ほとんどの書類が電子化され、何もかもネット上で検索するのが当たりまえの世の中で、紙の書類を目にするのは新鮮だった。

「写真のアングルからこのあたりではないでしょうか」住宅地図の一か所を示したとき、奥田の表情が変化した。

「あれ、ここは私が生まれるまえ、両親が履物屋をやっていた場所ですよ。ほら、ここです」奥田の示した手の先に「食事処・田中屋」、隣に「スナック明美」、真向いに「奥田履物店」とある。

「間違いありません。この写真にも田中屋の前で撮影したと書かれてます」杏奈が写真と地図を見比べた。

「この辺りは百年前の震災で、津波をもろにかぶった地域です。村全体が壊滅してしまった地区です」こうした照会はいまだによくあるのだろうか、品の良い老人はよどみなく説明する。

「この写真の二人が誰かわかりませんか?」

奥田は慣れた手つきでパソコンを叩くと、震災前の住民基本台帳にアクセスした。しばらく目を細めて画面を見ていたが「このお二人は、ここで食堂をやっていた田中さん夫婦で間違いないでしょう」と結論づけた。

「ご親族の方がいらっしゃればお話を伺いたいのですが」

別の資料にアクセスした。

「えーっと……、ご主人の田中(たなか)洋(ひろし)さん、奥さんの奈美子(なみこ)さん、お二人とも震災で亡くなっています。それと、お子さんの剛(たけ)志(し)さん。震災当時六歳だったようですが、住所が函館で苗字も郷原(ごうはら)に変わっています。養子になられたようですね。資料を見る限り、他に親戚やご兄弟はいらっしゃらないようです」

「そうですか……」

「もしお時間があるようでしたら、私の母に聞いてみてはいかがでしょう。田中屋の向かいで履物屋をやっていましたから、何か手掛かりがつかめるかもしれません。もう百歳を超えていますが元気なんです。九十になるまでここでコンシェルジュをやっていたんです。十年前に私が引き継いだんですよ」

「是非、お願いします」杏奈と遼が即答した。

「母は六歳のとき津波で海に流されたんですが奇跡的に助かったんです。奥尻の惨状を風化させないよう語り部(かたりべ)として地元の小学校で震災の話なんかをしてきたんです。子供たちから志津(しづ)ちゃんなんて呼ばれて……。自宅にいると思いますので連絡してみましょう。どうせ暇していますから」奥田はにこやかに二人を見回した。



     二


地図で場所を教えてもらい志津ちゃんの自宅に向かった。インターホンを押すと、ずいぶん小柄だが、奥田の説明通りの穏やかな老女があらわれた。老女は一瞬びっくりしたように二人の顔を交互に見たが、すぐに笑顔を取りもどし、部屋に案内してくれた。

腰は曲がっているが百歳とは思えない。それでいてどこか可愛らしさが残る老女だ。二人は応接のソファーで待った。ゆっくりと時間が流れていく。やがて淹れたてのコーヒーの香りが漂いお盆を持ってきた。はやる気持ちを抑えきれず二人はそれぞれの写真をテーブルの上でひとつにした。

「この写真の田中さんご夫婦のこと、ご存じないでしょうか?」杏奈が単刀直入に切り出した。

「あら……。なしてこの写真が……」眼鏡をはずして手元の拡大鏡で覗き込む。

「これは田中屋さんの壁に飾ってあったものですなぁ。こなにしわくちゃになって……。ほら、ここさいるのが奈美(なみ)おばちゃん、抱っこされとるのが剛(たけ)ちゃんで、横におるのが、洋(ひろし)おじちゃんだあ。たしかあ、漁師の長(ちょう)さんが撮った写真ですわ」信じられないといった表情で写真を見続ける。

「そう言えば……」何かを思い出し、傍らの本棚から古びたアルバムを取り出した。親指に唾を付けながらゆっくりとページをめくり、あるページで手を止めた。志津ちゃんの子供のころの写真が並んでいる。その中の一枚を目にしたとき息が止まった。同じ写真がそこにある。杏奈と遼の写真が真ん中で切られることなくそこにある。ネガフィルムの古い写真だがシミもシワもない。

「ここさ見て下さいな」志津ちゃんが写真の一点に指を置く。田中夫妻の後ろに小さな乳母車。

「これ、わたしなんです。豆粒みたいで顔も分からんけど、せっかくだからって、長さんが焼いてくれたのよ」

二人は写真を凝視した。田中夫妻の嬉しそうな表情が見違えるほどはっきり写っている。その後ろに乳母車が写っているなど初めて知った。

「したけど、なしてこの写真があんたらのとこさあるのかねえ……」

「ぼくと彼女が、半分ずつ持っていたんです」

「そんじゃあ、津波で流された写真が破れちまって、あんたらのとこさ流れついたのかねぇ」

「違うんです。ぼくと彼女が生まれたとき、半分ずつこの写真を握り締めていたんです」

志津ちゃんはしばらく写真を見続けた。

当時を思い出したのだろうか。前置きなしに話し出す。

「あたしゃあ、ひとり海ん中さ漂った。洋おじちゃんが大声で叫んどった。

けっぱれー これさつかまれー 波さ来ても放しちゃだめじゃー。

洋おじちゃんが、流れてきた板切れば渡してくれたあ。

ごめんなあ、おじさんのせいや、怖い目に合わせちまったなあ……。 

洋おじちゃんの声は、今でもはっきり覚えとる。そんときだあ、空が隠れんぐらいの大波が押し寄せたー。みーんなまとめて波ん中さ消えてった……」

まさに語り部だった。

志津ちゃんはアルバムをめくっていく。七五三の写真があった。男の子と女の子が並んで写っている。子供用の着物を着ておすまし顔の女の子が身長の半分はありそうな千歳飴の袋を引きずっている。隣の羽織袴の男の子と仲良く手をつないでいる。

「これ、あたしと剛(たけ)ちゃんですの。七五三で撮ったんです」写真の男の子が五歳に成長していた。ずいぶん背も高くなり、わんぱく坊主の顔つきになっていた。色々な情報が次々と出てきて混乱した。

杏奈は二枚の写真を裏返す。

「ここに、二〇八八年七月十二日、なべつる岩にあつまること。こなかったら、はりせんぼんのーます。って書いてあるんです」志津ちゃんにもわかるように、ゆっくりと読み上げた。

「今日がその二〇八八年の七月十二日なんです。それでぼくたちここに来たんです。誰がこれを書いたのか分かりませんか?」遼が物心ついたときからの疑問を口にした。

黙って写真の文字を見つめる志津ちゃんが、ゆっくり顔を上げて二人を見た。

「わたしにゃあ、わかりませんわ」

やはりそうだろう。百年も前に書かれたメッセージを誰が書いたかなんて、神様でもない限りわからないだろう。

「でもなんだか、洋おじちゃんと奈美おばちゃんが、遠いどこかで、生まれ変わったらまたなべつる岩で会いましょうねって約束した恋文みたいですわね……」ぽつりとつぶやいた。

「実はね、あんたらが玄関さ入ってきたとき、洋おじちゃんと奈美おばちゃんが来たかと思ってたまげてしまったの」そう言えば初めて顔を合わせたときようすが変だった。

「姿が似てるわけじゃなくてな、なんかこう、身体の中の魂みたいなものが、子供のころ、ぎょうさんかわいがってもらった、おじちゃん、おばちゃんとおんなし、あったかいもんを感じたんよ」



  三


日が暮れていた。港に戻り宿をさがした。ちょうど港ちかくの小さな宿が二部屋空いていた。宿の女将が夜はなべつる岩がライトアップされるから行ったほうが良いと言うので、連れ立って行ってみた。杏奈の手に遼の手が触れ自然と手を繋ぐ。不思議と安心する。初めて繋いだはずなのに、むかしから何度も繋いできたかのような感触だ。

「子供のころの話なんだけどね……」ライトアップされたなべつる岩を眺めていると、いままで両親にも言ったことのなかった不思議な話をしたくなった。

「ときどき黒いおじさんが出てくるの。夢の中に出てくることが多いけど、起きてるときも出てくるの。でも、あたしにしか見えないから誰にも言ってないのよね。最初に出てきたのは幼稚園のとき。ひとりで教室にいたら、まっくろのボロボロのマントを羽織ったおじさんが、じーっとあたしを見ているの。黒いおじちゃん、そんなところで何してるの? って聞いたら、あんたは旦那のおっかさんになる人や……。なんか訳の分からないこと言うのよね。おかしいでしょ」遼は黙って聞いていた。

「それでね、旦那って誰のことって聞くと、ちゃんとやる、ちゃんとやる。ちゃんとやればちゃんとなるって、同じ言葉を呪文のように唱えながら消えていくの。その呪文があんまりおもしろいから、口癖になっちゃって……」遼の足が止まる。杏奈の手を握る力が強まった。

「その黒いおじさんって、片腕じゃなかった?」

「そうよ! 右の手首がないの」

「同じ夢を見たことがある。小一のとき。おれは片腕のおじさんに聞いたんだ。おじちゃんて幽霊って。そしたら、むかしは幽霊より怖い死神だったけど、いまは天国にも地獄にも行けない彷徨(さまよい)幽霊(ゆうれい)だって。それで、おじちゃんのこと怖くないのかいって聞くから、全然怖くないよって」夢に出てきた黒いおじさんとのやり取りを再現した。

「そうそう、ふつう死神とか幽霊って怖いけど、黒いおじさんは全然怖くないのよね」

色々と不思議なことがありすぎてもはや驚かなかった。同じ日に違う場所で生まれた二人が、百年前の不思議な写真を持っている。裏面のメッセージに導かれ、なべつる岩の前で会っている。

「あたしの夢に出てきたときはね、そのおてて、どうしたの?  親父に怒られて切り落とされたのさ。悪いことしちゃったの? いや、友達を守ったのさ。痛かった?  友達を守るためだから痛くなかったよって……」

今度は杏奈が夢の場面を再現した。杏奈はふと、黒いおじさんが近くにいるような気がしてあたりを見渡した。ライトアップされたなべつる岩のてっぺんに、黒いおじさんがちょこんと座っているような気がしたが、何も見えなかった。自然と腕を組んで歩きだす。たわいもない話をしたくなる。

「遼君って彼女いるの?」

「いないよ。付き合ったこともない。男子高出てすぐ和食の修行はじめたから」

「ほんと? かっこいいのにね。あたしは逆、けっこう遊んできた。親のすねかじって。地元の大学出ていまは東京の専門学校に行ってるの。いままで三人と付き合ったけど、ろくでもないおとこばっかりだったわ。あたしっておとこ見る目ないのよね」最近の記憶がよみがえりため息をつく。

「黒いおじさん、あたしのことがよっぽど心配なのか、いまだに出てくるの。小さいときは入学式や運動会、それに学芸会のときも。後ろの方でこっそり見てて、笑ったり泣いたりしてるんだけど、おとこと付き合おうとすると、そいつじゃないとか言って、いっつも怒ってるの。でもあたし、そんなの無視して付き合って、そんで失敗するの。ほんとバカなの……。あ、ごめん。あたしばっかり話しちゃって。遼君のことも教えて」

「おれ、奥尻でこの写真と同じ場所で食堂やりたいと思ってる。ここに来ていろんな人のはなし聞いて、導かれてここに来たような気がするんだ」

「それはあたしも……」

「おれ、和食やりたくて十八で家飛び出して京都で修業してるんだ。実はこのあいだ、師匠からのれん分けのはなしが出て場所を探していたんだ。ここなら海や山の食材が目のまえにあって自分のイメージに合ったものが作れそうなんだ」

「そっかぁ。あたしの実家は甲府で旅館やってるの。いまは東京の調理師学校行ってるけど、卒業したら地元にもどって若女将になるの。そのために学費出してもらってるしね。でも、なんか違うの。本当にやりたいことじゃない気がして……」遼が足を止める。

「どうしたの?」

「今日会ったばっかりでこんなこと言うのもあれだけど、できれば君と一緒にやりたいと思ってる」

「あたしと一緒に?」思いがけない言葉にドキドキして顔がほてる。

「あ……、ゴメン、唐突すぎて。おれ、どうかしてた」挙動不審の兄さんみたいに頭を掻きだした。「師匠にもよく言われるんだ。おまえは料理の腕はあるが、女の扱いが成ってないって。たまには外出て遊んでこいって。いまのこと忘れて下さい」深々と頭を下げている。

なんだかちょっとかわいい。少なくともいままで付き合ってきた、ろくでもないバカ男よりは百万倍マシだ。杏奈は志津ちゃんの言葉を思い出していた。

志津ちゃんはあたしたちを見て、田中屋のご両親が来たかと思った。魂が一緒みたいだとも言っていた……。

魂が一緒!

脳裏に何かが閃いた。

――この写真はあたしたちの前世から届いた招待状――

 あたしと遼君がここで逢えるようにと、田中さんから届いたメッセージ! 

田中さんとあたしたち、この奥尻で繋がっているんだよ! 

確信に近い激震が走る。

「あたしなんかでいいの?」杏奈は遼の胸に頭をうずめていた。

驚いた遼が慣れない手付きで頭に手を置いた。おとこと付き合うたびにいつも怒っていた黒いおじさんが、背中のなべつる岩のてっぺんにちょこんと座って肯いているような気配がした。


翌春、杏奈は調理学校を卒業し、遼と正式に婚約した。若女将として婿を迎えたいと考えていた両親は猛反対したが、最後は許してくれた。

二人は田中屋の跡地に食堂を建てた。屋号は「田中屋」と決めていた。役場に行って奥田に相談したら、島に移住する若者をサポートする制度を紹介してくれて、土地は無償で提供、建築資金も全額補助が出たので金はほとんどかからなかった。

遼の和食の腕は確かだった。地元の新鮮な食材を活かして安くて旨い料理を提供した。愛想のよい杏奈を目当てにくる客も多かった。みんなが山菜や魚を使ってくれと持ち込んだ。食堂は繁盛、地元のみんなに愛される憩いの場になった。


三年後、杏奈が妊娠した。無口な遼が子供のように喜んだ。常連や近所の人たちも自分のことのように喜んだ。食堂の壁にはボロボロになった写真が飾ってある。杏奈はこの写真が幸せを運んでくれているような気がしてならない。

写真の中の大将は、いつも優しい笑顔で語りかけてくる。

――ちゃんとやる、ちゃんとやる。ちゃんとやればちゃんとなる――

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