第六章:戦い
一
塚田(つかだ)洋子(ようこ)は驚いた。現世の写真がここに存在するはずがない。天国に来て二年目になるが、写真というものをはじめて見た。文明のない天国にはカメラやスマホはない。なのにどうして写真が存在するのか。なぜこの子たちがそれを持っているのか。しかも写真にはなべつる岩が写っている。函館出身の洋子はいちど奥尻に行ったことがあるので見覚えがある。
クリマーは入所する子供の身体検査と持物検査を必ずやらなくてはならない。手作りのおもちゃをこっそり持ってくる子供もいるが、修行に関係ないものは没収しなければならない。ヒストリーと天国時計以外は持ち込みできないのだ。いますぐこの写真を取り上げないと重大な規則違反になる。このまま見逃すとクリマーは失格だ。いや失格どころでは済まないかもしれない。
洋子は平凡なサラリーマン家庭の一人娘として函館市内で生まれた。真面目を絵にかいたような父親と、ちょっと天然でおっちょこちょいの母親の三人で暮らしていた。保母さんになるのが夢だったが、高校二年のとき病気で死んでしまったのだ。
天国の導入研修で公務員制度があるのを知った。公務の中に六歳以下になった子供の世話をする「クリマー」の仕事があるのを知った。現世でいう保母さんだ。なりたくて夢見てきた職業がここにあったのだ。洋子は何の迷いもなく公務員コースを選び、中でもとりわけ人気の高いクリマーの試験に一発で合格した。
現世の写真を見て、洋子の脳裏に高校時代の甘酸っぱい思い出が蘇える。
――函館市内の男女共学の進学校。片思いの男子もいたし親友もいた。二年生になってまもない四月の上旬、急に身体が怠くなり、教室で倒れて病院に運ばれた。軽い貧血との診断だったがそのまま一週間入院していろいろな検査をした。同じクラスの友達が毎日見舞いに来てくれ、その日あった席替えの話や新しく担任になった先生の悪口、かっこいい男子がどうしたこうしたという他愛のない話を毎日夕方までやって婦長さんに怒られた。退院後、身体の怠さは残っていたが、学校に行って友達に会えるのが楽しかった。ただ、体育の授業はしばらく見学するようにと言われていた。楽しみにしていた修学旅行も、もう少しようすを見るようにと言われたときは、もう少しっていつまでよ! って、ママに食ってかかったけど、はっきり答えてくれなかった。あとから思うと、無理に平静を装った不自然な明るさがママの笑顔にあった。でもそのときは、音楽の時間、気になる修二君の隣の席になってひとことも話せずドキドキしたり、週末に親友のユッコと買いに行く洋服が売り切れないかと心配したり、学校の帰り道の保育園で、若くてかわいい保母さんが楽しそうに子供と遊んでいるのを見て、改めて自分の夢を固くしたり。そのためにはそろそろ真剣に勉強しようか、今日帰ったらパパに塾に行っていいか相談しようか……。などなど、次から次へと、楽しい計画やら考えが浮かんできて、身体の怠さなど忘れてしまっていた。
その年のクリスマスが近づいたころ、部屋で本を読んでいたら突然めまいがして意識を失った。気づくと大きな病院の集中治療室にいた。
最後まで本当のことは言ってくれなかった。きっとパパとママがそう決めていたのだろう。絶望に打ちひしがれる時間を少しでも短く、楽しい夢を考える時間を少しでも長く娘に残してあげようとしたのだろう。そのおかげで、――自分は死ぬ――と、自覚したのは直前だった。身体の痛みが和らぎ全身が軽くなった。周りの音が聞こえなくなり、水中にもぐり耳がふさがれているような感じになった。音が聞こえないぶん意識が研ぎ澄まされ、普段感じることがないわずかな空気の流れや匂いを感じることができた。
死ぬときって走馬燈のように、自分の生きてきた出来事が順番に出てくるって聞いてたけど、そんなものはあらわれなかった。最後の最後に後悔だけが溢れてきた。
ユッコにお別れ言えなかったな……。修二君にも告白できなかったし……。保母さんにもなれなかったな……。病気のこと、何で早く言ってくれなかったのよ! そしたら、もっと、いろんなことができたのに。ベッドの横でただただ泣いている両親に向かって叫んでいた。ゆっくりと身体から魂が離れていくのが分かった。天井から抜け殻になった自分が見える。
ちょっと待ってよ! あたし、何で死んじゃうの、まだなにもやってないよ。やり残したこと山ほどあるよ。神様、あたしって何か悪いことしましたか? わりと真面目に生きてきたと思うんですけど……。これってひどすぎませんか?
悔しくて、何度も何度も叫んでいた。パパが涙をこらえ両手を握り締めていた。ママがいつまでも泣いて謝っていた。
病室の外の廊下に、ユッコが修二君を連れて来ているのに驚いた。
ユッコ! なんて言って連れてきたのよ、彼に迷惑じゃないの、怒ってるんじゃないの?
驚きと心配と嬉しさが時間差で襲ってきた。
ママが病室から出て娘がダメだったと話したみたい。無声映画のように声は聞こえないが雰囲気でわかる。ユッコが両手で顔を覆って泣き崩れた。ママが修二君に何かを手渡した。
え!
なんでよ、隠しておいたのに。
恥ずかしくて目を伏せた。修二君が手紙を読んで肩を震わせる。
泣いてくれてるの?
背が高くて、チョッとだけ不良っぽくて、怖そうだった彼が涙をこぼしている。そしてポケットからお守りのようなものを取り出しママに渡している。どこかでわざわざ買ってきたのだろうか。彼が私のことを心配し、私を応援するために、わざわざ買ってきてくれたのだろうか。ひとことも話したことがなかったのに……。
声は聞こえないが、ママが何度も頭を下げている。
ママ、ありがとう。
よく見つけてくれたね。私の手紙。カギのかかる引き出しの奥にずっと隠しておいたのに。生きてたら絶対渡せなかったよ。
これは洋子にとって現世の最大の思い出だ。ママに死ぬほど感謝している――
頭に浮かんだ思い出を振り払い洋子は我に返った。この写真を取り上げ、チーフクリマーの梅子先生、通称 「ウメババ」に報告しなければならない。
ウメババとは、洋子が心の中だけで使っているニックネームだ。口にしたことなど一度もない。現世で遊んでいたゲームソフトに出てくる、赤い恐竜のキャラクターが「ウンババ」で、どことなく雰囲気が似ているからそうつけた。
クリームハウスに来たとき先輩クリマーからウメババのことを聞かされた。
現世では日本の女子教育の先駆者と云われた人物で、六歳のときに岩倉(いわくら)使節団(しせつだん)に随行し最年少でアメリカ留学をしたそうだ。そう言えば、高校の歴史の教科書に気の強そうな顔写真が載っていたような記憶がある。
六十四歳のとき鳴り物入りで天国に来た梅子は、ここでもしっかりした教育制度を作るべきだと持論を展開。中でも六歳以下の教育はもっとも重要で、早急にクリームハウスを作り修行の総仕上げをするべきだとアマテラス様に進言し、自らハウスの施設長になったと言う。
アマテラス様はウメババを天国運営を司る側近の一人として上層部に加えると、クリームハウスを各地に展開しながら教育制度を次々と整えていったのだ。
洋子にとって、激動の明治、大正を生き抜いた彼女の考え方や行動は共感が持てず、頭の上に輝く権威の象徴、金のカチューシャを見ただけで虫唾が走るのだ。それに加え、ウメババの洋子に対する指導はとにかく意地悪で嫌味で厳しいものだった。顔さえ合えば思い出したようにヒステリックに怒られた。このあいだも子供の指導法について長々と説教されたばかりだった。
「あなたの指導は優しすぎるのです。その優しさは自己満足でしかありません。ここにいる六年間で、現世の荒波を生き抜く強さが決まるのです。もういちど言うわよ。優しさだけの魂じゃダメなの。厳しさを知った強い魂にすることを考えなさい。転生してから苦労するのはこの子たちなのよ」洋子は下を向いたまま返事をしなかった。
「なんど言ってもダメね。あなた、この仕事に向かなくって? 嫌ならいつでもやめていいのよ。あなたの代わりなど、いくらでもいるんですから」
ウメババの呆れ顔と甲高いヒステリックな声がいまも耳に残っていた。どうしても素直になれなかった。ウメババの言っていることは分からなくもない。でも、こんな人格まで否定する言い方ってどうなの? それに、子供のことは大好きだし、受け持ちの子供たちからはヨーコ先生と慕われて、少なくともウメババよりは絶対私の方が好かれている。
私のやり方ってそんなにダメなの?
現世で親にも先生にも怒られたことがない洋子は、他人から批判される免疫を持ち合わせていなかった。ウメババとは一生仲良くなれないと思っていた。
そんなウメババに写真を隠していることなど知られたら間違いなくクビになる。大好きなクリマーの仕事が出来なくなる。いや、クビどころか天国で最も重い刑、「地獄落とし」になるかもしれない。でも、あんなに大切にしているものを取り上げるなんて……。
そんな洋子の葛藤を知る由もなく、二人はロビーで楽しそうに笑っている。
「ヨーコ先生、ここに『2088年7月12日、なべつる岩にあつまること。こなかったら、はりせんぼんのーます』って書いてくんない?」洋が無邪気な顔して写真を持ってきた。
「私のも書いてえー。写真が小さすぎて書けないの。漢字もわからないし」奈美子も甘えた顔して寄ってくる。
「ねえ、この写真ってどうしたの?」
「おれたち、奥尻の津波でここに来たんだ。海に投げ出されたとき、この写真だけ持ってたら一緒に天国まで来ちゃったんだ」
奥尻の津波。子どものころ祖母から聞いたことがある。なべつる岩が隠れるほどの高波が襲ってきて何人もの人が亡くなったと。
この子たち、それで一緒にここに来てるんだ。
「最初は公務員になって二人で奥尻とおんなじ食堂やったけど、この写真撮ってくれた長さんが仕事変わってくれたんだ」
「そう、あたしは明美さんに」
「それでここに来るとき、大事な写真だからおまえが持っていけって」
「あのね、さっき洋(ひろ)ちゃんがね、すっごくいいこと考えてくれたの。先生にも教えてあげるね」奈美子が耳元で内緒話をするように話し出す。
「ねえ、凄いでしょう……」
聞いて驚いた。二十三歳になった二人がなべつる岩で再会している場面が頭に浮かぶ。つぶらな四つの瞳がこっちを向いている。こんな重大なことを、何の駆け引きもなく全部話している。ふと、保母さんの夢が絶たれたときのことが頭に浮かぶ。
あんな思いはさせたくない! 二人の夢をかなえてあげたい。たとえかなえられなくても、かなえられるように応援してあげたい。
規則違反が何よ! 地獄落としが何よ! そんときはそんときよ!
洋子は腹をくくった。
「どれどれ、ここでいいのー」それぞれの写真の裏に小さな文字で書き添えた。
「ワーイ、ありがとうヨーコ先生」
「先生、字、じょうずだねー」
「じゃあ、横に自分の名前を書いてごらん。書けるかなあー」
「はーい」二人は元気に返事をすると、真剣なまなざしで「たなかひろし」、「たなかなみこ」と書き添えた。小さな写真の裏側が、文字いっぱいの招待状になった。
「洋(ひろ)ちゃん、なくしちゃだめよ」
「奈美(なみ)もな」
「先生、ノートの紙、二枚ちょうだい」折り紙が得意な奈美子は紙を器用に折って、お守りのような巾着を作った。
「こなかったら、ほんとにはりせんぼん飲ますからね」
二人は巾着に写真を入れ、黒装束の胸のポケットに入れた。
「ひとつだけ先生と約束してくれる」
「なーに」
「この写真のこと、三人だけの秘密にしてね」
二人はちょっとだけ不思議そうな顔をしたが、すぐに「はーい」と元気に返事をした。
洋子はどんなことがあってもこの秘密は守り抜こうと覚悟を決めた。
クリームハウスでは六歳で入所した子供を赤ん坊になるまで一人のクリマーが担当する。各年齢五人ずつ、合計三十名の子供を担当することになっている。四歳以上は、時間になると勝手にヒストリーを開いて自分で修業を始めるが、三歳になると一緒にヒストリーを開いて、魂の映像を見ながらときどき説明を加えることが必要になってくる。二歳以下だと魂を取り出してヒストリーにセットするところからやらなければならない。魂の場面を見ながら読み聞かせのように分かりやすく説明することも必要で手間がかかってくる。
洋子は二人の黒装束のちょうど魂の上に当たるところに写真を入れて、外からは分からないように念入りに縫い込んだ。毎年、新しい黒装束が支給されるたびにこっそり写真を入れ替えた。
三年が過ぎ洋と奈美子は三歳になった。修行は順調に進み二人の魂はほとんどピカピカになっていた。二人とも洋子にすっかり懐いて甘えてきた。洋子も実の子供に対するような愛情で修行の仕上げに精を出していた。
毎晩魂の映像を一緒に見た。この二人は本当に仲の良い幼馴染だったことがよくわかる。いつも一緒に遊んでいる。奥尻の美しい海や山を駆けまわり、まっくろに日焼けして遊んでいる。二歳になると写真が胸のポケットに縫い込まれていることなど忘れているようだ。どうかこのまま写真を携えて転生してほしい。現世で二人がまた出会い、幸せになってほしい。自分の子供の幸せを願う親の気持ちと変わらない。
とうとう転生する日が一週間後に近づいた。今日は魂の最後のチェックがある。監査官がひとつひとつの魂を確認し、転生してよいかの最終判定を行うのだ。
監査官、角田(かくた)民子(たみこ)の厳しい目が光っていた。現世では宝石の鑑定士をやっていて、通算でこの道百五十年の大ベテランだ。彼女の目は機械のように正確で、何の迷いもなく判定を下していく。洋子は最終判定が無事終わることだけを祈っていた。
「おかしいわね」大きなレンズを二人の胸に当て、民子が首をかしげている。
「黒装束を通すとなぜかぼやけるの。直接見るとピカピカなのに……」黒装束をめっくたり戻したりしながら怪訝そうに魂を見つめている。
「詳しく見る必要があるわね。塚田さん、ちょっと二人をベッドに寝かせてくださる」
洋子は緊張で声も出ない。もたつく足で二人を抱きかかえ、隣の部屋のベッドに移した。民子は引き出しから更に大きな拡大鏡を取り出して、色々な角度から何度も魂をチェックする。
「魂自体は問題ないのに、こうして黒装束をかざすと影が見えるのよ」民子は黒装束を手に取ると、目を皿のようにして隅々をチェックしはじめた。洋子は生きた心地がしない。
「これは何?」冷たい声とともに、黒装束の縫い目をしっかり押さえる民子がいた。
何の言い訳も準備していなかった。
「これ、あなたがやったのね。完全な規則違反です」民子は鬼の首でも取ったかのように勝ち誇った笑みを浮かべると、証拠の黒装束を抱えてウメババを呼びに出ていった。
鉄仮面のように表情一つ変えないウメババが、金のカチューシャを光らせあらわれた。
「地下の独房に閉じ込めなさい」容赦ない声で秘書に命じた。若い秘書が気の毒そうに洋子を連れて行く。
最悪の地獄落としを覚悟した。でも、自分のやったことは間違っていなかったと思っている。最初に気づいたときに写真を取り上げなくてよかった。少なくとも二人の記憶の中では、最後までしっかりと写真を携えていたはずだ。転生してまた会えることを信じて修行を続けていたはずだ。
一週間後、秘書が辞令を持ってきた。「魂(たましい)先導役(せんどうやく)を任ずる」と書かれてある。地獄落としを覚悟していた洋子は、辞令の意味が分からず戸惑った。反応の薄い洋子を察した秘書が、「天国から旅立つ魂をプラットフォームまで先導するお仕事ですよ」にっこり笑って補足した。
「え!」
まさか自分が……。
天使の旅立ちの日、大きな羽を広げ赤の鳥居から煉界に向かって飛び立つ先導役の姿を思い出す。
「さ、これをつけてください」手にした袋からまっしろな羽を取り出した。「それから、これは梅子先生から」白い封書が渡された。
ウメババから?
嫌な予感がした。きっととんでもないことが書かれてあるに違いない。震える手で開けてみた。
写真! ふたつに切ったなべつる岩の写真が入っている。
「どうして?」洋子は自分に何が起きているのかわからない。秘書の顔を見つめると、「梅子先生からのお餞別ですって」と明るく言った。
「お餞別って?」
「まもなく出口から二つの魂が旅立ちまーす。早く先導して下さーい」時計を見た秘書が洋子にウインクした。
まっかな鳥居の前に両腕に洋と奈美子を抱えたウメババが立っていた。毎朝ここからたくさんの魂が旅立つが、二人だけの臨時の旅立ちがセットされていた。二人ともきれいな羽が生え揃い白い絹のレースをまとって、頭の上には小さな光輪が輝いている。旅立つときの正装だ。
「梅子先生」
「あら、ウメババでいいのよ」
「ぇ……」いちども口にしなかったはずなのに……。
「何年この仕事をやっているかお分かり? あなたの考えていることぐらい、全部お見通しですのよ」洋子は恥ずかしさと申し訳なさとでまっかになった。
小さくなった洋子の横で秘書が小声でささやいた。「梅子先生、アマテラス様に頼み込んだみたいですよ。本来なら、地獄落としになる罪を、自分が犠牲になってもいいから、あの子だけは特赦にしてほしいと……」
瞼の裏が熱くなる。
「先導役、これも大切な仕事です。ここからプラットフォームまで無事に送り届けるのがあなたの役目です。しっかり勉強してきなさい」梅子先生はにこりともせず最後まで説教口調を崩さなかった。
これが梅子先生の優しさだ。本当の優しさとはこういうことだ。上辺だけではなく、ケタ外れに大きくて、重たい優しさがあるのだ。
「さあ、あなたの最初の仕事です。二人の魂をしっかり先導してきなさい」
鳥居から煉界の景色が目に入る。近づくと思ったより風が強い。梅子先生の手元から、洋と奈美子が煉界に向かって放たれた。
洋子は慣れない羽を広げて鳥居を抜けた。仲良くじゃれ合いながら先に飛び立つ二人を追いかけた。
「ほらほら、そんなにふざけちゃだめよ」振り返ると赤の鳥居がだんだん小さくなる。梅子先生が厳しい表情を崩さず秘書と並んで立っていた。
「どうしてあの子にきつく当たってきたのですか?」秘書が梅子に問いかけた。
「いずれ、別の地区の施設長を任せようと思っているからです。まだまだ時間はかかりますけどね」
洋子は二つの魂を慎重に先導した。初めての仕事に緊張する。ようやくプラットフォームが見えてきた。
ここに昇ってきた日のことを思い出す。夢が絶たれた絶望で身体が震えていた。目の前の白い天体が怖くて、下に見える青い地球に帰りたかった。あらためて白い天国を見渡すと、八年前の印象とは全く違っていた。天国は洋子を見守る天使のように、優しく静かに回っている。
今日は現世も天国も快晴だ。二人の門出を祝福しているかのように二つの天体がはっきり見えている。洋子は天国リングで羽を休めると、写真の入った巾着を取り出した。げんこつのように固く握りしめている拳を開き確りと握らせた。二人は最初から分かっていたかのように拳の中に硬く握り締めた。
「離しちゃだめよ」
ここで二人とはお別れだ。ここから先は自分の力で好きなところに降りて行く。この子が無事に転生し、まためぐり合い、幸せな一生を送れますように。願いを込めて二つの魂を送り出す。小さな羽を広げた魂は、青い地球に向かって勢いよく飛び出した。だんだん小さくなる魂に見えなくなるまで手を振った。
二
洋子は六年前、T302を統括するクリームハウスに赴任した。
天国にきてから三十五年が過ぎていた。
いちどクリマーをクビになってから、先導役を十年、その後、他のクリームハウスのクリマーを二場所務めてから、チーフクリマーとしてここに赴任した。
毎日修行者のようすを見て廻る。彼女がチーフクリマーになってからの習慣だ。巡回すると魂に映るさまざまな場面が目に入る。こうしてみると六歳以下でも深い傷が癒えない魂もたくさんある。クリームハウスの重要性が改めてよくわかる。
――優しさだけの魂じゃダメなの。厳しさを知った強い魂にすることを考えなさい――
恩師の言葉を思い出す。いつものように巡回していると、偶然目にした男の子の魂に足が留まる。
なべつる岩!
クリマーになってまもない頃、二人の子供がなべつる岩の写真を持ってきた。洋(ひろし)と奈美子(なみこ)。転生しても夫婦になると言って旅立った。洋子にとって忘れることのできない出来事だ。いま映っているのは、間違いなくあの写真と同じ場所。
するとこの子は……。
天国でも個人情報を本人やクリマーに明かすことはできない。ヒストリーの内容を必要以上に開示することは許されない。修行者はクリマーの最低限のサポートは受けても、自分の歩いた道のりを、自分自身で振り返り、消化していくのが修行の原則だ。洋子は頭の片隅に記憶を止め、残り一年となった「剛志」の修行を見守った。
今日は旅立ちの日にふさわしい快晴で、クリームハウスを出てきた雲っ子が、鳥居の周りに日陰をつくっている。朝から鳥居の周りが人で溢れ、掃除や食事など世話をしてくれたクリームハウスの白装束も名残惜しそうに集まった。洋子がチーフクリマーになってから、ハウスのスタッフも一緒に見送ることに決めたのだ。
今日は剛志を含む十人の天使の旅立ちだ。クリマーに抱かれた天使が目に入る。小さな羽が生え揃い、頭の上に光輪が浮かんでいる。
「クリマーの皆さま、修行の仕上げご苦労様でした。これより天使様を天国リングまで先導してまいります」ベテラン先導役のいつもの口上だ。十人のクリマーが鳥居の前に横一列に整列した。
「それではご唱和願います」ひと呼吸置いた先導役が左手の拳を魂の位置に置き、右手の人差し指を鳥居の先、青い地球にまっすぐ向けた。
「良き来世を―――」先導役の掛け声に周りの全員が人差し指を掲げて唱和する。それを合図に十人の天使がいっせいに煉界に放たれた。先導役が大きく羽を広げて後を追う。
「いってらっしゃあ~い」クリマーが六年間一緒に過ごした魂に声をからして両手を振る。
先導役が天使に追いつき先頭に立ったときだった。一瞬、得体の知れないものが視界を横切った。先導役が神隠しに会ったように消えている。十人の天使は先導役がいなくなったことに気づかず、先を争うように下へ下へと降りて行く。
「だめよ、止まって!」
異変に気づいた天使が羽を止めて一か所に固まった。カラスのような黒い塊が瞬間移動で細かく動き、十人の天使の前で静止した。
鳥居を見ると胸に矢が刺さった先導役が笠木にぶら下がっていた。
死神?
何で死神がここにいる!
雲っこに飛び乗り鳥居を抜けた。最短距離の一直線で死神目掛けて突っ込んだ。身体じゅうが、火がついたような怒りに包まれた。
「うおおおおお―――」出したことのない雄叫びをあげている。
死神が近づけるのは天国ロードから入口まで。出口から現世までは犯すことのできない安全地帯、これはアマテラス様と閻魔大王が決めた掟のはず。それがなぜ、なぜ神聖な出口に死神がいる? 何が目的なの!
金のカチューシャに太陽光が反射し、死神が一瞬まぶしそうに顔を背けた。その隙に洋子は五人を庇うように間に入る。なんの恐れもない。ここで修業を終えた魂は、どんなことがあっても転生させる。それしかない。
死神はこれまで見てきたものとは動きが違う。瞬間移動ができるマントと、鎌に毒矢の発射装置がついている。十人の天使から一つの魂をさがしている。
大丈夫! 頭は冴えている。その証拠に冷静に分析できている。
対峙した死神が大鎌を振り上げ向かってきた。
三
ケッ! 邪魔くさい小娘め。まずはこいつからやっちまうか。
地獄の底に叩きつけられたあの日を思い出す。門番の赤鬼、青鬼の代わりにこきたない二人があらわれた。性懲りもなく地獄に落ちてまで夫婦をやっていた。
「やっぱり来たわね、待ってたわよ。わたしたち閻魔様のおかげで何とかやってるの」相変わらず権力のあるやつに媚びる母だった。
「山田一族にこき使われて最下層の死神さ」地獄に落ちてもゲームに負けた父だった。
「これで少し楽ができるわね」
「やっとわしらの下が来た」こずるそうな面は変わってない。
「テメーらなんか親でもねえ。俺はひとりでやってやる」二人の顔面を思いっ切り蹴飛ばした。
死神は俺の天職だった。汚れた魂を片っ端から地獄に落とす。快感だった。とてつもない権力を手にした気分だった。天国へ行ける魂さえも、閻魔との連係プレーで地獄に落としてきた。閻魔におべっかを使って難なく懐に飛び込んだ。権力のあるやつを見つけて懐柔する。現世のときからのやり方だ。
「貴様スジがええなあ」
閻魔に褒められ最短スピードで出世した。最下層でウロチョロしている親を足蹴にしてこき使ってやった。
一週間前、これまで死神を束ねてきた山田一族に代わり「死神リーダー」に抜擢された。
「たまには地獄谷の温泉にでも浸かって身体を休めてこい」
褒美として瞬間移動ができる新型マント、毒矢の発射装置がついた大鎌、一週間の休暇が与えられた。
ふと、憎々しい男の顔を思い出す。
温泉なんかに興味のない俺は、密かに天国に放り込んだスパイを呼び出した。
「吉田というガキをさがせ」
スパイとは自殺した中学生のガキだ。天国ロードで雷落として気絶させ、扉に引っかかったところをぶん殴って囁いた。「俺のスパイになるなら助けてやる」そう言って矢をぶった切り扉の穴にぶち込んだ。それ以来、奴とはプラットフォームでときどき会っている。
昨日そのスパイから情報がきた。案の定、吉田はとっくのむかしに転生していたが、奴の上司、郷原が明日出てくると言う。
上等じゃねえか。
俺はやっぱりついている。吉田の代わりにもってこいだ。郷原、貴様を地獄に落としてやる。また俺の下僕としてこき使ってやる。貴様などしょせん俺の捨て駒だ。
いや待て! 捨て駒などではすまねえな……。
俺を馬鹿にした吉田の面。思い出すたびそこらじゅうの窓ガラスをたたき割りたくなるほど腸が煮えくり返る。
どうやって落とし前を付けてもらおうか……。
そうだ、のっぺらぼう……、のっぺらぼうだ!
貴様なんぞ、地獄の墓場で顔が溶けるまで釜でも回してろ!
四
洋子は十人の天使を守るように、両手を左右に伸ばして立ちふさがった。表情一つ変えない死神が、薪割りでもするかのように、鎌を大きく振り上げ向かってきた。
ここは神聖な出口、何があってもここを動かない!
鎌が頭上に落ちてきた。
強い衝撃を食らった。
割れんばかりの金属音。後ろに弾き飛ばされ、素早く動いた雲っこがクッションのように洋子の身体をキャッチした。
やられた?
いや、意識がある。生きている。ただ、頭が割れるように痛い。
死神がぐにゃりと曲がった刃先を不思議そうに眺めている。
「俺の鎌で切れないものがあるとはな……」
片方の手首を振っている。金のカチューシャが兜のように洋子を守っていた。
死神は刃先の曲がった大鎌を、今度は八つ当たりする子供のようにめちゃくちゃに振り回しながら向かってきた。雲っこが猫のような俊敏さで攻撃をかわすが、顔、腕、足をかすめて身体じゅうが血だらけになる。
「威勢のいい嬢ちゃんよ。そこの一匹、そいつだけよこせば用はねえ」
死神の鎌の先は剛志の魂だ。
「汚らわしい。ここから出て行きなさい」洋子はふらつきながらも戦闘態勢を崩さない。
意識ははっきりしている。いや、むしろ研ぎ澄まされている。その証拠に鎌の動きがコマ送りのようにゆっくり見える。カチューシャに太陽光が反射し、死神が一瞬マントで顔を隠す。
今しかない!
雲っこが阿吽の呼吸で洋子の意図を察知した。
カチューシャを外して突端を身体の前で握りしめ、虎のような瞬発力で飛び込んだ。
死神がかすかに笑った。
「そんなママゴトが通じるかあ~~」
飛びかかってきた雲っこを直前でかわすと、両手で持った大鎌をバッティングセンターでもあるかのように身体をひねらせ強振した。
痛ッ!
曲がった刃先が魂の芯に食い込んだ。
身体じゅうが熱くなって震えだす。
亀裂!
死神が容赦なく力を掛けてくる。
歯を食いしばる。
こんな奴に負けてたまるか! たまるか! たまる……、たま…………。
胸の真ん中で花瓶を落としたような音がした。
うわああぁぁぁ――……。
粉々になった魂が、目の前で散骨したかのようにキラキラ反射した。
紫の塊(かたまり)が、音もなく風のように鳥居を抜けた。
ワープしたかのように死神の喉元二センチに刃先があらわれた。
「天国の聖域を冒涜(ぼうとく)したものは何人(なんぴと)たりとも許されぬ」
煌々とした声にクリームハウスがざわついた。クリームハウスの統括責任者、津田梅子が紫の雲っこに薙刀を構えて立っている。
「う、うるせえ……、どこのババアだ……」
突然目の前にあらわれた般若のような梅子に死神の声が上ずった。
「そんなガラクタで私を切れると思うのか」八相(はっそう)の構えで対峙する梅子に寸分の隙もない。
「穢れの塊(かたまり)、思い知れ!」
ヤッという掛け声で梅子の刀(なた)が一瞬消えた。風の余韻と共に、死神の手にした鎌が、大根でも切ったかのようにバラバラと足元に散らばった。
「次はおまえのここだ!」刀先が頸動脈でピタリと止まる。ガタガタ震えた死神が両手を上げた。
「おまえは閻魔とアマテラス様との盟約を破った。天獄間(てんごくかん)条約(じょうやく)に基づく裁判でお前の罪を質す」
視線を下げると魂の抜けた洋子の無残な姿が目に入る。
尋常じゃない怒りが肚の底から込み上がる。
いまさら裁判など何の意味があろう、このまま殺してしまおうか……。
秘書が洋子のもとに救護隊を連れてきた。
洋子の口がかすかに動く。
――あぶない! ――
振り向くと短剣を手にした死神が胸元と近くに迫っていた。
「この女(あま)があ~~」
隠しておいた護身用の短剣を手に取り突っ込んだ。
――やっぱり最後に勝つのは俺様だ!
脇から白い塊(かたまり)が飛んできた。
なんだ、この感じ……。
確か八階のマンションで……。
デジャブ?
でも、犬じゃねえ……。
かまわねえ、このまま殺(や)ってやる!
飛んできた白い塊(かたまり)を突き刺した。
内臓をえぐる感触が手首に伝わった。
雲っこに乗ったガキのスパイが白目をむいて倒れかかってきた。
「じゃ、じゃましてんじゃねえ~~」
「もうこりごりだ……。ちゃんと天国に入っていれば良かったんだ!」
「うるせー、いじめられて自殺したクズは俺の捨て駒だ!」
「そうだよ、ぼくはクズで弱虫だ。でもお前の捨て駒なんて……。地獄でもどこでも落ちてやる。お前なんかの捨て駒よりよっぽどましだ!」泣き叫ぶ少年が刺された短剣を抜いて反撃しようとする。
梅子が少年を抱き寄せた。
「あなた、私を助けてくれたのね」
力の抜けた少年がぐったりと身体を預けてきた。
「大丈夫、魂は外れてる。あなたのどこがクズで弱虫なの? こんなに勇気があるくせに……。ホスピタル、早くこの子の手当てをして!」
煉界の下からもくもくと暗雲が沸き上がる。昼間にもかかわらず、一瞬であたりが暗くなる。嵐のような風雨に幾筋もの稲光が混じり山のような影がある。
ドンドンドン、ドドドンドン。
ドンドンドン、ドドドンドン。
小刻みな太鼓の音が近くなる。
ドドドドドド――――――ン!
天国が壊れるかのような轟音の中、雲が流れ巨大な塊があらわれた。塊の中に金色の目玉が二つ。血管が蜘蛛の巣のように走っている。
「おおお――――、閻魔大王様だあ。閻魔大王様が俺を助けに来てくれたんだあ~」死神がその場にひれ伏した。
牙を剥いた大王は、背中に後光のような太鼓が並んでいる。太鼓が揺れるたびに稲光が瞬いた。
「貴様、温泉に浸かってたんじゃないのか?」閻魔の声に地表が揺れる。
「大王様のために休みを返上して仕事をしておりました」
「そんなことは聞いてない。貴様は盟約を破ったのじゃ」
死神の顔が歪みだす。
「貴様なんぞを死神リーダーにしたのが間違いじゃったあ~~~」ライオンのような遠吠えとともに、腰の剣を鞘から抜く。
「ま、ま、待ってください。私は、私は大王様のために……」
話の終わらぬうちに死神の身体が脳天から真っ二つに切り裂けた。鳥居の周りで悲鳴が上がる。閻魔はサーチライトのような目玉を梅子に向けた。兜を外し一礼すると、短剣で片方の角(つの)を指でも詰めるかのように切り落とす。
「これをアマテラスに持っていけ」血の滴る角(つの)を投げ落とす。
「騒がせたな、天(あま)の衆(しゅう)。今日のところはこれで勘弁じゃ」
頭からどす黒い血が流れるのもそのままに、山のような背中を左右に揺らして太鼓を連打した。
ドドドドドド―――――ン
爆弾を落としたような轟音と振動が続く中、黒雲に乗った大王は稲光と雷鳴をとどろかせ消え去った。
「塚田さん、起きなさい」梅子は雲っこに横たわる洋子に駆け寄った。
「なぜこんなことに……」梅子の涙が洋子の頬に落ちる。
秘書がひしゃくに水を持ってきた。梅子が口に含んで霧吹きにする。二回、三回……。
洋子が身体に残るわずかな感覚で目を開けた。
「あたし……、だいじなたましい、なくしちゃったみたい……。彷徨幽霊ですね……」
「そんなことさせるものですか」梅子が自分の魂に手を掛けた。
「いけません!」秘書が覆いかぶさるように梅子の手を止めた。
「どきなさい!」間髪入れずに跳ね除けた。
梅子は自分の魂を取り出すと、空になった洋子の胸に入れ、紫色のカチューシャを洋子の頭に載せた。
「あなたが面倒みるのよ、この子が一人前になるまで……」涙が止まらぬ秘書に微笑むと、紫の雲っこから煉界に身を投げた。
最期の最期まで津田梅子だった。
魂を失くした梅子は風にたなびく衣のようにゆっくりと落ちていき、やがて見えなくなった。
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