第五章:奥尻島の父と母

 一

 

洋(ひろし)は四年前を思い出す。

ツネゴンズの優勝決定戦の日、突然ここにあらわれたあの男。あれは間違いなく剛(たけ)志(し)だった。いくら大人になったとはいえ、一人息子を間違うはずがない。

奥のテーブル席で奈美子と向かい合い、白装束を膝におく。剛志が忘れていったものだ。いつか取りに来るんじゃないかと思って洗濯してしまってある。

――貴様、ワシらを殺した罪を、息子になすり付けてんだろ! ワシらの命と息子の命を秤にかけて、帳尻合わせて満足してんだろ! ――

長さんに言われた言葉を思い出す。

「長さんに言われてハッとしたよ。そんなこと考えもしなかったけど、言われてみればその通りじゃねえかって」

「また思い出しているのね」奈美子が写真の入った額縁を手に取った。

「これ撮ったとき、ター坊だはんして……。長さんなだめるのにえらい苦労してたわね」

「一歳の誕生日だよ。いい写真撮ろうとして、剛志の機嫌取ってな……」寝起きで駄々をこねていた剛志を思い出す。

奥尻で同じ日に生まれた二人は、奥尻で育ち奥尻で結婚した生粋の奥尻っ子だ。洋の実家は食堂で、奈美子の実家は旅館をやっていた。同じ年の二人は子供のころから奥尻の海や山を駆けまわり、小・中・高と同じ学校に通って二十三歳で結婚した。洋は実家の食堂「田中屋」を継いで奈美子と二人で切り盛りした。なかなか子供ができなかったが、三十二歳のとき剛志を授かった。二人は大喜びで、誕生日には毎年近所の常連を呼んでお祝い料理を振る舞った。

「あいつ俺を親だと確信していたよ。目をみてはっきり分かった。でも俺は拒絶した。奈落の底に落としちまったんだ。俺はあいつの涙いっぱいためた目が忘れられねえんだ」膝に畳んだ白装束を拳で叩く。

「なんにも変わっちゃいなかった。はっちゃきこいてウニやアワビを採ってきた目とおんなじよ。ホントはあんとき、思いっ切り抱きしめてやりたかったんだ」

「わかってるわ。だてに幼馴染やってませんから」

「ほんと苦労ばっかしかけてきたよな。バカな俺に付き合わせちまってよ……」

「しょうがないわよ。バカ承知で結婚したんだから」奈美子がゆっくり顔を上げて微笑んだ。小首をかしげて笑うのは子供のころから変わらない。

「すまんな、俺はこういう生き方しかできんのよ」

「むかしからそう、何でもちゃんとやる人。ちゃんとやるからちゃんとなる。口癖よね。ター坊にもよく言ってたわ」

「ちゃんとやったのかな? 俺がやったこと。ちゃんとしてたんかなぁ」

「ちゃんとはみんな違うって言ってたじゃない。あなたはあなたのやり方でちゃんとやったんでしょ」

「でもな、どの面下げてあわられるんじゃーって。なして、あんなしょーもねえこと言っちまったんだろう」

「いつまでもくよくよしないで、あなたらしくないわ。あの子がター坊だとしたら、津波からは助かったのよ。どこかで誰かが助けてくれたのよ」

「俺とおんなじぐらいだよ。三十五、六ってとこだよな。それで、これば着とったんだ。公務員さなっとるんだ」手元の白装束をテーブルに広げた。

「あれから剛志のことばっかり考えとる。津波のとき、どうなったんだろう? 俺らが死んだあと、どこで何してたんだろう? 天国で公務員さなって、何の仕事しとるんだろう? なして公務員なんかになったんだろう? いろんなこと考えちまって……。でも、いちばん知りてえのは、あいつが幸せかどうかなんだ。幸せな人生送ってこっち来て。それで、ちゃんとした目的あって公務員やっとるんだったらそれでええ。だったらなんの文句もねえ……」


引戸が開いた。長さんと明美が店の中の暖簾をめくって半分顔を出す。

「田ちゃん、ちょっとええかい?」

「どうしたんでえ、雁首そろえて。今日は休みだよ」

「わかっちょる。島の連中も連れてきた」

窓から覗くと、店の周りを島中の人間が囲んでいる。

「なした、何かあったんかい?」

「ちょっと顔かしてくんねえか」外に向かって顎をしゃくる。

店の周りは異様な雰囲気だ。頭に鉢巻をまいたり幟(のぼり)を上げた百人の顔が並んでいる。

「おいおい、何のまねじゃあ~」困惑した洋が長さんの顔を覗き込む。驚いた奈美子も慌てて外に出た。

「田ちゃん、怒らんで聞いてほしい」

「何のことだよ」

「禊(みそぎ)は十分果たしたよ」

「禊(みそぎ)?」

「とぼけんでもえー、あんたらのおかげでワシら現世にいるときと何ら変わらず、寂しくもなく、修行ば続けとるー」長さんが周りの島民にも聞こえる声で叫んだ。

「だから、どーしたんでー」洋が負けじと言い返す。

「田ちゃん、あんたの気持ちもよーわかる。津波の日、ター坊の誕生日でワシらを呼んでみんなで被災した。責任感じてしまうのも無理はねー。ここ来た当時は、いろいろ言いよるやつもおったよ。でもなー、ワシらみんなとっくに許しとる」

「そうだー、許しとるー」百人の島民が一斉に拳を上げた。

「みんなそれ以上のことを、あんたらにしてもらっとる。感謝しかねーんだよ」

「そうじゃー、その通りじゃ~」百人の声が裏山にこだました。幟が風に吹かれて揺れている。

「ここにいる全員がこう思っとる。禊は十分果たしたんじゃ」

「長さんよ、禊を果たしたなんて、そんな軽々しく言わんでくれねえか。この問題はな、そんな甘っちょろいもんじゃねえんだよ。ここにいるみんなが許したって、それですむもんじゃねえ。津波で生き延びた人もな、大切な家族失って俺のこと恨んでおる人が奥尻にはぎょうさんおるんじゃよ」

「はっきり言わしてもらうよ」顔色が変わる。

「いつまでもはんかくせえこと言ってんじゃねえ! あんたあ、奈美ちゃんの気持ち考えたことあるんかあー」

「こいつの気持ち? 俺と一緒じゃー、あんたに何がわかるんじゃー」

「貴様、もういっぺん殴られてえのかぁ~」

顔と顔を突き合わせ、殴り合いをはじめる体勢だ。

「あんたに女心の何がわかるのよ」こんどは隣の明美がブチ切れた。

「奈美ちゃんがどんだけ無理してつまらん男の意地に付き合わされてきたか、あんた、考えたことあるの!」

「ワシらもう見てられねえんだ。つまらん意地張ってねえで、もっと楽に考えてもええじゃろうが。今日ワシらがきたのは他でもねぇ、折り入ってお願いがあるからじゃ」

「改まってなんじゃぁ、気色悪い」

「実はな、コース転換のはなしなんじゃ」

「こーすてんかん?」

「覚えとるかなぁ、ワシらがここさ来たとき、最初の研修で世話になった……。ほら、札幌から来た白装束の先生がおったじゃねえか」

「すったらこと覚えてねえよ、何年前の話だよ」

「その先生が久しぶりに来よってな、修行は順調か? 悩みはねえか? っていろいろ聞いてくるから、田(でん)ちゃんがかわいそうだから、何とかしてやれねえかって聞いたのよ」

「またいらんことしよって。俺のどこがかわいそうなんじゃ、バカにすんじゃねえ」

「そんでな、天国憲章の特例に『コース転換』ちゅう制度があるんじゃよ」

「さっきから、てんかん、てんかんって。なんじゃ、そのめまいしそうな名前は」

「そっちのてんかんじゃなくてな。まあ、簡単に言うと、これまで公務員になったら百年公務員やり続けることになっとったが、三つの条件を整えると、公務員から修行コースに転換出来るんじゃ」

「三つの条件?」

「そう。その条件がな、一つは、公務員を三十年以上続けること。二つ目が、修行コースに転換するための推薦状を百枚集めること。そして最後が、いまやっている田ちゃんの仕事を代わりに誰かがやることじゃ」

「ややこしくて、なに言ってんだかさっぱりわからんよ」

「田ちゃんは三十年以上公務員やっとるから一つ目は大丈夫。これは分かるよな」

「おー、それぐれえはわかるよ」

「そんで、二つ目の推薦状なんじゃが、これを見てくれ」

長さんが明美に目配せすると、手持ちの袋から束を取り出した。

「こっちが田ちゃん、こっちが奈美ちゃんのね。それぞれ百枚あるわ」明美がそれぞれの束を二人に手渡した。洋と奈美子が驚いて顔を見合わせる。

「この制度聞いてから、ワシら田ちゃんには内緒で、毎週町内会開いて手分けして推薦状集めてきたんだ。ここに島民の百人がおるから、百枚はすぐに集まったんじゃが、残り百枚集めるのにえらい苦労した。白装束の先生にむりやり頼んで雲っこに乗っけてもらってな、奥尻以外の人や、六歳になってクリームハウスに行きおったガキンチョにも、施設の担当に話つけて書いてもらったりしたわけよ」

「この辺の人は奥尻の震災は良く知ってるから喜んで協力してくれたのよ」

二人は一枚一枚推薦状をめくっていく。洋の胸に熱いものが込み上げた。奈美子の涙が推薦状にシミを作っていく。

「これはここにいる全員の総意じゃ! 奥尻全員の総意じゃ! こればっかしは有無は言わせねえ」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。そうは言ったって俺の代わりに誰かがこの仕事をやるんじゃろ。さっきの話じゃ誰かが代りに公務員さなって、俺らの仕事やらんといけねえんだろ。そんなもの好きいくら何でもいるわけねえじゃろうが。ここまでやってくれたのは嬉しいけど、やっぱり無理だよ」洋は集まった島民を見渡した。

「ワシと明美がやるんじゃ」

「えっ?」

「ワシは今年で四十一歳。魚でいうといまが旬。一番脂がのっておる。このタイミングで公務員になって、明美と二人で田中屋を引き継ぐんじゃ」

「長さんはよくても、明美さんにご迷惑でしょ」

「最初は断ったのよ。でも長さんがね、昼間は食堂やって夜はスナックにするっていうから。ほら、あたしもこの仕事しかできないからさ、どうせ現世もどってもおんなじ仕事やると思うのよ。だったらこっちでやってたほうが楽だしね。向こうだったら客が来ないとか、ツケがどうとか面倒だけど、ここだったらお金が絡まないから楽なのよ」明美がまんざらでもなさそうに言う。

「あたし、長さんにズーッと口説かれてたのよ」

「それはみんな知ってるけど……」

「最初はこんなジジイって思ってたけど、よく見ると結構いい男なのよ」

「そりゃあ、だんだん若くなるからなぁ」

「そうじゃろーそうじゃろー、こいつすっかりワシに惚れちまってな」長さんが調子に乗って明美に抱きつこうとして頭を叩かれた。

「それで、あたしも三十一になって、女として一番いい時期だって踏ん切り付けたのよ。潮時っていうか、女のけじめっていうやつね」何の潮時だか、けじめなのかはわからない。

「こいつもむかしは島一番のべっぴんさんじゃろ。最初は手の届かん高嶺の花かと思っとったが、いまじゃワシが四十一で明美が三十一。ベストカップル誕生っていうわけよ」長さんが性懲りもなく明美の腕を取り、また頭をひっぱたかれている。

「だから奈美ちゃん。あたしに遠慮することなんかこれっぽっちもないからね」

「これはさっきも言ったが、ここにいる奥尻全員の総意じゃ。この推薦状が紛れもない証拠(あかし)じゃ」

「いいんかい。そこまでしてもらって……」

「いいんじゃよ。こいつらだって、今度から田中屋が夜は明美のスナックになるっていうからむしろ喜んでおる。ズーッと天国にいたいっていう奴も出てくるよ。反対する理由なんて無いじゃろ」

本当にいいのだろうか? 

洋が奈美子に無言で問いかけた。

あたしはいいわよ。あなたが決めてください。

長年連れ添ったテレパシーのようなもので答えていた。

「本当にええんかあー」洋が目の前にたむろする島民に向かって叫んでいた。

「あったりめーだろーが、奥尻全員の総意じゃ~」

「あたしら一度しか使えん推薦状を、あんたらのために使ったのよー、無駄にしたら承知せんからねー」

「いままで旨い飯作ってくれたお礼だよー。まあ、長さんがどんな飯こしらえてくれるんだか心配だけどなー」笑い声が沸き起こる。

「まーえーよ。えーからこっちさきたらえー、早く一緒に修行やるべさー」

老若男女の声が奥尻の空にこだました。数えきれない笑顔と歓声。まぶたの裏が熱くなり、こらえきれなくなって溢れ出た。



  二


田中屋を引き継ぎ三十二年が過ぎていた。

洋と奈美子は間もなく六歳になる。奥尻は震災のとき、とにかくたくさんの魂を運ばなければならず、突貫工事で天国ロードが準備され、修行棟を建てる時間もなく、代わりに仮設住宅が建てられた。洋が公務員になったとき、札幌の白装束に頼んで仮設住宅のひとつを、現世と同じ田中屋の間取りに建て直してもらった。

長さんはその田中屋を、今度は四人で住めるように改築し、二階に洋と奈美子の部屋、一階の食堂も夜はスナックにできるように間取りを変えた。

震災の影響を受けた奥尻は、天国ロードを準備するのが精一杯で、役所やホスピタルは札幌の管轄になっていた。定期的に白装束の巡回はあるが、不便な反面、監視の目が届かず自由に過ごせるメリットがあった。そのため、奥尻での修業は、みんな好きな場所ですきなときにヒストリーを開き、腹が減ったら田中屋で飯を食い、自由時間は島を散歩をしたり泳いだりして過ごしている。

四人でスタートした共同生活も、最初こそぎこちなかったが、年を重ねるうちに長さんと明美さんとは自然に親子のような関係になり、ヒストリーも残り六年になっていた。


「そろそろお別れ会しないとな」

「また寂しくなっちゃうわ……」

厨房から長さんと明美さんの会話が聞こえてきた。

昨日、洋と奈美子のクリームハウスの入所通知が届いていた。

「そうそう、田(でん)ちゃんよー。ちょっと気になることがあるんだよ」

長さんは洋のことをいまだに田ちゃんと呼んでいる。

「なあに?」

「ター坊だよ、覚えておるか? ほら、ツネゴンズの優勝決定戦のとき、ここさ来たアンチャン。田ちゃんの息子だよ」

「ぼくの息子?」

なんとなくあの日のことは覚えている。

「白装束着とったから、どっかで公務員やっとるんだべ。もうすぐ現世にもどること、伝えておかなくてええのかなって。今回会わんと一生会えんべさ……。もどる前に会っておかなくてもええか?」

「う―ん……」

ずっと後悔し続けてきたことだった。でも、時間とともに記憶も薄れ、今では遠い出来事のような気がしている。それに息子に会うと言ったって、こっちが息子みたいなものだ。

「あたし、なんだか恥ずかしい……」奈美子も気乗りしていない。

「ター坊はいいとしても、田ちゃんと奈美ちゃんには酷よ。四十手前のおじさん呼んで、あんたの息子よって言われても困っちゃうわよね」明美さんが困り顔の二人をフォローする。

「やっぱしそうだよな……。ごめんごめん、やめとくわ。そんでな、この間、大変なこと発見しちまったのよ」

「大変なこと? なんなのよ、驚かさないでよ。おっかないから」

長さんが壁から額縁を持ってきた。

「この写真なんだけどな、今度のお別れ会で田ちゃんに渡そうと思って取り出したら、もう一枚、別の写真が引っついてたのよ」

ネガフィルムの写真はべたべたしてシールみたいにくっついてしまうことがよくあった。

「やだわー、なんの写真よー」

「なんてことはねぇ、ター坊の七五三の写真だよ。たぶん五歳のときだと思う。ワシが田中屋の前で撮った写真で、志津乃(しづの)ちゃんと千歳飴の袋ぶら下げて写っとる」

「志津乃ちゃんって、向かいの履物屋の?」

なんとなく覚えている。クラスでいちばん背が低かったが、泳ぎが上手で頭のいい子だった。

「そう、あの日ター坊の誕生会にも来とったな。ター坊と同じテーブルでめんこい顔して座っとったよ」

「志津乃ちゃんはここに来なかったから、きっと助かったんだろうって言ってたわね」

「んだ。もしター坊がここさ来たら、この写真、渡しておこうと思ったんだけどな……」


クリームハウスの迎えが来る前日、お別れ会を開いてくれた。長さんは、朝早くから漁に出て大きな鯛とヒラメを釣ってきた。明美さんが上手に捌いて、尾頭付きの豪華な舟盛にしてくれた。田中屋を引き継いでから毎日四人で家族のように過ごしてきた。明美さんの手料理もこれが最後かと思うと涙が出そうになる。

酔いの回った長さんが額縁から写真を取り出した。

「これは田ちゃんが命がけで現世から持ってきたものだ。最後は田ちゃんが持ってたほうがええ」

額縁にはもう一枚の剛志と志津乃の写真が残された。

初めてここに来た日の記憶だけはいまでもはっきり覚えている。

恨めしげな目。聞こえてくる陰口。この世に天国なんてなければいいと思った。

「田ちゃんのせいじゃない、何にも気にせんでええ」

長さんだけは味方になってくれた。奈美子がいたのも救いだった。二人で田中屋をやろうと決心した。島民全員が無事に転生するまで、百年かけて償いしようと二人で誓ったことを思い出す。

「長さん、いままでありがとう」洋が長さんに抱きついた。奈美子も明美さんに抱きついた。いつもチクチクしていた長さんの髭面が、涙と鼻水でグチャグチャになっていた。


翌日、洋と奈美子は明美さんが念入りに洗濯した黒装束を着て迎えが来るのを待っていた。

「なんだか入学式みてーだな」長さんが落ち着かないようすでそわそわする。

「あんたが緊張してどうするのよ」

白装束が来たのは夕方だった。女は軽く会釈をすると外に待たせてある雲っこに乗るよう二人を促した。

「天国時計つけた? ヒストリー忘れんようにね」

「先生の言うこと聞くんだぞ、風邪ひかんようにな」

二人が最後の世話を焼く。

「たっしゃでな。ちゃんと修行やって魂ピカピカにするんだぞ」

洋と奈美子が大きく頷いた。よけいなことは言わない白装束が合図をすると、雲っ子は音もなく方向転換をしてあっという間に見えなくなった。


「行っちまったな……」二人は腰を下ろして空を見た。

雲っこが消えた夕焼け空にウミネコが鳴いている。またひとつ、だいじなものが消えて行く。そう思うと力が抜けた。明美が肩におでこをのせてきた。

「またここに来るんじゃないかしら。なんかそんな気がするの。だってあの子たち、奥尻しか知らんでしょ」

「そうよな……。じゃあ、ワシらも気長に待っとるか」

「そうよ、また楽しみが増えたわね」

奥尻の空にパステル調の夕日が溶けている。二人の影が一つになってまっすぐ伸びた。



  三


洋の目にまっしろで大きな建物が見えてきた。クリームハウスだ。丸いドーム型の建物に、溶けはじめたソフトクリームのような屋根が載っている。建物の横にまっかな鳥居が立っている。奥尻の弁天様よりかなり大きい。

建物の南側には芝生が広がりたくさんの子供が遊んでいる。同じぐらいの子供もいれば、先生に抱かれた赤ん坊もいる。建物に入るとロビーで待つようにと言われた。

「楽しそうなところで良かったね」

「うん……」無邪気に話しかけてくる奈美子に心細さを悟られないかと気になった。はじめてくる場所に緊張し、転校生のようにドキドキしていた。

クリームハウスの中もまっしろだった。周りの壁に窓が一つもないのにとても明るい。外から見るとソフトクリームのような白屋根は、中から見上げるとステンドグラスになっていて天井まで吹き抜けになっていた。下から見上げると丸いホールを囲むように部屋があり各階に等間隔でドアがある。大きな幼稚園のような感じだ。一階はホールの周りに、職員室、家事室、倉庫。二階が職員宿舎で、三階から八階までが年齢ごとの教室と寝室になっている。上にいくほど年が下がり、一番上の八階が一歳未満の教室だ。子供の歓声が飛び交う外の賑やかさに対し建物の中はとても静かで、白装束が黙々と掃除をしたり、食事を載せたワゴンを運んでいた。建物内にも小さな雲っこが浮かんでいて、白装束が笛を吹くと近くに寄ってくる。よく見ると建物の中に階段がない。ここの雲っこは、ハウス内専用の移動手段のようだ。外の雲っこに比べると、すばしっこくて小回りが利く。仕事のないときは天井近くに集まって、ロビーにちょうどいい日陰を作っている。

四階の五歳教室のドアが開き、元気な歌声が漏れてきた。音楽の授業をやっているようだ。ドアが閉まるとまた静かになる。

「おれ、転生しても、また奈美と近所になりたいな」

「あたしも……」

座ったまま沈黙が続く。

「そうだ、現世に行くとき、お手てつないだまま降りていったら、あたしたち双子になるんじゃないかしら?」奈美子が真顔で言う。

「バカだなぁ、煉界(れんかい)は風が強いんだ。手なんか繋いでいたら腕がもげちゃうぞ」

「ダメかぁ。あたし、いいこと思いついたーって思ったんだけどな」

同じ誕生日に生まれた二人は、現世で過ごした三十八年、天国で食堂をやった三十四年、修行コースに転換してから三十二年。百年以上、通常の人生ならとっくに寿命を全うする時間を一緒に過ごしてきた。いまさら離れ離れになることなど想像できなかった。

「おれ、もっといいこと考えた」

「なあに?」

「写真だよ」

津波で海に投げ出されたとき、とっさに手に取ったネガフィルムの写真を取り出した。現世のものを天国に持ってくることはできないはずだが、魂に重ねていたこの写真は一緒に天国まで昇ってきた。魂の一部と思われたのかもしれない。横長の写真にはねじり鉢巻きをつけた洋の横で、割烹着の奈美子が剛志を抱いている。後ろに奥尻島のシンボル、ドーナツ型のなべつる岩が小さく佇んでいる。洋はその写真を真ん中で半分に折って二つに切ろうとする。

「ダメよ、そんなことしちゃ」びっくりした奈美子が洋の手を止めた。

「いいんだよ」構わず何度も折り曲げ二つに切り離す。真ん中のなべつる岩がちょうど半分になった。

「この写真ってもともと現世にあっただろ。だから、また現世にもどると思うんだ」

子供の思いつきかもしれないが、現世にあったこの写真は天国に存在してはならないもの。現世にもどるというのは理にかなっている。

「おれ、海ん中でこの写真、ずーっと握りしめてたんだ。そしたら、魂と一緒に天国まで来たんだよ。だから今度はおれと奈美で半分ずつ持って現世にもどるんだ。そんで、向こうに着いたら見せっこしよう。なべつる岩が一つになったら奈美ってわかるよな」

「でも……、本当に会えるかなあ。だって転生したらどこのおうちに生まれるかわからないでしょ。それに、赤ちゃんになっちゃうとなんにも覚えてないし。あたしのおうち、優しいお母さんだったらいいんだけどな」

「大人になってから会えばいいんだよ、場所とか日にちとか決めておくんだよ」

「そっかあ、それいいわ。じゃあ、場所はどうする?」

「おれたち奥尻しか知らんしな。やっぱりここだよ」半分になったなべつる岩を指した。

「さんせー、じゃあ、いつにしよっか」

「そうだなぁ……、たしかこのへんに写真撮った日が書いてあったはずだけど……。これだ! 七月十二日」

「なんねんの?」

「ン――、わかんなんいよ、そんなこと。自分で考えろよ」むかしから洋は面倒くさいことを奈美子に押し付けた。

「あたし、二十三歳がいいなあ」

「どうしてだよ」

「だってあたしたち二十三歳で結婚したのよ。だからもう一回会ったとき、なべつる岩で結婚式やろうよ」

「無理だって。むかしの記憶とか全部なくなっているんだぞ。いきなり会って結婚なんてするわけないだろ」

「いやだよー、しよーよ。なんでもちゃんとやるのが洋(ひろ)ちゃんでしょ」

「これは、ちげーよ」と言いつつ、――ちゃんとやる――という言葉はどこか引っかかる。


「あら、君たち何やってるの?」ポニーテールに白のカチューシャを付けた高校生ぐらいのお姉さんが立っている。

「お名前は?」二人と同じ目線にかがみ込む。

「あたし奈美子(なみこ)、こっちが洋(ひろ)ちゃん」

お姉さんが肩に掛けていたバッグからノートを取り出した。

「なあんだ、二人ともあたしの受け持ちね」

何のことだか分からない。

「今日から六年間、あたしがあなたたちの先生よ。ヨーコ先生って呼んでね」二人の頭に優しく手を置いた。

「先生の頭につけてるの、なーに?」奈美子が白のカチューシャを見て言った。

「あ、これね。これはクリームハウスの先生がつけるのよ。かわいいでしょう」

白のカチューシャはクリームハウスの専門担当者「クリマー」になると授与される。クリマーは天国の公務でも人気が高く、高い倍率の試験に合格しなければならない。クリームハウスの施設長「チーフクリマー」になると金のカチューシャが授与される。

「ねえ、先生……」優しそうな先生に安心し、緊張が取れた洋が切り出した。

「もしおれが現世にもどったとしてー、もし、二十三歳になったとしてー、そしたら、そんとき現世って何年になってんの?」

「あら、何でそんなこと知りたいの?」

「こいつがどーしても知りてーって言うから……」

「あなたたち兄妹かしら?」

「んーん、夫婦よ」おませな奈美子が気取って言った。

「へー、そうなの。仲良しねー。いいわよ、チョッと待ってね」ヨーコ先生はノートを開いて計算をはじめた。「いまが現世では二〇五九年だから、ここで六年修行すると二〇六五年でしょ。そこから二十三を足してっと……、えーっと、二〇八八年よ」

「二〇八八年!」洋と奈美子が同時に叫んでいた。そして笑い転げて盛り上がる。

「あら~ 二〇八八年がそんなに面白いの~ なんか秘密があるのかなぁ~ さっき二人で相談してたよねぇ~ 先生、見てたんだよ~」ヨーコ先生が声色を変えている。

「あたしたち転生して二十三歳になったらまた結婚するの。二〇八八年の七月十二日になべつる岩に集まって。その約束をしてたんだよねー」奈美子が仲のいい友達に自慢するかのように、二枚に切った写真をヨーコ先生に差し出した。


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