第四章:過去の記憶
一
――主文、被告人を証拠隠匿の罪により、懲役二年の実刑に処する――
たかが証拠隠匿ごときで実刑判決を食らった。裁判員制度で選ばれたド素人の裁判員が、パワハラがどうとか、人ひとり死んでいるとか、世間に与えた影響がどうとかこうとか騒ぎ立てたのだ。
丸岡商事に入社後、創業者の社長の一人娘と結婚し婿養子になった。見てくれは平均以上、こんな俺でも第一印象は良いらしい。これだけは両親に感謝している。一年後、長女が生まれて大喜びの義理の親父が、お台場のタワーマンションを買ってくれ、幼稚園から大学までの学費も全額出してくれた。仕事上の実績を上げるわけでもなかったが、社長の婿養子ということで人事評価も勝手に忖度され出世階段を上っていった。
努力なんか生まれてこの方したことない。だいじなのは人を見る目と先見性。力のある奴を見つけて利用する。平たく言えば要領とゴマすりだ。これだけで人生勝ち抜いてきたと言っていい。
友達、親友、恋人、恩人。俺に取っては無縁のもの、聞いただけで虫唾が走る。他人なんてタダで使える道具に過ぎん。大切なのは自分だけ。興味があるのも自分だけ……。
何でこんな人間になったって?
遺伝だよ……。
こうやって自問自答するのも俺の癖。相談する奴などいたことない。いつも自分に向かって問いかけ答えてる。
クソ両親はギャンブルが縁で結婚し、死んでいった。
「勝てば天国、負ければ地獄。世の中ゲームだよ」競馬で負けたときの、親父の薄っぺらな口癖だ。
「あーあ、人生リセットしたい。生まれ変わったら絶対金持ちと結婚する」金と権力が大好きな、頭の弱いお袋のセリフだ。
子供ながらに「ゲーム」と「リセット」二つのワードが刻まれた。
二年の刑期のところ一年半で仮釈放が許された。脇の甘い所長を手玉に取り、おべっか使っておだて上げ、いい気持ちにさせてきたからだ。利用できる奴はとことん利用する。これが俺のやり方だ。
刑務所を出てお台場の自宅に向かう。エントランスに入ると郵便受けの表札が違う名前になっていた。管理人に尋ねると、マンションは一年前に売却されて妻と娘は出て行ったという。
売却だと! 人の財産(もの)を勝手に。そう言えば、獄中に離婚届が送られてきた。金ズルと縁を切るわけにはいかねえんだよ。遺産が転がり込むまではな。心の中で罵声を浴びせ、破って捨てたことを思い出す。
それにしても許せない。俺の財産(もの)を勝手に売却するなんて。不細工なバカ妻の顔を思い出す。どうせ実家にでも帰っているのだろう。怒りが収まらぬまま社長の家に行く。
ここは俺をピンチから救ってくれる魔法の砦(とりで)。高級住宅が並ぶ渋谷区松濤(しょうとう)の中でもひときわ目立つ門構え。いずれ自分のものになると思うたび、にやけてしまう。
インターホンを押して猫なで声を出す。誰かが聞いている気配がある。
バカ妻か? 反応がないのでもう一度押してみた。聞き慣れたスリッパの音が少しずつ近づき玄関の向こうでピタリと止まる。
「帰れ、二度と来るな!」魔法の砦から聞いたことのない怒声が返ってきた。
「待ってください。私のマンションが売却されているんです」妻とけんかしたときもよくここに来た。社長はいつも味方になってくれていた。
「私のマンション? 誰が金を出したと思ってる! 元々おまえの物になどなっとらん」
この三十年、築き上げた砦が崩れ去る。失って初めて気がついた。俺には何もないことを。
中一のとき、クソ両親はゲームに負けて死んでいった。借金抱えて全財産を失った。闇金に手を付け、追い込まれて家に火をつけた。燃える炎の中で最後にお袋が言っていた。
「母ちゃん天国行って人生リセットするのさ。おまえも来るかい?」燃える火の中で、お袋と最後に交わした会話。その後俺は、金持ちの親戚に引き取られ、大学まで行かせてもらって丸岡商事に入社した。俺はあの日、お袋と一緒に人生リセットしてればよかったのか……。
金も財産も失った。地位も名誉も失った。最後の望みであった魔法の砦も失った。残ったのは、世間に付けられた最低人間のレッテルだけ。
なんか疲れたな……、もう少しだったのに。母ちゃん、俺もそっちに行こうかな。
自問自答しているうちに踏ん切りがついた。でも、ただ死んだって面白くない。これではただの負け犬だ。負けたままの人生なんて、俺のプライドが許さない。やり残したことはなかったか……。
そうだ……。仕返しだ!
俺を陥れた奴、最低人間のレッテルを貼りつけた奴。奴ら全員、心の底から後悔させてやる。
何もかも上手くいっていた。あと一歩だった。俺はどこでヘマをした……?
思い出したよ。あの二人。吉田とかいう使えない部下の母と嫁。あいつらが日記なんかを見つけ出して余計なことをしやがった。あれさえなければ、いまごろ俺は役員で左団扇(ひだりうちわ)のはずだった。あいつら殺して人生リセットすればいい。マンション行ってぶっ殺し、そこから飛び降りて死んでやる。たしか吉田もあそこから飛び降りたんだよな。ちょうどいい当てつけだ。そっくり同じ死に方してやろう。バカなマスコミが面白がってあれこれ書き立てるだろうな。世の中戦慄して、俺をクビにした会社の奴らは震えあがるだろう。俺の狂気は伝説になり、生き残ったバカどもの記憶に永遠に刻み込まれるだろう。想像しただけでおもしれえ。
そうと決まれば今日しかない。仮釈放の日に殺人犯(おか)して死んでやる。当然所長はクビだろう。せっかくあれこれ動いて釈放したのにびっくりだろうな。頭抱えて真っ青になるのが浮かんでくるぜ。恩を仇で返すって最高だな。考えただけでわくわくする。
社長! バカ妻! クソ娘! おまえら三人、殺人犯の身内のレッテルつけてやる。一生消えないレッテルをな。俺だけ死んで、おまえらだけのうのうと生きてられちゃあ不公平だもな。俺を見捨てた罰だぜ。俺は死んで楽になる。つまらん人生こっちからおさらばさ。
ホームセンターで刃渡り二十センチの出刃を購入した。薄汚れたコートに忍ばせ高井戸のマンションに向かう。八階に上がって表札を確認した。
律子と登紀子。どっちがどっちだ?
どっちでもいいか。先に出てきたほうから殺(や)ればいい。
なんかロシアンルーレットみたいだな。むかし見た映画の「ディアハンター」のシーンが浮かんできた。映画みたいに自分に向かって引き金ひくのはごめんだが、人にやるなら最高だ。ゲームオーバーの前にこんなクライマックスが来るとはな。
でも、不思議だな……。
男って、死ぬ前にお袋の顔を思い出すっていうけど、あれってホントなんだな。あんな奴でもやっぱり思い出すんだな。
母ちゃん、俺、今からそっちへ行くよ。言ったよな。人生リセットできるって。それ本当だよな! 間違いないよな! 俺、信じるからな!
左手のポケットでナイフを握り、右手でインターホンを押す。
ロシアンルーレットのはじまりだ!
ドアノブが回る音がした。
宅急便でも待ってたような無防備な面。
バカ嫁だ!
子供を抱えていやがる!
最後まで想定外のことをしてきやがる。
包丁を見て声も出せずに固まった。ほんとバカな女だよ、てめえが余計なことをするからだ。子供と一緒に殺してやる!
胸元目掛けて飛び込んだ。
なんだ……?
女の足元から何かが飛び出した。
黒い塊だ!
ナイフが落ちる。そのまま流れるように黒い塊(かたまり)が喉元目掛けて飛んできた。俺は通路の手摺りまで押し戻されて上半身がのけ反った。
何が起きている?
俺の首からまっかな血吹雪が飛び散った。息ができない。全身の力が抜けていく。黒い塊は容赦なく体重をかけてくる。バランスを崩して身体が宙に浮く。俺は塊と重なり合ってスローモーションのように落ちて行く。ズシンと肉体が叩きつけられた……。
何がどうなっちまったんだ?
足元に頭と喉から血を流しグチャグチャになった俺が倒れている。
視線が少しだけ高くなる。死んだ俺の目の前で黒犬が尻尾を振っている。
俺はこいつに噛まれて落ちたのか?
でも、何でこいつはぴんぴんしてやがる?
さっきから犬が俺の後ろを見つめている。視線に合わせて振り返る。
「おまえ、なんでそこにいる!」
吉田が宙に浮いている。
「おい、黙ってないで手を貸せ!」
野郎が小バカにしたような目つきで俺を見る。
「なんだその目は! なんか言ったらどうだ、貴様、オレの部下だろ!」
奴の口元がゆっくり動いてこう言った。
――バーカ――
小学生のガキがクラスの嫌われ者に発するような、軽蔑の笑みを浮かべて消えて行く。
「あの野郎……」
身体がどこかに向かって上昇しようとするが動かない。重いのだろうか。
黒ローブを纏った男があらわれた。
「久しぶりにドブで発酵させたような、ゲロみてぇにくせぇ魂を見つけたぞ」不快そうに鼻をつまんでいる。
「あれ? わりとまともな面してるんだな」意外そうな顔して近づいた。
「それにしてもおっさんの魂、笑っちまうぐらいに腐りきってるな」
「るせー、関係ねえだろー」突然あらわれた黒ローブの若造に怒声を浴びせた。
「おっと大ありよ。もともとここで死神やってた奴が彷徨幽霊になっちまって、俺が隣の地区と掛け持ちしてるんだ」まっ黒なローブの奥で、狡猾そうな目玉が光っている。
「おっさんあきらめな。こんな腐りきった魂、どうあがいたって天国までは昇って行かねえよ」
「俺は天国に行くんだ。人生リセットして生まれ変わるんだ」
「無理だな。おっさんは今日から死神だ!」
男が大鎌の先で地面に円を描き、中に唾を吐き捨てた。唾が染み込むと、底の見えない暗闇がぽっかりと口を開けている。
「そこは地獄の入口に続いてる」
「ちょっと待て、冷静に話そうじゃないか。地獄ってなんだよ、そんなもんどこにあるんだよ?」
「どこって言われてもな、地獄なんて落ちた奴しか見えねえよ。天国だって死ななきゃ見えんだろ」
「俺は遠慮する。天国へ行くんだ」
「だから無理だって。いいか、この穴は閻魔堂に繋がっている。門番の赤鬼と青鬼がいるから、奴らに聞いて大王様に挨拶してくるんだな」男がにたつきながらローブをバタつかせると風が巻き起こる。引きずられて腰から下が穴にずり落ちる。
「おい、やめろ!」
犬のように両手の爪を地面に突き立てる。爪がはがれ二列の五線譜が穴の縁まで伸びていく。
「母ちゃーん、助けてよー。また、いじめっ子にやられたよ―」
指先が穴の縁から外れ身体が転がり落ちた。穴の光がどんどん小さくなる。やがて米粒みたいな点となり、何も見えなくなった。
二
郷原は指導教官になって三十四年が過ぎていた。
数多くの魂を修行棟に送ってきた。たまに修行棟に顔を出し、教え子たちのその後のようすを見るのが楽しみになっていた。彼のように呪文を実践で使い現世と天国を行き来したことのある教官は彼を除いていなかった。その経験を活かし、天国に来た何人もの魂をひとりひとり熱心に指導して、コース選択についても丁寧に相談にのってきた。
そんな中、先日の天国日報でT302に水野が来ることを知った。現世でかわいがっていた部下の一人だ。久しぶりのビッグニュースに心が躍る。水野は吉田と違い機転が利き、要領がいい部下だった。出世をネタに郷原の口癖をパワハラの証拠として支店長に出したが、その後、自分のやってしまったことを後悔し、人事部長に真実を告げていた。
「課長、すっかりご無沙汰してしまい」
三歳年下だった水野も六十八歳。長身のイケメンだった面影はどこにもない。
「課長はよせ。ここでは単なる指導教官なんだから」
「ぼくはあのとき、出世に目がくらんで課長のことを売ってしまいました」水野が側頭部だけに残る白髪を耳の上にかきあげた。ボリュームのあった頭髪はどこにもない。
「おう、知ってるよ。それより元気だったか。すっかり貫禄ついて」息子のような郷原が親父のような水野の両肩を懐かしそうにポンポン叩く。小さなことを根に持たないところは変わらない。
「課長、許してください」初老の禿げおやじが深々と頭を下げる。
「だから課長じゃないんだって。それよりおまえ、最年少で役員になったんだって。すげえな、オレの指導の賜物だよ」自分の部下が偉くなるのは自分のこと以上に嬉しいものだ。
「でも、次期社長って話もあっただろうに残念だったな。なんかあったのか?」
「肝臓がんです。見つけたときはステージ4で手遅れでした。課長を売ったバチがあたったのでしょう……」
水野の導入研修は郷原が担当した。そして彼は「修行コース」を選んだ。なのに一年後、水野は突然郷原を訪ねて唐突に切り出した。
「ぼくに指導教官の仕事を譲っていただけないでしょうか」
九十度に腰を折ったまま動かない。郷原は水野の言葉が理解できなかった。彼は、天国憲章の附則に「コース転換」という特例があることを説明した。
その適用条件として、
① 公務員として三十年以上公務に従事していること。
② 百人以上の修行者から推薦状を得ること(但し、修行者が推薦状を出すのは、修行中に一回、一名のみ)
③ 別の修行者が公務員に転換し当該業務を引き継ぐこと。
この三つの条件を全てクリアし、後は、郷原が水野からヒストリーと天国時計を受け取ると手続きが完了する。ヒストリーは新しい魂に連動して中身が変わり、天国時計も新しい所有者の残りの修行日数を表示する。白装束と黒装束は、後日それぞれ、雲っこで届けてくれるということだ。
アマテラス様がこの特例を作ったのは、十五年前、一部の公務員がデモを起こしたことにあるという。デモの目的は「公務員は百年」とする厳しい条件の緩和を求めるものだった。そのころ、公務員は終わりの見えない仕事の単調さでノイローゼになり、ホスピタルに入院する者が増えていた。それで天国憲章の附則に『コース転換』という特例を付けたのだ。ただ、適用条件が厳しすぎるのかこの制度はほとんど浸透していなかった。
公務員として三十年以上従事するところは、時間が経てばクリアできるが、推薦状を百枚集めることは難しい。修行中に一回きりの投票権を一人の公務員に行使することであり、簡単に集められるものではない。さらに、修行者の中から代わりに公務員に転換する人物を見つけることも至難の業だ。修行の途中で公務員に転換する人物など簡単にあらわれるものではない。水野はこんな誰も見向きもしない特例を見つけ出し、コース転換を依頼しにきたのだ。
「おまえ、自分が何をやろうとしているのかわかってるのか?」
「もちろんです、天国憲章を何度も読み返しました」
彼は有名私大の法学部を出ていた。難しい条文を解釈するなどお手のものだ。
「実は推薦状はもう集めてきました」
手にした風呂敷包みを大事そうにほどくと書類の束が目に入る。一枚一枚に見覚えのある署名がある。郷原が教官になってから指導してきた名前の数々だ。
「これは……」
――郷原さんに助けて頂き何とか天国ロードを昇り切りました。御恩は一生忘れません。
――挫けそうになったとき、郷原さんの魔法の言葉を思い出し修行に励んでいます。
――現世に戻ったら、郷原親分の舎弟にしてください。
書く必要もないのに、署名の横にメッセージが添えてある。
「ここに来てぼくは、課長の偉大さを改めて認識しました。天国で課長の指導を受けた人たちはみんな感謝しています。課長のことを話すと懐かしそうに当時の話をしてくれます。みんな喜んで推薦状を書いてくれました」
郷原は天国憲章の細かい附則など読んだこともなかった。推薦状を一枚一枚をめくりながら水野の話を聞いていた。
「この一年、修行をしながら課長の指導を受けた人を訪ねて推薦状を集めてきました」
「おまえ、そんなことしてたのか……」
「ちゃんとやればちゃんとなる。それだけです。ぼくはぼくのやり方で、ちゃんとやっただけです」
「でもおまえ、オレを裏切った罪滅ぼしでやってるんじゃないのか?」
「それは違います。ぼくがぼくなりに、考えて、考えて、考えまくってたどり着いた結論です」水野の顔は真剣だ。
「ぼくは課長の教えを後輩に伝えるため、『郷原塾』というものを作りました。――ちゃんとやればちゃんとなる――。ちゃんとやるためには、――相手のことを考えて、考えて、考えまくる――。課長に教わった精神を徹底的にたたき込みました。最初はなかなか上手くいきませんでした。でもここに来る前、少しだけ課長の背中が見えてきたんです。
――係長に昇進することが出来ました。これも取締役のご指導の賜物です。
――ぼくがあるのは取締役のおかげです。
――取締役は人生のお手本です。一生ついていきます。
ぼくもやっとこんなことを言ってもらえるようになりました。もちろん社交辞令かもしれません。でも、少しだけ課長に近づけたような気がしたんです。ぼくは、現世で道半ばになってしまった郷原塾の続きをやりたいんです。指導教官の仕事をどうか譲ってください」水野が再び頭を下げた。嘘を言っているようには思えない。
「オレは現世でもここでもみんなに助けられたんだ。そうそう、吉田にも助けてもらったよ。あいつ現世にもどってパワハラ課長に成り下がったオレの名誉を回復してくれたんだ」
「ぼくのところにも来ました。あのおとなしい吉田から、貴様、誰のおかげで係長になったんだと怒鳴られました。これは修行中に一人一回しか使えない貴重な推薦状です。課長のために使ってくれた百人の思いを汲んで、どうかお許しいただけないでしょうか」
思いがけない話だった。改めて水野を見た。現世で最後に見たイケメンの水野より、禿げ上がったいまの方が圧倒的にカッコいい。決して公務員が嫌だったわけではない。修行コースに転換するなんて考えたこともなかった。百年続けていくつもりだった。でも、水野の言葉にどこかホッとしているのも事実。現世に未練などないと思っていたが、やっぱりときどき思い出す。いいことより辛いことのほうが圧倒的に多かった。それでも懸命に生きてきた思いがある。
もう一度生きてみたい!
張り詰めていた糸がプツリと切れて脱力感に包まれた。
「本当にいいのか?……」
大事なことを忘れていた。
丸ちゃんだ。指導教官になれたのは丸ちゃんのおかげで、彼女の了解なしにコース転換などできるわけがない。
翌日の夕方、合宿所を訪ねて恐る恐る切り出した。
「裏切り者!」辛辣な一言が返ってきた。
「あんた誰のおかげで教官なったのよ」
声を荒らげてそう言うと、合宿所の部屋に鍵をかけて閉じこもる。
武(たけ)ちゃんが来たので事情を話すと、
「すねてるだけです。少し練習でも観ていきませんか?」
武ちゃんに誘われグラウンドに向かおうとしたときドアが開く。
「ター坊、ちょっと待ちな!」
「ほらね……」
「だいたい何よ、急に来て何言うかと思ったら転換するって……。そんな報告いらないよ、黙って行けっていうのよ!」
「でも丸ちゃんにはいろいろ助けてもらって……、許しもなく行くなんて……」
「あんた真面目ね……、許すも何も、ター坊が決めたことでしょ。助けてもらったのはあたしの方だよ、ター坊が代わりに教官やってくれたから、こうしてツネゴンズのマネージャーやれてんの、感謝しかないわ」
「最初からそう言えばいいのに……」
「タケは黙ってて」
丸ちゃんの瞼が真っ赤になっていて、何だか鼻の奥がツンとなる。
「みんなあ――、ター坊が修行コースに転換するってさー」
丸ちゃんの呼び掛けに、グラウンドで練習中のメンバーが集まった。長身の津田さんもあらわれた。
「よっしゃー、胴上げじゃあ――」
津田さんの掛け声で軽々と胴上げされていた。最後に乱暴に落とされ笑い声が絶えぬ中、バンザイ三唱が何度も何度も夕焼け空のグラウンドにこだました。
三
修行コースに転換し三十年が過ぎていた。郷原剛志はまもなく六歳になる。
指導教官をやめてT-302の修行棟に移り、こつこつ修行を続けてきた。魂の穢れもほとんど落ちて、すっかりきれいになっていた。
昨日一週間後にクリームハウスの迎えがくるとの連絡を受けていた。修行棟で修業をするのもあと少し。酩酊して井の頭線のホームに飛び込んでしまったところからスタートしたヒストリーは、丸岡商事での十四年を経て、函館の高校、中学、小学まで遡った。そして今日、一九九七年七月十二日の映像は、これまで見た中でいちばん壮絶なものだった。
田中屋に常連客が集まり、剛志の六歳の誕生会が開かれていた。何の前触れもなく発生した地震による大津波はあっという間に田中屋を飲み込んだ。島の沿岸が次々と高波に襲われ、たくさんの島民が海の中を彷徨っている。真っ暗で何も見えない空に悲鳴が反響する。船の壊れた破片に死にもの狂いでつかまるもの。あっという間に遠くに流され波の中へと消えゆくもの。見失った子供を探し、気が狂ったように泣き叫ぶ母親。力尽きてうつ伏せのまま海を漂う老女……。地獄絵図のような場面に剛志は慄いた。そんな中、父ちゃんが店の常連たちを救おうと必死に泳いでいる。常連客は皆、酔っぱらっていて何が起きたのかわからないようだ。父ちゃんはあちこちから流れてくるものを拾い集めてはみんなにあてがっていた。俺のせいだと喚くように謝っていた。母ちゃんが流れてきた救助用の浮き輪をつかみ取り、しっかりと身体に縛り付けてくれている。次の瞬間、海底のドロを巻き込んだまっくろで重たい高波がなべつる岩を飲み込むように襲ってきた。奥尻の港から山の中腹までの一帯を、あっという間に覆いつくしすべてを壊滅させていった……。
翌日。剛志は昨日の衝撃が癒えぬまま、ヒストリーを開いて映像を見た。海中メガネをつけた海パンの剛志が、なべつる岩の周りの浅瀬に何度も潜っていた。バケツ一杯になったウニとアワビを田中屋に持ち帰り自慢げに父ちゃんに渡していた。
「ター坊えらいぞー。ちゃんとやればちゃんとなるんだぞ」
この言葉!
いつの間にか自分のポリシーとしてきたこの言葉、父ちゃんから教えられたものだった。
「明日の誕生会でみんなにごちそうしましょうね」母ちゃんがバケツのウニとアワビを大切そうに取り出し水槽に移していた。
オレのこと何で嫌いになったのかはわからない。でも、最後に父ちゃんの目を見たとき、泣いていたようにも見えた……。
無性に会いたくなった。自分を産んでくれ、六歳まで大切に育ててくれた両親にお礼だけでも言っておきたかった。それと函館で育ててくれた養父。札幌で指導教官をやっているはずだ。ちゃんとお礼は言わければならない。これだけはちゃんとやる。ちゃんとやらねばならないことだ。
でも、どうやったら会えるだろう。五日後にはクリームハウスの迎えが来る。ここから奥尻まではかなりの距離がある。ツネゴンズの応援に行ったときは公務員だったから雲っこに乗れたけど。
雲っこ……。
そうだ、丸ちゃん! 丸ちゃんに頼んでみよう。
剛志は手紙を書いた。
クリームハウスの迎えが来る前日の朝、雲っこに乗ったユニフォーム姿の丸ちゃんがあらわれた。
「六歳になるとこんなかわいい顔になるんだね」相変わらずの気風の良さで、懐かしそうに剛志の顔を覗き込む。
「函館の父ちゃん、それと、奥尻の父ちゃんと母ちゃんに会いたいんだ」
「いいわよ、ター坊のお願いなら」二つ返事でそう言うと、ユニフォームのポケットからかっこよく笛を取り出した。
「あたしもこんな子供が欲しいなぁ……」剛志を抱えてちょっとだけ寂しそうにそう言った。「ほれ、行ってきな。父ちゃん、母ちゃんと仲直りしてくるんだよ」
下を覗くと丸ちゃんが、あの日見た三塁コーチャーのように両手を大きく回していた。
雲っこはあっという間にS556の役所に運んでくれた。更新研修で会ったのは天国に来て三年目、もう六十年以上も前になる。養父はまだここで指導教官をやっているだろうか。受付で名前を告げて待っていると、「剛(たけ)!」と後ろから声がした。
「子供のころと同じ後ろ姿しとったよ。それにしてもなして子供になっとる?」
剛志は修業コースに転換して明日からクリームハウスに入ること、奥尻の両親に会って幼少の記憶がもどったこと、津波で海に投げ出されたけど母ちゃんが浮き輪を結び付けてくれて助かったこと。両親は自分のことを拒絶したけど、現世に戻る前に挨拶だけはしておこうと思ったことを話していった。
ひとつひとつの話に深く頷きながら養父が切り出した。
「いつかおまえに、養子にした理由を聞かれただろ。これだけは墓場まで持って行こうと決めとったけど、記憶がもどったのなら話は別だ。むしろ言っとかなければならん」
養父は当時を思い出すようにゆっくりと話し出す。
「大津波の日、ワシは仕事で奥尻に行っとった。津波で溺れかけていたのを剛(タケ)の親父さんが助けてくれたんだ。おかげで翌朝、漁船に救助された。親父さんはワシの命の恩人なんだ」
父ちゃんは田中屋の人だけでなく周りの人も助けていたんだ。
「あれから奥尻の役場に行ったんだ。ワシを助けてくれた恩人に礼を言おうと思ってな。名前が分からなかったから、齢やら背格好などを説明すると、その人は田中屋という食堂の大将で、奥さんと一緒に亡くなったって聞かされた。ワシは自分のことなど顧みず、みんなを助けていた親父さんの姿が目に焼きついてな、どうしていいかわからんくなったんだけど、息子が助かって函館の施設に預けられているっていうから会いに行ったんだ」
「ぼくのこと?」
「そうだ、ちょうど今ぐれえだよ、賢こそうな目えしたええ子だったんだ。ただ管理人が言うには記憶が全部抜けとるって……。奥尻の両親のことも知らんし、自分が誰かさえも分からなくなっとるって。ワシは施設に頼んで、お前にはワシが本当の親だということにしてもらって引き取ったんだ」
奥尻で過ごした六年間と、その後の函館での生活が繋がった。
「ありがとう、養子にしてくれて……。ぼく、父ちゃんのおかげで良いことたくさんあったんだ。あの後、東京行って仕事頑張ったんだよ。褒めてもらいたかったな……」嬉しかったことや辛かったこと、思い出すと堪えきれなくなって涙が溢れ出た。
「これから奥尻の父ちゃん、母ちゃんにも会ってくる」名残惜しかったが時間がない。雲っこを呼んでもらった。
田中屋はなべつる岩の手前にあると覚えていたのですぐにみつかった。見覚えのある暖簾が掛かっている。
――どの面下げてあらわれるんじゃ――
あのときの父ちゃんの言葉を思い出す。それでも勇気を出してドアを開けた。
「準備中だよ」ぶっきらぼうなしわがれ声だ。父ちゃんの声じゃない。恐る恐る暖簾(のれん)をくぐると見覚えのある二人と目が合った。
「タ、ター坊か?」驚いた長さんが固まった。両手で口を押さえた明美さんも声がない。
「おーおー、よう来たなー、待っとったよー」ようやく長さんが厨房から飛び出した。
「父ちゃんと母ちゃんは?」店の中を見渡した。
「あー、父ちゃんと母ちゃんなー、このあいだ六歳になって施設さ行ったんじゃ~」
「え!」
父ちゃんと母ちゃんって公務員じゃなかったの?
「あんた、そんなこと言ったって分からないでしょ」明美さんが慌てて出てきて剛志を抱き寄せた。
「あのね、あたしたち、ター坊の父ちゃん、母ちゃんの代わりに、田中屋を引き継いだの。みんなの署名集めて修行コースに転換したの。分かるかしら?」
「うん……。ぼくも署名集めてもらって修行コースになったから……」予想外の出来事に力が抜けた。
「そうね、そう言えばそうだわ。子供のター坊になってるものね。あんまりびっくりして気がつかなかったわ」
「ほんとじゃ~ 子供のター坊じゃ~ いつも膝にのっけてたター坊じゃあ~~」二人は代わるがわる剛志を抱き寄せた。
「田ちゃんたちが施設ば入るとき、送別会ここでやったんだけど、ター坊も呼ぶか迷ったんよー。でも、田ちゃんも奈美ちゃんも六歳じゃあ、何にもわからんべ。かえって混乱しちまうかと思ってやめといたのよー。いやー、悪かったかなぁ」長さんが頭をかく。「でも、ありがとな。わざわざ顔だしてくれたんだよな。それにしてもそっくりだな、むかしのター坊と……」
「そんなのあたりまえでしょ。時間がもどるんだから」
「そうか、そうだったよな。ほらほら、茹でとーきびあるから、こっちさ来て食ったらええ」
長さんと明美さんが優しくしてくれるが、父ちゃんに嫌われたまま会えなくなった。悔しさや後悔が入り混じり涙が溢れそうになっていた。ぼくが悪いことをしたのなら、謝って許してもらいたかった。
「ター坊が出て行ったあとな、ター坊が不憫で田ちゃんと大喧嘩しちまったんだ。厨房で思いっきりぶん殴ってそこらじゅう皿の破片が散らばってな……」
「ほんとよ、あんな狭いところではじめちゃうんだから」
「田ちゃん、いつもなら殴り返してくるのに、あんときは、勘弁してくれよって肩震わせるもんだから、ワシもそれ以上は何にも言えんくてなあ……」
「それで奈美ちゃんがお店飛び出してター坊を追っかけたのよ」
そう言えば、後ろから女の人の声が聞こえたような気がした。
「ぼく、なんで父ちゃんと母ちゃんに嫌われてしまったの?」
「嫌われた? なに言ってんだあ~、そりゃあお前、誤解だぞ!」
「そんなこと思ってたの? そうだわ、ちょっと待ってて」
明美さんが厨房の戸棚から大事そうに紙袋を持ってきた。
「これね、ター坊の忘れもの。覚えているかしら」
紙袋からきれいに洗濯された白装束を取り出した。公務員のときに着ていた白装束だ。あの日、田中屋を飛び出したとき、忘れたことに気づいたが悔しくて取りにもどらなかったものだ。
「田(でん)ちゃんと奈美(なみ)ちゃんがね、いつか取りにくるんじゃないかって」
「ぼくのこと、待っててくれたの?」
洗濯したはずなのに母ちゃんの匂いが染みている。
堪えていた涙が溢れ出た。
父ちゃん、母ちゃんはずっとボクが来るのを待っていた。
それだけでいい、それが分かっただけで充分だ。
「そうだ、あれも渡しておかんとな」長さんが店の奥から額縁を持ってきた。
「志津乃(しづの)ちゃん覚えとるか。これ、ター坊と一緒に撮った七五三の写真だよ」
田中屋の向かいの履物屋の女の子だ。同じ齢で、津波の日、田中屋のテーブルに一緒に座っていた。志津乃ちゃんはまだ奥尻にいるのだろうか。ここには来ていないけど何歳になっているのだろう。
結局白装束と七五三の写真はここに置いてもらうことにした。クリームハウスに持っていけないからだ。長さんと明美さんは残念そうにしていたが、志津乃ちゃんが来たら見せればいいかと、最後は納得してくれた。長さんに泊まっていけと何度も引き留められたが、明日、施設の迎えが来るということで、ようやく帰りの雲っこを呼んでもらった。
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