第三章:天国の公務員
一
郷原の元に研修の案内が届いた。天国に来て最初に受けるオリエンテーションのような研修だ。本来なら吉田や五十九番の野球選手、六十番のキャバ嬢と一緒に受けるはずだったが、三か月遅れで郷原だけ個別で受けることになったのだ。吉田が使っていたヒストリーと天国時計、黒装束を着用のうえ参加せよと書いてある。
研修所の小部屋のドアが開き若い女があらわれた。高めのハイヒールをコツコツ鳴らし、ゆっくりと教壇に立つ。膝上の黒のタイトスカートからは細くて形の良い足。丸の内を歩いていそうなキャリアウーマン風の女だ。
「あら、久しぶりね」
声を聞いて気がついた。
「プラットフォームでレクチャーしてくれた……」
「そうよ。ここと兼務しているの」
「服装が違うので気がつきませんでした」
「鬱陶しいのよね、白装束とかいうダサい服。プラットフォームじゃ規則だから着てるけど、ここは目が届かないから着ないのよ」そう言って長い髪をかき上げた。
「あたしは丸の内(まる うち)、面倒くさいから丸ちゃんでいいわ。あなたのことはメガネ坊やから聞いているから自己紹介なしでOKよ。通常は五日間かけてやる研修だけど、あなたはヒストリーや天国時計も使ったようだし、呪文で現世にも行ったと聞いてるから簡単に済ませるわね」
彼女はプラットフォームで会ったときの人を寄せ付けない雰囲気とは違い、生き生きしているように見えた。
教室正面に青と白の身長ぐらいの高さの大きな地球儀がある。
「これを見て。天国と地球は大きさも地形も一緒で双子の天体と言われているの。ちなみにここ、T302は現世でいうと東京の西南部で、杉並区や世田谷区、吉祥寺や三鷹、川崎市の一部で死亡した人間がここに来ているの」郷原は文明のかけらも見当たらない周りの景色から、ここが東京などとは信じられなかった。
「天国の入口はあちこちにあるから、あなたは一番近くのT302のプラットフォームに収容されてここに来たのよ。入口に白の鳥居があったと思うけど、鳥居の手前が煉界(れんかい)、鳥居をくぐると天国ね」
「れんかい?」
「最初はイメージつきにくいかもね……。まあいいわ、そのうちわかるから」そう言って教室の隅から一回り大きい赤い天体を転がしながら青と白の天体の前に持ってきた。
「これは太陽。こうして見ると分かるけど、天国と地球は太陽からの距離が一緒なの。だから、四季があるし一日二十四時間で流れるの。でも、一つだけ違う点がある。何だと思う?」
郷原が首を傾げると、丸の内さんは外側から両手で天国と地球を抱え込み、手前に向かってゆっくり回し出す。
「この動きを見て。同じ速度で二つの天体が逆回転しているでしょ」
並んだ天体が歯車のように逆方向に自転するのがわかる。
「影を見て。天国では太陽が西から昇り東に沈むのよ。地球と違って時間がもどるの」
「時間がもどるって……」
「だから時間がもどるのよ」丸の内さんが大したことでもなさそうに言う。
「時間のもどりとともに身体も若くなり魂も浄化していくの。最後は背中に羽が生えた天使になって、天国の出口、赤の鳥居から現世に転生する。ざっくり言うとこういう流れなの」
「ちょ、ちょっと待った。突然太陽が西から昇ったり、身体が若くなって最後は背中から羽が生えて天使になるなんて言われても……」
「要するに天国は、穢れた魂を浄化して、現世に転生するための『魂の再生システム』として存在しているの」
郷原が狐につままれたような顔で口を開けていると、「最初はみんなあなたみたいな顔して聞いてるわ。けど、一週間もすればこれが当たり前になるから。じゃあコース選択の説明に入るわよ」
黒板に「修業コース」「公務員コース」と並べて書く。どこかの予備校の説明会に来たようだ。
「天国に来たら修行して現世に転生する『修行コース』を選ぶのが一般的だけど、希望すれば天国の公務に就く『公務員コース』を選ぶこともできるのよ。ただ、一度決めたら変更できないからしっかり考えて選択してね」
「天国の公務ってどんなものがあるんですか?」
「わたしのような指導教官やプラットフォームのレクチャー担当でしょ。それに、郵便物を運んだり、天国施設の掃除や管理。そうそう、最近できた公務には『天国日報』という日刊紙の印刷や配達などの仕事あるわ。修行者のサポートをするいろいろな公務があるの。でも、公務を決めたら百年間変更できないの、百年単位で同じ仕事を続けなければならないの」
「百年! 転職も退職もなしですか?」
「そうよ。百年やると別の仕事を百年続けるか、そこで終わりにするか選べるの」
「終わりにするって?」
「分かりやすく言うと存在が消えること。魂を細かく砕いて天国リングに散魂(さんこん)されるのよ」
「散魂って……。もしかして天国リングって天国の周りにあった土星のリングみたいなやつですか?」ガラスのおはじきのようにキラキラ輝くリングを思い出す。
「そうよ。プラットフォームがあった場所。あそこは終わりにした公務員の魂のかけらでできてるの。最初リングはなかったけど、終わりにした公務員がだんだん増えて自然にできたのよ。だからいまも天国リングは少しずつ広がっているのよね」
「天国ってすごい場所ですね。いったい誰が作ったんですか?」
「天国自体は地球の誕生と同時にできたけど、仕組みを作ったのはアマテラス様」
「アマテラス様って?」
「すべてをおつくりになった神様。下々のところには姿をあらわさないから、ごく一部の上層部以外、拝謁したことがないの。とてつもなく美しく、優しく、神々しいお方であるということしか聞いていないのよ」
「じゃあ、修行三点セットの説明に入るわよ。あなたはヒストリーも天国時計も黒装束も一通り使ったことがあったわね」
「はい、だいたいは……」
丸の内さんは教壇の上から研修用と書かれたヒストリーを手に取った。
「ヒストリーには現世での一日の出来事や行動が一ページに記録されているから、所有者によって内容が変わるし、寿命によって厚さも違うわね」
「一人ひとりの特注品っていうことですか?」
「まあそうね。それに、書かれている穢(けがれ)の度合いによって色が違うのよ」
そう言ってヒストリーをぺらぺらめくるとページによって色が様々だ。
「わたしのは研修用だからこうしてページをめくれるけど、あなたのはその日の一日分しか開けない。それと、現世の日記と違って、死んだ日から始まって生まれた日が最後。いちど読んだページは消えていくからだんだん薄くなっていくの」
「じゃあ、ヒストリーの厚さであとどれぐらい修業しなければいけないか検討がつくわけですね」
「それとヒストリーの表紙は、それぞれのページの色が混じり合った色に反映されてるの。さらに表紙の色があなたの魂の色に反映する」
「じゃあヒストリーと魂は常に同じ色っていうことですか?」
「そう、一日分のヒストリーが消えると魂の色も変化する」
「修行が進むと魂もヒストリーもきれいになっていくということか……」
「ちょっと魂に触れてみて。わかるかしら、振動しているのが」丸の内さんの真似をして魂を外して額(ひたい)をあててみた。クオーツ時計のような微かな振動が伝わった。
「何度死んでも魂だけは永久に生きてるの。知っての通り、魂がないと天国には入れない。魂を持つことが人間の誇りであり証明なの。だからこれだけは絶対に失くしちゃダメ。あなたの魂も、過去から何度も転生してきたものだから」
――この魂が何度も転生してきた ――
その鼓動は心臓の百万分の一かもしれないが、規則正しく、確実に動いていた。
「修行のやり方はまずヒストリーを読んで、その日何があったかを思い出す。それから魂を取り出し、ヒストリーに載せて映像を見ながらその日の出来事を振り返る。この繰り返しね」
「修行ってそんな簡単でいいんですか?」
滝に打たれたり、座禅を組んで断食するような苦行を連想していた郷原は少し気が抜けた。
「そう言うけど、あなたが思ってるほど簡単ではないわ。考えてみてよ。現世で起きたことが順番に出てくるの。心の奥にしまっておいた思い出したくないことだって容赦なく出てくるの。誰かに裏切られたり傷つけられた日。だいじな人との出会いや別れ。それについて今の自分だったらどうするこうするって自分自身で考えるの。おそらく考えたって正しい答えなんかわからない。それでも自分の中でひとつひとつの出来事に向き合って折り合いをつけることでその日のヒストリーが消えてなくなるの。消えない限りその日の修行は終わらない。一枚のヒストリーが消えると一つの穢れが浄化され、そのぶん魂がきれいになる。こうして一日を過ごしていくのがここでの修業のやりかたなのよ」
言われてみればその通りだ。現世での三十六年、いろいろなことがあった。徹夜したって納得できない日だってあるだろう。
「次、天国時計ね」
丸の内さんは銀色の鎖に白の文字盤の腕時計を取り上げた。
「天国も一日二十四時間だから文字盤は現世と一緒。ただ針が逆に動くから慣れるまで不気味だけどね……」
「三時のところにある数字は何ですか?」日付が出る場所に見慣れぬ五桁の数字が並んでいる。
「これは修業の残り日数。現世にもどるまでのカウントダウンよ。修行を続けていくと、あとどれくらいで修業が終わるのか分からなくなるのよ。そんなときこれを見て励みにするの。モチベーションの維持には欠かせない機能よね。現世ではよく、今日は天気がいいですね、とか意味ない挨拶してるけど、天国では、あと何日ですかって、天国時計を見せ合うのが日常だから」
郷原はこれから始まる天国生活の一端を垣間見て、ようやく天国に来た実感がわき出てきた。
「じゃあ最後、黒装束。あなたはメガネ坊やのお古を着てるけど、修行がはじまったら年に一回、新しいものが送られてくるわ。だんだん体型が変わっていくからね」
「オレの身体っていつ体型が変わるんですか?」
「徐々によ。魂の記憶に連動して体型も着ているものも日々変わるから。公務員になってしまえば、ずっとこのままだけどね……」
丸の内さんは少し寂しそうにそう言って、黒板に三つの呪文を書いた。
『アマチャン・アマチャン・アマテラス(現世投影)』
『アマチャン・アマチャン・イクテラス(現世行き)』
『アマチャン・アマチャン・モドテラス(天国戻り)』
「呪文は使ったみたいだからわかると思うけど。現世投影で自分の見たい場所と時間を特定するのは結構難しいの。手先の微妙な感覚と力加減が必要ね」丸の内さんは魂を研修用のヒストリーに載せると細くてきれいな指先を微妙に動かし魂の映像を変化させている。
「注意しなければならないのは現世に行けるのは修行中三回で、一回につき十分という制限があること」
「なんでそんな制限があるんですか?」
「天国と地球の気圧差よ。長くいると気圧差に耐えきれなくなって魂が粉々になってしまうの。久しぶりに現世に行くと夢中になって時間を忘れるから、必ず天国時計をストップウォッチにして時間を確認すること。これが鉄則よ」吉豊と現世に行ったのを思い出す。十分なんてあっという間に過ぎていた。
午前中からはじまった研修は昼過ぎになっていた。
「ちょっと時間が余ったわね、気分転換で天国施設の見学でもしてみない」
丸の内さんは講師控室にもどって白装束に袖を通さず肩に掛けてきた。
「この服、ホントかったるいのよね」
研修所の外に出るので、仕方なくスーツの上に羽織ってきたようだ。
「いまから公務員の特権を見せるわね」そう言って白装束のポケットから小さな笛を取り出すと空に向かって吹き鳴らす。小鳥のさえずりのような音色が響き、どこからかふわふわした雲の塊が下りてきたので、驚いて後退りする。
「大丈夫、こいつは『雲(くも)っこ』っていう公務員が使う乗物よ」
この得体の知れない物体はその名の通り雲でできた乗物で、白装束が専用の笛を鳴らすと、近くの雲がタクシーのようにあらわれる。行き先を告げると、飛行機なみのスピードで目的地まで運んでくれる便利な乗物だ。ただ、快晴のときなどは雲っこが見つからないので苦労するらしい。乗り込むと遊園地のコーヒーカップのような作りになっている。ふわふわの椅子に向かい合い「入口まで」と行き先を告げると浮き上がり、目的地に向かって最短距離で飛び立った。空に上がると意外にもたくさんの雲っこが飛びかっている。
「あれは郵便物を運ぶ雲っこね。彼らも公務員よ」
学生帽のようなツバ付き帽子に〒マークの腕章をつけた白装束が乗っている。
「彼らは天候に左右されないように専用の雲っこに乗ってるの」
雲っこの前後に〒マークがついている。
あっという間にまっしろな鳥居が見えてきた。スピードが緩まり見覚えのある三階建ての時計台の前に着地する。
「ここがT302の中心地よ」
時計台を中心に左右に建物が並んでいる。建物といってもどれも木造で質素な造りのものだ。時計台の三階建ての建物が天国会館でT302を管轄する役所。その右隣は二階建ての郵便局で一階の駐車場には袋を担いだ白装束が、〒マークの雲っこに乗ったり降りたり忙しそうに動き回っている。
「天国での連絡手段は手紙に限られてるから結構忙しいのよ」
天国会館の左には白壁の建物がある。
「これはホスピタル。怪我や体調を崩したときに治療をする施設よ。現世でいう病院ね」
「そういえば吉田が入院していたって聞きました」
「ああ、メガネ坊やね。おとなしいくせに吉豊と喧嘩して大変だったのよ」
天国の入口に見覚えのある鳥居がある。近づくと思ったより大きく頑丈そうだ。高さは十メートルほどで、しっかりした台石(だいいし)の上に控柱(ひかえばしら)が左右に並んでいる。一番上には横にまっすぐ笠木(かさぎ)が伸び、真ん中の額束(がくつか)にはT302の刻印。鳥居の内側に、直径二十センチぐらいのマンホールのような扉が支えも無いのに宙に浮いている。
「ここからの景色を見てごらん」
鳥居の枠から外を覗くと普通に見えている空や雲の景色とまるで違う。すぐ近くに天国リングが太陽の光を帯びている。プラットフォームから昇って来たときの景色だ。その先にはところどころ雲に隠れた青い地球が顔を出している。
「これが煉界よ。懐かしい地球が見えるでしょう」
百聞は一見にしかずとはこのことだ。鳥居が煉界から天国への入口になっている。丸ノ内さんの研修では理解できなかった煉界の存在をはっきりと理解した。
T302の中心地からあぜ道を南に向かって歩いていくと団地のような建物が見えてきた。
「修行棟よ」
「ええ、吉豊の部屋に入りました。ずいぶん狭い部屋でしたけど……」
「贅沢言わないの。ここでは修業が目的だから必要最低限のものしか置いていないのよ。それに最近は天国も人口が増えて大変なのよ」
再び雲っこに乗って今度はさっきより高く上がった。T302の全体が俯瞰できた。地区の東西に川が流れている。多摩川だろうか。目を凝らすとT302が柵のようなもので囲まれて、隣の地区との国境のように縁取りされている。こうして見ると、修行のスタートから終わりまで地区単位で管理、運営されているのがよくわかる。
「南に向かって」丸の内さんが雲っこに命じると、ドーム型の大きな屋根が見えてきた。
「あれがクリームハウスよ」名前の通り、大きな建物にソフトクリームのような屋根が載っている。その横にまっかな鳥居が立っている。
「ここが天国の出口。下りるわよ」
赤の鳥居は原色系の色彩がない天国でひときわ目立つ佇まいだ。
「出口は天国で最も神聖な場所。毎朝ここから修行を終えた魂が転生していくから機会があったら見ておくといいわ」
隣のクリームハウスから子供たちの歓声が聞こえてきた。中庭には幼稚園児ぐらいの子供が走り回り、鬼ごっこやかくれんぼをしている。
「六歳になるとここに入所して修業の総仕上げをするの。六歳以下で亡くなった子供は直接ここに入るけどね……」
一通りの天国施設の見学を終えると太陽は東に沈みかけていた。丸の内さんから三日以内に選択コースの申告書を出すように、そのあいだは研修所に待機するから悩んだら相談するようにと指示された。
二
さすがの郷原もコース選択だけは決めかねた。大半は修行コースを選ぶと聞いていたが、なんとなく公務員コースを選択したい気持ちもある。悩んだ末、丸の内さんに相談することにした。
「どいつもこいつも甘いのよ。あんた公務員をなめてんのよ。公務員選んだら百年よ。ひゃ・く・ね・ん。あんたこの意味わかってんの? 人間ってだんだん歳とって体力も衰えて死んでいくでしょ。自然の摂理っていうやつよ。歳もとらずに同じ仕事を続けていくのがどんなにしんどいか、あなた考えたことある?」丸ちゃんは公務員を真っ向から否定した。
「じゃあ丸ちゃんはなんで公務員を選んだの?」
「ター坊、ちょっと付き合いな」
ター坊……。
いつの間にか三十過ぎの中年男がター坊になっていた。当り前のように呼ばれると、むかしからそう呼ばれていたような気さえする。
丸の内さんは奥の談話室に郷原を連れ込むと、納戸から一升瓶とワインボトル二本を持ってきた。
「天国に酒があったんですか?」
「自給自足よ。こっちの日本酒は米を発酵、こっちのワインは葡萄よ。五年かけて作ったの」
「丸ちゃんが作ったんですか?」
「こんなのお手の物、わたしの実家は百年続く造り酒屋よ。今年の出来は過去最高よ」
「見つかったらまずいんじゃないですか?」
「弱気ね、リスク取らなきゃいい仕事はできないのよ」
そういう問題ではない気がしたが、服装も公務員の白装束を着ないで通している彼女のことだ。
「いいですね。飲みましょう」郷原も嬉しくなって乗っかった。
「あたしだって深く考えてなかったのよ。自棄(やけ)よ、現世でいろいろあって」
「いろいろって……」
「こう見えてもわたし、五年前まで丸の内の商社でブイブイ言わせてたのよ。ビッグプロジェクトのリーダーやって、三十名の部下を従えて、朝から晩まで丸の内を闊歩してたのよ」
「丸の内……、丸の内って丸ちゃんの名前ですよね?」
「ニックネームよ、最近この話をしたら研修生に付けられたの。本名より気に入ってるから丸の内でいいのよ」
「なんで死んじゃったんですか?」
「自殺よ」意外な言葉が返ってきた。
「ここ見てよ」丸ちゃんが自慢のスーツをまくり上げた。郷原はドキッとするポーズに思わず顔をそむけたが、彼女の魂に矢が刺さっているのが目に入る。吉田と比べるとずいぶん細くて小さい矢だ。
「自殺するとこれが刺さるのよ。修行を続けると取れるけど、わたしは公務員だから一生取れないの」ワイングラスを軽く揺らしている。「当時、憧れの上司がいてね、彼のためにプロジェクトを成功させようと懸命にやったのよ。背が高くて、顔も良くて優しくて、頭も切れて統率力も抜群の人。わたしね、東北の田舎から出てきて念願だった丸の内の商社に入ったの。憧れの丸の内OLになったのね。そんで、入社三年目に彼からプロジェクトリーダーに抜擢されたのよ」半分ほど残っていたワイングラスを飲み干し手酌で注ぎ足した。
「あのころ初心(うぶ)だったのよ。彼に認めてもらおうと懸命に働いたわ。彼もわたしの仕事を評価してくれて、大変だったけど楽しかったのよ。彼と付き合うようになって自然と身体の関係もできたのね。結婚もして子供もいる彼だったけど、――このプロジェクトが成功したら一緒になろう――って言ってくれたのよ。その言葉を信じて頑張ったわ。そんでね、いよいよプロジェクトの成功が見えたとき辞令が出たの。何だと思う? 秋田営業所への左遷よ!」
「上司として最低だ。男の片隅にもおけん」酔いの回った郷原がマジで憤る。その言葉がよほど嬉しかったのか丸ちゃんが泣き出した。「そーそー、そうなのよー。奴はわたしのこと最初から利用していただけだったのよ。うぅ……。しかもね、これまでもわたしのような初心な女を散々利用して、それだけで偉くなってきた最低野郎だったのよ。顔と見せかけの優しさにまんまと騙されたの。それで辞令が出た日、――なんで秋田なんかに飛ばすのよ――って詰め寄ったら何て言ったと思う?」溢れる涙もそのままに、「あいつ、遠くの方を見ながら、おまえいつか田舎の母さんが心配だって言ったよな。気を利かしたんだよ。感謝しろよなって」ここまで言うと大声で泣き出した。郷原は強気で毒舌の丸ちゃんも飲むと泣き上戸になるのをこのとき知った。
「そんでその日に、丸ビルから飛び降りちゃったのよ……」
丸ちゃんはゆっくりと残りのワインを飲み干した。
「最初は自分の選択は正しかったと思ったわ。教官の仕事も楽しかったしね。でもね、終わりが見えないの。あたしこの後どうなっちゃうの? って感じでね。そうすると、最初達成感があった仕事も怖くなってくるの。しまいにはどうすることもできなくなって、パニックになって、それで思いっきり後悔したの。こんなコース選ばなければよかったって……。そんなときね、武(たけ)ちゃんに会ったのよ。あ、武ちゃんて言うのはね、野球が大好きなの。ホント好きなのよ」
「オレの後に来た五十九番のユニホームの男ですよね」
「そうそう、その武ちゃんがね、公務員コースを選んで天国の野球チームに入ったんだけど、とにかく野球が好きなのよ。プロもアマも関係ない、草野球でもいい、少年野球の監督でもいい、純粋に野球が好きなの。そんで、ちょっとでも上手くなりたいって言うのよ。どうよ、ター坊」
「どうと言われても……。だいたい公務員の仕事に野球チームなんてあるんですか?」
「アマテラス様が新しい公務として、六年前におつくりになったのよ。燃える男のセンチャンズ、国民栄誉賞のテツジンズ、ID野球のボヤキーズ、炎のストッパーツネゴンズの四球団があって、武ちゃんは先輩の津田監督に誘われてツネゴンズに入ったの」
「何か聞いたことあるような……」
「みんな、現世のプロ野球で活躍した有名選手が監督やってるの。あたしはあんまり詳しくなかったからよく知らないけど……」」
丸ちゃんは立て続けにグラスを空けて、早くも二本目のボトルを開けていた。
「そんでね、大好きな野球が百年もできるなんて夢みたいだって。しかも齢はとらないし練習は果てしなくできるからこんないいことないって言うのよ。しまいにはどこまで上手くなるか自分で自分が怖くなるとか言って大笑いするもんだから、こっちまでおかしくなって大笑いよ」女子学生のように笑っている。郷原のグラスに勝手にワインをつぎ足し話を続けていく。「あたし、飽きないの? って聞いたんだけど、絶対飽きないんだって。野球ってひとつひとつのプレーにおんなじものってないから、毎日練習して少しでも難しい球を取ったり、打ったりできるように練習するんだってさ。やることは果てしなくあって飽きることなんてありえないんだって」
公務員の選択について質問したのに、丸ちゃんの話はどんどんずれていく。郷原は仕方なくワインをチビチビ飲んでいた。
「そんでいちど、武ちゃんの練習を見に行ったのよ。そしたらちょうどマネージャーを募集していて、監督の津田さんがやってくれないかって言うのよ。あたしは指導教官やってるから無理だって言ったんだけど、兼業だったらできるって言うのよ。そんで、チームの人たちが練習やってるのを見てわかったの。武ちゃんが言ってた、――飽きることはあり得ない――っていうことが。みんな泥だらけになっておんなじことを繰り返しやってるの。一生懸命飽きもせず……。でもみんな楽しそうなの。生き生きしているの。そんでその場で返事しちゃったの。お願いしますって」丸ちゃんは空のワインボトルをぬいぐるみのように抱きかかえ、夢中になって話を続けていく。「あたし目からうろこだったの。武ちゃんの飽きることがあり得ないっていう話。ちょうどそのころ、五年病になってめちゃくちゃ落ちてた時期だから」
「五年病?」
「現世でいう五月病みたいなものよ。公務員選んで五年ぐらい経つと、百年の恐ろしさに気がついて、悩む人が出てくるのよ」
「なるほど、それで五年病ですか」
「武ちゃんの話を聞いたとき、頭に雷が落ちたみたいな衝撃受けたのよ。現世にいたときって、セコセコ出世のことしか考えない男ばっかりだったわ。あたしもとにかくバリバリ仕事をこなして出世する男がかっこいいって思ってたしね。武ちゃんみたいな男、丸の内で働くエリート社員には絶対いないから」
たしかに……。
「だからぁ、あたし公務員についてはまえみたく百パーセントの反対はしないの。ター坊よく聞いて」ようやく武ちゃん話が終わり本題に入ってくれるようだ。固唾をのんで次の言葉を待つ。
「まずは百年の本当の怖さを理解するの。その怖さを理解して、現世への未練を絶って、それでも天国で職務を全うする覚悟があるのなら、そういう志(こころざし)があるならわたしは反対しない。むしろ応援する」
丸ちゃんはだいぶ酔っぱらっていたが、ふらつく足で奥から日本酒の一升瓶を抱えてきた。
「ター坊~ あたしばっかしゃべっちゃったけど……、オェッ、あんた、なんかないの……。現世の面白い話とか聞かせてよ」丸ちゃんは呂(ろ)律(れつ)が回っていなかった。三か月前からマネージャーを掛け持ちし、このところ野球チーの合宿が忙しく、ゆっくり酒を飲む暇がなかったらしい。チームは昨日から遠征で丸ちゃんのマネージャー業務は久々のオフ。今日は羽を伸ばしたかったようだ。
「実はね、あたしたち、付き合ってるの……」丸ちゃんが日本酒を湯呑みに注ぐ。
「そんなのありですか?」
「もち秘密よ。こっそりよ。だれにも言っちゃだめよ」口元に人差し指を立てている。「みんな真剣に修業してるのにイチャイチャできないでしょ」
そりゃ、そうでしょ……。
丸ちゃんが膝をたたんで少女のように頬を赤らめた。
「ばれたらどうなるんですか?」
「知らないわ、そんなこと」勝手にブドウやコメを醗酵させて浴びるように飲む丸ちゃんのことだ。何をやっても不思議ではない。
「武ちゃんの世界って、あたしの全く知らなかった世界なの。野球のことなんかルール自体知らなかったしね。でも武ちゃん見てると本当に楽しそうで、この人にとって百年なんてあっという間なんだろうなぁって。だったら私も武ちゃんについてって、一緒に楽しんじゃおうかなって」いつの間にか丸ちゃんのお惚気(のろけ)話になっていた。郷原は急に眠たくなった。
「おい、ター坊。ぼーっとしてないで反応してよ」しゃべりつくした丸ちゃんも眠たそうだった。しばらく沈黙が続いた。
「結局似てんのよ。あたしとあんた。強がっているけど孤独なのよ。だから何かよりどころが欲しいのよ……」
丸ちゃんのよりどころは武ちゃんなんだろう。オレのよりどころってなんだろう?
丸ちゃんはすやすや眠ってしまった。郷原は子供のように眠る丸ちゃんに布団を掛けた。
その夜、郷原は考えた。
オレは今まで何をしてきた? 何をしているときが楽しかった? 何をしているときが輝いていた?
実の親のことは何も覚えていなかった。六歳のとき、函館の三人家族の養子になった。事情は分からない。中二のとき自分が養子であることを知った。それ以来、育ての親に甘えたことはない。孤独だった。迷惑かけまいとしてきた。だから無理に強がって生きてきた。その分、弱い者の気持ちは痛いほどわかった。誰かを助けることは好きだった。面倒を見ることも好きだった。失うものがなかった分、上司にたてついてでも部下を守ってきた。部下のミスは自分のミスとして、客の前で土下座もした。でも、決して無理してやってきたことではない。身寄りがなかったオレは会社が家族。上司は親父で、部下は子供だった。
――ちゃんとやればちゃんとなる――
誰かに教えてもらったわけではないが、子供のころからのポリシーだ。これまで自分なりのやり方でちゃんとやってきた。やっぱりオレは会社で働いているときが一番楽しかった。一番輝いていた。これは間違いない。
指導教官になりたい!
現世でやり残したことを天国でやり続けたい。ちゃんとやらなければならないことは山ほど残っている。いまさら現世に未練はない。ならば天国でやりたいことをやったほうがいい。丸ちゃんは言っていた。野球のプレーに同じものはない。少しでも上手くなろうと毎日練習する。やることは果てしなくあって、飽きることはありえないって。考えてみれば指導教官の仕事だって一緒じゃないか。同じ人間なんて存在しない。一人ひとりの個性があるからだ。指導法だって果てしなくあって、考えれば考えるほど奥が深くて尽きることなんてあり得ない。
そうだよ。野球も指導教官も一緒だよ! やがて、水野や森山も来るだろう。あいつらにもここでしっかり指導してやりたい。
郷原は公務員コースを選んだ。二日酔いで怠そうな丸ちゃんに申請書を提出した。中身を確認した丸ちゃんは黙って頷いた。
三
公務員になったからといって、希望する職種に就けるとは限らない。このあたりは現世の新入社員となんら変わらない。郷原は丸ちゃんに推薦状を書いてもらい、丸ちゃんのサポート要員として指導教官に採用された。丸ちゃんも野球チームのツネゴンズのマネージャーとの二足の草鞋が限界で、ちょうどサポート要員の申請を出そうとしていたところだったのだ。
早速、公務員の制服である白装束が支給された。新しい白装束に袖を通し帯を結ぶと気持ちが高ぶった。初めてスーツを着てネクタイを締めた新入社員のころを思い出す。最初、プラットフォームのレクチャー担当になった。担当地区はT302、丸ちゃんの担当地区をそのまま受け継いだ。仕事がはじまると魂が毎日プラットフォームに昇ってくる。会社と違って年齢も性別も性格も経歴も異なる魂が昇ってくる。ひとつとして同じものはない。みんな現世でさまざまなことがあり、それが魂の色や大きさ、重さに反映されている。
プラットフォームにたどり着いた魂に天国行きのパスポートを渡す。目の前に見える白い天体がこれから向かう天国だと説明する。不安そうに昇ってきた魂も、それを聞いて初めてホッとした顔になる。郷原の経験から、天気の状況、矢が刺さった魂の天国ロードの昇り方などを細かくアドバイスした。もともと教えることは好きだった。やっぱり性に合っている。コース選択は正しかったと改めて思う。
郷原の評判はすこぶるよかった。みんな彼のレクチャーを聞いて、これからはじまる天国生活に希望を持ってロードを昇っていった。郷原の仕事ぶりが評価され、一年後、導入研修の指導教官に昇格した。丸ちゃんクラスの副担当だったが、ツネゴンズのシーズンがはじまると、丸ちゃんは研修初日にひとこと挨拶をして、あとは飲み会用の日本酒とワインを差し入れするぐらいになり、いまでは研修のほとんどを郷原に任せツネゴンズのマネージャーに専念するようになっていた。郷原はむしろそれがありがたかった。自分のことを全面的に信頼してくれているのだろうと解釈した。だんだん自分の色を出し熱血教官になっていった。もちろん、パワハラには十分注意して……。
指導教官になって三年目が近づくころ、丸ちゃんから手紙が届いた。この頃、丸ちゃんはツネゴンズのマネージャーとして、試合だ、遠征だと毎日のように飛び回っていた。手紙には『ツネゴンズのファンクラブに入ること』ひとことだけ書かれており、入会書類が同封されていた。ファンクラブとはいえ年会費がかかるわけでもなく、たまにツネゴンズの応援に行けばいいだけだ。ただ、他チームのファンクラブに重複して入ったり、こっそり応援なんかしているところが見つかれば、丸ちゃん得意の回し蹴りぐらいでは済まないだろう。
天国の指導教官になれたのも丸ちゃんのおかげで、このときから師弟関係が出来ていた。丸ちゃんの命令に「ノー」はありえない。すぐに入会申込書を返送した。
ツネゴンズのマネージャーがすっかり板についた丸ちゃんは、先日の天国日報のスポーツ欄に、名物美人マネージャーとして紹介されていた。現世のころから裏番長的存在の丸ちゃんは、「姉御様」とチームメンバーに恐れられながらも慕われる存在として取り上げられていた。
福利厚生の一環として、アマテラス様がお認めになった野球チームの人気は絶大で、変化の乏しい修業の気分転換としてなくてはならない存在になっていた。修行者はそれぞれひいきのチームがあり、球場では応援合戦も繰り広げられている。
アマテラス様が野球チームをおつくりになった目的は福利厚生だけではない。もう一つは地方活性化だ。現世と同じ大きさと地形を持つ天国には、あちこちに入口と出口が存在し、人口密度の高い地区と低い地区が自然に発生する。地方活性化は天国でも必要なのだ。
燃える男の「センチャンズ」、国民栄誉賞の「テツジンズ」、ID野球の「ボヤキーズ」、炎のストッパー「ツネゴンズ」これら四チームは、年間三十試合、各チームと十試合対戦する総当たり戦を行い、天国リーグ全体で年間六十試合のペナントレースが組まれている。このうち半分の三十試合は地方開催で、試合結果や順位は天国日報のスポーツ欄にも掲載されるのだ。地方でも野球人気は高く修行者の楽しみにもなっていた。
そんな折、丸ちゃんからまた手紙が届いた。
『こないと回し蹴り』やはりひとことだけ書いてあり、観戦チケットが同封されている。コース選択の相談をしたとき、子供のころ空手道場で、気に入らない男子に回し蹴りをぶち込んで泣かしたことがあると言っていたのを思い出す。
この年「ツネゴンズ」は、「センチャンズ」と優勝争いを繰り広げ、今週末の七月十二日が優勝決定戦になっていた。場所はH094とあるがよくわからない。天国のざっくりした地図では、北海道の南西部あたりのようだ。現世では間違いなくパワハラに該当するこの誘いだが、断るという選択肢はあり得ない。這ってでも行かねばならない。ただ、指導教官も大事な仕事で公務を休んで行くわけにもいかない。あれこれ悩んでいると、立て続けに三通目の手紙が来た。三年にいちど必ず受けなければならない指導教官の免許更新研修を、わざわざツネゴンズの優勝決定戦の日程に合わせて試合会場近くで受けられるように手配したとのことだった。
郷原は雲っ子に乗って更新研修の会場に向かった。会場はS556役所内とある。天国のざっくりした地図では北海道の札幌あたりのようだ。
天国には現世のような精緻な地図がない。めったに遠くに行くこともなく、雲っこがあるから不便はないが……。伊能忠敬のような人物がいないのも影響しているのかもしれない。
会場に入りあらわれた白装束の講師にどことなく見覚えがある。
胸元の「郷原」の名札を見て気がついた。
函館の養父!
家族の中で唯一、郷原をかわいがってくれた人だった。講義中何度か目が合うが気づかない。
講義が終わり、思い切って声を掛けてみた。
「父さん、剛(たけ)志(し)です……」
怪訝な顔をする。無理もない。子供のときしか知らない剛志が中年男になって目の前にいるのだ。手短に状況を話すうち、訝し気な表情が変化した。
「本当に剛(たけ)なのか?」ハの字に下がった眉毛が懐かしい。
「時間あるか?」養父に連れて行かれたのは赤ちょうちんが軒を並べる場所だった。こんな場所があるのに驚いた。
「この辺は現世でいうとススキノあたりさ」どうりで飲み屋やラーメン屋が並んでいる。
積もる話が山ほどあった。
郷原は養父が死んでからいまに至るまでを順番に説明した。
「大変だったんだな……」養父は手元の酒を飲み干した。
「ごめんな、先に死んじまって……」
「しょうがないよ。でも父さん、何で指導教官になったの」
「先生になりたかったんだ。子供のころからの夢でな。現世じゃあ中卒だからとても無理だったけど、ここじゃできるって言うしな。最初は苦労したけど、二十年続けて今年から更新研修の指導教官を任されたんだ」赤ら顔の養父が誇らしげに微笑んだ。
「何でオレを養子にしたの? オレの両親に何があったの?」
ずっと心の奥にしまっていたことだった。
「養子って……」養父が固まった。
「おまえ、いつから知っとった?」
「中二のとき、戸籍謄本見たんだ」
「そうか……」何かを考えるように上を向く。
「まあ、色々あってな……」
やはり良くないことがあったんだ。それ以上は聞かないほうがいいと思って話題を変えた。
四
翌日、丸ちゃんと約束した優勝決定戦。ふたたび雲っこをつかまえてH094の試合会場に移動した。雲っこを降りると海が見え潮の香りが漂った。海岸線に穴のあいたドーナツ型の岩が見える。
――なべつる岩――
初めて来たはずなのに、鍋の取っ手のような岩を見たとき、なぜか名前が浮かんできた。いつどこで見たのか思い出せないが、間違いなくどこかで見た記憶がある。海岸線のなべつる岩を左に眺めながら、さらに五分ほど歩くと球場に着いた。球場といっても観客席は木のベンチが五列に並んでいるだけで、両軍ベンチもほったて小屋だ。それでも地元の人たちでいっぱいで、郷原のチケットはネット裏の最前列、両軍ベンチが良く見える特等席だった。
今年の天国リーグは四チームの戦力が均衡し、まれに見る接戦で最終試合を迎えていた。ここまでツネゴンズとセンチャンズが十五勝十四敗で同率首位。テツジンズとボヤキーズが十四勝十五敗で並び、本日、ツネゴンズ対センチャンズの優勝決定戦が行われるのだ。試合開始前の両軍ベンチには天国とは思えない張り詰めた空気が漂い、観客席では応援合戦が繰り広げられている。審判のプレーボールで試合が始まった。
ボールもグラブも手作りだが、豊富な練習量と元々野球が大好きな連中の集まりで、ファインプレーが随所に見られる好ゲームが続いていく。試合は緊迫した投手戦で、ゼロ対ゼロのまま九回表を迎えていた。この回、津田監督が自らマウンドに立ち、センチャンズの三番から始まるクリーンアップを三者三振に打ち取った。そして九回裏のツネゴンズの攻撃は六番からの下位打線。センチャンズのピッチャーはこの回から今年抑えのエースとして成長した甘いマスクの若手ピッチャーだ。一五〇キロを超えると思われるストレートと落差の大きいフォークボールが武器だ。先頭バッターは全くタイミングが合わず、三球三振でワンアウト。延長戦を覚悟したが、七番バッターがしぶとくフォアボールを選んで出塁。気の抜けた投球を見たセンチャンズの監督が目の前のベンチを蹴飛ばした。あまりの迫力と恐ろしさで若手ピッチャーの顔面が蒼白になる。八番バッターが手堅く送りバントを決めてツーアウト二塁。ここでラストバッター広本(ひろもと)武(たけし)、武(たけ)ちゃんの登場だ。ツネゴンズベンチのど真ん中からメガホン片手の丸ちゃんが、「ここで打たなかったらぶっ殺すよ」ドスを利かせた声で武ちゃんを送り出す。
緊張した面持ちでバットに唾を掛け、バッターボックスに立つ武ちゃん。バットを短く持って食らいつくが、伸びのあるストレートに歯が立たず、あっという間にツーナッシング。
「こらー、タケぇ~ 気合入れんか~」丸ちゃんのメガホンが観客席まで届く。
ピッチャーは遊び球を放らず渾身のストレートを投げてくる。二球ファールで粘った後の第五球、ようやく前に飛んだ打球はセカンド後方にフラフラと上がりライト前にポトリと落ちた。丸ちゃんがメガホンを放り投げ、ベンチを飛び出し三塁コーチャーのように両腕をグルグル回している。二塁ランナーが迷うことなく三塁を蹴ってホームに突っ込んだ。
どっちだ?
球場全体が固唾を飲んだ。ひと呼吸おいた審判が「セーフ!」両手を大きく広げてコールした。試合終了、一対ゼロのサヨナラ勝ち。ツネゴンズの初優勝だ。
やったぞー、よくやったー
歓喜に包まれる三塁側ツネゴンズのベンチと観客。そのとき、一塁側センチャンズのベンチから、「何で今のがセーフなんや~」鬼の形相の監督が三塁側の歓喜のスタンドを凌ぐ怒声でベンチを飛び出した。それを合図に一塁ベンチの全員が飛び出した。飛び出さないと罰金でも課せられるかのように統制がとれている。それを見た三塁側ベンチから「おんどりゃあ~ 試合は終わったんじゃ~~」ものすごい瞬発力で丸ちゃんが一直線に突進した。日頃から「姉御様」とチーム内で恐れられている丸ちゃんを筆頭に、三塁ベンチの全メンバーが一斉に球場になだれ込む。郷原の目の前で両軍選手が睨み合う。
「審判がセーフと言ってんだからセーフでしょーが」両軍選手の隙間から、丸ちゃんが相手監督のむなぐらを背伸びしながらつかみ上げる姿が目に入る。
「何じゃおまえは~~ ここは男の世界じゃ。女の出る幕じゃねー」面食らった監督が丸ちゃんの手を払う。
「女の出る幕じゃねー? 誰が決めたんじゃ、昭和親父のコンニャロメがー」啖呵を切った丸ちゃんが、間髪あけず足を振り上げ、得意の回し蹴りを横っ面に食らわせた。全く無防備に両手をズボンの後ろポケットに突っ込んでいた監督がよろめいた。
え?
球場にいる全員が、目の前の出来事を把握するのに間があった。
――このアマぁ~~ 監督になんてことするんじゃ~~
――姉御お~~ ここはワイどもにお任せくだせぇ~~
両軍入り乱れて収拾付かない大乱闘がはじまった。もはや試合どころではない。とても天国にいるとは思えぬ光景だ。
――ホシノー、女に負けんなぁ~
――マルチャンいいぞー、もっとやれ~
観客も修行中であることをすっかり忘れ、試合以上の大盛り上がりだ。やがて審判の「退場~~」のアナウンスがこだました。最初にベンチを飛び出した監督と、前代未聞の回し蹴りを食らわせた丸ちゃんに、退場と来季一年間の謹慎処分が下された。
五
熱戦と乱闘の余韻に浸りながら、郷原は適当な雲っ子をさがして歩いていた。今日は朝から快晴だった。こんな日はなかなか雲っ子がつかまらず苦労する。なべつる岩を通り越し、少し山側に入ったところに「田中屋」という暖簾が目についた。食堂のようだ。地元開催の試合を見て、興奮冷めやらぬ人たちが宴会をやっているようだ。店の外まで賑やかな声が漏れてくる。甘辛い煮魚の匂いが身体に溶け込んだ。
この匂い……。どこかで感じたことのある匂いだった。忘れてしまった現世の匂いだろうか。天国では、山菜を採ったり、畑で野菜を育てたり、川や海で魚を獲ったりしながら自給自足で質素な生活を送るのが原則だ。ただ天国にも、許可を得て公務として修行者に食事を提供する小さな食堂が存在している。もちろんカネはかからない。天国には利益や儲けといった資本主義の考えがなく、カネ自体が存在しないのだ。ここもそういう類(たぐい)の食堂だろう。郷原は懐かしい匂いに誘われ暖簾をくぐっていた。
「ここはおくしり限定じゃ。一見(いちげん)さんは帰(けえ)ってくれ!」
厨房の中からドスの利いた声がした。ねじり鉢巻きの男が、顔も上げずに刺身包丁で魚をさばいていた。びっくりした郷原は慌てて外に出かかるが、「田(でん)ちゃん、今日ぐらいええじゃねえか。この兄さんもきっとツネゴンズの応援に来てくれたんだよ」奥に座る四十代ぐらいの日焼けした半袖シャツの髭面が、郷原を見て相好を崩す。
「長(ちょう)さんに言われちゃしゃあねえな。じゃ、そこ座んな」先のとがった刺身包丁で奥のテーブル席を指した。半袖シャツの髭面が向かいの席に座れと手招きする。男の斜め前にはスナックママ風の派手な顔立ちの女が座っている。三十半ばぐらいだろうか。郷原はなんとも居心地悪いが、仕方なくスナックママの横に座る。厨房の向かいがカウンター、真ん中に大きな丸テーブル、奥に四人掛けのテーブルが四つあるこぢんまりした食堂だ。厨房ではねじり鉢巻きの大将と割烹着の女将が刺身の盛り付けをしている。
「兄さん役所の人か、それ脱いでそこ掛けな」長さんと言われた髭面が白装束をみて言った。
「この店のルールなの」スナックママが壁際を指さすと、黒装束がコートのように掛けてある。
「田(でん)ちゃんがな、ここ来るときぐらい修行のこと忘れてくつろいでほしい言ってな」
そう言うことか……。
あらためて店内を見渡した。みんな黒装束を脱いで、てんでに飲んだり食ったりしている。大将と長さんのやり取りに一瞬凍りついた店内も、何事もなかったかのように賑わいを取り戻し、大テーブルでは若者グループが、丸ちゃんが相手監督に見事な回し蹴りを食らわせた場面を再現し盛り上がっていた。
「兄さん、気を取り直して一杯」郷原に徳利を傾けた。
「さっきはごめんな。あの頑固おやじ、田中だから田(でん)ちゃんって言うんだけど……」
一口飲んで驚いた。日本酒だ。しかもものすごく旨い。ここでも丸ちゃんや昨日養父と行ったすすきののように米から発酵させて日本酒を作っているのだろうか。でも出来栄えがまるで違う。
「ワシら三十年前にここに来たんじゃが、現世のころからこの店の常連でな、死んだときは七十五歳さ。顔がいかりや長介(ちょうすけ)に似とるから長(ちょう)さんって呼ばれとるんよ。現世にいるときは漁師やっとった。あ、こっちでも修行のあいまに漁師やっとるけどな。兄さん、このウニ食ってみ、今が旬だぞ」棘の付いた大きなウニを慣れた手つきで二つに割った。とれたてのウニは棘が動いている。見まねでオレンジ色のウニを中指ですくって口に入れてみた。海水がちょうどいい塩梅(あんばい)で混じり合い絶妙の旨さだ。
「今日は珍しくイカがかかったんだ。こっちの醤油につけて食ってみい、そうめんみてえにごっそり食ってみ」
透き通るような透明のイカを贅沢に口に入れてみた。コリコリした歯ごたえがある。現世でもこんな旨いイカは食ったことがない。
「醤油はどうしたんですか?」
「もちろん手作りさ。女将が大豆と小麦、それと塩使ってこしらえとるんよ」長さんがお猪口を飲み干しながら話を続ける。「そんでこいつが田中屋の隣でスナックやっとる明美。ワシとは内縁関係じゃ」
「あら、いつ内縁になったのよ。七十五歳のジジイだったくせによく言うわ」カレイの煮つけを二人に器用に取り分ける。
「あんただって今でこそ若くなったが、ここ来たときは六十五歳のババアだったろうが」
「あなただって今でこそ毛があるけど、ここ来たときはつるっぱげでしょ」
「それ言うなら、あんただって今でこそピチピチしておるが、ここ来たときは、しわくちゃの乳したバーサンだったろーが」二人は下ネタを応酬する。三十年も毎日ここで飲んでいるお決まりのやり取りだろうか。
「そう言えばさっき大将が、おくしり限定って言ってましたけど、ここは奥尻島ですか?」郷原は下ネタから話題を変えた。
「あら兄さん、いまごろ気づいたの? なべつる岩見なかった?」
「見ました。見た瞬間、なべつる岩ってわかりましたが、奥尻島とは結びつきませんでした。いちども来たことがなかったので」
「ほんとに来たことないの? なべつる岩なんて奥尻の人以外、知らない名前だと思うけど」
「今回、奥尻が被災から三十年たった記念行事でアマテラス様が優勝決定戦を開催してくれたんだ」
奥尻が被災……。被災地で試合を行い地元の修行者を元気づけることも野球チームの重要な役割だと聞いていた。それで奥尻島で試合が開催されたのだ。
「ワシら三十年前の大地震でそろってここさ来たわけよ」
「ここって……」
「見りゃあわかるだろうよ、天国だべ。みんなあの日、天国ロードを一緒に昇って来たんだよ」
「あの日?」
「あんちゃん知らんのけ、奥尻島の大地震じゃよ」
長さんの話をまとめると、西暦一九九三年七月十二日、夜の十時過ぎに発生した「北海道南西沖地震」は、島民二百人の命をたった一晩で葬り去った。つまりここは、同じ日に同じ場所から天国ロードを昇った魂が、集団で修業している場所なのだ。臨時のプラットフォームが突貫工事で準備され、役場やホスピタル、クリームハウスなどは、札幌地区のS556が管轄しているということだ。
「それで、おくしり限定って言ったんですね」
「田ちゃんは奥尻で食堂やっとってな。そんでこっち来ても公務員さなって、同じ『田中屋』の屋号で食堂やっとるんだ。こっち来ちまった連中に、せめて現世と同じもん食わせたい言うてな。みんな、そんなことせんでええって言ったんだけど、責任取らせてくれって言い張って。夫婦二人で食堂やっとんのよ」
「責任取るって言ったって、地震なんて予測できないし誰のせいでもないでしょう」
「ワシらもみんなそう言うとるんじゃがなぁ……」ここから先は飲まずには語れないといったようすで手元のお猪口を飲み干し茶碗に変えた。
「一人息子の誕生日だったんだ。確か六歳だったかな。それで、近所の常連や島の仲間、三十人ぐらい招待して大宴会をやったんよ。そうそう、ちょうど今日みたいな感じでな。地震が発生したのが夜の十時過ぎで、いつもは九時で店閉めとったんだけど、その日に限って引き留めたのよ。田ちゃんもえらいご機嫌でな。そんでこの食堂も海岸線に建っとったもんだから、いっきに津波に飲み込まれてみんなでここさ来ちまったってわけよ。ほら、向こうの大テーブルの連中も、ここ来たときは五十歳ぐらいのオッサンで常連だったのよ」
「導入研修の最後の日にね、――ワシがみんなを引き留めたから、こんなことになっちまった――って、夫婦二人で土下座して泣き続けるのよ」明美がハンカチで目頭をおさえている。
テーブルの横壁に小さな額縁があるのが目に入る。手作りの額縁の中に、しわくちゃの写真が入っている。
「これって、写真ですか?」
天国にカメラなんていう文明の利器はないはずだ。
「良く撮れてるべ。ワシが撮ったんだ。息子の一歳の誕生日だ」
目を凝らして見ると、大将と赤ん坊を抱いた女将さんが二階建ての建物をバックに写っている。入口の暖簾に「田中屋」と書かれているのが何となく読み取れた。ここの食堂の暖簾と同じ柄だ。遠くの海岸線にドーナツ型のなべつる岩がちょこんと佇んでいる。
「これって現世の写真ですか?」
「不思議だべ。普通、死んじまったら現世のものは持ってこれないべ。なしてか知らんが、こいつだけはここさ昇って来たんだよ」
「田ちゃん海に投げ出されたとき、この写真だけとっさに取って、お守りみたいに胸の上から握り締めていたんだって」
「んだ。こいつは田ちゃんの魂と一緒に、天国ロードを昇って来たんだよ」長さんが壁から額を外して、写真の右下を見せた。
『一九八八年七月十二日、剛志一歳の誕生日、田中屋前で』
剛志!
郷原の下の名と同じ剛志の二文字、田中屋……。
全身の毛穴から汗が吹き出した。
戸籍謄本で見た自分の名前、『田中剛志』と重った。頭の奥底に無理やり閉じ込め、蓋をしていた記憶がじわじわ漏れ出した。
決して開けてはならないパンドラの箱を開けてしまったような……。
「この写真に写っているのは誰ですか?」なんとか平静を装い聞いてみた。
「田中さん夫婦や。厨房にいる二人だよ」
「いや、女将さんが抱いている赤ん坊です」
「ああ、これは剛志、ター坊よ」
ター坊……。
身体に雷が落ちたような衝撃が走る。
「でも、ター坊はここに来てないからきっと現世のどこかで生きてるのよ。でもその話をすると田ちゃん怒るから……」
「捜してやりたいんじゃがなぁ……、兄さんも知ってるじゃろ? 『アマチャン・アマチャン・なんとかかん』とかいうやつ。ワシらみんな田舎もんだけん、新しいこと覚えるのがゆるくなくてな。白装束の人さ頼んで代わりに操作してもらおうかと思ったんじゃが、田ちゃん、余計なことせんでくれってすごい剣幕で怒るのよ」
「私もね、ター坊がここにいないってことは、きっと奥尻で元気にしてるのよって、励ますつもりで言ったんだけど認めようとしないのよ。どこか遠くに流されて別のロードから天国行ったんだって聞かないの。みんな死んじゃったのに、息子だけ生きてたら示しがつかないって思っているのよ。それ以来、このはなしは禁句なのよね」
二人の話を聞きながら途切れていた幼少の記憶が次々と湧き出てきた。小さな子供は、戦争や震災などあまりにも恐ろしい体験をすると、本能的に記憶を閉じ込めることがあるという。生きるための防衛本能が働いて、悲惨な記憶が出てこないよう大脳皮質にロックを掛けるのだ。でもそのロックは何かをきっかけに外れることもある。
そうだよ!
なべつる岩は、オレが子供んときいつも遊んでいた場所だよ。あそこから海にもぐってウニやアワビ採ってきたら、父ちゃんいつも褒めてくれたんだ。
そうだ、そうだよ!
オレはあの日、大津波に飲み込まれ、海に放り込まれたんだ。父ちゃんが血相変えて溺れている人たちを助けていた。自分のことは構わず必死に助けていた。流木を見つけては周りの人にあてがっていた。パンドラの箱から次々と記憶の波が溢れ出る。
「長さん、これにつかまれ! 大丈夫か?」父ちゃんの叫び声がはっきり甦る。
思い出したよ!
ここにいる長さんは、いつも食堂でオレを膝の上にのっけて、昼間っから酔っぱらってた漁師のおっちゃんじゃないか。
あの日、海に投げ出されたオレは必死で母ちゃんの割烹着にしがみついていた。漁船が海岸線の鉄筋にぶつかって粉々になるのが見えた。救助用の船の浮き輪が一つ流れてきた。母ちゃんがそれを手に取り頭からかぶせてくれた。大人用でぶかぶかだったが、外れないようにロープで何重にも身体に固く縛りつけてくれたんだ。
「母ちゃんが着けてよ。ぼくが母ちゃんにつかまるから」
「大丈夫、母ちゃん泳げるから。絶対放しちゃダメよ!」
母ちゃんの目が見たこともないぐらい吊り上がっていた。手がかじかんで震えていた。寒さのせいか恐怖のせいかわからなかった。浮き輪を被ったまま、母ちゃんの手を握り締めていた。
「怖いよ~」
「泣くんじゃない。男の子でしょ」
母ちゃんと交わした最後の言葉だった。次の瞬間、なべつる岩を飲み込む大波が押し寄せ母ちゃんの手が離れていった。父ちゃんや流木につかまっていた人たちも一(ひと)塊(かたまり)になって波の中に消えていった。
翌日、身体にウキを縛り付けられた状態で漁船に助けられていた。
「あと数時間遅かったら間違いなく死んでたな」
助けてもらった船長の言葉だった……。
「オレ、母ちゃんのおかげで助かったんだ。あんとき、浮き輪のロープ、固く縛り付けてくれたおかげで……」写真を見ながら声が出た。
「え……?」
「あんた……、もしかして……」
「待って! 目元がそっくりよ」
明美の言葉を聞いた長さんが、血相変えて郷原の背中のシャツをまくり上げた。
「やっぱしじゃ、間違いねえ、このあざじゃ。ワシはおまえさんを子供のころから風呂に入れとったんじゃ!」こめかみに血管が浮き出た長さんが立ち上がる。「田ちゃん。ター坊だ! ター坊だ! ター坊が帰(けえ)ってきた。心配かけよってこのクソたれボーズめがぁぁぁ‥‥」
賑やかだった食堂が水を打ったように静まり返る。窓から潮の香りのする風が波の音と共に心地よく流れてきた。涙を浮かべた女将が厨房から飛び出そうとするのを大将が腕を掴んで制止した。
「そいつは、剛志じゃねえ」予想だにしない言葉に驚いた。
「田ちゃん、そりゃあねえだろう! この子は間違いなくター坊だ。こっちさきて背中のあざば見てくれよ」
「まえも言ったろ。剛志はあの日、ワシらと一緒に死んだんじゃ! どこか遠くに流され別のロードで天国行ったんだ。この話はもうせんでくれ」大将が刺身包丁をまな板に突き刺した。傍らで女将が顔を覆って泣いていた。
「あんまりだわ。みんな死んじゃったのに、息子だけ生きてたら示しがつかないってわからなくもないけど……。でも、そんなこと、ここのだれも思っちゃいないわよ」
「剛志はあの日死んだんじゃ。死んだらこんなに大きくなっとるわけがねえ。万一、剛志だとしても、いまごろどの面下げてあらわれるんじゃ。あんた、さっさと出てってくれ」大将は郷原に向かって出口を指さした。
郷原は店を飛び出した。
「あの子が不憫じゃよ! そんなつまらん意地、いつまで張りよるかあー」
長さんの怒鳴り声を背中で聞いた。郷原は構わず駆け出した。思いっきり駆け出した。店に入ったことを後悔した。
オレは拒絶された。実の親に拒絶されたんだ。悲しいというより悔しかった。
あんな奴、二度と会うもんか! 親なんかいらねえ、元々いなかったんだ。
自分に言い聞かせた。
かすかに食堂の引き戸が開く音。遠いむかし、耳にしたような女の声を背中に聞いた。長さんが何か叫んでいるがよくわからない。
ふと、我に返る。白装束を忘れてきた!
構うもんか、あんなもん何とかなる。郷原は全速力で走り続けた。両目から涙が溢れ、奥尻の夜風に飛び散った。
それから二年後、郷原は武ちゃんと丸ちゃんが結婚したことを天国日報で知った。アマテラス様が福利厚生の一環として天国憲章を改正し、公務員同士の結婚を許したのだ。かねてからこっそり交際していた二人はめでたく結婚したようだ。
郷原のもとに招待状が届いた。式場は「天国会館T302、三階・天空の間」白の鳥居の横にある時計台の建物だ。発起人「ツネゴンズ一同」とある。
会場に赴くとツネゴンズの選手が総出で受付や会場設営をやっていた。みんな角刈りのユニフォーム姿できびきび動いている。まるでどこかの組の若頭と姐さんの結婚式の様相だ。
久しぶりに吉田と再会した。天国に来てから五年が過ぎ、二十二歳になった吉田は新入社員のときよりさらに童顔になっていた。いっしょの研修メンバーだった元キャバ嬢のヒトミを紹介された。二人とも順調に修業を続けているようで、魂も年相応にきれいになっている。
主役の武ちゃん、丸ちゃんは入口に仲良くならび、満面の笑みでみんなを迎えていた。
津田さんが仲人になり、野村監督のボヤキ節の乾杯で式がスタートした。衣笠監督の味のあるスピーチに続き、星野監督が、二年前の奥尻島での優勝決定戦、丸ちゃんから回し蹴りを食らった逸話を面白おかしく披露し爆笑の渦が広がった。続いて丸ちゃんから近況報告があった。今後指導教官は郷原に引き継いで、自分はツネゴンズのマネージャーに専念すると言っている。当の郷原には何の相談もなかったが、自分を信頼してくれた証として嬉しかった。
ツネゴンズのメンバーも二十名に増え、今年のペナントレースはボヤキーズと首位争いをしている。津田監督は合宿所を自分の手で増築し、丸ちゃんがメンバーの食事、洗濯などフル回転で世話をしているということだ。
「丸の内のOLとは正反対だけど、生き生きしてるよな」
郷原はいまの丸ちゃんが一番輝いているように見えた。
先日天国日報の一面に、野球チーム以外にサッカーチームができると掲載されていた。さらに、芸術家や映画監督なども天国の新しい公務として認めていく予定だとも書かれていた。モノクロの天国も少しずつ彩(いろどり)が加えられていくようだ。
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