第二章:地獄から天国へ

   一


郷原は天国ロードのすぐ横を、まっさかさまに落ちて行く。鳥居の前でストロー隊に抱えられた吉田の姿が脳裏に残る。死神と交換したローブの使い方がわからず、スピードの調節ができない。スカイダイビングのように風を受けながら、息つく間もなく落ちていく。プラットフォームを通過した。新幹線の窓から見える景色のようだ。職人風の白装束が驚いているのがわかる。少し前に天国に行ったはずの魂が、死神姿になって落ちてくるなんて見たことがないのだろう。周りの色が赤から朱、茶色へと変化した。長いトンネルに入り、現世では経験したことがない熱さと風圧で目を開けていられなくなる。全身が怠くなり、次第に眠くなり意識が薄らいだ……。


全身を強く叩きつけられた。

ここはどこだ? 

周りの山々が噴火し硫黄の匂いが充満する。熱風で汗が噴き出し、まっかな溶岩が足元を流れやけどしそうになる。どろどろの溶岩が流れる対岸に、汚れたふんどしの赤鬼、青鬼が手持ちぶさたに棍棒を振り回している。

「てめえ~ 何者じゃあ~」郷原の二倍はありそうな赤鬼が、まっかに流れる溶岩に、何の躊躇もなく素足で踏み込んた。

「貴様あ~ 新入りのくせに死神みてえな格好しやがって、魂もついてねえじゃねえかぁ~」トゲトゲの棍棒を背負った青鬼が唾を飛ばしてくる。

「ふざけたヤローだあ~、魂をどこに置いてきやがったあ~」

鬼というのは何でいちいち叫ぶのか。それとも地声がでかいのか。思わず耳を塞いでいた。

「魂がないんじゃ墓場に連れて行ってもしゃあねえな」青鬼がピンポン玉ぐらいの鼻くそをほじくり出している。

「なに言ってんじゃあ~ ここでは墓場に行ってから閻魔様に挨拶に行くのがしきたりじゃ~」眉間に青筋立てた赤鬼が青鬼の尻を蹴飛ばした。鬼にも序列があるようだ。

「めんどくせえなあ、魂もないくせに……」舌打ちした青鬼がぶつくさ言っている。鬼も小声が出るようだ。

青鬼が郷原を罪人のように後ろ手に縛りあげて歩き出す。周りはただでさえ熱いのに、さらに熱さを増していく。正面の山が心臓の鼓動のように噴火を繰り返す。そのたびに溶岩が血液のように押し出され、麓で毛細血管のように広がっている。川べりの土手があちこち崩れ、腰の曲がった老人や、体力のなさそうな女、子供らが、鬼どもに棍棒で打たれながら補修作業をしている。いくら直しても別の場所が決壊してきりがない。無限ループのように同じ作業を繰り返す。

「あいつらは地獄に落ちたのに死神にもなれねえクズどもだ。くたばるまでここで働いて、最後は釜茹でにされて鬼の餌になるんだよ」

山の麓にプレハブの建物が見えてきた。煙突から吐き出る黒煙が、脳みそが溶けてしまいそうな悪臭だ。両目がつぶれそうに痛み出す。

「あそこが地獄の墓場だ。新入りの魂や、使いものにならなくなったクズを釜茹でにして資源にする場所だ」

資源? 

何のことだかわからない。それより、青鬼がこの悪臭に平気でいられるのが不思議でならない。

「あそこに並んでいるのは今日地獄に落ちたばかりの新入りさ。貴様もここに並ぶはずだったのにな」

見ると建物の入口から頭を垂れた輩が列をなしている。

突然建物のドアが開き白髪を振り乱した老婆があらわれた。

「奪(だつ)衣(い)婆(ば)だ。大王様が三途の川から連れてきた。機嫌を損ねると面倒だから気をつけろ」そう言って青鬼がもみ手ですり寄ると「これはこれは奪衣婆さま、こいつは今日入った新入りですが、バカな野郎でどっかに魂を落としてきたようで……」

「魂を落とした? とんまな奴め、代わりに目ん玉くり抜くから、そこさ並んどけ」

「このところイキのいい死神が不足しておりまして……。今日のところはご勘弁を……」青鬼が腰をかがめて猫なで声を出す。はじめて奪衣婆と目が合った。老婆でありながら俊敏な獣のような気配を発散させている。

「おまえは人間と死神との違いを知りおるか?」狼のような目玉に睨まれた。「魂を持っているかいないかじゃ。これは死神になるための儀式、目ん玉くり抜かれる前に見とくんじゃ」

腰が砕けて動けない。青鬼に縄を引っ張られ、震えながら立ち上がる。老婆が先頭の男の衣服を剥ぎ取った。女のような悲鳴を上げる男をハリ手一発で気絶させ、すっ裸になった両足を鶏のように片手で持ち上げ、内臓をえぐり取るようにして魂をもぎ取った。つかみ出された魂がベルトコンベアみたいなところを転がると、煮えたぎる大釜にしぶきをあげ落ちていく。

「新入りはああやって魂を抜かれてめでたく死神さ。使い物にならなくなったクズは生きたままここに放り込まれるのさ」

奪衣婆が次の男の衣服を剥ぎ取った。ドブ色の釜は、肉の塊(かたまり)に混じり、頭蓋骨や魂がゆで卵のように浮き沈みしている。とんでもない悪臭はこれが原因だった。

釜の周りには、熱さで顔が溶けたのっぺらぼうが機械のように釜を混ぜている。あばらが浮き出るぐらいに痩せこけているのに、腕だけがポパイのように太くなっている。

「奴らはああして百年以上も釜を混ぜている。もとは死神だったのにあのざまよ。バカな連中で、鼻が利かなくなって良かったとか言っている」

ひたすら釜を混ぜるのっぺらぼうは、何も見えない。音も聞こえない。匂いも熱さも感じない。人間の五感が全てマヒしてしまったということか。

「貴様もああなりたくなかったら真面目に閻魔様にお仕えするんだな」

建物の外に出ると突き出たベルトコンベアから、油っぽいアスファルトのような瓦礫が流れ落ち屑山になっている。

「これは死神の骨と魂の残り滓だ。溶け切っていないところは骨の髄液がちょうどいいスパイスになって旨いんだ」青鬼が屑山からスペアリブのような骨を取り出しむしゃぶりつく。郷原は気持ち悪くなって吐きそうになる。

屑山に一輪車にスコップを載せたのっぺらぼうが蟻のように列をなしている。「道路や土手の補修に使うんだ。できたての屑山はちょうどいい粘り気があるからよく固まるのさ。貴様も最後は地獄の土手か鬼の餌になるんだな」

とんでもないところだと気づいたときは遅かった。部下の多少の失敗は代わりに受けてきた郷原も想像を絶する場所だった。

「もともと地獄は鬼だけの住処で、ときどき地獄に落ちてくる人間を奪い合う無法地帯だったんだ。それを大王様が変えてくれた。大王様がろくでもない人間を死神にして、ここに落とす仕組みを作ってくれたんだ。そのおかげで俺達は、こうして平和で秩序ある暮らしができるようになったんだ」

これのどこが平和で秩序ある暮らしなんだ! 

腑抜けのようになった郷原は、青鬼に引っ張られ、奪衣婆に見つからないように引き返す。


地獄の入口にもどると、寝っ転がった赤鬼がふんどしから子供の落書きのような紙切れを取り出した。

「ここが閻魔堂じゃあ~~。突っ立ってないで、とっとと大王様に挨拶に行ってこんかあ~」棍棒を振り回す赤鬼から逃げるように飛び出すと、分かりにくい地図を見ながら閻魔堂にたどり着く。まっかな地獄の中で、そこの一画だけオアシスのように整備されている。庭に入ると、身なりの整った職人風の鬼どもがキビキビと庭木の剪定をしたり、池の鯉に餌をやっている。

入口の階段に子供の赤鬼が足を広げてしゃがんでいる。子供といっても郷原と同じぐらいの身長だ。子鬼はかつあげをするヤンキーのような白眼で、郷原のつま先から頭の先まで顎を上下させながら舐め回し、ちゃらちゃらともったいぶって鍵を取り出した。中に入ると四方の壁、天井、床の全てが地獄絵だ。正面の床の間に、赤鬼を更に三回りぐらい膨らませた大男が置き物のように鎮座し、両脇にヒョウ柄ビキニのメス鬼が、競い合うように上目遣いで身体をくねらせる。

「貴様が新しい死神かあ~」突然十頭のライオンが同時に吠え出したかのような声がした。「貴様の仕事は一人でも多くの輩を地獄へ叩き落とすことじゃあ~」閻魔がしゃべるたびに両端の松明(たいまつ)が応援団のドラ太鼓のように音を上げて爆発する。

「現世じゃパワハラ課長としてならしたそうじゃな」手元の巻物に書かれた記録を読んでいる。これが閻魔帳というものか……。

「生意気にも天国如きに行こうとしたようじゃが、貴様にはまっかな地獄の方がお似合いじゃあ~ 今日から死神として腐った魂を地獄に引きずり落とすのじゃあ~」

足元を見ると新しいローブと大鎌が置いてある。

「近頃、地獄に落ちる輩はすっかり様変わりじゃ。ひとむかし前は一目見てそれと分かったが、最近は、何食わぬ面(つら)して腹ん中でドス黒いことを考えている奴ばかりじゃ。真面目づらした輩が振込詐欺の元締めやったり、優等生がいじめの主犯だったりする」一刻も早くここから立ち去りたい郷原は、閻魔の話など頭に入らない。「外見で判断しちゃいかん。魂を見るんじゃ。近づいただけで鼻をつまみたくなるような魂なら放っておいても落ちてくる。狙い目は矢の刺さった魂、自殺した奴じゃ。矢が刺さった魂を見つけたら、天国ロードでそそのかし、台風が来るとか、雷が落ちたら大変だとか言って不安を煽るんじゃ。入口手前でローブをばたつかせ、風を送って体勢を崩すのじゃ。矢が刺さった魂はバランスを崩しやすいからいちばんの狙い目だ。その新しいローブは、今までの三倍の大きさで、十倍の風を起こすことができる。狙い目の魂が来たら襟元のボタンで合図を送るんじゃ。ワシは得意の雷を発生させる」閻魔が背中を揺らして太鼓をガラガラ鳴らすと、はるか彼方の上空で雷がゴロゴロ鳴り出した。吉田に落ちた雷はこういう仕組みで発生させていたのか。閻魔と死神の連携プレーにまんまとハメられたっていうわけか。


郷原は慣れないローブをばたつかせ、ひたすら上に向かって飛んでいた。死神の罠にハメられたと思うと情けない。地獄の墓場の匂いがこびりついて離れない。身体じゅうの毛穴から悪臭が染み込み、頭の先から足の指まで広がってしまった感覚だ。

郷原は目的もなく天国ロードの周りを漂った。こうしてみると魂にもいろいろある。魂は言ってみれば現世の卒業証書のようなものだ。その人間の生きざまを反映したもので、大きさも、色も、輝きもさまざまだ。どれ一つとして同じものはない。よく見ると吉田のように矢が刺さったものもある。矢が刺さった魂を見るたび吉田を思い出す。自殺した魂を地獄に落とすなどできやしない。閻魔の話などすっかり忘れ、いけ好かない矢を見つけては片っ端から叩き切る。

現世にいたころの郷原は、苦しいことがあればあるほど仕事に打ち込んだ。夢中で仕事をしていくうちに、状況が好転することがあるからだ。こういうときこそちゃんとやる。ちゃんとやって解決策を見つけるんだ。心の中で言い聞かせ、脳にこびりついたのっぺらぼうの残像を打ち消した。

郷原は天国ロードを昇るひとりひとりに声を掛け、アドバイスをして励ました。台風で強風が巻き起こると、ローブを広げて雨風があたらぬように防御した。直射日光が強い炎天下のときは日傘の代わりになった。ドス黒くて重そうな魂が来たときは、下から風を送って天国ロードを昇って行けるように後押しした。それでも昇って行かないヤクザの親分の魂が来たときは、魂を引っ張り出して、こびり付いた汚物をリンゴの皮をむくように鎌で取り除き、軽くしてやった。感激した親分に「あんたの舎弟にしてくれ」と、天国ロードを昇りながら何度も懇願された。

夢中でやっているうちに身体に染みついた地獄の墓場の悪臭や、のっぺらぼうの残像が少しずつ消えて行く。郷原の管轄する天国ロードを昇る人たちは、みんな死神に感謝した。お礼を言って鳥居をくぐって行った。プラットフォームの白装束やストロー隊も死神姿の郷原を見かけると、丁重に頭を下げた。郷原の地区だけ死神の印象がすっかり変わっていた。郷原は死神のやり方を見つけていた。ちゃんとやるやり方を見つけたのだ。


郷原は夜半過ぎの二時ぴったりに、新宿(しんじゅく)御苑(ぎょえん)の玉(たま)藻(も)池(いけ)で体をきれいにするのが日課になった。夜の喧騒が落ち着く夜中の二時は、死神にとってホッとできる時間だ。元々きれい好きで、どんなに酔っぱらって帰っても、必ずシャワーを浴びてから寝る習慣は、死神になってからも変わらない。都心の真ん中にある新宿御苑は夜になると人気はなく、高い入場料を取るせいか、イロハモミジ、サクラ、イチョウ、ケヤキなどの木々が季節ごとに整備され、鳥たちがあちこちに巣を作る。玉藻池のほとりでローブを脱ぎ、ゆっくりと池に浸かりながら夜空を見上げるのが至福の時間(とき)だった。

そんな折、――死神が天国行きを応援している――。聞き捨てならぬ噂が閻魔大王の耳に入る。閻魔が郷原を呼び出した。

「貴様あ~ 死神の仕事をなめとんのかあ~」ものすごい剣幕で怒鳴り散らすと両側のたいまつが大爆発を起こし、それに呼応した周りの山々が次々と噴火した。まっかな溶岩が血液のように流れ出し閻魔堂の周りを取り囲む。「貴様の管轄から一人も地獄に落ちてこんではないかあ~ 使い物にならん死神は、釜茹でにして鬼の餌にするのが仕来たりじゃ~」

 閻魔は郷原の背中を軽々と摘まみ上げた。

「一週間だけ待ってやる。今から一週間以内に十人を地獄に落とすんじゃあ~ できなかったら貴様は釜茹でじゃあ~」



     二


郷原は玉藻池のほとりで頭を抱えていた。ここがいちばん落ち着いた。

とりあえず水浴びだ。頭を冷やして考えよう。

黒装束を脱いで銀杏の枝にひっかけて、根元に大釜を立てかけた。適当な大きさのふきの葉を探してタオル代わりに前を隠す。見えないと分かっていても、公共の場で素っ裸になるのは抵抗がある。

――ちゃんとやる、ちゃんとやる、ちゃんとやればちゃんとなる――

独り言のようにそう言って、池の底で胡坐をかいて瞑想する。死神になると何分でも潜っていられるようだ。現世にいたとき公園のベンチで酒を飲みながら自問していたようにあれこれ考えるが、なんのアイディアも浮かんでこない。だんだん苦しくなってきた。やはり死神でも限度はあるのだろう。こらえきれなくなって水面に飛び出し池を出た。

おかしいな。枝にかけたはずのローブが見あたらない。

風に飛ばされたのか?  

木の陰に人の気配がする。

「おまえは!」

ローブを羽織って大鎌を手にした吉田が立っている。

「どうしてここにいる。天国に行ったんじゃなかったのか? それにオレのローブを勝手に着やがって、なんの真似だよ」

「黙って!」

瞼に涙をためた吉田が、自分の魂を取り出し郷原の胸に押し込んだ。

「何だよ。これ、おまえの魂だろ!」

「何も聞かないで」早口でよくわからない呪文のような言葉を唱えだす。

「え? なんだって」

「アマチャン・アマチャン・モドテラス」周りの景色が薄くなりだした。

「おい、どういうことだ?」

「ぼくはちゃんとやりたいんです」

「だから、何のことだよ」

「アマチャン・アマチャン・モドテラス」三回目の呪文で吉田の姿が霞のように薄くなる。

「ぼくがやり残したこと、やらなくてはならないことをやらせてください。これまでのご恩、決して忘れません」

吉田が頭を下げたまま現世が消えていく。

「やめろ! 吉田あぁぁぁ……」 



     三


まっしろな部屋のベッドで目が覚めた。

ここはどこだ?

妙に周りが白っぽい。

どれくらい時間が経ったのだろう。事故にあってしばらく眠り続けていたような感覚だ。

状況を少しづつ思い出す。

吉田が出てきた!

奴はオレに何をやったんだ? 

ベッドから起き上がると身体が妙に軽かった。突然ドアがノックされ、黒装束の男があらわれた。カスミ草と小脇に本を抱えている。

振り返った顔を見て驚いた。

「死神!」

忘れもしない。あの日天国の入口で魂を渡した男が目の前にあらわれた。

「ヒィー、ダ、ダ、旦那! どうしてここにー」

「こっちが聞きたいわい。やい、死神。おまえオレの代わりに天国に行ってたんじゃねえのかよ」

「まあその節は、色々お世話になりまして……」

「なんだよ、死神の分際でカスミ草に黒服かよ。それに聖書なんか持ちやがって、テメーいつから牧師になったんだ? それにしてもここはどこなんだ?」

あの日魂を受け取ると、一目散に鳥居をくぐって行った狡猾な死神とは似ても似つかぬ姿に混乱する。

「見ての通り天国ですよ」

「天国だと! そんなわけない。オレはさっきまで玉藻池で水浴びしてたんだ。そこに吉田があらわれて、気がついたらここにいるんだよ」ベッドの横を見ると死神が持っているのと色違いの聖書と腕時計がおいてある。

「もしかして……」死神の表情が変わった。死神は自分の魂を、と言っても、もとは郷原の魂を胸から取り出し聖書の上に載せた。

「おいおい、何はじめんだよ」

「アマチャン・アマチャン・アマテラス」

郷原の問いかけを無視しながら呟きだした。魂に両手をかざして上下左右に動かした。

「テメーいつから占い師になったんだ。オレは死神の占いなんか信じんぞ」

死神は長い爪で魂を覆うと怪しげな呪文を繰り返す。何かが浮かんできた。魂に浮かぶ場面を見ながら、さらに両手を上下左右に動かした。突然、死神姿の吉田があらわれた。

「おお、吉田! おまえ、そんなところで何やってんだ」

「やっぱり。吉田はん、旦那の代わりに死神になったんですわ」

「何だって!」

「吉田はん、旦那に自分の魂をあずけて、何か言ってませんでしたか?」

「言ってたよ。さっきのアマチャン・アマチャン・ナントカカンとかいうやつ」

「やっぱり。旦那を天国に連れてくるために、代わりに死神になったんですよ」

「どういうことだ?」

「きっとこうやって、魂に現世を映して見てたんです。そこに旦那が映ったものだから、あわてて呪文を唱えて現世に行ったんですよ」

「そんなことができるのか?」

「ベッドの横を見てください。天国時計がおきっぱなしです」

「天国時計? このおっさんの腕時計みたいなものか?」

「現世に行くとき、必ず持って行かないといけないものです。それさえ忘れて慌てて呪文を唱える姿が目に浮かびます」

「じゃあ、本当にここが天国なのか?」

似合わない死神姿の吉田が閻魔大王に呼び出されている。自分に課されたノルマがそのまま吉田のノルマになっている。

「これはオレのノルマだ。奴には無理だ。会社のノルマだって一度も達成したことがないんだぞ。あんなんじゃ閻魔の野郎に釜茹でにされちまう」地獄の恐ろしさなんかどこかに吹っ飛んだ。課長としての本能が働いた。

「いますぐオレをもどしてくれ」

「もどせといわれても。そんな簡単なもんじゃありまへん。吉田はんを連れもどすには魂が必要です」

「この魂を吉田に返すんだ」

「そんなことをしたら、旦那がもどれなくなってしまいます」

「そんなことは百も承知だ。アーアーアー、とても見てられん。オイ、死神。さっさとオレをあっちへもどしてくれ。いいか、オレの魂はとっくに貴様にくれてやったんだ。こっちの魂は吉田のものだ。吉田に返すのが筋だろ」

「どうか落ちついてくだせえ。ここはホスピタルっていうところで、吉田はんが入院しとったところです」

「吉田が入院? あいつ、病気にでもなったんか」

「まあちょっと……、色々あったんです」

「色々ってなんだよ、はっきり説明しろよ。さっきからじれったいな」歯切れが悪い死神を後ろから羽交い絞めにした。

「ダ、旦那……、これ以上大きな声を出せば通報されてしまいます。場所を変えましょう」

「どこに行くんだよ」

「儂の部屋に行きましょう。横の天国時計とヒストリーをお持ちください」

「おまえの部屋? 天国でも部屋が借りられるのか」要領がよくわからない郷原は、ベッド脇の腕時計と聖書のような本を手に取った。

外に出ると田舎に来たような景色が広がっている。

「本当にここが天国なのか?」

死神は何も答えず歩いていく。空には太陽があり雲がある。心地よい風が頬を撫で地面には花が咲く。ただ、原色系の色がなく全体が薄っすらとしたパステル調の色彩だ。何もない田舎のあぜ道のようなところを歩いていくと、この景色に不釣り合いな建物が見えてきた。寂れた団地のような建物が並んでいる。

「あれがおまえのアパートか?」

「修行棟です」

死神の部屋に案内され卓袱台に向かい合う。

「ちょっと狭いなあ」

三畳一間に卓袱台と布団一式があるだけだ。

「これはヒストリーと言って現世の記録が書かれた日記帳のようなものです」

「そんなものがあるのかよ。てっきり聖書かと思ったよ」

「こうやって魂を裏側のくぼみに載せて、さっきの呪文を唱えると、現世のようすが映ります。天国に来て最初の研修で教わりました」

「すげーな。オレにもできるんか?」

「旦那の魂を吉田はんのヒストリーに載せるとできるはずです。あとでやってみましょう。でもその前に、ちょいと旦那に見てもらいたいものがございます」死神は慣れた手つきで両手を上下左右に動かしていく。微妙な動きで場面が変わり、死神になった吉田が自宅に入る場面で手を止めた。初めて目にした息子をぎこちなく抱き上げ、子供のような笑顔の吉田が映っていた。郷原の無実が書かれた日記帳のありかを教えるため、百科事典を動かす吉田があらわれた。母と妻が支店長に証拠の日記帳を持っていくが、相手にされず悔しがる吉田がいた。水野と森山の家に幽霊の真似をしてあらわれ、会社に証拠の日記があることを伝え、真実を話せと脅かす吉田が次々とあらわれては消えていく。

まさに吉田。これこそ吉田。吉田、吉田、全部吉田だよ! 

不器用だけど、奴が奴なりに一生懸命やっている。郷原に科された誤解を解くために動き回る吉田がいじらしかった。玉藻池から消える瞬間の吉田の言葉――ぼくがやり残したこと、やらなくてはいけないことを、やらせてください――

おまえがやり残したことってこれだったのか……。

死神は低く呪文を唱えながら骸骨のような細い指を操作し場面を変えていく。水野と森山があらわれた。二人が人事部長に支店長の圧力に負けてパワハラの証拠を出してしまったことを詫びている。死神がさらに魂を操作する。見慣れた会社のフロアーに、懐かしい東京支店のメンバーがそろっている。朝礼のようだ。人事部長が新しい支店長を紹介し、郷原課長にパワハラの事実は一切なく、吉田の自殺との因果関係もなかったこと。元支店長が提示したパワハラの証拠は彼の独断で捏造されていたこと。警察の捜査にも問題があり、会社として弁護士を立て、公正な裁判を行うことになったことを説明した。総務課のエリが鼻をすすりながら泣いている。いつも助けてくれたベテランの事務社員が真面目な顔で何度も肯いた。同期の横田の複雑な顔ある。

ありがとな……。

素直に礼が言いたかった。

でも、このままじゃ吉田がかわいそうだ!

「奴は一生、いや、永遠にあそこで死神なんだろ。そんなの無理だよ。あいつは抜けたところはあるけど、親思いの、妻思いの、上司思いの優しい奴なんだ。オレが死神になる。さっきの呪文を教えてくれ」死神の黒装束を破けんばかりに締め上げた。

「勘弁してくだせぇ。儂だって吉田はんを助けたいんです。その気持ちは旦那と変わりません」

「うるせえ、貴様にオレの気持ちがわかってたまるか。おまえに吉田の良さがわかるんか!」

「儂にとっちゃあ、生まれて初めてできた友達です」喉を締め上げられた死神からかすれ声が漏れてきた。

「友達だと、貴様と吉田が?」

「儂が旦那をそそのかして天国に入ったことを知った吉田はんが怒って、殴り合いの喧嘩をしたんです。ショックで立ち直れなくなった吉田はんは修行を続けることができなくなって、ホスピタルに入院したんです。儂はたまに見舞いに来ていたんですが……」

「そんなことがあったんか……」

「吉田はんを助けに行くのは儂の方です。もともと儂が旦那の魂を頂戴しちまったのが悪かったんです。儂のやったことは、旦那を騙したことと一緒だと吉田はんに叱られました」

「死神……」

「天国での修業はヒストリーを使って行います。ヒストリーには現世での記録が一日毎に順番に書かれています。毎日ヒストリーを開き、現世で起きた出来事を一日毎に遡っていくことがここでの修業のやり方です。旦那からいただいた魂はとてもきれいなものでした。ヒストリーを開くと旦那の記録が出てきます」

「おまえ、勝手に読んだのかよ」

「本来であれば、旦那が読んで魂を浄化していくのですが、儂が読んだところで浄化しないのです。考えてみれば当然のことでした。儂は『吉(よし)豊(とよ)』という名で、江戸時代から「徳川(とくがわ)家御佩(けごはい)刀(とう)御試(おためし)御用役(ごようやく)」として、首斬りを家業とする山田浅(やまだあさ)右(え)衛門(もん)一族の八代目でありました。山田一族、二百五十年斬首家業をやってきました。そんな輩がここに来て、他人のヒストリーを見ながら修行したところで何にもならんのです。お恥ずかしい話ですが、まっとうな人間になりたくて、死ぬ間際にキリスト教をかじったことがございます。イエスさまが呆れ返ったことでしょう。儂なんか、最初から天国なんぞに足を踏み入れちゃあダメだったんです」

「でも、修行してまっとうな人間になりたかったんだろ」

「我々一族がまっとうな人間になるなんて、そんな甘いもんではないのです。ここに来てわかりました。少なくとも我ら一族二百五十年分の修行はやらんといけないでしょう。儂がまっとうな人間になるなんて、最初から叶わぬ夢だったんです」

「夢なんかじゃねえよ。あきらめないで修業してけばいいんだよ。おまえ、見かけほど悪い奴じゃなさそうだな。おい、死神、じゃなくて吉豊か。おまえ、――ちゃんとやればちゃんとなる――って言葉、知ってるか?」

――ちゃんとやればちゃんとなる?―― 

吉豊がぶつぶつ繰り返す。

「この言葉はな、魔法の言葉なんだ。オレも現世で何度も助けられてきた。誰だってちゃんとやればちゃんとなるんだよ」

「ちゃんとやればちゃんとなる……」

「それだよ。いいか、教えてやるよ。おまえの場合、ちゃんとやるってなんだ? 修行してまっとうな人間になって現世にもどることだろ。だったらまず、頭を空っぽにして考えるんだ。ちゃんとやるやり方を」

教えてやると啖呵は切ったが、そんなやり方たやすく浮かんでくるものではない。吉豊はしばらく考え込んでいたが「あれが残っていれば……」と、短くつぶやいた。

「あれって?」

吉豊が黙って魂を操作する。東京都内の景色が映り地下鉄の麹町駅が見えてきた。大小さまざまなビルが立ちならぶオフィス街。

「平河町の、確かこのへんだったかと……」

「何があるんだよ、こんなところに」

映像は幹線道路から路地裏に入り、古い雑居ビルの一画で静止した。八階建てのエレベーターの扉には「故障中」の張り紙。郵便受けは怪しげな風俗や得体のしれない事務所名が並んでいる。投げ込みチラシが詰まり放題で入居者はいないようだ。

ビルの横に空き地があり、プレハブ小屋と建築資材が野ざらしになっている。何かを建てようとしたがそのまま放置された状態だ。

吉豊は手先の爪を細かく動かしプレハブ小屋の中に場面を移す。床に扉があり地下に続く階段がある。こんな場所に地下があるのが意外だった。階段を降りると防空壕のような空間があり、錆びついた格子扉に大きな南京錠がついている。

「何だ、ここは」

「我々一族の屋敷があった場所です。屋敷は取り壊されご覧の通り誰かのビルになっておりますが。この地下牢、儂は室(むろ)と呼んでいましたが、ここだけは無事のようです」

「関東大震災や大空襲もあっただろうによく残っていたな。何か大事なもんでも入ってるのか?」

「それを確かめようと思います」吉豊は魂を操作した。室の壁際の棚の片隅に、鈍い光を醸し出す不思議な空間がある。着物地の巾着袋のようなものが光っている。電気も通らない真っ暗闇の地下室で、巾着だけが提灯(ちょうちん)のように鈍く部屋の片隅を照らしている。

「これは?」

「涙(なみだ)の壺(つぼ)です」吉豊の目がランランと輝いた。

「涙の壺?」

「旦那は罪人の首を切った後、晒し首(さら くび)にするのをご存知ですか?」

「知らんわ。気色悪い……」

「腐敗を防ぐため、血抜きをして切り口を塩漬けにします。顔をきれいに洗って髪を整えます。このとき、首斬り一族にしか知りえぬ儀式があるのです」信じ難い話を料理のレシピのように話し出す。「切り落とされた罪人の首を持ち上げると、両方の目から必ず一滴の涙が零れ落ちるのです。首が落とされる直前まで我慢していた無念、後悔などが一滴の涙に凝縮し、零れ落ちると云われています。それを匙(さじ)ですくってこの壺に入れるのです。儂はこの涙の壺を父から家督と共に受け継ぎました。斬首家業は廃業しましたが、この壺だけは誰にも見つからずここに眠っていたのです」吉豊が魂を操作し巾着に近づいた。中の壺が強い光を発しているようだ。「言い伝えだと、死罪人が最後に流す涙は魂の一部だと云われています。それぞれの涙が壺の中で結晶となり、本物の魂になると云われているのです」

「じゃあ、この中にあるのが魂なのか?」

「この壺には、安政(あんせい)の大獄(たいごく)で処刑した吉田(よしだ)松陰(しょういん)や橋本(はしもと)佐内(さない)の涙も含まれています。儂が受け継いだときは液体で、こんな光は発していませんでした。不純物が浄化され、本物の魂になったのでしょう」興奮冷めやらぬといったようすの吉豊がいつもより早口で説明する。「儂の魂は旦那にお返しします。旦那の魂は吉田はんにもどしましょう。儂はこの涙の壺を頂戴します。三人でここにもどって修行をしましょう」

「そんな先祖代々の貴重なもん、勝手に持ち出しできるんか? ご先祖さんの罰が当たったりしないのか?」

「これは親父から家督と共に受け継いだものです。儂が正真正銘の所有者です。この壺には、我々一族が斬首した、数えきれない罪人の魂の欠片が蓄積しています。少なくとも一族二百五十年分の穢れと罪人の穢れを浄化しないといけないのでしょう。でも儂は、何年かかろうとここで修業して、先祖代々の行いと罪人の魂を浄化します」

「すごいじゃねーか、言っただろ。ちゃんと考えればちゃんとなるんだよ。すぐに案内してくれ。涙の壺を手に入れ三人で修行しよう」

「落ち着いてくだせぇ。これには綿密な計画を立てる必要がございます」

「そんな悠長なことは言ってられねえぞ。吉田を一刻も早く連れもどさねえと。まずは行動、走りながら考えるのがオレの主義だ」

「そうは言っても現世にいられる時間はわずか十分です。ここは、役割分担を決めて綿密に行動する必要がございます」

「十分? えらく短けえな……。まあいいだろう。その役割分担とやらを言ってみろ」

眉間にしわを寄せた郷原は、かつての熱血課長となっていた。

「儂が見たところ、吉田はんは夜中の二時から十分程度、玉藻池で水浴びをしているようです」

「奴は仕事はどんくさいけど、時間に関してはえらく几帳面なところがあったからな。子供のころから母親のしつけが厳しかったみたいで、風呂に入る時間や歯を磨く時間まできちんと決めていたようだ」

「旦那は吉田はんが出てくる時間に玉藻池に行って、吉田はんをつかまえておいてくだせぇ。儂はそのあいだに室(むろ)から涙の壺を取ってきます。池で落ち合って一緒に天国にもどりましょう」

「よし分かった。早速今夜出発だ!」

「ちょっと待ってくだせぇ。念のため、もう二、三日、吉田はんの行動を見守りましょう。それに、現世を行き来するには、旦那も呪文や魂の操作を練習しておく必要がごぜえます」

「おまえ、見かけによらず冷静だな」


それから三日間、郷原は魂の操作を練習し、三つの呪文、『アマチャン・アマチャン・アマテラス(現世投影の呪文)』、『アマチャン・アマチャン・イクテラス(現世行きの呪文)』、『アマチャン・アマチャン・モドテラス(天国戻りの呪文)』をマスターした。

現世投影の呪文では、魂を取り出し、ヒストリーの表側(・・)に載せると『その日のヒストリーに書かれた場面』が映し出され、裏側(・・)に載せると『今、現世で起きていること』が映し出されることを理解した。天国時計の機能と使い方も一通りマスターした。

吉田は現世での性分が消えないらしく、毎晩、夜中の二時ぴったりに玉藻池にあらわれ十分間の水浴びをこなしていた。

「奴の行動は実に分かりやすい。よし、今晩出発だ。吉豊、室(むろ)のカギを確認しとけ」

「カギなんぞいりません。現世にあるものは空気のように素通りできますから」

二時になった。わずか十分間でこなさなければならない段取りだ。時間内にもどれないと、魂は現世と天国との気圧差に耐えきれなくなって粉々になってしまうのだ。二人は現世投影の呪文を唱えそれぞれの行き先を映し出す。久しぶりのしびれる仕事に郷原は興奮した。こういう修羅場は過去、何度もこなしてきたからだ。

「時間は十分だ。吉田が池から出てくる一分前に現世行きの呪文を唱えるぞ。オレは玉藻池、おまえは室に向かう」

「ちょっと気になることが……」突然何かを思い出した吉豊が口ごもる。

「なんだよここにきて。やめましょうとか勘弁だぞ」

「たいしたことではございません。もしものことを考えて、儂がいま持っている旦那の魂と、旦那が持っている吉田はんの魂、ここで交換しておきましょう」

「もしものことって何だよ? でも確かにそうだよな。その方が、あっちでおまえだけ吉田に渡せば済むからな」郷原は納得し、もともと自分のものであった魂を受け取った。天国時計が二時九分を経過した。

「よし、行くぞ!」二人は同時に天国時計のストップウォッチのボタンを押した。

「アマチャン・アマチャン・イクテラス」



    四


郷原は予定通り玉藻池に降り立った。地面にしっかりと足をつけた感触がある。あたりを見渡すと、木の枝にローブが、根元に大鎌が立てかけてある。吉田はまだ池の中にいるようだ。草むらに隠れて吉田を待つ。幹線道路から離れているせいか、新宿御苑のほぼ真ん中に位置する池は静かだ。

二時十分を少し回り、池の中から寒そうに身体を震わせながら吉田があらわれた。木の枝のローブに手を伸ばしたとき、草むらからこっそり近づき後ろから両手で目隠しをした。

「だぁ~れだ」吉田がハッとして背筋を伸ばす。手を緩めると吉田が振り返る。

「課長おおお~~」突然目の前に現れた郷原を見て、何が起こったか分からないようだ。

「おっとこんなことをしている暇はない、助けに来たぞ。もうすぐここに吉豊が来る。奴はもう一つの魂を持って来るはずだ。それを持って三人で天国にもどるんだ」

「もう一つの魂って?」

「詳しいことを説明している暇はない」吉田を草むらの陰に促し東の空をうかがった。天国時計のストップウォッチは三分半が過ぎている。そろそろ来るころだ。そのとき東の空に吉豊らしき豆粒のような影があらわれた。

「おーい、ここだー。時間がないぞー」夏の夜空に郷原の声がこだました。目の前の上空に近づくと吉豊は右手に小ぶりの巾着をぶら下げている。

「上手くいきました。言い伝え通り涙の壺が魂になっているようです」興奮した吉豊が降りてきた。「現世には触れることができないものがあるから、ひょっとしたらダメかもしれないと心配しておったんですが、これはうまく持ってくることができました」いつも表情が変わらない吉豊が、顔をしわくちゃにしながら光り輝く巾着をかざして見せた。

「これで皆さんと修行ができます」

「よくやった。計画通りだ」

そのとき玉藻池の周りがざわついた。

なんだ! 

コウモリの大群が池の周りから一斉に夜空に飛び立った。

大群の中から三人の死神があらわれた。郷原はあわてて吉田の手を取り玉藻池に飛び込んだ。吉豊は吉田が立てかけていた大鎌を手に取り、二人を庇うように空中で三人の死神と対峙した。

「吉豊よ。いつの間にかいなくなったと思ったら、天国でちんたら修行なんかをやってるそうだな」吉豊の実父、吉(よし)利(とし)だ。

「兄上、その巾着は涙の壺ではござらぬか。まさか先祖代々の大切な宝を独り占めしようとしているわけではござらぬな」父を真ん中に、左右に並んだ二人は弟だ。

「永年探しておった涙の壺がとうとう出てきたわい。貴様がどこかに隠しておったのは分かってた。わざと泳がせてここで待っとったんじゃ」

「ハメられたのか」

「さっさと壺をわたすんじゃ」

「いやじゃ。これは儂のものじゃ。天国で修業するために使わせてもらう」

「何をたわけな、腰抜けめー」その言葉も終わらぬうちに吉利の大鎌が空を切る。

「うぎゃあ~~」

吉豊の手首が巾着を握ったまま切り落とされ、くるくる回って吉利の手に落ちた。

「これは俺があずかる。閻魔大王様への貢物だ。それと、そこにこそこそ隠れている野郎ども」吉利が玉藻池から顔だけ出して震えている郷原と吉田に鎌を向けた。「貴様ら閻魔大王様のノルマを無視してくだらんことばかりやってたそうだな。おまえら二人とも地獄の墓場で釜茹でじゃあ~」

「親父、涙の壺などいらん。そんなものくれてやる。でも、この二人は関係ねえ」吉豊の手首からダラダラと血が流れている。

「兄上、いつからそんな腰抜けになったんですか?」

「なにゆえそいつらを守るんですか?」

二人の弟が不思議そうな顔つきで吉豊を見る。

「儂の友達じゃ」

「ともだち?」

「そうじゃあー友達じゃ。友達守って何が悪いんじゃあ~~」吉豊の叫びが玉藻池の空にこだました。

「兄上、しばらく見ぬ間に面白いことをおっしゃいますなぁ。儂らみてえな首切り一族、友達なんかいるわけのうござる」二人の弟が顔を見合わせニタニタ笑っている。

「首切りしか知らねえおめえらに、何がわかるんじゃ~」身体のバランスが取れない吉豊が、片手で大鎌を振りあげた。

「いまの言葉、聞き捨てならん。貴様は先祖を侮辱した。生かしちゃおけぬ、こいつを叩き切れ~~」殺気だった吉利が弟に命令した。左右から大鎌が振り落とされた。激しくぶつかりあう金属音が空に反響した。左手一本で応戦していた吉豊がバランスを崩し、郷原と吉田の目の前に落ちてきた。水しぶきが上がり玉藻池が血に染まる。

「儂はこれまでのようじゃ」ずぶ濡れになった吉豊が胸元から魂を取りだすと、天国時計と共に吉田に手渡した。「これで天国に戻ってくだせぇ~ 早く呪文を……」

「吉豊はどうすんだよ」魂を手にした吉田がガタガタ震えている。

「ごたごた言ってねーで、さっさと呪文を唱えんかあ~」吉豊が鬼の形相で絶叫した。左手一本で大鎌を肩に掲げた吉豊が、雄叫び上げて再び空に向かって飛び立った。

「旦那あ~ 儂がここで足止めしているうちに、吉田はんと天国にもどってくだせえ~」

天国時計を見た。残り十秒しかない。このままだと三人ともお陀仏だ。吉豊に何とか生き延びてくれと望みを託し、二人は池の中で早口で呪文を唱えた。

「アマチャン・アマチャン・モドテラス」二回目の呪文を唱えているとき吉利の声が反響した。

「裏切り者の吉豊をぶった切れ~」二人は三回目の呪文を唱えた。涙声で最後の方がちゃんと言えたか怪しかった。現世が霞んでいく。大鎌がぶつかりあう音と火花で一瞬周りが明るくなった。


気がつくと吉豊の部屋にいた。隣を見ると吉田が死んだように眠っている。胸元で魂が鈍く光っている。吉豊の姿はない。吉田が目を開けたが声を掛ける気力がない。吉豊が愛用していた卓袱台に何かある。

手紙だ。癖のある字で「遺書」と書いてある。郷原が手に取り封を切る。


『ここにもどって来られるか自信がございません。万一の場合を思い遺書を認めました。

この手紙を読まれているということは無事にもどれたのですね。良かったです。

お二人の誰かを助けたいというお気持ち。首切り一族の儂にとっちゃ考えたこともないものでした。でもお二人にお会いし、儂も吉田はんを助けたい。そういう思いになりました。

涙の壺を持ち出すことはたやすいことではございません。無謀かもしれません。一族の恐ろしさは儂がいちばん知っているからです。でも儂は儂のやり方でちゃんとやろうと決めました。生涯でたった一人の友達――どうかそう呼ばせてください――吉田はんを助けようと決めました。

旦那から教わった魔法の言葉、「ちゃんとやればちゃんとなる」宝物になりました。儂はちゃんとできたでしょうか?

お二人が無事に修業を終え、現世にもどられることをお祈り申し上げます。

吉豊』


「ちゃんとやったよ。あたりまえだろ……」郷原が手紙を吉田に手渡した。

吉田が無言で目を通す。

「友達?」手紙を置いて目を瞑る。

「親友だろ……」

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