第一章:地獄の底へ

 一


二〇二三年九月。

郷原(ごうはら)剛(たけ)志(し)は夜中の着信音で起こされた。二日酔いの目をこすり、手探りでベッド脇のスマートフォンを手に取った。画面表示に「支店長」、あわてて応答ボタンを押すと、前置きなしの怒声が耳の奥までつんざいた。「吉田」という固有名詞がなんとか聞きとれた。「吉田ってオレの部下の?」たんの絡んだ声で聞き返す。

「だから言っただろうが、吉田が自殺したんだよ。貴様の部下の吉田が! 自宅のマンションから飛び降りて即死だよ。いま、警察から電話があった」

吉田が自殺……? 

「警察は―郷原課長についていくのはしんどいです。ぼくは疲れました―って書かれたメモ書きがあったと言っている。貴様名指しの遺書があったんだ!」

ウソだろ……。

全身の力が抜け、スマートフォンが転げ落ちた。

「おい、郷原。聞いてんのか」支店長のがなり声が、フローリングの振動を伝って響いていた。


国内二十カ所に支店がある中堅商社の丸岡(まるおか)商事(しょうじ)に勤める郷原は、浜松町にある東京支店、食品部の課長だ。支店長の評価も高く、面倒見のよい熱血課長として部下の信頼も厚かった。今年三十六歳になるが仕事一筋で独身。この春、同じ支店の同期をさしおきトップで課長に昇進した。

――係長に昇進することが出来ました。これも課長のご指導の賜物です。

――ぼくがあるのは課長のおかげです。感謝しかありません。

――課長は人生のお手本です。一生ついていきます。

関わりのあった部下が昇進したり転勤になったりすると、こんなメールや挨拶状がよく送られてきた。

食品部は十名で吉田は入社三年目の最若手。二年前に五歳年上の総務課のベテラン社員と結婚し、すっかり尻に敷かれているようだが、半月前「妻のお腹に子供ができました」と嬉しそうに報告を受けていた。


考えれば考えるほど吉田の自殺を受け入れることができなかった。支店長の質(たち)の悪いいたずらじゃなかろうか。悶々としたまま電車に乗り、昨晩のことを思い出す。

夕方六時過ぎ、だいじな商談を控えた吉田が心配顔で相談してきたので、早めに仕事を切り上げ夜の十時までさしで飲んだ。多少説教じみたことも言ってしまったが、最後は自信に満ちた表情で、しっかり握手を交わして帰ったはずだった。

そう言えば先週の残業後の帰り道、同期の横田(よこた)が吉田のことで声を掛けてきた。

「吉田の指導、ちょっとやりすぎじゃないのか?」

「あいつはいまが頑張りどきなんだ。殻を破るチャンスなんだよ。あえて厳しく指導して成長させる。それがオレのやり方だ」部下の指導には自信がある郷原は、係長の横田にグチャグチャ言われたくなかった。

「いまどきの若いもんは打たれ弱いんだぞ。おまえのように心臓に剛毛生えてるわけじゃないからな。パワハラで訴えられても知らねえぞ」

「パワハラ? 横田、パワハラって言うのはな、愛のない指導のことを言うんだよ。オレのように奴のことを思って厳しく指導することはパワハラにはあたらねえんだよ。その証拠に三年下で今年係長になった水野(みずの)と森(もり)山(やま)、あいつらだってオレの厳しい指導に感謝してるんだぜ」横田の横顔をウザそうにながめて持論を展開する。

「パワハラに愛もクソもあるのかよ」

「おまえにはわからんだろうな。オレと水野や森山との濃密な関係はな」

「知るかよ。むかしから思ってたけど、おまえ営業センスはあるかもしれんけど、一般常識は欠けてるな。良かれと思ってやった指導も吉田がどう感じているかは別物だぞ。同期としてあえて忠告するけど、パワハラの定義ぐらいしっかり勉強しておかないと、いつか痛い目にあうぞ」並んで歩く横田がいつになく真剣に忠告してきた。

「ハイハイ、横(よこ)ちゃんありがとよ。ところでおまえもセクハラ気をつけろよ」

「何のことだよ?」

「総務のエリちゃん。おまえこのあいだ、一次会の帰りにこっそり誘って断られてただろ。彼女、本気で嫌がってたぞ」うるさい忠告を半分馬鹿にして、右肘でわき腹をツンツンしながら取っておきの隠し玉を出す。

「え! おまえ、なんで知ってんだよ」

「ふ、ふ、ふ。オレの構築した社内情報網だよ。人の振り見て我が振り直せってとこだよな」うろたえる横田の表情に満足し、軽く手を振り地下鉄の入口で別れた。


いつの間にか会社の前に立っていた。いつもの山手線に乗って浜松町で降りたはずなのにここまで歩いた記憶がない。見慣れた警備員にいつものように会釈して、エレベータで五階の食品部に向かう。ドアを開けて真っ先に吉田の席を確かめた。

いない! 

開いたドアに視線を向けた連中は、かかわりを避けるかのように下を向く。思わずドアを閉めた。用もないのにトイレに向かう。

心臓が早打ちのメトロノームのように鳴り響く。

落ち着け! 

たまたま席を外しているだけかもしれない。

給湯室から総務課のエリの声が聞こえてきた。「郷原課長、昨日吉田君と飲みに行ったらしいわよ」「ウソでしょ」「課長ったら、またいつもの調子で説教したんじゃないかしら……」

背中が凍った。これは支店長のいたずらなんかじゃない。吉田の自殺は事実だ! しかも社員のほとんどが知っている。

食品部に戻ると、目をつり上げた支店長が入ってきた。

「貴様とんでもないことをしてくれたな。昨日吉田に何を言ったんだ」


この日を境に立場が一変した。東京支店を牽引する熱血課長から、常識のないパワハラ課長に転げ落ちたのだ。パワハラのことなど気にしたこともなかった。吉田とは信頼関係ができていると思っていた。たしかに奴は、ちょっと抜けていて頼りないところはあるが、世話がかかるぶん素直でかわいい部下だった。毎週月曜日の営業会議で支店長から見せしめのような叱責を浴びたあと、会議室に連れ込みあれこれアドバイスをしてきた。いっしょに取引先に出向き、営業の実地指導をしたこともある。その甲斐もあり、少しずつ成長が見えてきたところだった。

――パワハラの定義ぐらいしっかり勉強しておけよ――

横田の忠告を思い出し、いまさらながらネットで検索した。「同じ職場で働く者に対して、職務上の地位や人間関係などの職場内の優位性を背景に、業務の適正な範囲を超えて、精神的・身体的苦痛を与える又は職場環境を悪化させる行為」とある。

業務の適正な範囲? 精神的・身体的な苦痛? 職場環境を悪化させる行為? こんなもの会社や人によって違うだろう。何を基準にするのかわからない。さらに検索していくと、よくあるパワハラ語録が、上司と部下のイラスト付きでいくつか例示されている。

・バカヤロー、何をやっているんだ

・こんな仕事が出来ない奴は初めて見た

・この程度の仕事も満足にできないのか

吹き出しの会話を読んで唖然とした。似たようなことを散々言ってきた。

こんなことがパワハラになるのか? これじゃあ、横田の言ってた通りじゃねえか……。

 

『郷原のパワハラの証拠をメールで送れ。証拠を出せば人事評価の情報収集力でプラス評価を与える』その日支店長は、東京支店のメンバーと過去に郷原と接点があった社員全員に『人事評価の情報収集力でプラス評価を与える』のところを赤の太字で強調したメールを一斉送信した。

夕方支店長室に呼ばれた郷原は、パワハラの証拠を多数突き付けられた。その中には目をかけてきた水野や森山のものも含まれていた。

・ほんと使えない奴だな!

・給料分ぐらい働けよ!

・この成績で明日休むのか?

・これじゃあ、犬よりひどいな!

 確かに使った覚えのある言葉もあったが覚えのないものも並んでいた。こんなことは言ってないと喉元まで出かかるが、こんなときに責任のなすり合いなどもってのほかだと飲み込んだ。

「おまえを助けようと思ったが、こんなにも出てきてしまっては助けようがないな」郷原を模範社員として褒めちぎってきた支店長が、手のひらを返したように難しい顔をする。「これを見れば分かるよな。おまえの指導が行き過ぎたんだ。同期の横田が言ってたぞ。おまえ、パワハラのことを何にも理解していなかったらしいな。完全に課長失格だ。明日から横田に課長を代行してもらう。いいか、じきにここにも警察の事情聴取が入る。この責任は全ておまえだぞ」次の株主総会で役員候補になっているこの男は、突然降りかかった災難を郷原一人に押し付けようとしているのだろう。

「この証拠は警察と人事部に提出する。残念だがおまえのサラリーマン人生は終わったな。パワハラ課長さんよ」

オレがパワハラ課長……。 

「これで菓子折りでも買って詫びてこい。おまえいつもクイックレスポンスが大事だとか言ってたな」財布から一万円札を取り出すと、床に落として出ていった。


翌週、吉田の葬儀がごく限られた親族だけで行われた。翌日の夕方、喪服に黒ネクタイの郷原は、京王井の頭線、高井戸駅で下車して吉田のマンションに向かった。

駅を出てスマホを見ながら環八を荻窪方面に十分程度歩き、左に入ったところに建っていた。

周りは背丈ほどのツツジの生垣に囲まれ、入口をくぐると前面に駐車場と駐輪場。一階の角部屋の囲いの中で二匹の大型犬が番犬のように吠えていた。エントランスの郵便受けで八〇五号と確認すると、エレベータから革ジャンにギターを背負った男が黒い犬を連れて降りてきた。ペット可のマンションなんだろう。そのままエレベータで八階の玄関前に立つ。プラスチックの表札に、右上がりの角ばったクセ字で「吉田豊、律子」とあり、その下に少し小さめに「登紀子」と書かれている。そういえば一人暮らしの母を岐阜の実家から呼んだと聞いていた。

営業でならした郷原もさすがにインターホンを押せずにいた。適切な言葉が見つからない。何を言っても言い訳にしか聞こえない。ただここは、上司としてけじめを付けなくてはならないところだ。そういい聞かせ、震える指でインターホンを押す。

「どちら様ですか?」抑揚のない年配の声がした。

「丸岡商事の郷原と申します。この度はこんなことになってしまい、お詫びの言葉もございません」とにかく頭を下げて、お悔やみだけでも述べようと覚悟を決めていた。

「ごうはら?」考え込むような間があった。そばで誰かと話しているような気配がある。「お引き取りいただけますか。わたくしも嫁も気持ちの整理がついておりません」

「せめてお線香だけでもあげさせていただけないでしょうか」

「お帰りください。わたしはあなたを許しません。一生、許すことはありません。豊(ゆたか)がどんなに苦しんでいたことか……。あなた、おわかりですか?」

「失礼ですがお一人で来られたのですか?」一オクターブ低い別の声が聞こえてきた。「こんなことになっても上の方は来られないのですね。主人も薄情なところに勤めたものですわ」

憔悴しきった郷原は、持参した菓子折りを玄関ノブに掛け、重い足取りで階段を下りていく。歩きながら居酒屋でのやり取りを思い出す。

「よく聞けよ。ちゃんとやればちゃんとなるんだよ」

「また課長の口癖ですね」

「そうだよ、これはオレのポリシーだ」

「その肝心の “ちゃんと”がわからないんですよ。ちゃんとやるっていうやり方がわからないんです」

「ちゃんとやるやりかたなんていろいろあるんだよ。おまえのやり方でちゃんとやりゃあいいんだよ」

「でも会社には営業マニュアルがあるし、自分のやり方で何でもかんでもできませんよ」

「バーカ。そんなもんいらねえんだよ。いいか、営業マニュアルなんてな、営業を一度もやったことねえ頭でっかちの本部ヤローが想像で作ったものよ。しょせん何の役にも立たんのさ」

「そうでしょうか?」

「なんだよ、おまえオレを疑うのか? あんなもん読むだけ時間の無駄だ。百害あって一利なしってやつだな。オレなんか一度も読んだことがない。電話帳みたいな表紙見ただけでうんざりするんだよ」

「それ、自慢ですか?」

「自慢もクソもあるか。いいか、客だって百人いたら百人いろいろだろ。そんなの全部が全部マニュアル通りいくわけねえんだよ。相手の出方を見て自分で考えるんだ」

「そう口では簡単におっしゃいますが……」

「だいたいマニュアルに書いてあることだけ覚えても、それ以上のことはできねえだろ。マニュアル以上のことをやらねえと人は感動しないんだ」

「はあ……。でもやっぱ難しいっすよ。ぼくなんかマニュアルがないと何からやっていいかさっぱりわからないんです」

「難しく考えるなよ。何をやったら相手が喜ぶか。それだけ考えて、考えて、考えまくって行動すりゃあいいんだよ。いちいちマニュアルなんて読んでる暇ねえんだよ」

「何をやったら相手が喜ぶか、考えて、考えて、考えまくる……」

「そうだ、よく覚えておけ。でもまあ、おまえも若いから、今日はオレが特別にヒントをやろう」そう言って身振り手振りをまじえてセールストークを披露すると、「課長、ありがとうございます。そのトークいただきました」奴は嬉しそうに目を輝かせ、何度もセールストークを反芻(はんすう)していた。帰りぎわ、がっちり握手をしてお開きにした。


郷原は仕事で壁にぶち当たると、コンビニでビールを買って、途中の公園で飲むことがよくあった。ネクタイを外して靴を脱ぎ、ベンチに座ってあれこれ自問自答していると、外の空気とアルコールが気持ちを落ち着かせ、解決策が浮かぶことが多いのだ。

いつもの癖で駅に向かう途中のコンビニで缶ビールを二本買い、店先のベンチで立て続けに飲み干した。

部下の指導は自信を持ってやってきた。部下からも信頼されていると思っていた。でも、その部下が自殺した。しかも、オレの指導についていけずと言って……。あの日奴としっかり握手をし、奴も嬉しそうに握り返してきた。そのときの力強さには間違いなく自信が溢れていた……。

なんで自殺なんかしたんだよ!

酔いが回るのがいつもより早かった。今まで積み重ねてきたやり方が、根底から覆されてしまったような気がした。再びコンビニに入り、ハイボール二本とワンカップ二個を買った。アルバイトの女子店員が露骨に表情を曇らせレジを打つ。郷原は近所の公園のベンチと同じように、ネクタイを外して靴を脱ぎ、ベンチにあぐらをかいて飲み出した。いつもならそろそろ解決策が出てくるころだがいくら飲んでも出てこない。コンビニのオーナーらしき中年男が、わざとらしく咳払いをしながらベンチの周りを掃除しはじめた。我に返った郷原は残りのワンカップを一気に飲み干すと、重い腰を上げふらつく足で駅に向かった。

改札を抜けて階段を上りホームのベンチに腰掛けた。

――わたしはあなたを許しません。一生、許すことはありません――抑揚のない声が呪文のように聴こえてきた。パワハラという言葉が頭を過る。

オレのやってきたことはパワハラだったのか? 

疲れがドッときた。隣のベンチで若いOLがスマホゲームに熱中していた。上り線のホームに急行の通過列車が近付き、先頭車両のパステル調の水色が吉田のワイシャツを連想させた。正面の二つの窓が、四角いメガネと重なった。吉田が手を振りながらこっちに向かって走ってくる。「ファオ~ン」という警笛が、「課長お~」と聞こえたような気がして立ち上がる。「吉田ぁ~ そこにいたのかよー」郷原は思わず声を出し、電車の近づくホームに向かって歩き出していた。隣のベンチのOLがスマホゲームの指を止め、怪訝そうな顔をした。それに気づいた郷原が、恥ずかしくなって急に足を止めたとき、外れていたクツヒモを踏んづけ大きく前のめりになった。コンビニで靴を脱いだあとヒモを結び直していなかったのだ。郷原はそのまま吸い込まれるように、もつれる足でホームに向かって飛び込んだ。後ろからOLの悲鳴が聞こえてきた。引きつった運転手の顔が大きく口を開けるのがコマ送りで見えていた。


空気銃みたいなものが命中し、身体ごと弾き飛ばされたような感覚だった。

おかしいな? 電車にまともにぶつかったはずなのに痛みを感じない。

電車が止まっている。騒然としたホームで駅員があたふたし、駅長らしき年配の男が警察や本社やらあわただしく連絡をしている。

「男が勝手に飛び込んで来たんだ」若い運転手が憔悴しきった顔であらわれた。ショックで立てなくなったOLが、身体を震わせ駅員に抱えられていた。連絡を受けた警察官が目撃情報の聞き取りをはじめている。

「酔っぱらった男の人が、何か叫びながら電車に飛び込んで行きました」真っ青になったOLは、目の前で起きた事故のショックで震えが止まらない。

「何て叫んだか覚えていますか?」

「吉田、そこにいたのか。みたいなことを……」

「吉田ですか。間違いないですね」出てきた固有名詞をメモしていた。

ちょっと待ってくれよそこの姉さん。それじゃあオレが自分から電車に飛び込んだことになっちまうだろうが。違うんだ。オレは酔っぱらって自分のクツヒモ踏んじまったんだ。これは事故なんだ。

大声を出しているのに誰も気づかない。後ろから警察官に駆け寄り肩に手を伸ばすと、雲をつかむように素通りした。

ウソだろ! 

白衣にヘルメットをかぶった二人組の救急隊員が担架に人を載せてきた。まっかな血液が泣いているかのように頬を伝う死体と目が合った。

オレ……? オレが死んでる? 

混乱しながら自分の身体を見回すと、全体が薄い光に包まれ、喪服姿のまま三十センチほど宙に浮かんでいる。胸元を見ると野球ボールぐらいの塊(かたまり)がぼんやり光っている。

――幽体離脱――

どこかで聞いた言葉を思い出す。両手を軽く動かすと、身体が風船のようにゆらゆら揺れて上昇する。生暖かい秋の夜風が頬を撫でる。

マジかよ、死んじまったのか……。

今までやってきた努力の積み重ね、仕事上の悩みやトラブル。生きていくうちに自然に積み重なった重石(おもし)のようなものが一瞬で粉々になり、どこかに飛んでしまったような気さえする。身体が重力に逆らって何もしなくても上昇しはじめた。高井戸駅のホームが真下に見える。清掃工場の長くて真っ白な煙突が横にある。ずっと下を向いていたのだろう、こんなものが駅の真横に立っているのを初めて知った。風に煽られ、駅前のレンガ貼りのマンションにぶつかりそうになりながら壁際を昇って行く。ベランダでビールを飲む野次馬と目が合った。何も気づかない男の横をゆっくり昇って行く。ビル風に煽られバランスを崩した。ぶつかる! と思って頭を抱えたが、身体ごとマンシャンにのめり込み、テレビを見ながら家族で食事をするリビングを通り越し、反対側に飛び出した。風が穏やかだ。ナイター照明をつけたテニスコートが斜め下にある。電車事故などお構いなしにダブルスの試合を続けている。地上の景色が少しずつ小さくなる。目線を変えると新宿の高層ビル群、その後ろに東京タワーのオレンジ色、更に向こうにはスカイツリーのブルーの環(わ)が周期的に回っている。東京の夜景が下になる。やがてパトカーのサイレンが小さくなり静寂に包まれた。

オレは死んだ、こんなにもあっけなく……。

それにしてもなんの怖さも感じない。後悔すらない。オレには家族がないからか。捨てるものがないからか。ずいぶん上に向かっているけど何処に行くのだろう。何だかワクワクさえしてきた。このままタダで宇宙旅行に行けるのか。そんな下世話な思いも湧いてきた。

群青色の夜空を見上げるとゆっくりと雲が流れていく。その雲が通り過ぎたときだった。

なんだ、あれは!

巨大な白い天体が浮いている。むかしからそこにあるかのように当たり前の顔で浮かんでいる。郷原の身体が吸い込まれるように加速する。眼下を見ると、青い地球に見慣れた日本列島が浮かんでいる。



     二


白い天体はゆっくりと自転していた。天体の周りに土星のようなリングがある。土星より小ぶりで薄いリングがレースカーテンのように浮いている。太陽光の角度が変わると虹のように色が変化する。白い天体の地表がぼんやり見えてきた。

なんか日本列島みたいだな……。

そう思って隣を見ると大陸から突き出た朝鮮半島が、南半球にあるのは、どうみてもオーストラリアだ。

 地球……?

どういうことだ!

青い地球と白い地球が向かい合い、鏡に映ったように浮かんでいる。

リングの淵に近づくと霧が出た。上昇するスピードが落ちて足が地に着いた。リングの上に立っている。

歩くとジャリ、ジャリと音がする。小石を踏みしめているような感覚だ。霧の中を白い天体に向って歩き出すと、足元の小石が川のようにじゃらじゃら流れる場所がある。足を入れると動く歩道のように運んでくれる。疲れたので腰を下ろしてみた。体育座りのまま天体に近づいていく。霧が晴れて切れ間から日が差すと、小石が虹のように反射する。手に取ると冷たくて、ガラスでできたおはじきのようなものだった。

そのまま流れに任せていると、リングの内側の淵に近づいた。左手に赤い三角屋根が見えてきた。流れから身体をもどして三角屋根まで歩いていく。手前の窓を覗くと赤ん坊や小さな子供がベッドで眠っていた。その先の真ん中の一番大きな窓を覗くと集会所のような場所だった。五、六十人の人間が長めの白テーブルに座っている。老人が多いが子供や中年もいる。ラクダの股引(ももひき)のじいさん、風呂上がりのシャツ一枚のばあさん。手術着みたいなものを羽織った中年女や出勤途中らしいサラリーマンもいる。死んだときの姿でここにいるのだろうか。隣同士で話し込んでいたり、呆然と頭を垂れるものもいる。みんな胸の辺りの黒い塊(かたまり)が行燈(あんどん)のように鈍く光っている。

これが魂(たましい)っていうやつか……。 

服の上から透ける魂は、よく見ると色や大きさが微妙に違っている。子供の魂はきれいだが、老人のはくすんだ色で輝きも弱い。油汚れのようなものが中まで染み込み砲丸投げの鉄球のようにも見える。魂も年季が入ると汚れていくのだろうか。思わず自分の魂と見比べた。

入口のドアが開き白装束の女が顔を出す。

「ようこそ天国へ、これはパスポートです」表情ひとつ変えずに木札を渡された。「T302-58」とある。

天国? パスポート? 

戸惑ったまま中に入ると更に驚いた。

「吉田じゃねえかあ」

部屋の片隅に水色シャツの吉田が体育座りで背中を丸めていた。

「課長おお――、どうしてここに」顔を上げた吉田が泣きじゃくりながら郷原の胸に飛び込んだ。

「どうやらオレも死んでしまったようだ」あらためて吉田の顔を見た。最後に居酒屋で別れたときと何も変わっていない。水色シャツに四角いメガネの吉田がそこにいる。

「何で課長が? 先日お会いしたときはあんなにお元気だったのに」

「色々あってな。おまえのことをあれこれ考えているうちに、酔っぱらってホームに落ちて電車に轢かれちまったんだ」

「それってぼくの営業成績が上がらないのを苦にして電車に飛び込んじゃったってことですか?」

「いくら何でもそんなことで死んだりしない。オレが自分で自分のクツヒモ踏んじまってホームに落ちたんだ。自己責任だから心配するな」

「課長はいつもぼくをかばってくれましたよね。死んでまでかばってくれるんですね」支店長の叱責を浴びるたび、会議室で励ましてもらったことを思い出しているようだ。

「いや、これは本当に違うんだ。とにかくおまえのせいじゃないから安心しろ。それより吉田、オレはおまえになんて詫びたらいいか……」

「詫びる?」

「オレの指導が行き過ぎていた。良かれと思って厳しく指導してきたが、結果的に苦しめていたんだな。オレは恥ずかしながらパワハラの定義を理解していなかった。課長失格だよ、本当に申し訳ない」膝を付き床に頭をこすりつけた。

「やめて下さい。それにパワハラって何のことですか?」顔を上げると吉田が豆鉄砲を食らった子鳩のような目をして立っている。

「居酒屋でおまえと飲んだあと、意気投合して帰ったじゃないか。でも、あの後おまえは自殺した。それが何でかわかんねえんだよ」

「あの日は課長と別れて、家に着くと妻と母が喧嘩をはじめて……」

「ちげーよ。――郷原課長についていくのはしんどいです。ぼくは疲れました――って書き残して死んだよな」

「あっ!」何かを思い出したようだ。頬を緩めていつもの軽い調子でしゃべりだす。「なーんだ、あれっすか。あれは日記の下書きですよ。あの日は妻と母の喧嘩がはじまったから下書きを途中で止めたんです。日記の方には『でも、課長を信じてついていきます。今日はありがとうございました。明日のプレゼン頑張ってきます』ってちゃんと続きを書いていますから。いやだなぁ、そんな怖い顔しないでくださいよぉ、誤解っすよー」

「はあ~~ 貴様、何たわけたこと言ってんだ。仕事もなんでも中途半端なところで終わらせやがって。その下書きのせいで、オレはおまえを自殺に追い込んだ張本人になっているんだぞ。そうなることぐらい予想できなかったんか」

「ま、まさかぁ。えー、す、すみません。そ、そのときはまだ死ぬつもりもなかったんで……」頭を抱えて蹲る。困ったときのいつものポーズだ。

「シャレにならんぞ。だったら聞くけど、結局おまえ、何で死んだんだ?」

「えっと……、あの日は律子と母の喧嘩がいつにも増してエスカレートして、あなたはあたしとお母様のどっちの味方なの? 豊(ゆたか)ちゃん、わたしの言うことが聞けないの? ていう感じで……。ぼくはこういうとき、どっちも裏切ることができないんです。ひとりで屋上に行きました。カギが壊れて住民の喫煙スペースになっているんです」喧嘩がエキサイトしたときの吉田の逃げ場所なのだろう。「窓が開いていたので喧嘩が聞こえてきました。律子が何かを叫びながら駆け上がって来るのがわかりました。屋上の手摺りに腰を付けていたぼくは彼女の顔を見た瞬間、凄い圧を感じて後ろにバランスを崩してしまいました。そのとき、魔がさしたというか、その場から逃げ出したくなったというか、このまま死んだら楽になれるよな。という気がして体勢を立て直す努力をしなかったんです」

「おまえっていうやつは……」全身の力が抜けた。

「オレはな、おまえの中途半端なメモ書きのせいでパワハラ課長の犯罪者になっちまったんだぞ。そのうえ、それを苦にして電車に飛び込んだ責任逃れのクソ課長って、きっと明日のワイドショーは持ちきりだ」

「ぼくは何てバカなことを……。このままじゃ課長のお立場が……」また頭を抱えて蹲る。

「それよりおまえの日記ってどこにあるんだよ」

「それが……」

「何だよ、はっきり言えよ」

「実は……、妻や母にも言えないことを書いていたので見つからない場所に隠してあるんです」

「だから、どこにだよ」

「見かけは百科事典なんですが、中に隠し場所があって……。その中に……」

「何でそんなわかりづらいところに隠すんだよ」

「すみません……」聞こえないぐらいの小声で頭を垂れた。

「しょうがねえ野郎だな。でも少しだけホッとしたよ。オレは自分の指導のどこが間違っていたのかわからんくなってな」

「でも、課長にとんでもない迷惑が掛かっていたなんて」

「もういいよ。どうせ死んじまったんだ、いまさら関係ねえよ。このまま本当のことを知らずに生きてても一生悩みながら十字架背負っていくしかなかったものな」そう言ってはみたものの心のモヤモヤが収まらない。だんだんイライラしてきた。「オレはな、おまえと違って独身だし彼女もいねえ。オレが死んだって悲しむやつなんかいねえのさ。明日のワイドショーでパワハラクソ課長って叩かれたって知ったこっちゃねえんだよ!」投げやりな気持ちが溢れ出た。

「でも、ご両親がいるでしょう」

「本当の親は子供のころ死んじまったんだ。オレは養子で育ったのさ。誰にも言ってなかったけどな」初めてきく話に吉田が真顔になる。

「両親と二つ上の兄貴の四人で暮らしてたんだけど、中二のとき戸籍謄本みたら、オレの名前は田中(たなか)剛(たけ)志(し)で六歳のとき郷原家の養子になっていた。しかも生みの親は二人とも同じ日に死んでいた。何で養子になったのか、生みの親は何で死んだのか、何度か聞こうとしたけど複雑な事情がある気がして聞けなかったんだ」

「複雑な事情って?」

「そりゃあ想像つくだろ。家が火事になってオレだけ助かったとか、家族で心中してオレだけ生き残ったとか、考えれば考えるほど、悪いことばかり想像しちまうんだ」

「そんなぁ……」温室育ちの吉田はこんなときどう答えてよいか分からないようだ。

「オレな、養子になる前の田中剛志の記憶ってまるっきりねえんだよ」

「記憶喪失ですか?」

「子供ってものすごい恐怖とか思い出したくない出来事があると、自衛本能が働いてその記憶を脳のどっかに鍵かけて閉じ込めてしまうんだ」

「聞いたことがあります」

「高二のとき、唯一好きだった養父が病気で死んじまってさ」

「お母さんや兄さんとは仲良くなかったんですか?」

「兄貴なんかひどいもんよ。中一のとき、兄貴の同級生に因縁つけられてボコボコにされてるのに奴は遠巻きに見てるだけさ。母は目が怖くてな。顔だけ笑って目の奥で監視されているような感じだよ。本人は意識しなくてもわかるもんよ。まあ、優しい両親に育てられた豊ちゃんじゃわかんねえか……」

「すみません」

「成績は良かったんだ。田舎の学校だったけど学年でいちばん取ったこともあったしな。とにかく早く家を出たかったから、学校推薦で丸岡商事の内定もらって、卒業式終わったら荷物まとめて東京に出てきたんだ。それ以来一度も連絡してないし向こうもしてこない。きっと清々したんだよ。どこの馬の骨とも分からん子供を高校まで出したんだから十分責任果たしたって思っているんだよ」

「課長にそんな過去があったなんて……」自分のことのようにショックを受けたようだ。仕事の出来は良くないがこういう憎めないところが吉田にはある。

「こんな辛気臭い話、誰にも話すつもりはなかったけど死んじまったから解禁よ。おまえにはいつも偉そうなことばかり言ってたけど、本当は意気地なしで、ひねくれもののしょうもねえ男なんだ。友達も彼女もいないし、上司や信頼していた部下にも裏切られた。オレが死んだって悲しむ奴なんかいねえのさ」話している途中で悲しくなってきた。

「そういえば課長、ぼくは先程レクチャーを受けてきました」

「レクチャー?」

「自殺した人間は注意事項があるので先に個別に受けるんです。それによると、ぼくたちがいるこの場所は、天国に入る待機場所でプラットフォームって言うんです。順番が来るとここから天国ロードを昇って天国に入ります。入口には鳥居があって、その真ん中に直径二十センチぐらいの扉があるんです。そこを通り抜けられたら天国に入れて、ダメだったら地獄に落ちてしまうんです」

「マジかよ。そんな仕組みがあったのか。でも直径二十センチは小さすぎないか?」両手を広げて二十センチをイメージした。

「魂が通過できればいいんです」

「魂か。そんならいけるだろう。オレもおまえもせいぜい十センチぐらいだな」

「それがそうでもないんです。ここを見てください」

吉田の魂をよく見ると、長さ五十センチぐらいの矢が串団子のように貫通していた。

「おまえ、なんでそんなもんが刺さってるんだ?」

「自殺すると刺さるらしいんです」

「オレにはないぞ」

「課長は自殺じゃありません。事故ですから」

現世では自殺になっていても、神様はちゃんと見てるっていうことか……。

「鳥居をくぐるとき、矢の向きが重要だと言われました。向きが悪いと扉に引っ掛かってしまうんです」

「折ったり、抜いたりできんのか?」

「ダメみたいです」

「厄介だなあ」

「ぼくの矢は背骨のように上から下にまっすぐ刺さっているから、体が傾くと扉に引っかかるので、とにかく背筋を伸ばして昇って行って、鳥居をくぐるときは扉に向かって頭から飛び込むように入れと言われました」

「それならバンザイしながらまっすぐ昇って行けばいいだろう」

「そう言われました。ただ、ぼくの矢は他の自殺者より長いのでバランスを崩しやすいから気をつけろと……」

「何でおまえのは長いんだ?」

「母に対する親不孝、妻や生まれてくる子供に対する責任の放棄もあって罪が重いからだと言われました」

「罪の重さが矢の長さにあらわれるということか。それで、大丈夫なのか?」

「今まで扉に引っ掛かかったのは一パーセントもないから、あまり心配しないで昇って行けばいいと」

窓を覗くと霧の中を男が歩いて来る。五十九番だろう。どこかの野球チームのユニフォーム姿だ。魂はちょうど野球ボールぐらいの大きさで、ところどころに泥が染みついているような色合いだ。続いて六十番が見えてきた。キャバ嬢風の女だ。病院の手術着のようなものを羽織っている。黒目がちな瞳に長いまつげ。爪先のネイルを気にしながら歩いてくる。小柄な体型にあどけなさの残る顔がのっている。小ぶりの魂にはところどころシミのような模様がついている。


「それではレクチャーを行います。パスポートナンバー六十番までは地下に移動します」白装束の女が気だるそうに声をかけ、老若男女が重い腰を上げて地下に降りていく。

暗い地下室の真ん中におおきな水晶玉が置いてあり、取り囲むように椅子がある。

「これから映像を見ていただきます。天国に入るまでの注意事項を説明しますのでしっかり聞いてください」

「いまさらそんなもん見せられてもなあ……、わしらどうせ死んじまったんだろ」

「おらぁ、老眼でなぁ……」

整形外科の待合室のような会話を無視して女が呪文を唱えると、水晶玉が輝きだして何かが映る。

『みなさん、天国リングまで無事に辿り着きました。おめでとうございます』いきなり水晶玉からアナウンサーのような声がした。あらかじめ録音されているようだ。

『ここを天国に入るための待機場所、プラットフォームと呼んでいます。これからみなさんは天国ロードを昇り天国に入国します。当地区T302の天国ロードは一日一回、六時間で六十名の魂を天国に運びます』液化ガスでも入っていそうな球体型タンクの前でヘルメットを被った職人風の白装束がアップになる。レバーを下げると消火栓のようなところからジェット気流が噴射し真空管のような透明チューブがあっという間に天国に到達した。

『ここから天国は目の前ですが、地表の天候は変わりやすく、台風や偏西風も発生します。天国ロードは煉界の風雨をさえぎることができません。身体のバランスを保ちながらチューブの中を気流に乗って昇っていきます。魂が重い方は注意が必要です。天国ロードを外れると、このように地獄の底に落ちてしまいます』バランスを崩した魂が、きりもみみたいにグルグル回って落ちる映像に悲鳴が起こる。

『天国の入口に白の鳥居があります。時間内にここを通過しなければなりません。鳥居にはストロー隊が待機し、緊急時には入国のサポートをしています』鉢巻をした十人一組の白装束が、隊長の笛に合わせ、先端にラッパがついたピアニカのホースのような管(くだ)をくわえて魂を吸い上げるようすが映っている。

『鳥居の真ん中に扉があります。この扉は天国の入国審査を兼ねています』鳥居の真ん中に、マンホールのような扉が宙に浮いている。

『最後にこの扉で入国の可否が決まるのです』

水晶玉の映像が消えると部屋が明るくなった。地獄に落ちる映像に震えが止まらない女性や小さな子供が目についた。

「白装束の姉さん。ワシが聞いとったのは、天国に入るには三途の川を渡るはずじゃが……」

「あたしの母も言ってましたわ。渡し賃を持っていないと鬼婆(おにばば)に服を剥ぎ取られるって……」納得しかねるといった表情の老人が首をかしげている。

「奪(だつ)衣(い)婆(ば)のことですね。それはむかしの話です」

「今はいないのか?」

「詳しいことはわかりません。でも代わりに天国ロードやストロー隊が作られました。むかしは渡し賃を払って舟で昇るか、お金のない人は自力で昇るしかなかったから、天国に入れたのは今の半分ぐらいだと云われています」

白装束が淡々と説明を続ける。

「最近この周辺に死神があらわれます。魂を売ってくれと言って誘ってきますが相手にしてはいけません。彼は魂を奪って天国に入ろうとしているのです。この地区は百年以上同じ死神で、きっと今の仕事に飽き飽きしているのでしょう。いろいろと誘ってくるので気をつけてください」

レクチャーが終わると隣の別棟に移動した。ここでしばらく順番待ちをするようだ。


  

     三


そろそろ天国ロードに入る順番が回ってくるころ、黒ローブに身を包んだ不気味な男があらわれた。

「そこの旦那……」乾いたしわがれ声だ。黒ローブに顔が隠れて表情がわからない。隙間から顔の一部が微かに見えた。骸骨のような灰褐色の肌に底なし沼のような窪んだ目玉がある。歯茎が下がり、細長い歯だけが蛍光塗料を塗ったように白く光っている。

こいつが例の死神か? 薄気味悪い野郎だ。

「旦那の魂は齢のわりにきれいですなあ。現世ではまっとうに生きてこられたのでしょう。儂なんか悪さしすぎて魂が重くなり、プラットフォームにたどり着く前に地獄の底に真っ逆さまですわ」死神がゆっくりとローブを開いて近づいた。

「ところで旦那、そのきれいな魂を儂に売ってはくれまへんか?」

「断る!」レクチャー通りの問いかけにきっぱりと否定した。

「天国なんかへ行ったって、どこもここもまっ白けっけのつまらん世界でっせ」聞こえないふりをしていたが死神は遠慮なしに話を続けていく。「地獄ときちゃあ、まっかっかのエキサイティングで刺激的な世界でっせ。パワハラ課長でならした旦那には、地獄の方がお似合いですがなあ……」

パワハラのことまで知っているのにドキリとした。

「ところで旦那。あんたの部下、たしか吉田とかいう五十七番の。奴に刺さったあの矢はちょっといけまへんなあ……。あれじゃあ扉に引っかかって地獄落ちじゃろう」

「そんなことはない。背筋を伸ばしてまっすぐ昇って行けば大丈夫だと説明を受けている」

「おーっと、それはずいぶん楽観的な考えでっせ。丸岡商事の課長さんにしちゃあ、もうちょっとリスク管理を勉強なさったほうが良いでっせ」

「リスク管理? 貴様にリスク管理ができるのか! できたら死神なんかになっていないだろうが」勤め先のことまで知っていることに動揺し声が大きくなる。

「まあ、そうピリピリせんで。旦那と五十七番が天国ロードに入るのは三日後です。天気予報ちゃんと聞いてまっか?」

昨日白装束から、天国ロードに入る日程が三日後との連絡を受けていた。

「そんなもん聞くか。スマホがないしテレビもラジオないんだぞ」

「それはそれは、秘密の情報網がご自慢の課長さんらしくもない。三日後は大型台風直撃でっせ」

何でこいつは秘密の情報網のことまで知っているんだ? 

現世の行動を全て覗かれていたような気がして恐ろしくなった。それに、いつ台風が来てもおかしくない季節であり、死神の言っていることがまんざら嘘でもないような気がしてきた。

「台風が重なったときの地獄落下率ってご存知ですか? あーんな長い矢が刺さってちゃあ、そりゃあ確実に引っかかってしまいますわなあ」さも心配だという素ぶりで腕を組む。

「さっきから適当なことをほざくな」

「適当とは失敬な。死神歴百四十一年の儂が言うんだから間違いないでっせ。あれじゃあ確実に扉に引っかかって、きりもみみたいになって地獄行きじゃろう……」

「そんなもん天国ロードに入る時間を変更すれば済むだろ」

「天国ロードに入るのに天候など一切考慮せん。寸分の狂いなく回ってくる」死神がぴしゃりと否定した。

「じゃあどうすればいいんだ。何か方法はないのか?」

「まあ、ないこともないんですが……」

「知ってるならさっさと言えよ」

「簡単ですよ。この大鎌で奴の矢をぶった切ればいいんですよ」

「嘘つけ! あの矢は、切り落としたり、抜いたりできないはずだ」

「ひっひっひ。ところがどっこい、この死神様の大鎌で切れないものはないんだよ」目の前で左右に鎌を振り回す。

「そんなことしたら、奴の身体まで切れてしまうだろう」

「旦那はなんにも知らんのですなあ……、魂なんか簡単に引っぱり出せるんですよ。奴の魂を引っぱり出して矢だけ叩き切りゃあいいんですよ」

「だったらいますぐ切ってくれ」

「いやなこった。ここで百万回土下座されたってお断りでっせ。吉田とかいうクソガキなど、儂にとっちゃあどうでもええ話。でも旦那、ひとつだけ取っておきの方法がありますぞ」声をひそめて顔を近づけた。

「どんな方法だ」

「簡単ですよ。旦那が死神になって奴の矢をぶった切ればいいんですよ」

これは罠だ! 

「まあ即答できる話でもないですな……。もしその気になったらいつでもお声を掛けて下さいな。パワハラ課長さんよ」そう言い残し、どこかに消えていった。


三日後の朝が来た。天国ロードのスタンバイは五十七番の吉田が夜の十時五十一分、五十八番の郷原は三分後の十時五十四分と連絡があった。郷原の後ろには五十九番の野球選手、そして最後に六十番のキャバ嬢が続くのだろう。いつのまにか死神があらわれ後ろでようすをうかがっている。死神のラジオから天気予報が聞こえてきた。大型の台風が勢力を保ったまま、明日の昼頃接近するらしい。ここから天国までは六時間と聞いている。順調に行けば朝方には天国に入れるだろう。なんとか大丈夫そうだ。

夜の九時、天国ロードに入る六十人が番号順に整列した。職人風の白装束が点呼を取る。風が徐々に強まった。十時の時報でタンクのレバーが下がり、ジェット気流が噴射した。死神のラジオから台風が勢力を拡大し予定よりスピードを上げて接近中という放送が聞こえてきた。横殴りの雨が降りはじめ、雲の中に稲光が反射する。

吉田の順番が来た。白装束にパスポートを渡す。

「行ってきます」緊張気味の吉田がぎこちなく敬礼のポーズを取る。

「背筋を伸ばしてな。バンザイの姿勢を崩すなよ」

中に入ると吉田の身体が宙に浮く。気流に乗った吉田はアドバイス通り両腕を上に伸ばしてゆっくりと上昇していった。郷原が吉田の後ろ姿を見守り、その斜め後には死神がフラフラ浮いている。雨が更に強さを増してきた。

三分後、郷原は吉田の後ろを昇っていく。強くなった風に煽られながらも、両手でバランスを保ちながら昇っていく。

ようやく中間地点あたりを通過した。雨が土砂降りになり、服を着たままシャワーを浴びた状態だ。風が強まり寒さで震えてきた。少し遅れはじめた吉田が郷原のやや上を、まっすぐに手を伸ばしバランスを保ちながら昇っていく。横殴りの風雨が容赦なく頬を刺す。吉田は勢いを増した風雨に耐えながら慎重にバランスを取っている。雨雲の中にうっすらと鳥居の影が見えてきた。

「あと少しだ。気を抜くな!」

そう叫んだとき、頭上に閃光が瞬いた!

鼓膜が破れそうな轟音と風圧が全身を叩きつけた。

何が起こったんだ? 

気流が乱れ身体が上下左右に揺れている。天国ロードから落ちないように両手を左右に広げてバランスを保つ。上を見ると吉田が全身だらりと横になり動かない。

吉田の矢に雷が落ちたのだ!

「吉田ああ――、身体を起こすんだあああ――」ありったけの声で叫ぶが吉田はピクリとも動かない。

鳥居の向こうに鼓笛隊のように並んだストロー隊が、隊長の笛に合わせて管を吸っている。隊長の横でタイムキーパーが腕時計を睨んでいる。吉田が少しずつ上昇しはじめた。ただこのままの体勢では矢が扉に引っかかる。隊長の指示で、傾いた体勢を戻そうと、一度吉田を十メートルぐらい落下させてから、反動をつけて一斉に吸い上げるが体勢は変わらない。

「吉田ああ―――、目を覚ませえ――」反応しない。気絶しているようだ。

必死の形相の隊長が、今度はストロー隊を扉の左右に配置させ、左側が吉田の頭を吸い上げ、右側が足に向かって吐きだすがこれもうまくいかない。吉田は気絶したまま扉の前でぐったりと横になっている。郷原が吉田の真下に近づき気流がストップした。さらに下には野球選手も見えてきた。

「あと何人だ!」

「四人です!」

「時間は?」

「残り十分を切ってます」

「まだいける!」ストロー隊がひょっとこのようにほっぺたを膨らませ、隊長の笛に合わせて吸い上げる。

「圧力は?」

「七十五パーを切りました。もう限界です」

「ダメだ、まだ若い魂だ。何としても入国させるんだ!」

「五十八番静止、五十九番スローダウン、六十番目視できます。このままだと四人とも入国できません」

「クソ、次がラストか」

これはまずい。

「ちょっと待ってくれ――」

鳥居に向かって叫んでいた。傍らでニタニタ見物している死神に合図を送る。

「お呼びでしょうか?」

「例の取引に応じよう」

「え!」

「どうすればいい? 早くしろ」

「えーっと……」予想外の展開に死神はあわてて自分のローブを脱ぎだした。「なんとラッキーな! 死神はじまって以来の大奇跡……」死神は郷原の気持ちが変わらないうちにとさっさとローブを脱ぎだし、郷原の胸からわしづかみで魂を抜き取った。

「これさえあれば夢にまで見た天国じゃ。さて旦那、この大鎌でとっとと切るなり煮るなりすればよい」ローブと大鎌を放り投げ天国ロードに入ってきた。全身黒タイツになった死神が気味悪い笑みを浮かべている。郷原は大鎌を手に取り吉田の魂を抜き取ると、いけ好かない矢を叩き切る。

「これで大丈夫だあ~ 早くこいつを入れてくれ――」

魂を胸に戻すとストロー隊が一斉に吸い上げた。

間に合った。気絶したままの吉田が鳥居の向こうで隊長に頬をたたかれている。鳥居の周りに集合したストロー隊が一斉に立ち上がり、死神になった郷原に礼をした。

「吉田あ~~ 元気でなあ~~」大鎌を振り上げ左右に大きく振った。ストロー隊に身をあずけた吉田がうつろな目を開けた。

よかった。これでよかったんだ。

同時に身体が反転し、真っ逆さまになって加速した。

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