タイトルを考えるほど話を考えていない。
長森りょくち
第1話
自分は何を見ているのだろうか。ふと思い立って辺りを見まわした。床面はつるつると光を反射する板張りで、上の方にある窓ガラスからは少し暖かい午後の陽射しが差し込んでいた。そしてその中をバスケットボールが飛び交っている。ボールは広い体育館の沢山の生徒たちの合間を飛び交い、それを彼ら彼女らは軽やかに受け取ってはパスを出しているのだ。そこまで見て、そうだここは中学の体育館なのだと思い立った。
中学生の頃の自分は自らキラキラと輝いていて、教室という小さな空間の中で一際明るく目立つ存在だった様に思える。自分の近くの友達(や、そうでない子もいたけれども)は大体いつも澄んだ瞳に光を目一杯溜め込んで話していたし実際自分もそんな感じだったのではと思う。今を生きる中学生という感じだ。
目の前に浮かんでいる光景はそんな体育の授業の1コマだけれども、時間の感覚はなく、それが何年生の何学期なのかという事についてはよく分からない。ただとにかく、どれだけ待っても私の方にボールはまわって来ないし、転がったり、ぶつかってきたりする事も無いのだ。古びた体育館の照明はそろそろガタがきていて、それを補完する様に傾いた日差しが私の頬や手足を照らしている。
変わらず立ち尽くしていると突然胸の奥が苦しくなった。頬を生暖かい液体が流れ、湿った唇はほんのり塩辛い。とめどなく溢れるそれの量に比例してどこか心が満たされていく様な気がする。その感覚は少しだけ心地よく、その気持ち良さに沈んでいきながら微睡にゆっくりと溶けていった。
目が覚めたのはいつものベッドの上、だったけれども顔と身体は左側に90度傾いていていつもの蛍光灯ではなく半開きになった障子がこちらを向いている。そして目の脇と枕に液体の跡があって舐めると何があったのかを大体理解した。
涙というものは別に泣かなくても横になっていたら勝手に目の縁に溜まって、いっぱいになったら勝手に溢れて一滴流れるものだ。だからこれもその一種に違いない。寝苦しくてまた寝起きも良くないのは多分慣れない姿勢で一晩中横たわっていたからだろう。まぁそう気にする程の事でもないという所まで考えた所で布団から起き上がった。
立ち上がって物が散乱した6畳間を見回して物色し、必要な物を見とめてから今日への準備を始める。洗面台の汚れや鏡に入った亀裂は昨日と変わらず、特筆すべき事と言えば遂に歯磨き粉のチューブが1本空になってしまったという事だろうか。
「おはよう」
一通り用がすんでとりあえず人様に顔向けできるくらいの格好になってリビングの方へ赴くと、こちらより先に母親の方が声をかけてきた。
「……」
とりあえず眠そうな顔をして誤魔化した。別に朝の挨拶、という程でもないし返す事の労力や手間はほぼゼロに近いのに何も返さなかった。
食卓についてニュースを脇目に冷めたトーストを口に運ぶ。ジャムもバターも何もついてないパッサパサの切れ端を注意深く味わい、見事に水分の途絶えた口には牛乳でお茶を濁すのが得策だ。
さて、ここでテレビを見るともう7時を過ぎていて、そろそろ家を出ないと学校に間に合わない。部屋から荷物と鍵を取って一言「行ってきます」とだけ吐き捨てて自転車に飛び乗る。
家から駅までの標準所要時間は5分、次の電車は7分後でその次は20分後。遅刻を免れる為には何としても早い方に乗らなくてはならない。そんな事を頭の片隅に置いてまだ涼しさの残る朝の町を駅の方までかっ飛ばした。
タイトルを考えるほど話を考えていない。 長森りょくち @MiyakonoNaka
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。タイトルを考えるほど話を考えていない。の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます