第6話 佐倉彩羽 1/2

 佐倉彩羽、心身麗し15歳。


 たくさんの大切なもので彩られ、どこにでも羽ばたいていける自由な人になってほしい、そんな意味が込められた名前。


 あたしの自由を尊重してくれている気がするこの名前が、あたしは好きだ。


 これまで色んな意味で、恵まれた人生を送ってきたと思う。


 どんな人間になるか、その半分の要素を遺伝が占めているという。


 さらに残りの数割が、周りを取り巻く環境により占められる。


 自分でコントロールできる領域は思ったよりも少ない。


 リセマラ不可避一発勝負の残酷ルールで成り立っているのが、この世の中なのだ。


 ぱっちりした目に、長いまつ毛。白い肌に、ほど良く女の子らしい背丈。


 自分にうっとりするなんてことはないけれど、鏡に映る自分を見て、なかなか可愛いじゃないか、と思うことは正直ある。


 家族仲もすこぶる良かった。


 毎週日曜日に庭でバーベキューをするのが恒例で、トランプしたりゲームしたり。


 次の日が学校でも、少しも憂鬱な気分にはならなかった。


 それに彩羽なんて名前を付けるくらいだから、あたしにいろんな習い事をやらせてくれた。


ピアノ、テニス、空手に英会話。


 どれも楽しかったし、そういった活動を通して、あたしは両親の深い愛情を感じられた。


 URとまではいかないけれど、確率3%のSSRくらいは引けたんじゃないかな。


 世の中のたいていのことは楽しいし、世の中にはあたしのことを好いてくれる良い人で溢れている。


 もちろん悪い人だっているだろうけど、そんな人はごく少数だと思っていた。


 あたしはずっと、あたしのやりたいことに夢中だった。


 そんな風に、基本ポジティブ感情に包まれながらすくすく成長したあたしは、地元の公立中学に進んだ。


 部活でもクラスでも、周りの子が話しかけてくれたこともあり、すぐに友達ができた。


 そして訪れた最初の試験。


 なんとなく勉強してなんとなく受けたら、学年3位だった。


 あれ、あたしって、勉強得意なのかも?


 自分がいわゆる頭の良い人間であることに初めて気づいたのはそのときだった。


 自分の上に2人しかいないという事実は、むしろあたしのやる気を激しく掻き立てた。


 それからというもの、部活が終わってから日を跨ぐ0時まで、ひたすら机に向かう日々。


 ほどなくして学年1位の座を手にしても、あたしの学習欲は止まることを知らなかった。


 知らないことを知る。


 それは、世界への扉が一つずつ開けていくようで。


 さらに高く飛ぶための羽を、一枚ずつ手に入れるようで。


 知れば知るほど、自分は何も知らないということを知る。




 その終わりのない探究が、あたしを虜にしていった。




 中学3年生の冬になるころには、高校3年間で習う範囲をひと通り学習してしまっていた。


 だから、県内最難関と言われる白羽高校の試験も、あたしにとってはどうってことなかった。


 図形問題で、本来であれば中学では習わない余弦定理を使ってみたりなんかもした。


 そんなあたしみたいな勉強中毒者がたくさんいる学校。


 そんな環境で、高いレベルの人と切磋琢磨できたら、それはどんなに楽しいことだろう。


 そう夢想しながらシャーペンを握る日々は、純粋に充実していた。




 受験が終わっても机に向かい続ける日々を送っていたある日、母親がドタドタと階段を駆け上り、あたしの部屋に入ってきた。


「ちょっと彩羽! 入学試験最高成績だって、いま電話かかってきた! 学費免除になるらしいわよ! ほんとにすごいわね」


「……そっか。……にひひ、じゃあ母さん、浮いたお金で今日は回転寿司いっちゃう?」


 少しおどけて見せた理由の半分は、照れ隠しだ。


 あたしはお母さんが大好き。


 幸いお金に困窮している家庭ではないけれど、私立高校ということもあり少しでも親の負担を減らしたいとは思っていたから、素直に喜べた。


 もう半分は……なんだろう。少し拍子抜けしたというか。


 白羽高校で1位ってことは、千葉県でほぼほぼ1位ってことだ。


 もちろんさらに頭の良い東京の進学校に千葉から通う人も結構いるから厳密には違うのだけれど、それでも順当に考えて、日本一偏差値の高い大学、万葉大学への切符は約束されたようなものだ。


 なんだ、こんなもんか。


 別に、誰かに勝ちたくて勉強してきたわけじゃない。


 きっかけはそうだったとしても、そんな動機じゃあこんなに勉強にのめり込むことはなかったはずだ。


 でもやっぱり、目標がなくて良いのかと言われれば、そうじゃない気がする。


 なんだろう、今が楽しいのが絶対1番大事なんだけど、今が楽しいだけでいいってなったら、それは言ってしまえばギャンブルとかお酒とか、そういうものと変わらない気がする。


 どっちもやったことないけど。


 あたしは結局、何かの目標達成とか、自己肯定とか、何かの手段として、学んでいただけなんだろうか。


 それとも、学問の探究というなにか深淵な響きに耽溺していただけだったのだろうか。

 

 純粋に学ぶという行為を楽しんでいたつもりだったんだけど。


 あたしは、今までのように、学ぶことを心から楽しめるだろうか。


 そんな、あたしには珍しくほんの少しだけ落ち込んだ精神状態で、高校生活は始まった。




 クラスにいれば、やっぱりみんなが話しかけてくれる。


 進学校だからといって真面目風な見た目の人ばっかりかというと、実際そんなことはない。


 なんなら校則が緩いので、髪を金髪に染めた男子なんかもいる。


 そんな彼らの風貌とは対称的に、あたしの心はほんの少しだけ、霞がかっていた。




 いつもの電車。7時20分、西船橋駅発の電車。


 あたしは、久しぶりに恐怖というものを感じた。


 柔らかいようで硬いような中年男性の何かが、上下左右にと揺れながら、あたしの身体をこすりつけてくる。


 こんなやつ、蹴り上げてしまえばいい。


 そこまでせずとも、ただ声を発すればいい。


 それでも身体は鉛を括りつけられたように重く、動くことを許してくれない。


 身の毛がよだつという感覚を、あたしは人生で初めて体験していた。


 男の鼻息が首元にまとわりつく。


 気持ち悪い。怖い。怖いよ。


 気づけば目から涙が溢れ出していた。


 あぁ、情けないな。


 どんなに賢くなったって。


 ネイピア数の定義とか、漢文の読み方とか、ローレンツ力の性質とか、そんなものを知っていたって。


 逆境を乗り越えるすべは、何も学んじゃいなかった。


 下を向きながら泣いている自分があまりに惨めなので、少しでも心を明るくしようと顔を上げてみる。


 そこにあったのは、こう言っちゃなんだけど、少し頼りなさそうで、自分に自身のなさそうな、キミの顔だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

学校で一番かわいいあの子と、日本一の大学を目指す 桜賀北 @sakuraga_kita

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ