第5話 心の宇宙
「目標がさ、なくなっちゃったんだよ。別に、何かを目指さなきゃいけないってことじゃないんだけどさ。キミは、この高校に入ったときに。あたしは、たったいま。未来を、見失ってるんだ」
その言葉は、冷静に自分を客観視しているようにも、ただ自分を自虐的に表現したいだけのようにも聞こえた。
真意は推し量るほかないものの、その言葉は澄んだ水が口から胃へするりと滑り入るように、自分の深いところに染み渡っていった。
そうか。僕は、すがるべき目標を見失っているんだ。
成績を上げるのに必死で。
とにかく、それだけを目指して日々を過ごしていた。
そして、父親の急逝や志望校への合格を経てその目標を達成した僕は、晴れて努力という名の呪縛から解放されたのだ。
自由を、手に入れたのだ。
(……本当に?)
僕は首が捻じれんばかりの勢いで後ろを振り返る。
そこには誰もおらず、あるのは白い上履きが整然と敷き詰められた下駄箱だけ。
僕は、自由を手に入れたはずなのだ。
間違いない。
(それならさ、何でお前はそんなに退屈そうなんだ?)
(この世の全部つまんねぇって顔してるぜ?)
(な? 答えられないだろ? お前は少しも自由になんてなってないんだよ)
(そしてこれからも、お前に本当の自由が訪れることなんてない)
(ほんと、ご愁傷さまだね)
(お前といたら、そこにいるかわい子ちゃんも不幸になるんじゃないか?)
自分を支えていた貧弱な支柱が、音を立てて瓦解していく感覚を覚えた。
「黙れ!!!」
大声を出した張本人が自分であることに気づくのは、それから数秒が経った頃だった。
「なんかあそこ、喧嘩してない? 結構やばい感じ?」
「ヒステリックまじ引くわー」
「え、てかあれA組の佐倉さんじゃない?」
「え、マジで佐倉じゃん。かわいそー。てか噂には聞いてたけど、やっぱ生で見るとバリ可愛いな」
周囲から好奇の目で見られる不快感とともに、会話が佐倉からの、芯を食った問いかけで終わっていたことに気づく。
これでは、佐倉に対して怒鳴りつけた構図にしか見えない。
「あ、佐倉、これは違うんだ」
佐倉は無表情だ。
「違うって、何が?」
……僕は彼女のまっすぐな瞳を見つめ返す勇気がなく、気づけば下を向いていた。
「いや、なんていうか、その……ごめん。また迷惑かけた。もう、行くね」
下を向いたまま、僕は教室に向かって歩みを進める。
「ちょ、白井! 意味わかんないって! なんか変なこと言ってたら謝るから! 全然起こってないから! ねぇ!」
聞こえてくる声がどんなに甘美であろうと、僕は振り返らなかった。
……たぶん、彼女といれば、何かが変わる気がする。そう思っていたんだ。
自分が変わるきっかけを、僕は彼女に求めていたんだ。
ああ、この身体は。この精神は。
なんと醜く浅ましいのだろう。
四限のチャイムが鳴る。
昼飯の時間は、好きでも嫌いでもない。食べることがとりわけ好きなわけではないし、何より一緒に食べる人がいないので、味覚が鋭敏になることもない。
一緒にご飯を食べる方が美味しいなんて使い古された言葉が、本当かどうか検証することもできない。
あれから一週間が経った。
あの日までと変わらぬ日常、いやそれ以上に灰かぶった時間が流れている。
自分の心の闇と折り合いを付けられないばかりか、結果的に側にいる女の子を傷つけてしまった。
彼女からすれば、わけが分からなかっただろう。
弁明すらされず、形だけの謝罪と共に一人取り残されたのだから。
残された彼女は引き続きたった一人で、周囲からのどろっとした視線を浴び続けたことだろう。
それをわかっていながら、僕は彼女の問いかけすらも無視したのだ。
……ところであの日から佐倉のうわさを耳にすることが増えたが、どうやら彼女は相当な人気者らしい。
その美貌はすでに折り紙付きだが、文武両道で性格も良いとの評判が、上級生にまでうわさされ始めていると聞く。
……そんな人の貴重な時間を、僕と過ごすために使わせて良いはずがない。
一日に二度も彼女を不幸に陥れるような、出来損ないの僕と、一緒にいてはならないんだ。
この考えが、間違っているはずがない。
(またお前は、自分に嘘をつくのか?)
……だとしたら、どうして。
「あんがとね、助けてくれて。カッコよかった! キミがいなかったら、あたし、何もできなかったからさ」
彼女の姿を、声を、何度も思い出してしまうのだろう。
……だとしたら、どうして。
佐倉ともう一度、話したい。佐倉の声をもう一度、聞きたい。
……そんなことを、考えてしまうのだろう。
性懲りもなく、彼女といれば何かが変わるとでも思っているのだろうか。
だとしたらその思いはひどく独善的で、自惚れていて、傲慢だ。
でも、もし彼女ともう一度話すことがあれば。
彼女の声を、もう一度聞くことができるなら。
僕は、何を思い、何を感じるのだろう。
ガラガラっと勢いよく戸を開く音が聞こえた。
「しーろい! 一緒にご飯食べよー!」
僕はこの時のことを、これからの人生で幾度となく想起することになる。
そうだ。この瞬間だったんだ。
心の宇宙に、一筋の光が差し込んだのは。
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