傷着

佐倉 るる

傷着

 

 胸下までかかる長い髪を一つに結ったら、裸の状態でソレを着る。今日のは一段と重い気がした。


 *


「痛い、痛いよ。すごく痛いよ」


 玄関から一歩外に出ると、誰も彼もが泣いている。皆、ソレを身に纏い、叫びと涙と苦しみを外側へと放出させる。


「あらあら、貴方。今日は誰からも手当を受けていないのね。ホラ、こっちへいらっしゃい」


 どこからともなく、泣いている誰かに救いの手が差し伸べられた。それは本当に救いの手なのだろうか。そんな疑問を持つ暇さえ与えず、救世主は泣いている人々のソレを覆い隠すのだ。


 この世界に生まれ落ちたその日に、我々はソレを与えられる。生まれたての赤子が泣くのはソレを与えられることを恐れているからなのかもしれない。


 一歩、また一歩。私は歩く。何も感じてないフリをしながら、実は痛がっているフリをしながら、涙を堪えてるようなフリをしながら、心では泣いているフリをしながら。どれが本当の感情なのかわからないまま、今日も私は足取り軽く、心を沈ませて歩く。目的地へと向かって歩き続ける。


 *


 公園に差し掛かると、教祖様が公園の中央で演説を繰り広げていた。有難い話をしているのだ。いつもの風景、いつもの景色。大抵は一顧だにせず通り過ぎてしまうのだが、今日は幾分か気分が良かった。だから、公園の柵の前で立ち止まり、耳を澄ませる。


「人々は皆等しく、ソレを抱え生きています。ソレは時に大きく、時に小さく、深かったり、浅かったり、さまざまな形に変化しております。現代社会において、ソレは浅く小さければいいと信じられている。しかしながら、ソレは大きければ大きいほど、深ければ深いほど立派であるとワタクシは思うのです。なぜならば、ソレを治療する過程で、人は人として大きく成長できるからであります。ここにいる皆様方は立派なソレをお持ちなのでしょう。ええ、そうです。ワタクシの話を聞いているというだけで、ソレを変えたいという強い意志を持っているということ。『行動している』という時点ですでに、自身を五十%変えることに成功しているのですよ。そして、貴方たちは今、深いソレを負いながらも、人々のソレを治療する救世主になりたいと考えていらっしゃる。なんて素晴らしいことか。なんて嬉しいことか。さぁ、今こそ立ち上がりましょう。苦しんでいる人々に救いの手を差し伸べるのです!」


 拍手喝采があたりに響いた。柵を越え、木々の隙間からこっそりと覗き込んでみる。数十人もの人が、真っ赤な服を身に纏った教祖様を取り囲んでいた。老若男女、いろんな人種が熱心に話を聞き入る様は団結力と力強さを感じさせる。中には目を潤ませて話を聞いている者もいる。


「早く演説終わらないかなぁ……」


「毎日似たような話をしてるよね。わたし、飽きちゃった」


 私のすぐ近くの木陰で穴を掘り遊んでいたまだ小さい少年と少女がボソリとぼやいていた。春の風のように若々しい声はするりと私の体内に入り込む。


 この子達は若い。あまりに若すぎて、軽いソレしか背負っていないのだ。だから、自分のソレと向き合うよりも、人のソレに向き合っている方が楽だということをこの子達はまだ知らないのだろう。


 私は、どうだろうか。


 私も人を癒すことで、自分のソレから目を逸らしてはいないだろうか。


 わからない。


 ただ一つわかることは、このままここにとどまっていては遅刻をしてしまうということだ。


 私は良く通る声で喋り続ける教祖様に背を向け、再び目的地へと歩き始めた。


 *


 目的地までの道のりは長かった。駅まで歩いて、電車に乗って、乗り換えて、そして、また目的地まで歩く。この時間が退屈だ。退屈凌ぎに私はポケットから機械の箱を取り出す。画面いっぱいに現れたたくさんの文字列と写真群に目を走らせながら、器用に指先を動かした。


 目の前にあるのは、匿名の人々が吐き出しているソレの集合体だ。理不尽さを嘆く叫び、愛を乞う悲鳴、環境への愚痴、文句。華やな人々への嫉妬心に、見せかけの虚像。ネガティブな感情がひしめくソレの海に私は自ら身を投じる。


 画面上のソレを見ていると、私のソレが蠢き、這いずり回る。ソレが身体中を駆け巡るのだ。


 私は内なる疼きに目を逸らしながら、黙って画面の中のソレらを見つめ続ける。これが有益な行動なのかということは甚だ疑問だ。だけど、自身のソレを深めるのには幾らか役には立ちそうである。


 今日も画面の中は騒がしい。ソレをなすりつけ、ソレを受け取る。発信せずに見ているだけでも、心にソレがこびりつく。


 発信している人は、果たしてその分楽になっているのだろうか。ソレと見つめ合わずとも、吐き出すだけで、ソレは癒えていくのだろうか。


 私ははたと手を止める。辺りを見渡してみた。皆が機械の箱に夢中になり、俯いている。誰も前を見つめていない。仮想現実に一生懸命で、今、この場、現在のことなど見えていない。私もその一員だ。責めるつもりは毛頭ないし、責める筋合いもこれほどもない。自分だけが例外だとは思えぬからだ。


 そっと視線を機械に戻す。再び人々の叫びをみた。現実で聞くよりもリアルで多大な悲痛の叫びだ。


 人はソレから解放されたいと願っている。解放されるためには、自分のソレの重さを主張せねばならない。でなければ、解放の対象者から外されてしまう。たとえ、外されなくても、後回しにされてしまうのだ。蔑ろにされてしまうのだ。だから、誰を貶してでも、自分が一番ソレを背負っているのだと主張する。


 見ているだけでも疲れてくる。眩暈がする。感情が揺り動かされる。私自身も、私が一番ソレを抱えていると主張したくなる。そして、それすらもめんどくさくなるくらいソレが重くなる。

 ただ眺めているだけなのに、だんだんと苦しくなってきた。体が蝕まれていくのがわかる。目的地までの足取りが重くなっていく。


『あぁ、○○たいな』


 私も皆に倣って安易に書き込んでみる。ソレは重たく苦しいが、本気で○○たいと思っているわけではない。私は人と比べればソレが軽い人間だ。理解している。でも、書き込んでみる。ソレが全くない人だとは思われたくないのだ。


 すぐさま反応が来た。


『大丈夫ですか?』

『話聞きますよ』

『皆、キミの味方です』


 口元が僅かに弛緩する。ソレは蜜の味だ。他人の慰めはとろけるような甘さを孕んでいる。たまらない幸福感だ。


 皆、私を可哀想な人だと認めてくれた。皆、私に気遣ってくれてる。


 私は優しい言葉に溺れた。


 *


 目的地に着いた。目的地は相変わらず人で溢れている。誰も彼もが重い足取りで、皆一様に同じような服を着ている。ゾロゾロと同じ建物に入っていく姿はどこか囚人を彷彿とさせた。個性を出すことは許されない。画一的でなければ、この社会では生きていくことはできぬのだ。


 私はふっと息を吐き出す。今日もここで私はソレを被らねばならない。そう考えただけで息が詰まる。


 私は他の人々と同様に建物に踏み込んだのだった。


 *


「私は被害者なんです!助けてください!」


 そんな言葉がドアの向こうで聞こえた。


「こんな卑劣なことが罷り通っていいんですか?ここは非人道的なことを許す場所なんですか?」


 かなり大きな怒鳴り声が辺りに散乱した。私は通り過ぎようとしたドアの前で足を止めて、耳を傾ける。


「ほら!これは私が暴力を受けている時の動画。で、こっちは、私のことを侮辱している時の音声です。こっちには証拠が揃ってるんですよ。これを無視するんですか?」


 肌にジンジンと怒声が当たる。女の人の激しい憤りがぶつかってくる。


「あの人、ずっといじめられてたんですって」

「可哀想ねぇ……」

「ねぇ……。言葉だけじゃなくて、暴力も振るわれてたとか……」

「らしいな。パワハラ、セクハラ、モラハラも当たり前に行われてたらしいぜ」

「うっそぉ。誰か止める人はいなかったの?」

「いなかったらしい。むしろ、みんなでいじめに加担してたとか」

「うわ、最低。……でもさ、あの人、本当に追い詰められてたのかな?」

「どういうこと?」

「だってさ、本当に苦しんでる人はあんなに大声出せないだろ。あんな風に騒げるってことは心が健康ってことだろう」

「そうかな?限界が来て爆発しちゃっただけかも」

「いやいや。限界がないんだったら録音なんてできやしないだろう。反抗する力は残ってるんだよ。つまり、本当に苦しんでるわけじゃないってことさ」


 私は棒立ちになり、誰の言葉かもわからない言葉を聞いていた。皆、好き勝手なことを言う。好き勝手に憶測を立てて、好き勝手に噂して、好き勝手に話題の対象とする。


 ソレをあからさまに曝け出す人は奇異の目に晒される。自分のソレは見つめたくはないけれど、他人のソレを見ることは面白くて仕方がないからだ。


 それはこうして立ち止まり盗み聞きをしている私もまた一緒だろう。人のソレを覗き見るのが面白くてたまらないのだ。


 後ろでざわつく声が続く。


「あの人をいじめていた彼、家庭の環境が複雑なんですって」

「えっ、そうなの?」

「らしいよ。子供の頃からひどいDVにあってたとか……。心に深いソレを持っているらしいの」

「聞いたことある。何の因果か、会う人会う人、みんなに暴力を振るわれてるんだって。彼女とか友人とかにもね」

「あの人も彼に暴力や暴言を吐いたとか。彼のソレを刺激するようなことばかりしてたみたいだぞ」

「あの人、顔もなんだかいやらしいものね。悪いことしそうな顔してる。どうせ、あの人から彼に色々とふっかけたんでしょ」

「いやいや、何言ってるんだよ。どんな理由があったっていじめたりパワハラをしたりしていい理由にはならないだろ」

「そうだけどさぁ。全部が全部加害者が悪いわけじゃないでしょ?大抵の場合、被害者側にも原因があるんだから」


 いじめや権力、暴力などに対してもソレは免罪符になるようだ。重いソレを背負っていれば背負っているほど、人は赦しを受けることができる。


 無慈悲だ、と私は思った。


 被害者にとって、その赦しは耐え難い。自分のソレをさらに抉られる。被害者からしたら、情状酌量など、ないほうがいいのだ。


 だけど、人間、いつ自分が加害側に回るかなんてわからない。もうすでに加害している可能性だってある。となると、情状酌量があった方がいい、と考えてしまう人もいるだろう。


 私は思考をやめ、足を動かした。そろそろ目的地に行かないといけない。だいぶ道草を食ってしまった。


 通り過ぎ様に見知らぬ人々が、加害者側と被害者側、二つに分かれて議論している。この件に関係ない人々が、加害者と被害者、どちらのソレが大きいかを競い合う。


 あぁ、もう、なんだか疲れたな。


 *


 数ある部屋の中に目的地はあった。整然としていて、規則性がある。そこに人々は座り、各自やらなければならないことをこなすのだ。


 私も隣席の人に挨拶して、自分の席へと腰掛けた。


 ここでは、ソレは致命傷になる。見せてはいけない弱点だ。だから、皆、ソレがないかのように気丈に振る舞う。それに、日々タスクに追われ、ソレを気にしている素振りをする余裕などないのだ。


 しかし、難しいもので、ソレがゼロだと思われるのも良くない。余裕すぎることもまた悪と見なされる場合がある。難しい塩梅だ。


「やぁ、調子はどうだい?」


 隣の席の彼が電子機械と向き合っていた顔をあげ、声をかけてきた。私は軽く頭を下げる。


「ボチボチってところかな。貴方は?」


 返事は、曖昧に。良すぎても悪すぎてもいけない。私が生きてきて得た知恵だ。


「僕もボチボチかな。でも、今日発表の資料が出来上がっていなくて、てんやわんやしてるよ」


「うわぁ、大変。はやく終わらせないと」


 今日はグループでのプレゼン発表がある。せっかちな人が大半を占める私のチームは、早々に終わらせていた。彼からちらりと覗くソレに私は軽く同情と共感してみせた。このくらいの軽度なソレはコミュニケーションにおいて重要になる。


「そうなんだよなぁ。でも、こんな風に君と談笑できてる時点で、僕はまだマシなんだよ。ほら、斜め前の彼らのグループが見えるかい?プレゼンのことをすっかり忘れていて、ゼロから作ってるんだとさ。僕よりもずっと地獄だよ」


 みんなの方が辛い。自分より辛い人がいる。


 この言葉は魔法の言葉だ。


 自身を擁護し現実から目を背ける時にも、他人を攻撃する時にも、使われる言葉だ。今回は前者で使われている。


 彼もこれを口にすることで、辛い状況に置かれている自分よりも下がいると思えて、気がまぎれるのだろう。私自身もこうした使い方に身に覚えがある。


 しかし、この言葉は時に凶器だ。前者で使われる場合はまだいいが、後者で使われる場合は最悪だった。


「つらい」とソレを晒せば、「貴方よりも辛い人がいるのだ」とぶつけられる。これ以上ないほど簡単な問題解決方法、かつ、とても強力な攻撃手段だった。


 他人と比較することで、相手に我慢を強いるのだ。他人が自分より辛かったところで、自身の辛さは変わらないというのに、人はこの言葉を口にする時、そのことを忘れてしまう。


「みんな大変だ。私も頑張らないと」


 不毛な会話に話を区切り、私は自分の椅子へと腰を落とした。


 *


「こんにちは」


 帰宅途中の大通り。気さくな見知らぬ五十代半ばであろう人が話しかけてきた。この街では、時折、こうして話しかけられることがある。スーパーやエレベーターの中は突出して話しかけられやすい。特に夕暮れ時から夜にかけて、さらに話しかけられる確率が上がる。こんなふうに道端でも話しかけられてしまうのだから。


 話しかけてくる人物は大抵、ある程度年がいっている人だ。歳を取ると人は気さくになるのだろうか。それとも、今の若者が街ゆく人に興味がないだけか。わからないけれど、ほとんどの場合、お年の方が話しかけてくるのだ。


「どうも。こんにちは」


 私は当たり障りのない返事をする。


「今、帰り?」


「……まぁ、そうですね」


「こんな時間まで、大変ねぇ。うちの息子も貴方と同じくらいの年齢なのだけれどね、貴方よりも帰りが遅いのよ。本当もう心配で心配で」


「は、はぁ……」


「こないだなんて、私が病院に連れ添って欲しいから早く帰ってきてって言ったのに、帰ってきたのは予定よりだいぶ遅い時間よ。どうしてもやらなければいけないことがあって、抜けられなかったんですって。まったく、そんなに無理して体は大丈夫なのかしら。ほんと、心配になっちゃう。あら?私の持病の話をしてないわね。私、実はとある精神病を患っていましてね、こうして一人で外に出るのも大変なんですよ。今日はいくらか元気なものですから、こうして外に出てきたのよ」


「それは、それは、大変でしたね」


 始まってしまったソレ自慢。しまった、と思った時にはもう遅い。目の前の人は自分がいかにソレを抱えているか、大変かを流暢に語る。


「そうなのよ。大変って言葉じゃ表せないくらい大変なんだから。毎日病院と家の往復。障害者支援でタクシー代が出るって言っても満額で出るわけじゃないでしょう? 割と痛い出費なのよね。とはいってもバスや電車には乗れないし。なんせ、ほら。私、すぐパニックになっちゃうものだから」


「それは、つらいですね」


「そうなの! あまりに辛いの! あぁ、分かってくれる? 貴方は優しいお方なのね。でも、世の中は貴方みたいに優しい人ばかりじゃないのよ。見た目じゃソレをたくさん抱え持っているってわからないじゃない?配慮してもらえないことも多くてね。それだけじゃなかって、ソレのせいで私はできないことがたくさんあるのに、努力が足りないからだと罵倒される時もあるの。ほんと、マイノリティには生きるのが辛い世の中だわ」


 ソレを見せつけ、優しい言葉を誘う。ソレをできない理由にして、ソレを盾に優しい行動を強要する。卑怯だ。卑怯なやり方なのに、卑怯だと指摘すれば、こちらが卑怯者となる。


 ソレを多く持つものは、やはり有利だ。事を思い通りに進められるのだから。


 私は止めていた足を少しだけ動かす。彼女もまた私の歩幅に合わせて歩き始めた。ソレに関する話は止まらない。


「今の政治がダメね。政治だけじゃなくて若者もダメ。マナーのなってない人が多すぎるのよ。あぁ、なんだか話していたら眩暈がしてきたわ。今日はいくらか体調が良かったのに。それに聞いて。隣の方がとても非常識な方でね? 私たち家族に嫌がらせをしてくるの。もう悔しくって悔しくって。夜中にうちへ向けて騒音を立ててくるものだから、私、寝不足で倒れてしまったのよ。うちの娘も毎日泣いててね。本当に辛いの」


「ごめんなさい。そろそろ夕飯の時間なので……」


 そう言いながら、流れるようにペコリとお辞儀をして、まだ話足りなそうな彼女よりも足の歩幅を大きくして、話を切り上げる。ソレ自慢はうんざりだ。彼女に追いつかれないように私は速足で歩く。遠くでカレーの匂いがした。


 私は卑怯者になった。


 *


 家に着くと香ばしい匂いが漂ってきた。グツグツと何かを煮込んでいる音まで聞こえる。台所には私の大切な家族がいた。たった一人で黙々と野菜を切り、出汁をとり、下味をつけて、卵を混ぜている。一連の動作を止まることなくやってのけるこの光景は、見慣れたものだった。


 真剣な眼差しで包丁やフライパンを握り締め、チャキチャキと動く姿に私は立ち止まる。目つきも佇まいも険しい。私は近づくことができなかった。「ただいま」と口にすれば、包丁を握りしめて私の胸を一突きしてきそうなほどの、オーラが滲み出ている。


 私は黙って踵を返す。小心者の私は話しかける勇気など、到底持ち合わせていなかった。きっと、ソレを深く負う何かがあったのだろう。その何かを聞くような野暮な真似はしない。家族とはいえ、他人のソレを背負うほど私の背中はでかくなかったのだ。


 私は自分の部屋へと引き篭もった。


 *


 部屋の中で、私はこっそりソレを脱ぐ。束の間の休息。先程まで感じていた痛みが嘘のように引いていく。だけど、どうも落ち着かない。心細い。ソレとともに何年も何年も生きているせいで、ソレなしに生きることなど考えもつかないのだ。


 ソレを完全に無くすことを目標としているのに、ソレがない方が幸せなことは明白なのに、人々はソレがあることに慣れてしまう。ソレがあった方が幸せだと感じてしまう。ソレ自体が生きがいになってしまう。


 無くしたいと思っているのに、心の底ではソレを追い求めている。


 私はソレがあることに慣れたくなかった。だから、こうして毎晩一人、ソレを剥ぎ取るのだ。


 ソレを脱ぐとぷかりと宙に浮く。全てが幸せに感じる。


 ソレは体に毒だ。ない方がいい。ない方がいいけれど、あることが美徳とされている世の中だ。「あればあるほど人にやさしくなれる」「一番ソレを背負ってる人こそが幸せになる権利がある」、なんて言葉もある。


 ソレを背負うと、こんなにも痛いのに。


 こんなにも苦しいのに。


 ソレを持っている人が一番深みがでると洗脳される。


 私たちはソレを飼い慣らしているようで、ソレに飼い慣らされているのだ。


 この世界は狂ってる。


 そんなことを思いながら、脱ぎ捨てた自身のソレを見つめた。


 トットットッ……。


 部屋のドアの向こうで音がする。人の気配が感じられた。


 誰かが来た。家族の誰かだろうか。あぁ、至極の時間はここまでだ。


 私は大きく息を吐いて、ズタズタでボロボロな重ったるいソレを手にした。


 さぁ、演じなければ。さも、ソレを抱えてないかのように、ソレを抱えて。この世界にうまく溶け込むために。



 そうして私は、今日も傷を着る。


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