第三章 アルシンド・ブルトカール 5
獣だろうか? いや、それにしては音が大きい。
人が草木をかき分けて進むときに出る音だ。こんなこと、つい一昨日の夜もあったなぁ。あのときは、びっくりした。
「きっとアインだよ。おーい、アイン! こっちこっ……」
白目をむいた、真っ白い肌の女。
裸だ。目の前に立っている。
人型をしているが、人間では無い。白く長い髪は粘液を纏い、体に張り付いている。女が口を開けると、鋭く尖った細かな歯がびっしりと並び−−−−
ギャー!
メブレビは全力で森の中を走った。
「な、ななな何あれ! 何あれ!」
「水の魔物だね」
「あ、あれが? あれがそうなの? ひぃ! 這ってる、地面を這ってるよ、フラウウ」
水の魔物はその名の通り、まるで液体であるかのような動きで大地を滑りものすごい速さでこちらに迫る。
「い、痛い。いてて」
顔に枝や木の葉が打ち当たる。腕ではたき落としながら駆けているが、走りづらいことこの上ない。
(魔物を倒そう)
(待ってフラウウ! 倒したら駄目なんじゃないか?水の魔物が居なくなったら大変だって聞いたぞ。それにこの人たち、王族の飲む水に棲んでるってさっきアイン達が)
(人の心配をしている場合か! もちろん、死なない程度に痛めつける)
(うっかり度が過ぎて死んじゃったらどうするんだよ! 駄目駄目、怖い)
(じゃあ、木に登るのは?)
(それだ!)
木登りなんて何歳以来だろうか。登りやすそうな木に狙いをつけて大地を蹴り飛び移る。止まらないよう、勢いを殺さないよう、目の前の枝。次の枝。そしてその次の枝へ。
(メブレビ! 数が増えた)
(は!? 嘘だろ? 登って来てないよな)
(それはまあ、うん。大丈夫なんだが)
(なに!?)
すぐに振り向くことはできなかった。とにかくもっと上へ登らないと。
ようやく安心できる高さまで来て、地面を見下ろした。そこには口を大きく開け、
– 血……えして
「血?」
– 血。帰して。返して。仲間。
仲間の血を。
帰りたい。
– 返せ! 帰せ! カエセ!
「血? 血がどうしたって……」
訳もわからず困惑していると、胸のあたりがカッと熱くなる。熱を感じると同時に、その場所から赤黒い炎が立ち上った。慌てて懐に手を入れ、それを取り出す。
アインから預かった絹の袋だ。
ここにはアズラクで持ち主を死に追いやった赤い石が複数入っているはずだった。
メブレビが袋を外に出した瞬間、魔物達がさらに激しく吠えた。
彼らの声がメブレビの心に入り込んでくる。だが、告げられた事実を整理している暇は無かった。
「ふ、フラウウ。どうしよう。木をかじってる。爪で削ってるよ!」
「不味いな。このままだと木が倒れるかもしれない」
「ひぃっ! 死にたく無い。死にたく無いよ! いくら俺でもこの高さから落ちたら死ぬから! ああ、神様。イズリヤーム様! フラウウ、他に神様知らない?」
「だ、大丈夫だメブレビ。落ち着きなさい。今、大鷲を呼ぶから」
(あ……駄目だ。倒れる)
身体が宙に踊った。
ふと頭を過ぎったのは長兄の黒い髪だった。
細かく繊細に、細く、細く、三つ編みにしていく。
頭に添わせるように編む。何本も。何本も。
ああ嫌だ。死ぬときに思い出すのがあの日のことなんて……本当、勘弁して。
「メブレビ! おい! 目を開けろ!」
「嫌だよアイン。思い出したく無いんだから」
「は? 何言ってる。怖さで変になったのか?」
(えっ?)
気がつくとメブレビは剣に乗ったアインに首根っこを掴まれ、ぶら下げられていた。
グイッと、剣の上に引き上げられる。
「こんな時でも手を貸してくれないなんて。ちょっとあんまりなんじゃない?」
「恩人に礼も言えないと?」
「すみません、ありがとうございます。剣もありがとう」
もう何にでも感謝したい気持ちだった。足下の剣も撫でておく。と、眼下にまだ居た七体と目があった。……怖い。
「どこも怪我してないか? 服が破けてる」
「ああ……。これは多分、走ってるときに木の枝に引っ掛かったんだと思う。魔物には触って無いし、触られてもいないから」
「傷は……無いな。はぁ。よくこの暗がりの中、転ばずに走れたな。足の速さもそうだが、一体どうなってるんだ? お前の体は」
(そりゃそうだよ、昼夜問わず活動する種族の一員だもの。夜目が利かないと話にならない)
深淵の宝石商〜千夜の君と一夜の魔術師〜 七文 @723-nanafumi
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