葬儀場にて
翠雪
葬儀場にて
「じゃあ、海にでも撒くか」
その一言で、私は彼を自分の兄だと思えた。
母方の祖父が死んだ。糖尿病を患い、腎臓が役をしなくなって、透析をしていた人だ。にわかに暖かくなり始めた四月の朝、めったにない母からの着信をとる前から、私は、薄らとその事実を理解していた。近所の不幸がぱたりぱたりと重なって、葬儀場が繁盛する頃に、祖父の心電図は折れることをやめたらしい。雲は少なく、髪を掬う風も柔い、穏やかな春の日だった。
「うん、うん。喪服はこっちで準備するよ。買って済ませていいから、何か食べるようにしてね」
通夜の当日、朝。私は、電光掲示板のない電車に乗りこんだ。車掌のアナウンスが、箱の行き先を都度告げる。都心から地方へと向かう車両は、随分と年季が入っている。東急東横線であれば「このドアが開きます」などとぴかぴか表示される場所には、細長い紙を差しこむための留め具だけがぽつんとある。一泊分の荷物を運ぶキャリーケースの上には、常温保存のインスタント食品を詰めた、キャンパス地のトートバッグが乗っている。兄と話し合って決めた、忙しくしているであろう父母への差し入れだ。費用は折半する約束で、持ちこみは私の仕事。晴天のもとで揺れる公共交通機関は、慌てて仕事を片付けたせいで寝不足の私を、一生懸命に眠らせようとするから困ってしまう。緑の山々を切り取る車窓越しの陽光は、GU謹製の黒いワンピースがよく吸った。
「おかえり」
同じ電車の、別の車両から降りてきた兄へ、軽く手を振る。六歳上の血縁者は、双子でもないのに、顔立ちが私とよく似ていた。
通夜の開式前、喪主である父と、祖父の一人娘である母が席を外した。自分たち以外の親族は、まだ集まっていない。大仰な祭壇の中央には、十年ほど前に撮ってあった、祖父の遺影が据えられている。両脇には、五、六基の供花がそれぞれに飾られており、遠目にも華やかだ。八十六歳の往生にふさわしい、寿がれた旅立ちだった。
「立派だな」
「そうだねえ」
カシャ。
母に頼まれたため、iPhone11のカメラ機能で、祭壇を写真に収める。その横で、兄は、俺の時は誰々が花を贈ってくれるかな、などという冗談を言っていた。
「私の時は、なんにもしないでね」
カシャ。
不意に、場にそぐわぬ本音が溢れた。それを発したのは、他の誰でもない自分自身だと気付く頃には、喉からまろび出る言葉を止められる時分を、とうに過ぎていた。
「葬式。嫌いだから」
それは、故人の近くに住んでいた遺族を責める親戚連中を、祖母の弔いで見たがゆえの思いだった。物を言わなくなったことをよしとして、遺体に向かって謝りだしたり、冷たくなった肌を無遠慮に触ったりするさまは、本当に、本当に気持ちが悪かった。形見分けの際に、いかにも高い値がつくであろうジュエリーばかりを選んで懐に入れる老婦たちを見た衝撃は、なかなか色褪せてくれない。もう、七年も前になる記憶だというのに。
私の死が演出用の小道具として消費されてしまうくらいなら、葬式を出してほしくない。おそらく私は、生涯独身だ。古い友人と呼べる人も、三十代が目と鼻の先に迫るにつれて、段々と少なくなってきた。葬式を構えなければならないほどの広い交流は、特にない。親しい面子には、生前のうちに、言いたいことを言っておいてもらうとする。冠婚葬祭の主役には、なりたい人がなってくれ。
返事ができない会話ほど、虚しいものはない。
悔いる相手が死んで、そこで初めて気が付いたことがあるのなら、黙って墓場まで持って行け。過去の清算に死者を使うな、というのが、私の持論だ。結婚という形で新しく「家族」を作り、此度の「家族」の葬儀を取り仕切っている父母には、決して受け入れられないだろう本心である。
「じゃあ、海にでも撒くか」
返されたのは、笑い混じりの軽い声。遺骨を、という目的語が欠けた肯定は、「家族」の一人がするであろう返答として、予想だにしていなかったものだった。
私は、兄とは、決して不仲というわけではない。今回のような、親族が関わらざるを得ない機会だけではなく、好みが重なる映画を見た時は、チャットで報告し合うこともある。口頭とさほど変わらない話しぶりで、会話文を何度か往復させる二人は、悪くない兄妹関係であるはずだ。六歳分の差をもって生まれた私たちは、喧嘩らしい喧嘩すら、未だかつてした試しがない。妹として可愛がられている自覚は、誰に指摘されずともある。
しかし、彼が「私の兄である」ということについて、あれほど強く納得したのは、これが初めてだった。提案された葬送は、多分、からかいを含んでいなかったと思う。あまり真顔を作らない彼の口端は、この時も控えめに上がっていた。
「いいね」
そうしてよ。
こちらも、笑って答える。順番通りならば、六つも歳が離れ、性別に基づく平均寿命が短い男きょうだいの方が、先にこの世を去るだろう。兄も独り身なので、今のところ、推定される喪主は私。先の会話は、ほんの気休めでしかないことは分かっている。たった一晩寝たら、忘れられてしまうかもしれない。
カシャ。
「これで十分だね」
「ん、いいんじゃない」
けれども、お世辞にも万人向けではない私の死生観を、あるがまま受け入れられた。それだけは、気鬱な葬式の中で唯一得られた、手向けの花のようだった。
葬儀場にて 翠雪 @suisetu
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