ガン患者の繰り言
山下 省平
ガンの繰り言 2
その七
手術後十日目、朝から霙交じりの雨が降り風も強く寒い日となった。退院の日にこんな荒れた天気になり、気が滅入ってしまう。
昼前、妻が迎えに来てくれた。ナースステーションに立ち寄り、入院中のお礼を言って病院をあとにした。これから我が家で身体の養生と併せて食事訓練をおこなっていくことになる。
十日ぶりの我が家だ。病室はシャワーだけで湯船は無かった。夕食後、しばらく身体を休めてから風呂に入り湯船に浸かる。心身とも疲れがとれていく感じがたまらない。湯船の中で身体の芯まで温めて体温を上げると、免疫細胞が活発になると聞いたことがある。
霙交じりの雨がまだ降っているようだ。こんな夜は熱燗で一杯といきたいところだ。ただ、一回に飲む量は一合である。あまり飲み過ぎないようにと言われている。
今までは最初に胃がある程度アルコールを吸収してくれて十二指腸への負担を軽減していてくれた。だが、これからはそうはいかなくなる。体調にもよるが、飲み方しだいでは悪酔いし、ダンピング症状を引き起こす原因を作ってしまうかもしれない。田所医師の言葉に怖気づいたわけではないが、今宵の晩酌は熱燗からウーロン茶のホットに変更した。
九時前、寝床に身体をすべり込ませる。灯りを消し、目を閉じる。九月下旬から今日までの出来事が頭の中を駆け巡る。ガン告知を耳にした瞬間、人生で初めて死というものを意識した。そして入院、手術と、あっという間に時が流れていった。
死の恐怖に煩悶の時を過ごしながらも早期ガンであることにわずかな希望を持ち、病理検査の結果が異状なしとなることを信じて、今我が家の暖かい布団の中で眠ろうとしている。これからもずっと我が家の布団の中で眠りにつくことができることを願う。病室のベッドで眠りにつくことだけは、もう金輪際お断わりだ。
十二月初旬、今年の初雪は吹雪となり二日間降り続けた。その間外出はせずに家に閉じこもっていた。
三日目の朝、カーテンの隙間から陽が差しこんでいるのがわかり、階下に降りて居間の窓を少しだけ開けると、裏庭の木々の枝を覆っていた氷雪が朝陽を浴びて水滴となり、少しずつ垂れ始めていた。
午後から気温が上がってきたのを機に妻と市内のショッピングモールへ出かけ、食料品と一緒に食事指導のときに教えてもらった間食用のカロリーメイトやカルシウムや鉄などが含まれているウエハースも購入する。
買い物から帰ると、夕食まで二時間ほど睡眠をとる。入院中の疲れと家での居心地の良さが相俟ってのことなのか、睡眠時間が増えていた。
夕食時、三ヶ月ぶりに熱燗で一合ほど晩酌する。病前のようにグイッと一杯とはいかないが、好きな肴を前にチビリ、チビリとゆっくり味わうのも思いの外いい。お酒を飲み始めた頃、家の近くに住んでいた叔父からお酒の飲み方についていくつか手解きを受けたことがあった。
その一つに「酒を味あうのは酒を飲み始めた刹那にある」と云っていた。つまり、酒の良さは飲み始めのほろ酔い状態のときが一番旨く、そして楽しいときであると教えてくれたのだ。
刹那的酒の良さを味わうことなく酒量が増えていくと時間も長くなる。すると、もう酒の良さは消えていき、悪酔いと後悔だけが残ることになる。再び刹那的酒の飲み方を思い出すとは思わなかったが、久しぶりの晩酌を刹那的に堪能できるようにチビリ、チビリとゆっくり味わうことに心掛けてみた。
一合ほど飲んだあと、体調は崩れることなく、ダンピング症状も表れなかった。ただ、酒の回りは田所医師が言ったとおりだった。お酒を飲むのは好きだが強い方ではない。だからその酔いの速さにいささか驚いてしまった。それからお酒が入るとどうしても食が進む。そのため、つい調子に乗って食べ過ぎたり飲み過ぎたりしてしまうことがある。病前なら二日酔いだけで済むかもしれないが、今はダンピング症候群という怖い後遺症がある。だから、注意しなくてはならないのだ。
ところで、晩酌の際に心掛けていることが一つある。それはお酒と一緒に「追い水」(チェイサーともいう)を用意しておき、時々水を飲んで体の中に入っていくアルコール分を薄めてやる。ただ、こうまでして飲まなくても、という考えもあるかもしれないが長年の習慣を止めるということはなかなか難しいようだ。
ちなみに、チェイサーとは、お酒の合間にいただく飲み物のことで、英語で「Chaser」と書き、直訳すると「追いかけるもの」という意味になる。メインのお酒の後を追いかけるように飲むことからそう呼ばれるようになった。
日本のバーで「チェイサーください」というと水が出てくるが、海外ではメインのお酒よりアルコール度数が低い飲み物のことをチェイサーと呼ぶので、ジュースや炭酸などのソフトドリンクのほか、ビールなどのアルコール度数の低いお酒もすべてチェイサーに含まれている。ただ一つ注意したいのが、これはアメリカ英語の定義であり、イギリス英語では「弱いお酒の後に飲む強い酒」のことをいう。同じ英語圏であってもチェイサーの意味が正反対になるのが面白い。
十二月中旬、胃ガンの切除手術後、減った体重も徐々に増えてきて63㎏台までなった。食事のリハビリで体重を増やすということも大切なことだ。しかし、もっと大事なことは毎日の食事の中から身体のために必要な栄養素をきちんと摂取するということだ。そして、そのためにも新生消化器が早く身体に馴染み、病前と同じような機能を発揮してくれるようになることである。そのためにも明日の病理検査の結果がすべて異常なしとなり、五年間の経過観察期間となることを切に願う。
十二月十五日、朝晩の冷え込みも厳しくなり、布団から抜け出すのがつらい日が続いている。時計がちょうど七時になったのをきっかけにして寝床から抜け出す。そして、カーテン開けると眩しい陽光が寝室の中に差し込んできた。
朝八時過ぎ、快晴に恵まれて気分よく市民病院に向かった。到着するといつものように再診受付機に診察カードを挿入する。出てきた受診票を手に持って外科外来に行くと受付の看護師に受診票を渡し、一時間ほど待っていると名前が呼ばれた。
「さて、病理検査の結果ですが、大変良い結果となりました。すべて陰性です。リンパ節等にも転移していませんでした。したがって、抗がん剤等による治療には移行せずにこれから五年間の経過観察期間となります。そして、年一回来院してもらい、血液検査および全身のCT検査を受けてもらいます」
と、笑顔で言った。
田所医師が笑みを浮かべながら話しているその顔が徐々に仏様に見えてきた。
病院を出るとT神社に行くことにした。T神社は入院前に病気平癒を祈願した神社だ。念願成就となり、お礼に参ることにした。
十二月下旬、今日は病理検査の結果を報告するために佐倉医院へ行く。
検査結果の報告が終わると、
「心配していましたが、良い結果となって安心しました。本当によかった」
と、喜んでくれた。
佐倉医師の笑顔に釣り込まれるように、私も無意識のうちに安堵の表情を浮かべていた。
佐倉医院での報告の後、市内のショッピングモール内にあるフードコートで昼食をとることにした。師走に入ったモール内は急に賑やかになり、日曜日ではないが人々であふれ、動きはなにやら忙しげであった。
ガン発症以来私の気持ちは今ひとつ晴れないでいたが、このありふれた日常の生活がどんなに幸せなことであるか、目の前の情景を目にしてあらためて気づかされたようなそんな気持になった。
十二月三十日、午前中、今年最後の墓参りを家族みんなで行く。墓掃除の後、孫たち三人は親の立ち振る舞いを見ながらお墓に向かって神妙な面持ちで手を合わせている。その姿がなんとも健気で可愛い。
墓参りから帰ると孫たちは、緊張感から解放されたように季節外れのシャボン玉遊びを玄関先で始めた。粉雪が舞い散る中、元気いっぱいだ。空に向かって夢中になってシャボン玉を飛ばす。それを傍で眺めていた私は粉雪に向かって舞い上がるシャボン玉がガンに抗う自分の姿と重なって見えた。そして、ガンが発症から今日までのことが走馬灯のように頭の中を駆け巡った。
三年前、職場の健康診断を受けるために佐倉医院を訪れた。ところがそのとき胃潰瘍が見つかり、このことがきっかけとなって佐倉医師が私のかかりつけ医になった。それから年一回胃カメラ検査を受けるようになり、職員健診の日から三年目の秋に早期の胃ガンが見つかったのだ。
胃ガンは日本人に多いガンの一つだ。そのガンになってしまった。死の恐怖に怯えながらも心の隅では「自分だけは大丈夫、必ずガンは治る」と根拠のない自信を持ち続けた。すると、思いが通じたのか事態は好転していき、胃の3分の2は失うことになってしまったが、リンパ節等への転移は認められず、抗がん剤治療や放射線治療へは移行することなく、五年間の経過観察となったのだ。
ただ、これから五年間の経過観察期間中にガンの再発や転移などがないという保証はない。五年間はあくまでもガン治療中の通過点と考えたほうがいい。だから、ガンが完治したという認識はもたないほうがいいのだ。そして、経過観察期間が終わっても、常に寛解状態であると考えるのがいいのかもしれない。一回ガンになったらそれでもう終わりではなく、二回、三回とガンは発症することがあるからだ。
その八
平成三十年一月三日、大晦日から正月の三日まで家で静かに過ごしていた。無聊を慰めるつもりで年末年始のテレビを見るのだが一向に気晴らしにならない。ただ、新生消化器はすこぶる調子が良く、ダンピング症状は一度も起きなかった。しかし、油断は禁物である。
入院中に点滴から全粥に変わり手術後初めて食べ物を口にしたとき、新生消化器は時期尚早なのかすぐに腹痛を起こし痛み止めの薬なしでは食事することができなかった。それが今、ゆっくりよく噛み、食べ急ぎさえしなければ腹痛を起こすことなく食事ができるようになった。そして、お酒まで飲めるようになったのだ。
管理栄養士に食事指導のときに教えてもらった食事訓練はまだ始まったばかりだ。新生消化器が病前のような機能を取り戻すまでは、身体に備わっている治癒力を信じて食事のリハビリをおこなっていくことにする。
一月中旬、気温も上がり、暖かい日が続いている。若い頃はなんでもなかった寒さが、歳をとるにつれてつらくなってきた。だから、この暖かさは大変うれしい。そこで、この暖かさを機にウォーキング再開することにした。病前歩いていた約二キロのコースを三十分から四十分かけて歩く。歩くことによって、足の筋力や体力をつけることもあるが、胃腸の働きや免疫力アップにもつながると思ったからだ。ただ、無理はせず天気の悪い時や気分が乗らないときは中止することにした。
二月上旬、節分の時期になると何故か天気が荒れる。二日の午後から雪と強風で荒れてくると、それが終日続いた。
翌朝目覚めて寝室を出るとまるで氷の世界のような冷たさが深深と身に染みてくる。寒さに弱くなった年寄りにはこんな冬の朝はとてもつらい。今すぐ暖かい南の島へでも飛んで行きたい気持ちになってしまう。それに寒くなると身体の具合もあまり芳しくない。身体が冷えると内臓の働きも悪くなり、免疫力も低下してくるというの聞いたことがある。だから、寒い夜は風呂にゆっくり浸かり、身体をしっかり温めるといい。ただ、風呂から上がってすぐ寝るのはあまり良くないようだ。血圧なども高くなっているので、三十分ぐらいソファーか椅子に座り、クールダウンしてから寝床に入るほうがいい。それから寝る前のアルコールは止めたほうがいい。最近よくいわれていることだが、お酒を飲むと寝入りがいいだけで、そのあと質のよい熟睡が得られにくくなるといわれている。睡眠の質が下がれば疲れも取れにくくなる。そして、一番つらいのがトイレで起こされることだ。一回、二回ならまだいいほうで、三回、四回となれば、流石につらい。
ちなみに、アルコールは元々利尿作用がある飲み物である。その中でビールは他のお酒よりも利尿作用が強くなる。それは、ビールに含まれているK(カリウム)やホップにも利尿作用があるためだ。だから、ビールを飲む時は他のお酒よりトイレの回数が増えると覚悟して飲んだほうがいいかもしれない。
二月中旬、今年は暖かな日が多い。そのためウォーキングを中止することも少なくなんとか歩き続けている。そして、身体のほうも天候に応じたように調子は良い。それ故、二月に入ってからの新生消化器の状態もほぼ良好であった。たまに重苦しい痛みが襲ってくることもあったが、激しい痛みに変わることはなく、薬を飲まなくても自然と治まっていた。
ところがある夜、夕食を済ませて居間でテレビを見ていると、みぞおちの辺りに鈍く、重苦しい痛みが襲ってきた。痛みは徐々に強くなり、五分以上経っても痛みが和らぐ気配がない。「これはもしかするとダンピング症状が起きたのか」と思い、すぐに薬を飲むのだが一向に治まらない。こうなるとあとは神に祈りながら、痛みが過ぎ去るのをじっと待つしかない。
夕食時、体調が良かっただけについ調子に乗ってしまい、早食いと食べ過ぎが重なってしまった。そして、晩酌のビールも食欲をそそる素になっていたようだ。
入院時の経験から早食い、食べ過ぎはしない。と、常に心に留め置いたはずだ。ところが、忘れてはいけない肝腎なことはすぐに忘れてしまい。忘れてしまいたい嫌なことはいつまでも覚えている。人間とは難儀な生き物だ。二月に入って概ね調子が良かっただけに残念な出来事となった。
二月下旬、市内のショッピングモールで買い物を済ませたあと、モール内にあるフードコートで昼食を取ることにした。
外出するときは、もしもというときに備えて必ず痛み止めの薬を携帯するようにしている。例えば飲食店でダンピング症候群を起こして、人前で腹を押さえてもがき苦しむ姿は見られたくないからだ。だから、外食する際は早食いや食べ過ぎないよう特に気を付けている。多ければ家と同じように残せばいいのだ。食べるという行為を少しずつでも自分でコントロールしていくことができれば新生消化器の負担も軽減できダンピング症候群を予防することにつながると思う。腹も身の内という言葉がある。肝に銘じるべし。
三月春分の日、墓掃除を兼ね妻と一緒にお参りに行く。墓掃除のあと、花を供えて帰宅する。最近よく耳にする言葉に爆弾低気圧というのがある。春一番のような強い風が吹くのだが酷いときは一日中風が吹き、外出をためらうようなときもある。しかし、今日は風もなく暖かい春の日差しが降り注いでいる。少しずつだがそこまで春が近づいているようだ。夕食後、ウォーキングを実施。
六月下旬、歳を取るにつれて季節の移ろいが早く感じられるようになった。退院してからあっという間に半年が過ぎた。残り半年間を無理せずにゆったりとマイペースで身体の養生していくことにする。
買い物から帰ってくると、孫たち三人がいつものように勝手口からダイニングルームに上がってきた。三人は新しいサンダルや靴を買ってもらったようで、よほどうれしかったのかわざわざ老夫婦に見せにきてくれたのだ。一番下の男の子は新品のスニーカーを履いて得意げにダイニングルームを歩き回っている。ふと気づき、まだ靴に付いている値札を見ると私の靴よりもほんの少しばかり高額であった。
九月下旬、経過観察期間となって一年が過ぎ、一回目のガン検診が始まった。
まず、佐倉医院で胃カメラ検査と大腸検査をおこない、ともに異常なしとなったのだが、腹部エコー検査で胆嚢の中に石が五~六個見つかり胆嚢結石症と診断された。
検査後、佐倉医師から胆嚢結石症は胃ガンと相関関係にあり胃ガン患者の二人に一人の確率で発症するといわれた。
ちなみに胆石症は、石のできる場所によって病名が付き三つに分類されている。
①肝臓内にある「肝内胆管」に結石ができる肝内結石
②胆嚢と十二指腸をつなぐ管「総胆管」にできる総胆管結石
③胆嚢結石
この中で一番頻度が高いのが私と同じ胆嚢結石だ。胆石は、コレステロール値が高い人に多く、代謝しきれずに過剰となったコレステロールが胆嚢内にたまり、結晶化すると石になるようだ。それから、胆嚢内に石を作ってしまう原因は揚げ物など高脂肪の食事が多いことやお酒の飲み過ぎなどがある。大体無症状で経過することが多いが、仮に胆嚢内からの石が胆管などに詰まると、腹痛や吐き気などの胆石発作が起こり胆嚢炎を併発することもある。
治療方法は、痛み止めの薬と胆汁の流れをよくする薬を併用しながら治療する内科的治療の場合と、日常生活に支障をきたすような痛みが強く出て、繰り返すことが多くなる場合は、胆嚢ごと取ってしまう外科的治療がある。
いずれにしても、胆嚢内に石を抱える身となってしまった今、その石がいつまでもじっと動かずにおとなしくしていてくれることを願うだけである。
十一月中旬、今日は市民病院で一回目のガン検診である。
九時前、病院に着くと採血室に行き血液採取してもらう。終わると外科外来に行き看護師に受診票を渡して名前が呼ばれるまで待つ。
しばらくして、看護師からCT室へ行くように促される。全身のCT検査は十五分ほどで終了し、外科外来に戻り名前が呼ばれるまで待つ。一時間ほどして呼ばれると妻と一緒に診察室に入る。いつものように田所医師とクラークの女性が待っている。
田所医師から検査結果について特に問題なしと言われたあとに、佐倉医院で胆嚢結石症と診断されたことを報告し、胆嚢結石症の治療方法について訊ねてみた。すると、酷い痛みが継続的に起こるなどしない限り経過観察が主流であり、今の状況では積極的な治療はしないということであった。やはり今すぐ何とかしなければならないということではないようだ。
ともあれ、一年目のガン検診は石が見つかった以外は特に問題なく無事に終わることができて安堵する。
平成三十年大晦日、昨夜の吹雪も収まり、今日は朝からいい天気になった。
天気の良かった昨日の午前中に墓参りと掃除を済ませてから花を供えたのだが、午後から天候が一気に荒れてくるといつしか吹雪になった。墓に供えた花が心配になり暗くなる前に見に行くと、何とか花立てに納まっている花を確認して家に戻る。
今年最後の日が穏やかな天気のうちに終わりそうである。テレビでは年の瀬に忙しく働く人々の様子が映し出されていた。その情景を眺めながら、今年もなんとか穏やかな気持ちで新年が迎えられることに嬉しさが込み上げてきた。
その九
令和元年十一月、胃ガン発症から二年目の春に新型コロナウイルスが日本を含めた世界中に蔓延し、パンデミックに陥った。病院を受診する者にとっては心配される社会情勢となったが、毎年実施しているガン検診のルーティンは崩すことなく今年もガン検診を継続した。そして、その結果は問題なく終わることができた。
令和三年九月、新型コロナウイルスの猛威は三年目を迎えても一向に治まる気配を見せない。このような状況の中、四年目となったガン検診がいつものように佐倉医院から始まった。しかし、大腸検査でポリープが見つかり病理検査することになる。
大腸の病理検査において指標となる判断基準がある。それはグループ1からグループ5までの五段階に分類されている。
1は異常なし。2は炎症性変化のみの腺腫。3は軽度または中程度の炎症変化がみられる腺腫。4は高度の炎症性変化がみられる腺腫。そして、5は「ガン」となっている。大腸ポリープのほとんどを占めているのが腺腫と呼ばれているもので、ガンではない。しかし、ポリープの大きさが大きくなるにつれてガンの確率は高くなり、1cm以下はほとんどが良性(腺腫という)なのに対して1cm以上になるとガンの可能性が高くなる。そして、2cm以上だとガンの確率が70%になるといわれている。今回の検査結果はグループ4と診断された。そして、その上のグループ5はガンだ。
ここまで四年間順調にガン検診を通過してきたが、大腸は隣り合う臓器の一つである。それだけに、ガンではなかったがあまりいい気持ちはしなかった。
ガンは異なる場所にいくつか発生することがある。これはガンの一部が流れていき他の臓器にもガンをつくる転移ガンとは異なり、ガンがいくつかの臓器に別個に発生することをいう。このことを重複ガンまたは多重ガンと呼んでいる。
この重複ガンのうち、同じ時期にいくつかのガンが見つかる場合を同時性重複ガンと呼ばれる。さらにガン治療のあとにいくつかの別のガンが見つかる場合を異時性重複ガンと呼ぶ。つまり、ガンは一か所のみにできる病気ではない。そして、一回ガンになって治ったからもう一生ガンという病気からおさらばできる。と、いうわけではないようである。
十一月中旬、市民病院にて四年目のガン検診受ける。いつものように血液検査と全身のCT検査である。結果は、特に問題なく無事に終わった。
経過観察期間四年目のガン検診も何とか無事に終了し、安堵する。
令和四年九月、胃ガンの切除手術を受けてから五年目の秋を迎えた。新型コロナウイルスは未だに落ち着く気配が見えない状態である。そんな状況の中でも最後のガン検診が佐倉医院から始まった。
胃カメラ検査や大腸検査も五年目になると、モニターに映し出される映像を余裕で眺められるようになる。あれほど憂鬱だった検査がもう遠い過去のように検査慣れした自分がそこにいた。
胃カメラ検査は異常なしだったが、大腸検査ではガン化しそうな怪しいポリープが2個ほど見つかり、ガン化する前に切除することになった。
手術方法は、通電切除が可能なスネアと呼ばれる円形のワイヤーをポリープの茎にかけ、通電させて熱焼灼することによって切り取る方法である。
モニターに映し出されたポリープがバチバチという火花とともに焼かれている映像が目の前に映し出される。焼かれたポリープから火花が散り、焦げ臭い匂いさえも伝わってきそうだ。モニターに映し出された映像はまるで幻想的な世界を見ているようであった。しかし、これが自分自身の体の中から映し出されている現実だと気づくとなんとも言えぬ不思議な気持ちになりながらもその映像に目が釘付けになっていた。
佐倉医院でのガン検診は昨年に続き今年も色々あったが、なんとか最後の年を無事に終わることができた。
ガン発症の一つの要因として繰り返しおこなわれる刺激によってガンが発症する可能性が高くなるといわれている。このことを世界で初めて証明した日本人がいた。その人の名前は山極勝三郎といい、私が学生時代に臨床病理学という授業の中で初めて知った名前である。
山極は1910年から1920年代にかけて活躍した病理学者であり、当時はガンの発生原因は不明だった。ただ、主たる説として刺激説と素因説の二つがあり、山極は煙突掃除夫に皮膚ガンの患者が多いことに着目して刺激説を採り、実験を開始するのだが、その実験とはひたすらウサギの耳にコールタールを塗擦し続けるという地道なもので、助手たちと共に実に三年以上に渡って反復実験をおこない、ついに化学物質による人工ガンの発生に成功した。
ところが、1920年代において山極による人工ガンの発生に先駆けて、デンマークのフィビゲルが寄生虫による人工ガン発生に成功したとされ、1926年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。しかし、1952年にアメリカの研究者ヒッチコックとベルは、フィビゲルの観察した病変はビタミンA欠乏症のラットに寄生虫が感染した際に起こる変化であり、ガンではないことを証明した。
現在人工ガンの発生およびそれによるガンの研究は山極の業績に拠るところが大きいとされている。だから、もしかすると日本人初のノーベル生理学・医学賞は山極が受賞していたかもしれないのだ。
十月上旬、秋はまた時雨の季節という。一日中降ったり止んだりしてはっきりしない天気が続くことをいう。ただ、今年の夏は去年よりも更に暑く、いつまで続くのかわからないような天気だっただけに、やっと秋らしい涼しさを運んできてくれたようだ。そんな中、市民病院で最後のガン検診がおこなわれた。
診察室で血液検査、CT検査ともに異常なしと田所医師から言われる。過ぎてしまえばあっという間の五年間だった。そして、何とか無事に経過観察期間を終わることができた。
市民病院で胃の切除手術をおこなう前にもらった資料の中に、胃ガンの進行度別に五年後の生存率を示したデータがあった。これには、ステージⅠ期の早期ガンからステージⅣ期の進行ガンまでの生存率をパーセンテージで次のように示している。
まずⅠ期99.7%、Ⅱ期79.9%、Ⅲ期49.5%、Ⅳ期13.0%、となっている。このデータをみる限りやはり早期発見と早期治療が大事だということがわかる。そして、このデータが示すとおり再発・転移はなく五年間の経過観察期間は終了したのだ。
その十
十二月上旬、胃の切除前と同じというわけにはいかないが、食欲という欲求はほぼ満足できる状態まで食べれるようになった。そして、あれほど苦しめられていたダンピング症状もほとんど起きなくなっていた。
六十二歳で胃ガンを発症し、その後新型コロナウイルスによるパンデミックの中、あっという間に五年間が過ぎていった。この五年間の経験は健康に恵まれていることがいかに有難いことか、あらためて実感できた五年間でもあった。
若い頃、お金の必要性や大切さはある程度わかっているつもりだった。そして、生活する上で最低限の衣食住を賄うことができればそれで十分だと思っていたが、無職で年金暮らしをしていると、お金がいかに頼りになるものであるかわかってくる。
人間歳を重ねれば自然に病気のリスクも高くなる。特に眼・耳・歯などのメンテナンスを含めた治療費が必要となることが多くなる。だから、余裕があれば「衣食住」とは別に医療費を必要経費として準備しておくとかなり経済的に助かる。
それから生命保険も一般的な医療保険も含め、できればガン保険にも加入していると安心できる。私はガン保険には加入していなかった。ただ、入院、治療などの費用は一般の医療保険と高額療養費制度のおかげである程度救われたが、できればガン保険に入っていればと今頃になって後悔している。
私と同時期にガンになった友人はガン保険にも加入しており、その保険金が結構な金額だったそうで経済的にも非常に助かったと言っていた。
今や人生百年時代といわれている。そして、二人に一人がガンになる時代だ。ガン保険は老後の生活において大きな助けになるかもしれない。
十二月中旬、テレビの医学番組で、ある医師がまったく同じ生活習慣(飲酒・喫煙や食事など含めて)の人間がいたとする。ところが同じ生活習慣でもガンになる人とならない人がいると云った。そして、ガンになった人はある意味運が悪かっただけである、と。テレビの中ではその医師の言葉に笑いが起こっていたが、「ガンになるのは運しだい」という言葉に、私は妙に納得してしまった。
2012年に国立ガンセンターがガンになる原因を調査したことがあり、その結果を百分率で表したのだが、意外な結果になった。
まず、よくガンの原因として挙げられている喫煙は20%。次に飲酒および食生活と運動不足などが合わせて10%。さらに細菌・ウイルス(ピロリ菌→胃ガン、HCⅤウイルス→肝ガンなど)などの感染によるものが20%となった。そして、残りの50%は確たる原因はわからないということで、原因不明となったのだ。
前述のとおり医師が云った「ガンになるのは運しだい」という言葉と2012年のガン原因の調査結果で50%は原因不明であるという結果に、ガンという病気の何とも言えない不思議さと怖さを感じてしまう。考え方によっては人生も「運しだい」なのかもしれない。と、ふと思った。
令和四年十二月下旬、玄関にしめ飾りを付けるために脚立の上で作業していると、大きなエンジン音とともに黒い大型バイクが玄関先に現れた。黒いバイクに跨った男はバイクから降りると手を振りながらこちらに近づいてくる。バイクの色と同じ黒いフルフェイスのヘルメットを脱ぎ笑顔で近づいてきた。しばらくして、その男が高校時代の友人だとやっとわかる。
話を聞くと、高校時代の頃から大型バイクの免許を取ってツーリングするのが夢だったようで、やっと六十七歳にして夢が叶ったと言った。そして、今年最後のツーリングの途中に我が家に寄ってくれたのだ。
怠惰な毎日を過ごしている私は、満面の笑みを浮かべてツーリングの楽しさを話す友人を見ていると、彼は自分の夢を七十歳を前にして迷うことなく実行したのだと思った。再びバイクに跨り、ツーリングに戻っていく彼の後姿を見ながら、友人と同じ大型自動二輪免許を持っている者として、「よくやったな」と思ういっぽうで去っていく彼の姿が羨ましくもあった。
令和五年正月元旦、年が明けてガン発症から六年目の新年を迎えた。年末年始の新生消化器は特に問題なく、ダンピング症状も起こることはなく順調だった。
家の近くにある神社に年始のお参りに行く。今年一年、家族皆が何事もなく平穏な日々を過ごせるよう祈願する。
二月中旬、最近テレビなどで健康寿命という言葉をよく耳にする。
これは、2000年にWHOが提唱した概念で、健康上の問題によって日常生活が制限されることなく五体満足で生活できる期間のことを呼称した言葉である。
つまり、健康寿命とは現在0歳の人があと何年日常生活に制限なく健康で自立した生活送れるか、という予測値だ。
では、健康寿命ではないというのはどんな状態かというと、脳梗塞などで半身麻痺になってしまうことや骨粗しょう症から骨折してしまい、自分一人では活動できなくなり介護が必要な状態になってしまうことをいう。そして、日本人の健康寿命は2020年のデータによると、男性が72.14歳、女性は74.79歳となっている。
これに対して現在0歳の人があと何年生きられるか、という予測値である平均寿命は、男性は81.64歳、女性は87.74歳となっている。
このデータから分かることは、平均寿命は女性が男性を六歳ほど引き離しているのだが、健康寿命はさほど差がないことだ。そこで問題となるのが、平均寿命から健康寿命を差し引いた五体満足でない年数である。男性は9.5年、女性は12.95年となる。男女で約10年から13年間も健康で自立した日常生活が送れてないことになる。これはやはり長い年数だと言わざるを得ないと思う。
病院勤務時代、脳梗塞などの後遺症で四肢の麻痺や言語障害などを患っている患者に数多く関わってきた。言葉が自由に発せられ、五体満足で生きていたいと願うのは誰もが思うことだ。ガン治療がそうであったように脳梗塞や認知症などの研究もこれから長足の進歩を遂げるはずだ。そして、いずれ画期的な薬や治療方法が開発される日が必ず来ると信じている。
四月上旬、四月に入り暖かくなると気持ちも身体の調子も併せたようによくなる。
桜も満開になった暖かな日、友人と温泉に行く道中の車の中で、同年代で親しく付き合っていた近所の人が相次いで二人も亡くなり淋しくてしかたないとしみじみ話していた。時が経つのは早い。還暦を迎えた二年後に胃ガンが発症し、その日からあっという間に六十代も後半となり、あと二年もすれば古希を迎えることになる。
「時間はお金より有意義なものである」と何かの本に書いてあったのを覚えている。
ガンになって健康である有難さや自分の人生についてあらためて考えることが多くなった。元気で身体が動くうちに自分の心が欲していることに素直になり、残りの人生を悔い無きよう生きていくことが大事だと今更ながら感じている。
五月中旬、大型連休も終わり徐々に世の中が落ち着き始めてきたころを狙って無職の老夫婦は出かけることにしている。少し遠出をして今が見ごろのボタンの花が展示してある植物園を訪ねた。花株の大きさも色々あるが、花の色が黄色というボタンがあり、初めて見た私たち老夫婦は少々驚いた。長生きはするもんだ。と、よくいうが確かにそうだ。夕方四時には孫たち三人を小学校に迎えに行くために少し早めに植物園を後にする。
夕方四時、赤ん坊の頃から傍にいて、保育園の送り迎えもおこなってきた孫たちも皆小学生になり、一番下の男の子はもう小学二年生になった。そんな孫たちの将来がこれからどんなふうになっていくのか、それを傍にいて見守っていけたらと思っている。ただ、最期の時まであとどのくらい時間が残っているのかはわからない。平均寿命の81歳までこの世にいられるどうかは神のみぞ知るところだろう。だから、あとは「運」に任せるしかないようである。
ガン患者の繰り言 山下 省平 @3662-893
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