泡沫の夢
詠
「ずっと綺麗なままじゃ、ずっと守られる人形なのは嫌なの」
あの時君は、澄み切った瞳にいっぱい涙をためて、俺をじっと見つめていた。右手には一振りの刀を、華奢な白い指で包んでいた。
***
星が宵闇にちらちら輝き始める頃、俺たちはとあるお屋敷の畳に座っていた。小綺麗な部屋の中には行燈が一つ、やわらかく優しい光を放っていた。
その光に照らされながら、俺たちの目の前に正座をする人物。桂小五郎と言う名の、長州藩士で勤王志士。俺たちの仕事の上司にあたる人だ。
彼は整った眉を少し吊り上げて、俺たちに次言う言葉を考えている。俺と、あともう一人は沈黙を破るわけでもなく、じっと正座をした膝に視線を落としていた。
「いいかい。私は心配なのだよ、君がそれに足る覚悟を決めているのかどうか」
低く爽やかな声色が部屋の空気を揺らす。それと同時に、俺の隣に座っていたもう一人は、肩をびくりと跳ね上げた。
「君が頑張らなくとも、私や
俺は自分の名前が出てきたところで、桂さんの顔を見て目を合わせた。桂さんも、俺と同じような心配そうな顔をしていた。
——剣客として、わたしも戦いたい——
どこで手に入れたのやら、純白の一振りの刀を手にして彼女は言った。つい昨日のこと。
しかし女子が剣客になるなど、俺たちには前代未聞だった。ましてや、天女のごとく美しい女子が、齢十六で人の血を浴びようとは。誰も彼女の試みを快諾することはなかった。そして、今に至る。
「……
重たい沈黙を破って、桂さんが優しく彼女に言葉を投げかける。俺の隣に俯いて座る重は、ゆっくりと美麗な顔を上げた。彼女の白髪が肩から滑り落ち、翡翠の瞳が行燈の光を受けて輝いた。その美しい横顔を、俺はただ見つめていた。
重は真剣な眼差しを桂さんに向け、芯の通ったしっかりした口調で喋り始めた。
「守られるだけじゃ、虚しいんです。辛いんです、悔しいんです。…こんな私の気持ちを、分かってくださいませんか?」
小川のせせらぎのような清らかな声が、一つ一つ言葉を紡ぐ。情に訴えかけるように問いかけた語尾が効いたのか、桂さんはふう、と呆れたように笑ってしまった。
「私の可愛い部下のお願いだ、無視できるわけがなかろう。くれぐれも、気を付けるのだぞ」
そう言う桂さんを不思議そうに見つめながら、重は続けた。
「意外と、あっさり通してしまうのですね」
「私はお前たちが大好きなのだよ。仕方のないことさ」
桂さんは立ち上がりながら、羽織を羽織った。部屋の戸を開け、廊下に出る前に桂さんは俺たちに一言を残した。
「
ぱたん、と障子が閉まり、桂さんの足音はどんどん遠ざかっていった。部屋に俺たちだけになると、俺は重に向き直る。
「本当はずっと、そう思っていたのか?」
この言葉が指すのは、先刻の彼女の決意の言葉。「守られるのが嫌」と言った彼女に、俺は心底驚いていた。
彼女とは、3年前に知り合った。俺が桂さんの護衛として会合に付き添った時、桟橋から飛び降りようとしていた彼女を俺が止めたのだった。正直、会ってすぐの彼女に意思や感情はほとんど無いようだった。ただひたすらに、光のない瞳を宙に向けている。何を考えているかすら分からない彼女に、俺は底なし沼のようなどす黒い恐怖を感じていた。美貌こそあるのに、まるでなにもかも諦めたような表情。にこりとも笑わず、なにも意見せず、本当に彼女が生きた人間だと思えなかった。
しかし、今はなぜかこんなにもしっかりしていて、俺に笑いかけてくれる。おまけに誰かを守りたいとも、思っているようだ。何が彼女をそうしたのかは分からないが、少なくとも俺は良かったと心の底から安心している。
「そうですよ。
俺の問いかけに微笑みながら答えると、首を傾げる動きに合わせて、下の方で緩く結んだ白髪が銀に輝いた。相変わらず、俺の名前を音読みで呼ぶのが好きらしい。なんでも呼びやすいとかそんな理由で呼んでいるのだろう。
「なんで俺なんだよ。別に守られるほど弱くない」
ちょっとだけ驚きながらそう問うと、重は優しく眼を細めた。
「お仕事、辛いんでしょう?時々、夜中に涙をこらえて寝ているの、知っていますよ」
「…」
確かに、時々なんで人を斬らないといけないんだろう、と考えるときはある。なんで俺がしなきゃならないのか、もっとまっとうな人生を送ってみたかった、そう考えて夜中に泣きたくなってしまうことは沢山あった。重に、気づかれていたのか。
「わたしもお仕事をすれば、
「結局、俺の為かよ。お人好し過ぎる」
乾いた笑い声をあげながら、俺はゆっくり俯いた。そんな俺の肩に、優しく触れる手。耳元で重がそっと呟いた。
「…わたし、頑張りますから。見ていてください」
***
早速次の日から、重は剣術の訓練をし始めた。どうやらこれまでも少し隠れてやっていたようで、動き方には少し慣れているみたいだ。しかし、まだ慣れているだけでは敵に太刀打ちすることが出来ない。よって、まだ相当な訓練が必要となってくる。そんな大切な師範役は、なぜか俺になった。
重とかなり仲がいいからか、桂さんは重に「剣術は
「
「分かった」
華奢な白い腕や手に、いくつもの傷や泥をつけながら一生懸命木刀を振る彼女。本当に、何が彼女をあそこまで奮い立たせているのだろうか。そう思いながら、大分様になってきた素振りをぼーっと見つめていた。
俺が指定した数の素振りを終えると、重はどうですか?と言わんばかりに俺を見つめる。暖かい日の元で、彼女の白髪が眩しく輝いた。
「まあ、様になってきてるんじゃないか。良いと思う」
「ありがとうございます」
俺が頭を掻きながらそう答えると、重はにっこりと微笑んでお礼を言った。ときたま重が見せてくれる、この心からの温かい微笑み。彼女はいつも猫をかぶっているから、俺の前だけでしか仮面を外して笑ってはくれない。なぜ彼女はいつも俺にだけ猫をかぶらないのか不思議に思いつつも、俺はこの眩しい笑顔が嫌いではなかった。
その後も重は剣術稽古を続け、この一日で粗削りだが戦えるようになるまでには成長した。引き換えに、重は稽古が終わるなり布団に倒れて動かなくなってしまったが。
「ひ~らぎ~、聞いたぞ?お前、重さんの剣術師範になったんだってな」
夕食へ向かおうと縁側の廊下を歩いていると、どこからともなく友人が現れた。この屋敷は京都にあり、もうすぐ大事な会合を迎える桂さんの隠れ場所なのだ。この屋敷では桂さんの護衛の剣客が何人か住んでいるので、ちょっとした家族みたいになっている。家族と呼ぶには少し多すぎるかもしれないけれど。俺もその一人だし、重もその一人だ。そしてこいつもそう。
「なんだよ
肩に置かれた腕を払いながら、俺は何気なくそう言った。案の定、友人の恭介はがははと大笑いして話を続ける。
「言えるならとっくに言ってらあ。お前はいいなあ」
「言っておくが、重をそういう目で見るのは止せ」
俺はじろりと恭介を睨む。
「なんだよ、お前こそその気があるんじゃないのか?」
恭介はにやにやしながら顔を近づけて、俺にしか聞こえないような小さな声で言った。
「馬鹿馬鹿しい。ただの…」
「ただの?」
「……妹だ」
「それは無理があるってもんよ、」
呆れて半笑いをしながら、恭介は先に夕食へ向かってしまった。俺は1人立ち止まって、ぐっと深く考え込む。
どうして、重は俺にとってなんなのかをすぐに言えなかったのだろうか。よく考えずに妹だと言ってしまったが、違う気がする。俺は、重にだけは素直に接することが出来るし、彼女と喋ると安心できる。彼女を守ってやりたいし、時には俺を慰めてほしいとも思っている。そして、命に代えても守りたい大切な宝物のような気さえしている。
「あまり深くは、考えないでおこう」
ごちゃごちゃしてきた思考を断ち切り、廊下を小走りして夕食へ向かう。疲れ切って部屋で死んだように眠っている重は、夕食の席には現れなかった。あとで、白米を握り飯にして持って行ってやろう。そう思いながら、俺は味噌汁に箸を入れた。
夕食後。白米を簡単な握り飯にしてお盆に皿と一緒にのせ、お茶も添えて重の部屋へと向かった。かたかたとお盆と皿の鳴らす音に足取りを合わせて、人通りの少ない廊下をゆっくり歩く。もう行燈の消えている部屋が多く、皆明日のために早寝をするらしい。そして俺はぽつりと行燈のついた部屋の前で立ち止まり、中で寝ている彼女を起こさないように静かに扉を開いた。中には、糸の切れた人形のように布団へ倒れこんでいる重の姿。稽古着のまま髪も解かずに寝息を立てている。
いつもの翠玉のような翡翠の瞳は閉ざされ、寝顔はとても美しい。絹のように真白い艶やかな髪が、布団の上にはらりと流れていた。月明かりに輝く睫毛は長く、白い肌が、生きているのか死んでいるのか分からない雰囲気を醸し出していた。
「重、起きろ。握り飯持ってきたぞ」
声を掛けても反応はなく、起きる気配もない。仕方なく俺はお盆を畳にそっと置いて、眠る重の肩を優しく揺らした。
「ん…」
「夕餉、食べないのか」
「…食べます」
ゆっくりと翡翠の双眸が開いて、月光を反射してきらりと煌めいた。重がゆっくりと起き上がってぼーっとしている間に、俺はずっと美しいその瞳に見入っていた。そのお陰で、俺はとても恥ずかしいことをしていることに全く気付かない。気づいたのは、重と目が合った瞬間だった。
「あ、えっと…ご飯…」
「ありがとうございます」
重は視線を握り飯へ逸らすと、照れたようにくすっとはにかんだ。そして、俺が丹精込めて握った握り飯を1つ両手で持ち、はむっと可愛らしいひと口目を頬張った。
もぐもぐと咀嚼をして、ごくりと飲み込む。その瞬間に、重は幸せそうな微笑みを浮かべた。
「おいしいですね、わざわざありがとうございます」
その笑顔を見て、俺も微笑み返した。
「別になんてことない。空腹だっただろ?」
「はい。やっぱり、
ふた口目をもぐもぐと頬張りながら、重は嬉しそうににこにこした。やっぱり、重に手を焼くのは楽しい。稽古も、これも。彼女はお礼もしっかり言ってくれるし、なによりその笑顔を見ることができるのが楽しいから。俺は、重の笑顔がなによりも好きみたいだ。
彼女が幸せそうに握り飯を頬張っている姿を見て、俺は自然に頬を緩ませていた。
***
重が「刀を持ちたい」と言いだしてから、早半月が過ぎた。重は、今では俺と肩を並べるほどに強い剣客に育ってきている。そして今日は、重の初めての護衛任務だ。もちろん、俺も支える。これから本格的に、一緒に戦い、血を被る仲間となるのだ。桂さんは、まだやっぱり重を護衛にしたくないらしい。この間、こっそり俺にだけ気持ちを打ち明けてくれた。それもそのはず、娘のようにかわいがってきた少女が、ある日突然自分のために血を被る、と言い出したら。俺だったら、自分じゃ何もできない無力感に耐えられないだろう。だから、せめて桂さんを苦しめないように、俺たちは平気な顔をして人斬りを続けなければならない。本当に、桂さんのことを思うならばの話だが。
「重、準備はいいか?」
黒い頭巾をかぶり、同色の
「はい。頼りにしていますよ、
「あんま無理はするなよ、俺に任せとけ」
「…はいっ」
重の可愛らしい返事に微笑み返すと、桂さんを呼びに行った。今日は桂さんの大事な会合の日。いつもの他の勤王派志士の護衛より、一層緊張感がひしひしとのしかかる。それに今日はひよっこの重もいることだし、俺がしっかりしなければならない。ふっと息を吐いて、刀の柄を優しく撫でる。ゆっくりと歩きだした桂さんの後ろを、俺と重と他数名の護衛剣士で囲んで歩く。真っ暗い夜の野道を、提灯を揺らしてとぼとぼと歩いた。
「おい、
暫く歩いている内に、斜め後ろを歩いていた恭介が俺に話しかけてきた。俺は集中力を切らさず、彼の方も向かずに淡々と答える。
「そんなの知るか」
「つれないねぇ。ほら、重さんが居るからだよ」
後ろから恭介が俺を肘で小突き、俺は少々むっとした。集中している間は、あまり話しかけたりちょっかいを出してほしくないという性分なのだ。少しだけ苛々しながらも、この間言ったのと同じような台詞をまた口にする。
「だから、重をそういう目で見るな。気持ち悪い」
「仕方ないだろ、俺らの紅一点なんだからさあ」
いちいち俺に、重に色目を使った話を振ってくる恭介がかなりうざったるい。自慢でもしているのか、構ってほしいのか知らないが、重に色目を使われるとなぜか背筋に悪寒が走る。自分に好意を向けられているわけでもないのに、こんなにも複雑な気持ちになるのは過保護のせいか。重が居ないと生きていけなくなってしまうのが怖くて、俺は考えるのをやめた。この時から、気づいていないだけで気持ちを表す言葉はすでに分かっていただろう。まだこの俺は、知る由もない。簡単に考えれば分かるはずだったのに。
俺たちが呑気に会話をしていたその時、俺のうなじあたりに、ちりっと電撃のようなものが走った。人の気配と殺気、誰かが来る。
反射的に刀の柄に手を掛け、愛刀を抜く準備をする。後方にも気を配りながら前方の方に目を凝らすと、小さな提灯の光が闇に揺蕩っていた。その橙の色に照らされる羽織の色は、鮮やかな浅葱色。白いだんだら模様の入ったその羽織には、嫌と言うほど見覚えがあった。
「くそ、今夜は邪魔が入ったか」
無意識にぼそっと舌打ちをして、俺は近づく影を目前に桂さんの前に立ちはだかった。後ろから奇襲される可能性もあるので、後方は恭介たちに任せ、俺と重で桂さんを庇うように新撰組と相対する。
「後は、頼むよ」
小声で俺たちにそれだけ言うと、桂さんは素早く真っ暗な路地に駆け込む。こんな時のために、ほかにも護衛剣士が動いていてくれているのだ。そのために、桂さんは別の道を通って会合場所へ合流できる。俺たちの任された仕事は、桂さんの護衛に引き続き、時間稼ぎに変更された。今はただ生きて帰るためのことだけを考えればいい。目の前の相手を斬り伏せ、また桂さんの元へと戻っることだけを。
「流石、逃げの小五郎だな。逃げ足が速い」
低い声でそう呟いたのは、隊の組長らしい男性。初対面だが、相当な手練れだということが彼の一挙手一投足から読み取れる。彼の醸し出す雰囲気もぴりぴりと張りつめており、張りつめた空気が俺たちの間に流れる。重はかぶっていた頭巾を、きゅっと顔が隠れるように引っ張った。そして、愛刀を両者音高く抜刀する。
「新撰組副長。土方歳三」
それが、彼の名前。
「お前らは、俺がここで斬り伏せる」
強気な台詞と共に、土方は刀を思い切り振りかぶった。それを合図に、隊士たちが一斉に攻撃を仕掛けてくる。一気に夜の野道は、危険な戦場へと色を変えた。金属同士のぶつかり合う音、提灯が地面で燃え尽きる焦げ臭い匂い。そして、目の前の背筋も凍るような最大の強敵。
土方の振りかぶった刀を俺は愛刀で受け流し、ひらりと宙へ身を翻す。俺は空中で体をくるりとひねり、鋭い初撃を繰り出した。三日月の光を受けて、俺の愛刀は一層強く輝く。土方の愛刀にがつんと受け止められてしまったが、後ろに大きく飛んでまた体勢を立て直す。そしてもう一度間合いに飛び込んでいくなり、土方は大きく刀を振りかぶった。
「っ!」
土方の初撃は重かったが、決して目で追えないほどの速さではなかった。むしろ、遅すぎる。しかし今回の剣戟は、まさに目にも止まらぬものだった。一瞬にして視界から消えた銀色は、次の瞬間に俺の胸を斜めに切り裂いた。重い衝撃が体を突き抜け、地面へ無様に倒れこんだ。自惚れではないが、俺も決して弱い剣客ではない。今まで桂さんの護衛を沢山任せられてきたし、新選組にだって容赦なく剣を振るった。今までこんなことはなかった。
それほど、こいつが強いと言う訳か。
いや、もしかしたら。俺は戦いに集中できていなかったのかもしれない。初めての大仕事をする、俺にとって一番大切な人のことを考えすぎて。
言い訳にしか、ならないよな。
闇に瞬く銀色の彗星を、俺はただ防ぐこともできずに見ているだけだった。
「
がきん、と刀のぶつかる音がして、俺は意識を覚醒させた。はっと前を見ると、地面に吹き飛んだ俺の前に、重が立っている。彼女は土方の刀を間一髪で受け止め、俺を守ってくれたのだ。
重は土方の刀をぐっと押し返し、彼の体勢を崩した。その後に
「只今から、わたしがお相手します」
雪の結晶のように美しい髪は、きらりと銀色に瞬いた。
「……お前、女子じゃねえか。なぜ刀を持っている」
明らかに動揺している土方。男が刀を持って戦うという概念に縛られた世の中では、重のような剣客は珍しい。ましてや、男ばかりの新撰組であれば。
「わたしが刀を持つのに、理由がいるのですか。あったとしても、貴方にはお話しません」
「ほう、」
「容赦はしません。では、参ります」
いつのまにか他の剣客たちも戦いの手を止めて、重と土方に注目している。重はびしっと刀を構えて、土方にまっすぐ視線を送り続けた。
一度の沈黙。破ったのは、重だった。
素早く間合いに飛び込んで、真正面から刀を振るう。案の定受けられてしまい、力で押し返されて体勢が崩れてしまった。その瞬間に、がら空きの胴を土方が狙う。危ない、と思ったのは束の間で、重は体をぐんと逸らして剣戟を避けた。それからしなやかな体をばねの様に活用して起き上がり、一度後ろへぴょんと下がった。それから右往左往する踏み込みで土方を惑わし、彼がやみくもに振った刀の上にちょんと片足を乗せた。それから真上で宙返りを決めて、目にもとまらぬ速さで刀を振り抜いた。すたっと土方の背後に着地して、くるりと彼の背中に目線を送った。その瞬間にびしっ、と土方の躰に裂け目ができ、そこから鮮血が噴き出した。どれも深い傷ではないが、貧血を起こすのには十分すぎるくらいの出血を伴った。重に翻弄された土方は、ゆっくりと地面に膝をつき、ぱたりと倒れこんだ。
***
重には剣の才があるかもしれない。彼女に稽古をつけていた時から思っていたことだった。飲み込みは早いし、動きも綺麗。努力家なのも入って、重はぐんぐん強くなっていた。しかし、土方を打ち倒すほどとは。俺もかなり感心した。
「重、よく頑張ったな。あと、助けてくれてありがとう」
「当然のことですよ」
仕事が終わった直後、重にそう一声かけてやると、ふふんと得意げに微笑んだ。その顔がほんとうに愛らしくて、俺は頭をぽんぽんと撫でてやった。
「えへへ」
照れたようにはにかみながら、俺の手を嬉しそうに受け入れる彼女。それはそれは愛らしかった。しかし、自分に恋心が芽生えているなんて、一つも気づいていなかった。
「
「今日は快晴だな」
次の日の朝。縁側で二人座っていたら、重が空に向かって指を差した。ぽかぽかと日向ぼっこを楽しむついでに、仕事が入るのを待っているのだ。ようやく葉桜が始まったこの季節にはぴったりの、さわやかな快晴。とても心地よい。
「わたし、
急に話題を変える重にびっくりしながら、俺は「うん?」と返事をした。
「来年は、わたしの桜餅を絶対に食べないでください」
「えと、それは悪かったって」
「許しません」
「…ふふっ、分かった。来年は食べないよ」
まだ根に持っていたのか、とおかしくおもいつつ、重の言葉に耳を傾ける。
「それと、」
重は俺に顔を向けて、翡翠の瞳を煌めかせた。
「命の順番は、「桂さん」「一般の人」「他の護衛剣客さん」「わたし」に設定しておいてください」
つまり、最悪の場合はわたしを見捨てろ、そう言いたいんだろ?
死を覚悟している俺には珍しく、胸の奥がつきんと痛んだ。それでも、彼女には返事を返しておく。
「分かったよ。その代わり、重もな」
「はい、わかりました」
この約束が指し示すように、運命の歯車は回り始めた。
***
ある雨の、土砂降りの日。俺と重と桂さんは、雨の中屋敷へと戻る最中だった。人目に付かないようにと購入したこの屋敷は森の奥にあり、そのまえには竹林があった。竹林はかなり町から近く、町民も通ったりするような身近な場所だった。
今日は何やら雨の中お祭りがあったらしく、竹林の中を通る人も多い。重が行きたかったとこぼしていたのは、このお祭りだったのか。呑気にそう思っていた時だった。
「動くな」
声が聞こえて、俺たちは足を止めた。周りの町人たちが、次々と人質にされていく。一体何人いるんだ、そもそも、こいつらの正体は何なのか。悲鳴と緊張感に包まれながら、俺と重は刀に手を掛けた。ここ最近で重は、大分人斬りに慣れている。自分のやっていることに対しての葛藤は沢山あっただろうが、それさえも乗り越えて俺と同じ仕事に向き合った。もう、完璧な人斬りだ。姿は天女のような美しさだが、その両手は誰かのために戦った血で汚れている。彼女の優しさが、彼女を人斬りにした。
「御用改めだ」
そういうなり、新選組の無名隊士は桂さんを人質に取った。しかし、そんな隊士に捕縛されるような桂さんではない。彼は刀も扱えるのだ。いや、待てよ、何かがおかしい。どうして町民まで人質にとる必要があるのか。
俺と重を取り囲む新撰組の隊士は皆無名。顔なじみと言えば…
「この間はよくもやってくれたな」
そう言って俺の睨みつけた隊士は、この間土方と戦った時にいた隊士だった。負け惜しみと言ったところか。そう思って適当にやり過ごそうにも、桂さんが人質に取られているし、なぜか町民までもが捕まっている。
どうしようものか悩んでいると、先刻の隊士が口を開いた。
「町民と、お前らのお頭を返してほしければ、」
その瞬間、彼が答えを言う前に俺は答えを察してしまった。
「その白髪の女を殺せ。安心しろ、殺せば皆解放してやる」
その言葉を聞いた瞬間に、重は腰から刀を鞘ごと抜いた。頭につけていた傘を外すと、刀と一緒に地面へ落とし、俺の目を見て微笑んだ。いつもと変わらない眩しい笑顔だった。
「
桂さんが俺たちに何か言おうとしたけど、途中でやめてしまった。重を殺すな、と言っても町民が犠牲になる。だからと言って、重を殺せ、なんて言えるわけがない。娘のようにかわいがって、大事に大切にしてきた女子を前に、そんな残酷な言葉を言えるはずがなかった。きっと桂さんは思っているだろう、「自分はどうなってもいい。重は殺さないでくれ」と。
「なんて、汚いことをするんだ…」
桂さんの悲痛な声が、土砂降りの雨の中に響いた。この前戦った土方だって、こんな汚い真似はしなかったはずだ。新撰組とは、こんなに卑怯なことをするやつらが集まった集団ではない。こいつらが、腐っているだけだ。
俺は重を殺したくはない。しかし、新時代の鍵を握っている桂さんを死なせるわけにはいかない。なんのために俺たちは今まで人斬りをしてきたのか、分からなくなってしまう。殺された仲間や敵、そして今もなお血に苦しみ続けている仲間が報われない。桂さんが、町民が死ぬのも嫌だ。しかし、それ以上に、それよりも彼女には死んでほしくない。大切で、大事で、俺の唯一の心の在り処を。
自分の手で殺す日がくるとは。
俺は震える手で愛刀を抜いた。しゃん、といつものように鋭い音がして、曇天の空のような鈍い色の刀身が姿を現した。
殺したくない。嫌だ。君にはずっと、生きていてほしい。
その思いから、俺は自分の刀を取り落としてしまった。雨の音と、竹林を風が揺らす音が強くなる。俺は頭を抱えて、地面に座り込んだ。もう何もかも、夢だと思ってしまいたかった。全部投げ出して知らんふりをしていたい、泣き出してしまいたい。そんな絶望が、真っ黒い泥のように心に纏わりつく。一体俺は、どうすればいいのか。
その時、柔らかい感触が頬に触れた。見上げると、重が俺の頬を両手で優しく包み込んでくれていた。
「
「………守るよ、」
彼女の顔を見上げながら、俺はぽつりと呟いた。そんなことを言われてしまったら、守るしかない。守りたくないけど、守るしかない。主君を身を挺して守るのが
重は俺に手を貸して立ち上がらせると、彼女の愛刀を差し出した。純白の刀身は、雨に濡れて艶やかに光っている。まるで、彼女のように。
「重、ありがとう」
俺がそう言うと、彼女ははにかんで俺を見据えた。
そして俺は、彼女の胸を一思いに突き刺した。
どすっ、という鈍い音と共に、嫌な感触が体を突き抜ける。彼女の着ていた若草色の着物に、みるみる真っ赤な染みが出来ていく。重は、美しい翡翠の双眸に涙をあふれされた。
俺も、ぼやけた視界をぬぐい、重の胸に刺さる刀をふっと引き抜く。その途端に彼女の胸から温かい鮮血が噴き出し、俺の顔を湿らせた。重は糸の切れた人形のように俺にもたれかかると、小さく一言だけ呟いた。
「ずっと、お慕い申しておりました。勿論、今も」
今になってようやく、自分の気持ちに気づいた。もう、遅かった。
「俺も…愛してる」
重は嬉しそうに微笑むと、光の消えた翡翠の双眸をゆっくり閉じた。彼女を抱えて俺は地面に膝をつくと、涙がとめどなく溢れてきた。
最後は笑えていただろうか、彼女にちゃんと届いただろうか。遅すぎる俺の気持ちが、ちゃんと重に伝わっただろうか。
寝顔が好きだ。照れるところも、はにかむところも好きだ。優しいところも、俺の為に沢山努力してくれるところも。
花が咲いたように笑う、あの眩しい笑顔が大好きだ。
「もっと早く、言っておけばよかった」
冷たくなった重の唇に、俺は軽い口づけをした。土砂降りの雨が、彼女の亡骸と俺をみるみる濡らしていった。
泡沫の夢 詠 @mamerock6
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