記憶を失った俺の前に、妻だと名乗る美女が現れた

春風秋雄

俺は事故に遭った

「達郎、着替えはここに置いておくからね」

そう言って俺の着替えをベッド脇の棚にしまう女性は、どうやら俺の妻らしい。名前は紗耶香という。

「明日は退院だから、昼前に迎えにくるからね」

紗耶香という女性はそう言って病室を出て行った。


俺は3日前に事故に遭ったらしい。交差点の横断歩道を渡っていた際に、左折する車にぶつかったということだ。車は交差点ということもあり、スピードはさほど出ておらず、また1月の寒い時季ということで厚着をしていたことも手伝って、ほとんど外傷はなかったが、倒れた際に頭を強く打ったようで、気を失い救急車で運ばれた。目を覚ますと、俺は記憶を失っていた。事故のことはもちろん、自分が誰なのかも思い出せない。所持品の財布に免許証が入っていたので、俺の名前は吉岡達郎だとわかり、身元だけは判明した。様々な検査をしたが、幸いなことに脳に損傷はなく、退院は出来ると言うことだったが、家の場所もわからない俺を一人で退院させるわけにはいかず、家族に連絡したいが家族への連絡先がわからない。病院が警察に相談したところ、俺のスマホにはロックがかかっていなかったそうで、警察の人が通話履歴をもとに順番に連絡をとろうとして、2番目にかけた相手が俺の妻だと名乗り出た。それが紗耶香だった。事情を聞いた紗耶香は病院に飛んできてくれた。警察の人が身分証の提示を求めると、紗耶香は免許証を差し出し、そこには吉岡紗耶香となっており、住所も俺の免許証と同じだったので、夫婦であることが確認されたということだ。

看護師さんから、奥さんに連絡が取れ、もうすぐ来られるそうですよと伝えられた時、俺は戸惑った。俺の妻とは、いったいどのような女性なのだろう?不細工な女性だったらどうしよう。性格のキツイ女性だったらどうしよう。まるでお見合いをする前の心境だった。

紗耶香が病室に入ってきて、「達郎、大丈夫?」と言って俺のベッドに駆け寄ったその顔を見て、俺は驚いた。俺の妻は、こんなに美人なのか?まるで女優の様だった。スタイルも良く、モデルのようなプロポーションをしている。俺はどうやってこんな美女を射止めたのだろう?こんな女性と毎日寝食を共にしていたのかと思うと、記憶を失う前の俺を褒めてやりたくなった。


紗耶香に聞くと、紗耶香は俺より3つ年下だという。俺の年齢は免許証の生年月日から35歳だということはわかっていたので、紗耶香は現在32歳ということになる。とても30歳を過ぎているようには見えない。

俺たちは結婚して6年だと話してくれた。知りたいこと、気になることがたくさんあるので、次から次に質問したかったが、急に思い出そうとしても無理だから、ゆっくり思い出しましょうと言われた。とりあえず、俺の仕事はデザイナーで、自宅を事務所にしているということだけ教えてくれた。

紗耶香が俺の所持品のカバンの中身を見て、仕事関係の資料はないということを確認してくれた。つまり、依頼されている仕事はひとまず一段落しているということのようだ。紗耶香が言うには、俺は依頼された仕事があると、デザインのラフがいつでも描けるように、いつもカバンの中に関連する資料を入れておくようにしていたそうだ。財布の中身を確認して、お金があまり入っていないと言って、キャッシュカードを引き抜き、お金をおろしてくると言って、病室を出て行った。俺はキャッシュカードの暗証番号を覚えていないが、紗耶香は知っているということだった。

紗耶香が病室を出て、2時間ほど経った。銀行にお金をおろしに行ったにしては、時間がかかっているとおもったら、紗耶香は買い物をしてきたらしく、パジャマの替えや下着の替えを買って来てくれた。明日退院なのだから、わざわざ買わなくてもと思ったが、俺は綺麗好きだったのかもしれないと思って、何も言わなかった。おろしたお金とキャッシュカードはカバンを開け、財布にしまってくれた。どうやら5万円ほどおろしてきたようだ。暗証番号は1651だと教えてくれた。俺は野球選手のイチローの大ファンだったようで、“イチローの背番号は51”を文字って、16(イチロー)51を暗証番号にしているらしい。


翌日の昼前に紗耶香が迎えに来てくれた。退院手続きを終え、紗耶香の運転で自宅へ向かう。紗耶香が乗ってきた車はレクサスだったが、2年前に俺が気に入って買った車だそうだ。まったく覚えがない。

自宅は郊外にある一軒家だった。まだ新しい家だ。

「俺って、結構稼いでいたの?」

俺が紗耶香に聞くと、紗耶香は何でもないように「年収は2000万円くらいかな」と言った。

出版物の表紙デザインから、企業の広告ポスターまで、マルチに活躍していたらしい。かなりの人気デザイナーだということだ。

紗耶香が作った昼食を食べながら、俺のことについて聞いた。

俺の両親は俺たちが知り合う5年ほど前に他界していたらしい。だから紗耶香も会ったことはないということだ。兄弟もおらず、家族と言える人は紗耶香だけのようだ。

紗耶香はもともとモデルの仕事をしていたそうだ。俺が請け負った企業広告デザインのモデルをしたことがきっかけで知り合い、交際するようになったと教えてくれた。

昼食のあと、紗耶香は家の中を案内してくれた。自分の家なのに案内されるとは妙な話だが、どこに何があるのか、まったくわからないので、仕方ない。

寝室に案内されて、セミダブルのベッドが置いてあったので、二人で寝るには少し狭いような気がするなと思ったら、寝室は別々の部屋で寝ていたそうだ。俺が夜中まで仕事をすることが多かったということで、3年前に寝室を分けたらしい。俺の寝室はセミダブルのベッドだったが、紗耶香は床に布団を敷いて寝ているということで、紗耶香の寝室の部屋の隅に布団が畳んで置いてあった。そうか、俺はこの美女と一緒に寝ていたわけではないのかと思うと、ちょっと残念な気がした。

すべての部屋を案内されたが、紗耶香の荷物が妙に少ないのが気になった。衣類やコスメも最低限の物しか置いていないような気がする。紗耶香はモデルをしていたと言う割には、質素な生活をするタイプだったのかもしれない。


夕飯のあと、お風呂に入り、いよいよ寝る時間になった。俺はどうすればいいのだろうと、モジモジしていると、紗耶香が俺の様子に気づいたようで聞いてきた。

「今日は一緒に寝ますか?」

「いいのですか?」

「いいも悪いも、私たちは夫婦ですから」

紗耶香はそう言って、俺の寝室で寝る準備を始めた。その姿を見ながら、俺はドキドキしている。紗耶香は今まで夫婦として普通にそういう行為を数えきれないくらい俺としてきたのだろうが、過去の記憶がない俺にとっては、昨日会ったばかりの美女と初めてする行為ということになる。つまり、俺にとっては初夜というわけだ。興奮するに決まっている。俺は紗耶香が整えたベッドにドキドキしながら滑り込んだ。


紗耶香は、俺の腕の中でスヤスヤと寝ている。俺という男は、こんなに幸せな男だったのかと、自分のことながら感心した。デザイナーという恵まれた才能を持ち、年収2000万円を稼ぎ、そして元モデルの美しい妻がいる。男であれば、誰でも羨む人生ではないか。妻の紗耶香との体の相性も抜群だった。何も言うことはない。でも、今の俺は紗耶香を愛しているわけではない。おそらく記憶を失う前の俺は紗耶香を愛していたのだろう。しかし、いくら美人だからといっても、俺にとっては昨日初めて会った女性なわけで、性格も何もわからない状態だ。記憶が戻れば、妻への愛情も戻ってくるのだろうか。しかし、もし記憶が戻らなければどうなるのだ?記憶がもどらなくても、紗耶香のことを愛せたらいいなと思いながら俺は眠りについた。


紗耶香との生活は快適だった。仕事に関しては、暫くは休業することにし、依頼があるたびに紗耶香がうまく断ってくれていた。当分仕事をしなくても生活できる蓄えはあるようだった。

俺は早く記憶を戻したかったが、紗耶香は「慌てなくていい」といつも言う。両親も兄弟もいるわけではなく、頻繁に会う友達もいなかったようで、今の状態でも生活に支障はないのだから、早く思い出そうとして、自分を苦しめる必要はないというのが紗耶香の言い分だった。幸いなことに、デザインの作成に関しては体が覚えているようで、試作をいくつか作ってみたが、パソコンの扱いも自然に指が動き、アイデアも勝手に頭に浮かんでくる。これなら記憶が戻らなくても、いつでも仕事には復帰できるというのも「慌てなくていい」という理由になっている。


初日に紗耶香と一緒に寝て以来、毎日一緒に寝るようになったので、寝室を分けるのはやめて、ダブルベッドを買おうと俺は提案した。紗耶香は一瞬戸惑った顔をしたが、賛成してくれた。

「寝室を分ける前は、どうやって寝ていたの?」

俺は尋ねた。

「ダブルベッドで寝ていた」

「そのダブルベッドはどうしたの?」

「寝室を分けるときに処分して、達郎はセミダブルを買ったの」

「どうして紗耶香はベッドを買わなかったの?」

俺が尋ねると、一瞬間をおいて紗耶香が答えた。

「私は布団の方が好きだったから」

「だったら、ベッドでない方がいい?」

「大丈夫。達郎と一緒に寝られるのは嬉しいから」

結婚して6年も経つのに、そう言ってくれる紗耶香が可愛く思えてきた。


日を重ねるごとに、そして、体を重ねるごとに、俺は紗耶香にどんどん惹かれて行った。優しくて、よく気が付き、一緒にいると癒されるような気がする。記憶を失う前の俺が紗耶香に惚れていたのが納得できた。記憶こそ戻らないけど、俺は今の生活が幸せだった。確かに記憶が戻れば、その記憶の中に俺にとって大切な何かがあるかもしれない。しかし、今の俺は記憶が戻らないのであれば、それでもいいとさえ思えてきた。


ある日、テレビを見ていると、香川県のニュースをやっていた。俺はそのニュースに何故か反応した。何なのかはわからない。ニュースの内容ではなくて、香川県という言葉に反応したのだと思う。俺は紗耶香に尋ねた。

「俺は香川県へ行ったことあったかな?」

紗耶香が一瞬引きつった顔をした。しかし、すぐに普段通りの顔に戻り、

「さあ、私と知り合ってからはないと思うよ」

とそっけなく答えた。

その日の夜、紗耶香は今までにない異常さで俺を求めてきた。それが俺には愛しくて、愛しくて、思わず紗耶香に囁いた。

「紗耶香、愛している」

耳元でそう言うと、紗耶香は俺にしがみつき、何故か「ゴメンね。ゴメンね」と繰り返した。俺には紗耶香の「ゴメンね」の意味がわからなかった。


記憶を失って半年ほどした頃に、俺はそろそろ仕事に復帰しようと考えた。仕事場にしている部屋の書棚から資料を引っ張り出し、過去の依頼内容や、その納品日を確認しながらパソコンのデータを見る。我ながら良い作品だと感心する。本当に人気デザイナーだったようで、多い月は6件くらいの仕事をこなしていた。書籍の表紙デザインは出版社からの依頼だが、それ以外の広告デザインの依頼主のほとんどは広告代理店からだった。いくつかの広告代理店と取引していたようだが、ある1社は毎月依頼して来ていた。一番の取引先と言っていい。ところが、その広告代理店からの依頼が去年の9月から一切なくなっている。何かトラブルでもあったのだろうか?資料を見ていると、広告代理店の担当者の名前が香川さんになっていた。俺はその名前を見て、何か思い出しそうになったが、まるで体が拒否反応を示すように、頭の中が黒い霧に覆われていくような気がした。


それからの俺は、何かあるたびに記憶の欠片が頭の中をよぎるようになった。紗耶香と買い物に出ている時でも、通りかかったカフェを見て、ここに来たことがあるような気がするとか、食事に入ったレストランで食べた料理が懐かしく感じるといったことが度々おきるようになった。そのことを紗耶香に言うと、紗耶香は「無理に思い出そうとしなくていいからね」と優しく言った。しかし、俺は記憶が戻るのであれば戻って欲しいと考えていた。子供時代のことや、両親のことも忘れてしまっている。それより、目の前にいる紗耶香との楽しい思い出もすべて忘れてしまっているのが、残念でならなかった。


テレビを見ていると、京都の祇園祭の特集が始まった。その時、俺の頭の中で何かが光ったような気がした。と思った瞬間に紗耶香がリモコンでチャンネルを変えた。

「ごめん、ちょっと見たい番組があって、あ、これだ」

そう言って、バラエティーに変えてしまった。しかし、紗耶香の行動は一瞬遅かったようだ。俺の頭の中では祇園祭というキーワードから、様々なことが蘇ってきた。そして、俺は静かに紗耶香に言った。

「紗耶香」

紗耶香が俺を見て顔を強張らせた。

「君は、俺の妻ではないよな」

紗耶香は黙って固まっている。

「どうして俺の妻に成りすましたのだ?」

やっと紗耶香が口を開いた。

「思い出したのね?」

「うん、今はっきりと思い出した」

「わかった。私は出て行く」

紗耶香はそう言うと、自分の荷物を大きなキャリーケースに詰めだした。

「紗耶香、ちょっと待てよ」

俺がそう言っても、紗耶香は何も言わず手を止めない。そして荷物をまとめると、玄関に向かった。

「ちょっと待てって言ってるじゃない」

「鍵はここに置いておくね」

紗耶香はそう言って、下駄箱の上に鍵を置いて出て行った。


紗耶香と俺は、1年前までは夫婦だった。そう、俺は間違いなくそれまでは紗耶香を愛していた。しかし、1年前に俺たちは離婚した。離婚の理由は紗耶香の浮気だった。

俺の一番の取引先だった広告代理店の担当者だった香川氏は、毎月仕事を依頼してきた。仕事の打ち合わせをするときは、決まって俺の家だった。必然的に月に何度も俺の家にくることになる。それが何年も続くと、紗耶香も香川氏と気軽に話すようになった。3年前に俺と紗耶香は寝室を別にした。夜中まで仕事をすることが多いからという理由にしたが、実際は夜の夫婦生活が少し負担になってきたからだった。おそらく倦怠期だったのだろう。結婚して3年も経つと、月に1回か2回、お互いに気が向いた時にすればいいと俺は考えていたが、隣で寝ている以上は、紗耶香が求めてくれば、それに応えなければいけないような気がして、俺の方は気が乗らない時でも応じていた。それが負担になり距離をおきたかったのだ。一度距離を置くと、そういう行為はほとんどしなくなってしまった。寝室を分けて1年もすると、まったくのレス状態になった。そんな時に、香川氏から京都の祇園祭に行かないかと誘われた。俺は他の仕事が入っていたので行けないと言うと、紗耶香は行きたいと言った。香川氏も既婚者だったので、当然香川氏の奥さんも一緒に行くものだと思っていた俺は、紗耶香に行ってくればいいと言ってしまった。ところが、香川氏は奥さんを連れて行かず、紗耶香と二人きりの旅行になってしまったというわけだ。

京都から帰った紗耶香の様子が変だったのと、その後うちに来る香川氏の対応がよそよそしかったことから、俺は紗耶香を問い詰めた。すると、京都で一度だけ関係をもったことを白状した。しかし、その後は一切そういうことはしていないので、何とか許して欲しいと紗耶香は泣いて謝った。俺は許せなかった。本当に紗耶香を愛していたからこそ許せなかった。俺たちは祇園祭の3か月後の10月に離婚した。

俺は離婚するにあたって、慰謝料は求めず、紗耶香が住むマンションも準備してあげた。財産分与として、当面は生活できるだけのお金も渡した。自分でもどうしてそこまでしてやったのかわからないが、俺の中では紗耶香の不貞行為は許せなかったが、それでも愛していることに変わりはなかったということなのだろう。

寝室のダブルベッドは紗耶香を思い出さないように、処分した。そしてセミダブルのベッドを買ったのだ。紗耶香が一人で寝ていたシングルベッドは紗耶香が出て行くときに、マンションへ持って行った。


紗耶香が出て行った翌々日、俺は紗耶香が住むマンションに向かった。

インターフォンを鳴らすと、紗耶香はドアを開けてくれた。

「ちょっと話さないか」

紗耶香は黙って俺を部屋にあげた。

「いくつか聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」

紗耶香は静かに頷いた。

「離婚して、紗耶香は俺の家の鍵は置いて行ったはずだけど、どうして鍵を持っていたの?」

「病院へ行ったとき、カバンをチェックしたでしょ?あの時、カバンに入っていた鍵を拝借した。そして、お金をおろしに行くと言って合鍵屋さんに行って合鍵を作ってもらったの。拝借した鍵はキャッシュカードを戻すときにカバンに返しておいた」

そうか、それで時間がかかっていたのだ。買い物をしてきたのはカモフラージュだったのだろう。

「警察が夫婦だと確認したのは紗耶香の免許証だと言っていたけど、苗字を変えていないのはわかるけど、住所もそのままにしていたの?」

「面倒だから、免許更新のときに変更しようと思ってそのままにしておいた」

「わかった。最後に、どうして離婚したのに、妻だと名乗って来たんだい?」

紗耶香はどう言おうか、迷っているようだった。そして、おもむろに口を開いた。

「最初に警察から電話がかかってきたとき、スマホの画面には達郎の名前が出ていたから、嬉しかった。どんな用事だろうと、また達郎の声が聞けると思ったから。でも相手の声は達郎ではなかった。そして、事情を聞いて驚いた。ケガはないというので安心したけど、記憶を失って、自分の家もわからないっていうじゃない。達郎には家族もいないし、私が何とかしてあげなくてはと、とっさに妻ですと言ってしまったの」

「どうして元妻と言わなかったの?」

「その時は何も考えずにとっさにそう言ってしまった。でも、あとで冷静に考えた時、元妻と言わなくてよかったと思った。元妻だと、警察としてもどういう別れ方をしたのかわからないので、達郎に会わせるべきかどうか迷うでしょ?達郎本人に了解をとれるわけではないし」

そう言われればそうだ。

「最初は、達郎の生活が落ち着くまで、妻ということにして、身の回りの面倒をみるだけのつもりだった。でも、あの初日の夜、達郎がモジモジしているのを見て、私は達郎に抱かれたくなった。達郎とは、もう何年もそういうことしてなかったでしょ?だから、1回でいいから抱かれたいと思っちゃった」

あの時、俺がモジモジしていた意図を察していたのか。

「あの時は、幸せだった。もうこれで思い残すことはないと思った。でも達郎は翌日も私を寝室に誘ってくれた。そうなると、もう気持ちを抑えられなくなっちゃった。達郎がダブルベッドを買おうと言ったときは、戸惑った。もし達郎の記憶が戻ったらどうしよう。ダブルベッドまで買ってしまったら、私は何と言い訳すればいいのだろう。そう思ったら怖かった。でも、その反面嬉しかった。また達郎と一緒に寝られることが本当にうれしかった。結局、せっかく買った布団は一度も使わずじまいになっちゃった」

そうか、あの布団はわざわざ買ってきたのか。

「毎日毎日、達郎の記憶が戻るのではないかと、冷や冷やしていた。どうか、もう少しだけ、あと1日だけでも、このままでいさせてくださいと、祈るような気持だった」

だから、記憶が戻るようにと俺が色々やっていたときに、焦る必要はないとしきりに言っていたのか。

「私は許されないことをしてしまった身だから、何も言い訳できない。達郎がもう私の顔も見たくないという気持ちもわかる。でも、これだけは信じて欲しい。私は達郎を愛していた。そして、今もその気持ちに変わりはない。だから、最初のどうして妻だと名乗って病院へ行ったかという質問に答えるとすれば、ただただ、達郎に会いたかったから。達郎の顔を見たかったから。達郎の声を聞きたかったから。少しでも、達郎に触れたかったから。というしかないよ」

紗耶香はそう言って、目に涙をいっぱいためた。

「紗耶香、言っておきたいことがあるんだけど、いいかな?」

「なに?」

「俺の記憶喪失はまだ続いている」

「え?記憶が戻ったんじゃないの?」

「ほとんどの記憶は戻った。でも、どうして紗耶香と離婚することになったのか、その理由が思い出せない。そして、それは今後も絶対に思い出すことはない。だから、俺と、もう一度結婚してくれないか」

俺が言い終わらないうちに、紗耶香の目にいっぱいたまっていた涙が、ポロリと落ちた。


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