桜かあるいは葉桜の季節

中貝立

第1話

 桜の話を聞くと俺は、『葉桜の季節に君を想うということ』という小説もあるが、それとは別にもうひとつ、取子のことを考えずにはいられない。

 取子は俺の家族で、桜が好きな女の子だ。

 いや、好きというのは生ぬるい。取り憑かれてるとか、もうそういうレベルだ。

 幼少期、取子は病弱だった。雨が降るくらいの確率で熱を出し、いつも絵本や図鑑を読んでいる。そんな子供だった。

 だが取子が小学校に通い始めた頃のことだ。

 その日は珍しく取子は体調が良く、俺や親と一緒に公園に花見に行った。

 そして行方不明になって、三日後、同じ公園で見つかった。

 虚ろな表情で桜の木に寄りかかっていたらしい。体調が心配されたが、三日間の記憶が消えていることをのぞくと、取子の健康状態はいたって良好だった。それどころか、汚れてすらいなかったという。

 おかしな話だ。なにもかも腑に落ちない。

 けれども半狂乱になっていた両親はあっさりと落ち着きを取り戻した。取子の状態が良かったのも、誰かに助けてもらったんだろう、ということになった。俺はまったく信じてないが。

 しかし、なにはともあれ健康体で見つかったのはたしかだ。

 そして同時に、なぜかはわからないが取子は春だけは病気にかからなくなった。ほかの季節はやはり病気がちだが、その時だけは俺より元気だ。風邪ひとつひかない。

 それだけなら良かったが、以来取子は桜に執着するようになった。桜が咲かなければ元気が出ないというのだ。そして奇妙な行動を取り始めた。

 取子は春になるたびに、ふらふらと誘われるように、花見に行ったあの公園の桜のもとに向かった。そしてなにかを感じ取ろうとしているような佇まいで、桜に手を付いてじっとするようになった。

 散り始めると恨めしそうに桜を見上げる。

「なんで散っちゃうの?」

 ある時、俺が様子を見に行くと、取子はそうつぶやいた。俺は答えた。

「散らないほうが変だろう」

「変だとなにが悪いの?」

「そりゃあ都合が悪いよ。咲いて、散って、葉桜になって、色を変えて、芽を出して……。そういうメリハリがなきゃ力なんて出せない。ずっと全力疾走したら疲れるだろ?」

「疲れないようにすればいい」

「そんなのむちゃだ」

「なんで?」

「だって……そんなの自然じゃないよ」

「わたし自然きらい」

 唇をとがらせる取子に俺は言った。

「そう言うな。どうあがいても生きているうちは自然とは折り合いをつけていくしかないんだ。そう聞いたよ」

「誰から?」

「母さんから」

「じゃあお母さんもきらい」

「そんなことを言うな」

 そうたしなめるだけで終えておけば良かった、と今は思う。

 ただこの時の俺は取子の身勝手な言葉に反感を覚え、つい説教をかましてしまった。

「だいたい、なんの代償もなくきれいなところだけ得られるわけがないんだよ。桜も一年掛けて頑張って準備をしてる。だからその力で咲けるんだ。ずっと桜を観察してるからわかるだろう。見れば正解を教えてくれる。それが自然なんだ。わからないのか?!」

 声を荒らげると取子は「ごめん正樹……」としょげ返った(取子は俺を名前で呼ぶのだ)。俺は「いや、別にいいよ。俺も悪かった」となだめた。取子もその言葉を受け入れ、そのままふたりでトボトボと家に帰った。その道中で取子は尋ねた。

「正樹、ダイショウってなに?」

「力を得る時に失うもののことだよ」

 俺が答えると取子はつぶやいた。

「そっか、失わなきゃダメなんだ」

 そして安心したように笑った。

 俺はなんだか背筋が寒くなった。



 それから取子の奇行はさらに進んだ。桜に「ダイショウ」を捧げるようになったのだ。

 最初は食べものだった。取子は給食の残りをちまちまと蓄え、せっせと桜の下に埋めていた。

 始めは嫌いなものを与えていたのだと思う。でも「いらないものを押しつけても桜は喜ばないよ」と注意すると、ジュースとかアイスとかプリンとか、好物を埋めるようになった。

 今思うと軽率な言葉だった。反省している。

 取子は髪や爪を捧げるようになった。

 これも俺のせいかもしれない。食べものは腐るからやめろと言ったのだ。おそらくそれが取子に発想の転換をもたらした。取子は妙な魔法陣を描き、意味不明な儀式を執り行うようになった。黒魔術を取り入れ始めたようだった。もっとも、よく本を読むやつだったから、この発想に至るのは時間の問題だったかもしれないが。

 なんにせよ俺は本格的に怖くなってきた。

 儀式のために髪を短くするほどの執念だったのだ。母さんは手間がかからないと喜んでいたけれど、観察力不足だ。髪をどうするかを見ていてほしかった。

 いやそれも些細なことだ。

 取子は家の酒を盗んで捧げたりもしていた。儀式のためなら飲酒を始めてもおかしくない空気だった。幸いそうした場面に出くわすことはなかったが、たまたま見なかっただけかもしれない。

 しかしそれ以上の問題があった。猫のことだ。

 取子がよく立ち寄っていた桜のある公園には一匹の猫が住んでいた。茶色に黒のしま模様の人見知りする猫だ。でも取子には懐いていた。餌をくれるからだ。

 餌は給食の残りだった。桜の下に埋めるのと違って腐ることはないし、中身も残飯。迷惑行為ではあるが俺は目をつぶった。桜への執着が逸れることを期待したのだ。

 実際半年以上取子は桜ではなく猫の世話をしていた。様子を見ても雰囲気は悪くなかった。ナー、ナー、などと猫の鳴き真似さえしていた。それを見て俺は少し安心した。なごんでさえいた。

 でも春になると猫はいなくなった。

 悲しむだろうな。始めはそう思った。

 けれども取子はケロッとしていた。

 強がりかとも思ったがどうやら違うようだった。いつも通り公園に向かい、いつも以上に安らかな顔で桜に手を付いていた。

 俺は訝しんだ。そして何気なく視線を下に向けた。

 桜の下は掘り返されていた。

 不信が生じた。

 だから掘り返しに行った。深夜にこっそり抜け出して桜の下をシャベルで掘った。

 見つけた。

 最初は薄汚いぬいぐるみに見えた。

 けれどそこに浮かぶ苦悶の表情や、割られた頭部からはみ出ている中身には、否定できない生の残滓があった。

 なにかを吐き出したあとも見えた。毒を与えられたようだ。それから頭を割られたのだ。そういえば取子は猫に名前を付けなかったな、と今更ながら思った。

「正樹」

 俺は振り返った。いつも通りのなんでもない顔で取子がいた。

「こんな時間に外に出ちゃダメだよ。叱られるよ」

「やっぱり桜の木の下に死体は埋まっているんだな」

 俺の言葉に取子は苦笑いを返した。

「死体より死骸の方がしっくりくるけどね」

 そして家事の手伝いでも頼むような口調で言った。

「とりあえず埋め戻してよ」

「断る」

「なんで?」

「なんでもなにもあるかよ。残酷なことをしやがって」

「ごめんね。でも力のためなの」

 取子は目を伏せて言った。

「力を得るにはダイショウが必要なの」

「無駄骨という言葉もあるんだよ」

 俺は一部の骨が見えている猫だったものを見ながら言った。

「意味のない代償を払ってしまうことだ」

「そうなんだ……」

 取子は落ち込むそぶりを見せたが、すぐに明るい顔になった。

「でも効き目はあったよ」

「そんなわけないだろ。埋め戻すからな」

「もったいないよ」

「うるさい。現実を見ろ」

「正樹こそ後ろを見て。現実があるから」

 振り返ると視界には毒々しさすらある満開の桜。

 違和感を覚え、俺は硬直した。

 すると取子は、後ろから俺の顔を包み込むように腕を取り付かせてきた。幽霊のように存在感のない胸板が背中に当たった。取子は尋ねた。

「今日は何月何日?」

 俺は違和感の理由に気づいた。

 答えは五月。とっくに葉桜の季節だった。

「そんな馬鹿な」

「でもこれが現実だよ正樹」

 耳元で取子が言う。

「頑張りのかいあって桜の季節は伸びました。見てわからない?」

「偶然だ。おまえの行動とはなんの関係もない」

「なんで言い切れるの?」

「そんな法則はないからだ」

「でも目の前に答えはある。それが自然だったよね?」

「これが自然なら自然はめちゃくちゃだ。美しくない」

「めちゃくちゃでも自然は自然だよ。そしてそれが正解になる。みんな受け入れるしかない」

 取子は言った。

「それに美しいとも思うよ、長く咲く桜も。すぐ散るから嫌だったけれど、これなら心から好きになれると思った」

「俺は嫌いだね。こんなずうずうしい桜は」

「そう。残念」

 取子はさみしげな声色で言った。が、すぐに俺を覆っている腕をがちっと固めた。

 おそろしい力だった。十歳そこらの膂力とは思えなかった。そのまま指で俺の両目を触りだした。

「でもね。やっぱり限界はあるんだよ。ダイショウが必要なの。いらないものじゃない、ちゃんとしたダイショウが。それがないと力は出せないの」

 眼球に力が入った。振り返りたかったが動けなかった。声すら出せなかった。

「ごめんね」

 猛烈な熱が眼球を襲った。痛みのあまり俺は暴れた。だがそれもすぐに終わった。吐き気の濁流のなかで、俺の意識は急激に失われていった。



 死ぬかと思った。

 死ななかった。

 でも目は死んだ。失明した。

 もちろん周囲には言った。

 でも信用されなかった。

 十歳そこらの相手からなぜ身を守れなかったのか、という謎が気になるようだ。

 謎なんてどうでもいいだろと思ったが、事実は現実ではなく、謎の前では事実は無効らしい。箱のなかの謎にみんなウンウン唸っていた。猫は死んでいたのに。

 いや、話を聞いてくれた人はいた。母さんだ。

 母さんは俺の話にもちゃんと耳を傾けてくれた。猫が埋まっている桜をシャベルで掘り返してくるとまで言ってくれた。俺は期待した。すべてが明らかになるはずだった。

 でも母さんは掘り返すのをやめた。

 なぜと聞いても笑ってごまかされた。強く責めたりもしたが暖簾に腕押し、柳に風だ。反発すらなかった。

 母さんの性格を考えるとそれも不自然だった。理詰めで説き伏せるのがスタイルだったはずだ。

 というか、最近急に性格が変わった気がする。妙に朗らかになった。その影響で父さんの機嫌は良くなったが、あまりにも鈍感だ。

「おまえ、母さんに何をした」

 入院している病院の個室で、俺は見舞いに来た取子に聞いた。

「なにもしてない。話をしただけ」

 そう言われるともう追求できない。母さんも結局他人だ。他人の視点を見ることはできない。俺は話題を変えた。

「おまえ、俺になにをした」

「目をえぐり取った。それから正樹を埋めた」

「埋まってなかったぞ」

「みたいだね。ふしぎ」

「……まあいい。それで? そのあとどうした」

「なにかしたっけ?」

 取子は怪訝そうな声をした。俺は怒りを込めて言った。

「してるはずだ。じゃなきゃおかしい」

「なにかあったの?」

「ある。まず周りがおかしくなった」

「どんなふうに?」

「みんな俺を年寄り扱いしやがる」

「うーん?」

「父さんも母さんも俺をじいちゃん扱いするし……」

「待って正樹、待って」

 取子が話を止めて言った。

「ちょっと今なん歳か言って」

「なんでそんな」

「いいから」

 不服を覚えながらも俺は答えた。

「十六歳」

「わたしと正樹はどんな関係?」

「兄妹」

「じゃあ母さんたちとは」

「親子に決まっているだろう。なんなんだまったく……」

「ごめん。質問を間違えた。うん。それは正しいよ。でも他はわたしが知っている正樹とは違うかな」

「どう違う」

「まず正樹は十六歳じゃない。正確になん歳かは憶えてないけれど、六十六でも不思議じゃないはずだよ。……友達はどうしたの?」

「気味悪がられたから連絡を取るのはやめた」

「そうなんだ。じゃあ話を進めるね」

 俺がうなずくと取子は続けた。

「正樹はわたしのおじいちゃん。正樹から見てわたしは孫にあたるね」

「それはおかしい」

「なにがおかしいの?」

「じいちゃんを名前で呼ぶやつがいるか」

「そんなの、今どきいくらでもいるよ」

「じゃあ母さんは? 父さんは? 俺がじいちゃんなら、俺がそう呼んでいるのはおかしいだろ」

「子供ができてから呼び方を子供の視点に合わせるのも普通のことだよ」

「じいちゃんの数も増えてるぞ」

「おばあちゃんと再婚したからね」

「なぜ再婚なんかしたんだ!」

「それはおばあちゃんに聞いてよ」

 ばあちゃんもじいちゃんもすでに鬼籍に入っている。

 話を続けても平行線になると思い、俺は話を変えた。

「俺は最近まで高校に通っていた。歳を取ったあとの記憶もない」

「記憶を疑うべきだよ。鏡は見た?」

「おまえにえぐられて見えなくなった」

「……それはごめん。でも体の状態はわからない?」

「わかるよ。だからおかしいんだ。いきなりなにもかも変わっていて……」

「記憶がおかしいんじゃないかな」

 取子は言ったが、俺は反論した。

「最初は俺もそう思った。だがそれなら大人になった後の記憶があるはずだ。いや、なくてもいいか。若い頃の記憶だけ残っている。そういう場合もあるだろう。でもそれじゃ説明できないことがある。俺は今の時代に違和感がないんだ」

「いいことだね。なにがおかしいの」

「俺の気持ちだけが若いとするなら、時代感覚も若い頃のままになっているはずだ。学校の情報も何もかも古くなっていて、齟齬が出ることになる。そうならなきゃおかしい。でもなにひとつズレはなかった」

「そうなんだ」

「なにがなんだかわからない。ただ心当たりはあった。だから聞いているんだ。おまえ、俺になにをした?」

「わたし、なにもしてないよ」

 とぼけているようにも困惑しているようにも聞こえる声だった。

 しばらく考え込むような間があった。それから取子は訥々と語りだした。

「でも……そうだね。あのあとわたしは奪った両目と、気絶してる正樹を一緒に埋めた。ダイショウにしたつもりだった。だけど見つかって掘り返されても仕方ないとも思った。その覚悟もしてた。どのみちダイショウとして払ったあとだから問題ないと思った。助かるとは思ってなかった。けれど、正樹は助けを呼ぶことができた。だから逆に聞きたいよ。正樹、どうやって助かったの?」

「普通に通行人の助けを呼んだよ」

「そんな浅い埋め方はしなかったはずなんだけど」

「そもそも埋まってなかった」

「そんなはずないんだけどなあ」

 取子は言った。

「でもまあいいよね。そんなこと。正樹は助かったし、桜もまだ咲いてる。わたしの状態もいい。これが現実」

「俺はじいちゃんじゃない」

 俺は訴えたが、取子は言った。

「じゃあ仮にそうだったとするよ? で、それで? なにが変わるの?」

「話がおかしくなる」

「話? 誰にとっての?」

「誰って、そりゃあ……」

「ふしぎに思ってるのは正樹ひとり。おかしくなるのは正樹の話だけだよ」

「……もしすべてを見ているやつがいたら、同じようにおかしいと思うはずだ」

 苦し紛れに俺は絞り出したが、取子は言った。

「本当にそう思う?」

 そうだ、と断言はできなかった。

 俺が口ごもると取子は続けた。

「すべてを見ている誰かがいたとしても話は変わらないよ。現実は強いの。変えられない。だからそれに合わせて考えを変えるしかない。頭が良かったら納得できる理屈も思い浮かぶかもね」

「そんな理屈は偽物だ」

「かもね。だけど信じればそれが本当になる」

 裁きを下すように取子は言った。

「どのみち答えはもう出ているの」



 ふざけた話だった。

 結局桜は散らなかった。取子が通う公園は年中桜の季節だ。なげかわしい。パッと咲いてパッと散る桜の美学はどこへいった。

 だけど不審には思っても、この不自然を誰も深く考えなかった。温暖化の影響だとまことしやかにささやく奴さえいた。そんなわけがない。だいたい気温が上がったら桜は早く散るはずだ。理屈が矛盾している。

「夏に咲く桜もあるよ」

 取子は言った。

「品種しだいではそうかもな。だけどあれは普通のソメイヨシノだ。気温が合わなければ咲かない」

「頑張れば咲くこともある」

 根性論だ。話にならない。

 けれども根性論だろうとなんだろうと、桜が咲いているのは現実だった。取子もこの年、健康を崩すことはなかった。そして俺の状態がもとに戻ることも……。

 いや、正直に言うと、俺にはもとがなにか、もはやわからなくなってきた。

 ポッカリとあいている成人後の記憶も、認識の齟齬も、すべて記憶障害に還元されてしまった。周りに言われ続けて、自分でもそんな気持ちになりかけている。俺は状況に順応しつつあった。

 それでも思いとどまれているのは桜のことがあるからだ。

 咲き続けるあの桜は明らかな異常だ。超常現象と言っていい。だから俺がおかしな体験をしているのもなんらおかしくはない。そういう気持ちになれた。もし桜が普通に散ったなら、すべてがもとに戻るのではないか。そんな期待、希望が持てた。

 けれど本当にそうなのか。

 なにかの偶然で不自然が噛み合っているだけではないか。そんな疑いも晴れることはなかった。

 いずれにせよ答えはすぐそこに迫っている。

 ふたたび春がやってきたのだ。

 今桜が咲いているのはまったく自然だ。だけど、それももうじき終わる。

 季節が終われば桜は散るはずだ。いや、散るべきだ。そして葉桜とともに世界は秩序を取り戻すのだ。失われた俺のすべても。

 けれど同時に自問する。本当に散ってほしいのか、と。

 もし桜が季節どおりに散ったとして、なにも起こらなかったなら。そこに残るのはなにか。

 間違った因果を信じる病弱な女の子と、間違った記憶を持った目のない老人がひとり。それだけになるのではないか。

 季節を無視して咲く桜は状況の異常性を信じるよすがでもある。それが失われるだけに終われば、俺は本当の意味ですべてを失う。

 桜よ散らないでくれ。そんな相反する感情も消せなかった。

 しかしそろそろ四月も下旬だ。

 あいかわらず取子は儀式を続けているようだった。今度は学校のうさぎがいなくなったらしい。人間に被害が出ていないならもうなんだっていい。俺は思った。

 ただ、そのせいで桜が咲き続けてもおかしくない。それは厄介だった。

 だが、代償を必要とし続けるとするなら、この状態は続かないはずだ。

 実際、取子も体調を崩し始めていた。春も終わりに向かっているようだった。

 同時に奪われたはずの俺の目にも復調の兆しがあった。光を感じるようになってきたのだ。

 視力が回復している気がする。このままいけばすべてがもとに戻るのではないか。そんな予感がした。

 あるいはそれは錯覚で、俺の目は回復などしていないのかもしれない。あの桜もすでに葉桜になって、世界は正常に戻っているのかもしれない。俺ひとりを異常にしたまま。

 なんにせよ今の俺にはなにも見えない。桜がどうなっているのかもわからない。

 俺の目には、最後に見た毒々しい満開の桜だけが、現実感を持って焼きついたままだった。

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桜かあるいは葉桜の季節 中貝立 @nakagai_ritsu

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